アポなし突撃
厠を出ると、手水場で手を洗う。手拭で水気を拭き終わると、母屋の方に歩いていく。
一段高くなった沓脱石に上ると、草履を脱ぎ、木製の渡り廊下に足を乗せる。
ギッと、僅かに木板が軋む音がした。
俺は、朝日の温かさを感じながら、渡り廊下を歩く。
ほどなくして、目的の居間へと辿り着いた。スッと、障子を開ける。
すると、障子の開く音に応えるように見上げられた大きな瞳が、俺の姿を映す。
ただ、俺の視線と合わさるや、伏し目がちになってしまう。
その瞳の主は、恥ずかしげに頬を染めていた。
大方、昨晩の情事を思い出してしまったのだろう。
なんとも、『萌え』である。
いやー、恥じらう新妻とか、最高だ。
しかも、現代人の感覚でいくと、十四歳の幼妻だ。素晴らしい。
ああ、甘んじてロリコンの誹りすら受けてやろうじゃないか。
もっとも、この時代だと、決しておかしな年齢ではなかったが。
大橋家の娘、於藤との祝言から、半月が経った。
新婚生活は、仲睦まじくやれていると言っていいだろう。
つまり、やることはやっている。
まあね。俺もほら、若く健全な男だから。仕方ないよね。
そも、いきなり冷え込んだ夫婦生活を送るより、よっぽど良いだろう。
などと、ここ最近の爛れた生活を、自己弁護してみる。
俺は家長として上座に座るや、横目で於藤の顔を窺う。そう、その大層麗しい
市姫を筆頭に、織田の女系は、容姿に恵まれた女人が多い。
於藤も、その御多分に漏れず、美しい容貌をしていた。
唯一点、目に関してだけは、この時代の美意識にそぐわない、零れ落ちそうな大きな瞳をしている。
というのも、この時代だと細い目が美人の条件の一つであったので。
が、現代人の感覚も有す俺にしては、ぱっちり大きなお目々は、減点対象になりえない。
むしろ、好ましく映るというもの。
まるで、前世でモニター越しに見ていたアイドルのような美少女。
それが、俺の妻なのだ。
少しばかし、自制が効かなくなるのも、致し方ないことだろう。
うん? 何、リア充爆発しろ?
ハハハ、こんなに幸せなのに、爆発して堪るか。
爆発するのは、松永弾正一人で十分だ。
はあ、今日はいい天気だし、縁側で於藤を横に座らせて、共に茶を飲むのもいいかもしれない。
なんて、幸せに浸り過ぎていたから、罰が当たったのだろうか?
それとも、嫉妬に狂える野郎どもの怨嗟の声のなせる業か。
朝の静けさを破る、慌ただしい足音が近づいてくる。
バンと、勢いよく障子が開かれた。
下手人は、番頭の彦次郎だ。
誰ぞの訃報でも届いたかのように、彦次郎の顔は色を失っている。
「に、二代目!」
「何だ、何だ、一体どうした!?」
俺は、彦次郎の常にない様子に驚いてしまう。
「お、織田様が……」
「織田様がどうした?」
まさか――? 一瞬あってはならぬ疑念が過る。
いや、この時分に、信長の身に何かが起きるわけもない。
歴史がそれを証明して……ッ! 馬鹿か、俺は! 俺の存在が、歴史に変化を齎しているだろうが!
そんな、それでは、本当に?
俺はごくりと生唾を飲む。動揺に揺れる目で、彦次郎の顔を見上げた。
その視線の先、彦次郎の口が好ましからざる言葉を吐く。
「織田様が! こ、こちらに向かわれておられるとの由!」
……んん? 織田様が、こちらに向かわれている?
兎にも角にも、信長がくたばったわけではないようだが……。
「待て、彦次郎、こちらとはどちらだ?」
「当家です! ここに、織田様が来られると! 先程、突然先触れが! 後、数刻の内に到着されるとのことです!」
一瞬、何を言われたか理解できなかった。
しかし、二、三秒おいて、彦次郎の言葉が脳内に浸透していく。
「な、何だとおおおお!?」
俺は、驚愕の声を上げた。
突然の、信長来訪の知らせ。
浅田屋中が、嵐の真っ只中のような慌ただしさに包まれる。
まるで師走が来たかのよう。いや、師走でもここまで忙しくない。
「とっとと、その見苦しい物を隠せ! ……あん? 蔵にでも投げ込んでこい!」
「店頭を掃き清めろ! 床という床を磨き上げろ!」
「ちくしょう! なんでウチの店は、こんなにとっ散らかっているんだ!」
俺は陣頭に立ち、若衆や、見習い小僧に指示を飛ばしながら、時折悲嘆の声を上げる。
ちなみに於藤は、付の女性と共に奥に引っ込んで、急ぎでめかしこんでいる真っ最中だ。
「二代目!」
「おう、何だ、彦次郎?」
「茶と、茶菓子の準備ですが。遠江屋と、大黒屋に使いを飛ばそうと思います。一等良いものを出してくれと」
「そうだな、それがいい。織田様の分だけじゃなく、御付の方の分も……待て、彦次郎、御付の方は何人おられるんだ?」
「あっ! ……申し訳ありません、動転の余り、先触れに来た人間に確認していませんでした」
彦次郎の顔からさっと血の気が引く。
俺も肝が冷える思いだ。
まさか、御付の人間を立ったまま待たせるわけにもいくまい。
信長とは別に、供応する必要があろう。
しかし、何人だ? 何人やってくる?
今回の信長の熱田訪問が、お忍びだと考えて。
人数はそう多くはあるまい。しかし、多くないとはつまり、何人の事を指す?
果たして、一国の国主はお忍びの際、どれほどの御付を付けるのか?
十人? 二十人? あるいは、それ以上か?
何人分の供応の準備がいる? いや、そもそも、ウチの店に収容しきれるのか?
「ッ~~!」
呻き声を噛み殺しながら天を仰ぐ。髪をぐしゃぐしゃに掻き毟った。
ああ、何もかも投げ出したい気分だが、そうもいかねえだろう!
「と、とにかく、掻き集められるだけ、掻き集めろ! それから、周囲の商家に協力を要請しろ! ウチに収まらない場合、周りの店に面倒見てもらう!」
「はい! 承知しました!」
彦次郎は矢継ぎ早に何人かの人間に指示を飛ばすと、番頭である自身もまた店からすっ飛んで行く。
ああ、胃が痛い。
これか、これがそうなのか。これこそが、常識を知らない、顧みない、そんな上司に振り回される気分か!
今なら、藤吉郎始め、織田家中の武将たちを心の底から尊敬できる。
彼らは、こんな無茶ぶりに耐え続けてきたのか。そして、耐え続けていくのか。
いや、あるいは、耐え切れなかったからこそ、明智君は本能寺をファイヤーしてしまうのかもしれない。
ついにこう、ぷっちんと切れてしまって。
それならば、明智君らしからぬ不手際の多さも頷ける。
本当に、突発的犯行であったのかもしれない。
俺は歴史の謎に触れたような気がした。
あーもう、ホントにアポなし突撃とか止めてくれよ。
近所の人間ですら、それをやられると堪えるのだ。
ましてや、国主自らのアポなし突撃なぞ、最早桶狭間に匹敵する奇襲攻撃だ。
俺は頭を振るう。
馬鹿なこと考えている場合ではない。とにかく、残された時間で、できるだけのことをしなくては。
俺は再び声を張り上げ、陣頭指揮を取り始めた。
貴賓用の客間、俺はその部屋の障子をそっと開けると、客間の中に入る。
続いて客間に入ってきた於藤が、そっと障子を閉めた。
俺たち夫婦は下座に座すと、揃って上座に座る男に平伏する。
「面を上げよ」
「「はっ」」
俺たち夫婦は同時に顔を上げると、上座に座る信長の顔を見た。
信長はまず俺の顔を、次いで於藤の顔を見る。
「うらなりと……そなたが藤か。最後に会ったのは何年前だったか? うむ、大きゅうなった。藤、息災であったか?」
「はい」
於藤が、言葉短く首肯する。
「ふむ。旦那に――うらなりには、よくしてもらっておるか?」
「はい。旦那源吉には、折に触れて気遣ってもらい、藤は新しい家でも恙なく暮らしております」
「であるか。ならばよい。……藤、うらなりと二人で話がある。暫し、藤の旦那を貸してもらうぞ」
「相分かりました。それでは、私はこれにて……」
於藤は深々と頭を下げると、立ち上がり客間を後にする。
そっと障子が閉じられた。
信長は、退室する於藤を優しげな目付で見送る。それはまさしく、親戚の娘を案じる年長者の目であった。
……この男もこういう目をするのか。
いやはや、ホントに身内には甘い所がある御仁だ。
「さて、熱田を訪れた用事の半分は済んだ」
信長はそう言って、視線を俺の顔に戻す。
「では、もう半分の話じゃ、うらなり」
「はっ」
ぎらつく眼光。信長の目は、戦国武将のそれに戻っていた。
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