畿内激震

 ――織田、六角を鎧袖一触! 勢いそのまま京を目指し西進中!


 この恐るべき報せは、瞬く間に畿内全域に奔った。


 もとより、昨今の織田の勢いのすさまじさは既に知られていたし、彼が義昭を奉じて上洛軍を起したことも知られていた。

 が、それでも六角氏がそれを阻まんとしている以上、仮に織田の入洛が叶うことになろうとも、それはまだ先のことと思われていたのだ。


 しかし現実はどうだ! 織田は正に六角を鎧袖一触にしてしまったのだ。

 六角を退けた今尚、浅井、松平らの援軍を合わせた、六万とも七万とも言われる大軍は健在であり、最早その畿内入りは間違いないものとなった。


 この事実は、畿内の諸勢力をこれでもかと動揺させた。

 複雑に絡み合った畿内の勢力図が、織田という台風の目によりかき乱されるに違いなく、自らはどのような身の振り方をすべきか悩んだ。


 わけても、今現在京の都を押さえている三好三人衆に至っては、恐慌に近い程の混乱ぶりを示していた。




「何たることだ、殿が亡くなられたばかりだというのに……」


 呻きながら頭を抱えたのは、三好三人衆の筆頭たる三好長逸であった。


 彼の言う通り、三好家当主であった長慶は既にない。

 かねてより病床の中にあったのだが、先の将軍を弑したこと、更に織田が上洛軍を起したこと、これらから来る心労が重なり、半月前に亡くなっている。


 新たな当主として、長慶の息子の義継が就いたが、未だ若年のこともあり、三好三人衆が義継を支えてこれからの困難を乗り越えようと誓い合ったばかりであった。

 その矢先の、織田襲来の凶報である。頭を抱えたくなるのも無理はないだろう。


「畿内の諸勢力を味方につけ迎撃せねばならんが……」


 長逸は視線を持ち上げ、自らの部下たちの顔を見回す。


「方々にやった使者の返事は?」


 長逸が問い掛けるが、彼の側近たちは押し黙るばかりだ。


「……芳しくないのか。松永は、松永は何と言っておる」

 

 長逸は、三好家の重臣である松永久秀との連絡を任せた男を見遣る。が、その顔も苦渋に歪むばかり。


「愚かなことを聞いた。あの抜け目ない男が、この期に及んでまだ寝返っていないわけもなかったわ! 思えば彼奴は、先の将軍殺しにも参加しておらなんだからな! ほんに抜け目ない。だからこそ、容易く寝返られるというわけだ!」


 長逸はギリリと歯ぎしりすると、血走った目で別の男を見る。


「雑賀衆はどうか!? 彼らは何と言っておる!」

「そ、それが……」

「まさか断られたのか?」

「い、いえ……断られたのではなく……」


 歯切れの悪い返事に長逸は苛つく。


「では何だ!?」

「その、反応が鈍いのです」

「反応が鈍い?」

「はい。常の彼らなら、即断即決。是なら是、非なら非と、すぐに返事があるのに。此度ばかりはどうも、反応が鈍く……」

「もうよい! 言い訳であろうが! もたもたするな、すぐに協力の返事を引き出せ! よいな!?」

「はい……」


 長逸は苛立ちのまま己の髪を掻き毟る。


「どうにか、どうにかせねば……」




 結論から言うと、どうにもならなかった。

 破竹の勢いで進軍する織田軍を前に、三好はロクに戦うことも出来ぬまま蜘蛛の子を散らすように追い払われたのだった。


 ――永禄七年六月三日ついに、信長は義昭を奉じて、入洛を果たす。

 そして同月十九日には朝廷から将軍宣下を引き出し、義昭は足利幕府十五代将軍に就任した。




――紀伊国 十ヶ郷


「聞いたか、兄弟! 織田がついに入洛を果たしたって……お前さんどうした?」


 障子を開けた太田定久は目を丸くした。

 部屋の中で、雑賀衆の棟梁たる鈴木孫一が顔を青白くしながら座っていたからだ。


「寒い、寒いんじゃ……」

「寒い?」


 はてと、定久は首を傾げる。今日は朝から陽気が良く、暖かな一日である。

 だが確かに、孫一は両腕で体を掻き抱くようにしながら震えている。


「何じゃ、風邪でも引いたんか? まあ伏せるほどじゃなければ、数日で治るじゃろ。それよりも織田よ! ついに入洛を果たしたぞ! これで畿内の情勢は更に混迷を深めるに違いない! なれば我らの出番が増えるぞ! って、何じゃ浮かない顔をして?」

「寒い、寒い……」

「……お前、本当にどうした? 様子がおかしいぞ」

 

 定久は流石に不審を覚えた。

 孫一の青白い顔を見て、それから、俯いた孫一の視線の先にあるものを見る。それは銭袋であった。


「……その銭袋がどうかしたんか?」


 孫一は視線を持ち上げると、じろりと定久の顔を見詰める。その異様な目に勇猛で知られる定久もついたじろいでしまう。


「……お前、四年前に織田が上洛を果たすと聞いたら、それを信じたか?」

「はあ?」


 孫一の不可解な問い掛けに、定久は怪訝な声を出した。




――堺


「どえらいことじゃ。尾張の田舎もんがついに上洛を果たしたぞ」

「ええ。我らも身の振り方をどうしたものか……」


 場所は、堺の実力者たちの寄り合い所であった。

 ここにいる面子の合議制で、日の本一の商人都市堺全体のかじ取りが行われるといっても過言ではなかった。


 集まった男たちの顔は渋いものだ。

 只でさえ混迷を極める畿内の情勢が、織田の入洛で更に深まる恐れがあった。


 このまま、織田が完全に畿内を制するなら、話はまだ単純だ。

 が、彼らにはどうもそうなるとは思えなかった。

 彼らの予想では、各所で争いが勃発し、その度に畿内第一の実力者がころころ変わるに違いないと、そう予想したのだ。


 それは大層困る。すり寄るべき権力者にころころと変わられては、色々と面倒であった。

 まさか、その度に大量の矢銭などを求められたのでは、堪らない。


「暫くは静観しますか?」

「んー、それはそれで、後々のことを思えば……」


 ふと一人の商人が気付く。珍しく黙っている男がいる。その表情を見て、驚いた。


「今井さん、どうしたのです? そのように笑みを浮かべられて?」

「……いえ、ね。夢が現実になったと、そう思いまして」


 そう言って、今井宗久は更に笑みを深める。

 普段、穏やかに微笑を浮かべる宗久の獰猛な笑みに、その場にいた一同は声もなく凍り付いたのだった。

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