29 クレイスの過去と今

 それは、まだ彼にクレイスという名前すら無かった赤子の頃。

 彼は、数多いるサズ国の奴隷の一人だった。

 たとえ奴隷でも、温かな両親の元に生まれていればそれなりの幸福の中で生きていけたかもしれない。しかし彼の親は、生まれたばかりのクレイスの足首に深い傷をつけ、とある孤児院の前に捨て置いたのである。

 便宜的な名と愛を与えられ、しばらく彼は何事もなく年月を過ごした。だが三歳になった頃、彼の親と名乗る男が「息子を返せ」と孤児院に怒鳴り込んできたのである。

 男の暴力的な様子に、孤児院の女性は「この子がお前の子供である証拠は無い」と追い返そうとした。しかし、それを聞いた男は笑って言ったのだ。


「俺の息子なら、左の足首に深い傷があるはずだ」


 女性は驚愕した。彼女は赤子の傷を可哀想に思い、決して人前で見せたことはなかったのである。

 そして、クレイスは親の元に返された。だがこの傷をつけられた際、彼の体内を巡る魔力管をも損傷させていたらしい。クレイスは長い間魔法を使うことができず、使えても微々たるものだった。

 魔法を使える奴隷であれば、より高い値がつく。けれど実際のクレイスがこうと知った親は、ひどく落胆したようだ。結局散々酷使した後、彼が八歳の時に人買いに売っ払ってしまったのである。


 絶望していた。およそ八歳の子供が背負う苦しみではなかった。親に罵られて捨てられ、まだ憎しみという言葉すら知らない子供の胸の内は、哀れな諦念で満ちていたのである。

 ――自分は役立たずだ。魔法も満足に使えず力も無く、体も小さい。そんな自分が生きていてもいい場所など、この世界のどこにも無いのだと。そう思いながら、彼はとぼとぼと奴隷市場を歩いていたのである。

 けれど、とある鉄格子の前を通りかかった時。

 彼は、ボロ切れのようになって転がる女の子を見つけたのだ。

 その子の髪の毛は、まるで月の光をそのまま掬ってきたようだった。たまたま監視の目が離れていたクレイスは、しばしその牢の前にとどまり彼女の色に見惚れたものである。

 やがて、気配に気づいたのか、女の子は顔を上げた。

 暴力のせいで腫れた目から、宝石のような緋色が覗く。それもまた、彼の見てきたあらゆるものより新鮮な色であった。

 けれど、何よりクレイスが驚いたのはそこではない。

 彼女は、あろうことかクレイスに向かって手を伸ばしてきたのだ。

 白く、痩せ細った、あざだらけの腕で。小さな手が、遠いクレイスを掴もうと懸命に持ち上がっていた。

 だから、クレイスも鉄格子の隙間に腕を突っ込んでいたのである。肩ごと押し込み、彼女の手を取ろうと。

 そして、ようやく指先が触れた瞬間。


 幼い女の子は、それはそれは嬉しそうに微笑んだのだ。


 それを見たクレイスは、忽ち泣き出しそうになった。

 ――分かってしまったのだ。自分は、ずっとその笑顔を向けられたかったのだと。

 世界中の、誰かたった一人だけでいい。その人に必要とされ、愛されて生きていたかったのだと。


「……君は」


 だから、守りたかった。そばにいたかった。生まれて初めて笑顔を向けてくれた子の、名前を知りたかった。

 けれど現実は無情であり、間も無く少年は人買いの男に見つかる。男は鉄格子にしがみつくクレイスに声を荒げると、無理矢理鉄格子から引き剥がし別部屋へと引きずっていった。

 それからすぐに謎の襲撃事件があって、大混乱の中で彼は気を失って。目が覚めると、彼は森の中に寝転んでいたのだ。

 冷たい空気が肌を撫で、見上げた夜空は透き通るように綺麗だった。そうして直感的に、自分はあの奴隷市場から命からがら逃げ出してきたんだと理解したのである。

 ――あの子を置いて、逃げ出してきたのだと。

 泣き崩れながら、クレイスは痛感した。自分は、弱すぎる。そして弱ければ何も守れない。失う一方なのだと。

 打ちのめされた彼の足は、再びサズ国へと向かっていた。……強くなりたかった。自分が強ければ、あの子を救い出せていた。強ければ、今も隣で彼女は笑顔を向けてくれていたのだから。

 そして彼は、サズ国でダークスという男に出会った。彼は賢く温かな男で、クレイスと同じような境遇の孤児を何人か世話していた。ここでクレイスは、ようやく名前と人として生きる知恵を得たのである。

 しかし、なおも悲劇は続く。父のように慕っていた彼は、ノマンという暴君に泥の枷を嵌められ、強制的に働かせられる奴隷にされてしまったのである。


 ――そこから先はもう、がむしゃらで。

 逃げるものかと。これ以上自分から奪わせるものかと。そればかりを胸に秘めた彼は、以前にも増して尋常ならざる努力を重ね始めた。

 ダークスの残した文献を読み漁り、ノマンを殺す糸口を探り。操れる魔法量が少なくても敵を倒せるよう、徹底的に人体や魔物の急所を頭に叩き込んだ。そしてどんな事が起こっても常に冷静に周りを見られるよう、顔には穏やかな笑みを張り付けたのである。

 間も無く、彼はノマンに近づく手を見つけた。

 それが、フーボ国の貴族の養子となり、肩書とパトロンを得ることだったのだ。

 フーボ国で知り合ったベロウという詐欺師の協力のもと、クレイスはマチェックの姓を手に入れた。それを頼りにうまくノマンに取り入り、とうとう彼は側近にまで上り詰めたのである。


 ――もう少しで、目的を達成できる。先生達を、助けられる。

 ノマン城の冷たい廊下を歩きながら、クレイスは思った。

 ……あとはノマンを騙し、宝珠を集め、ノマン本体であるサズ国の宝珠を誘き出せれば……。


 けれど、各国の宝珠を得るのは並大抵のことではない。王族に自分を信頼させて隙を突くか、もしくは戦争にて力尽くで奪うか。

 ――内部に入り込んで、盗み出すか。

 かくして犠牲を最小限に抑えたかったクレイスは、ノマンを説得し、単身魔国へ入り込むべく動き始めたのである。だが人間の身で魔物の巣窟へ行き、ましてや魔王に会うなどまず不可能。そこで念入りな下地が必要だったのだ。

 故に彼は、まずノマンの“勇者”として諸国に名前を売ることにした。

 勇者であれば、魔王と謁見できる。そして会ってしまえば、口先で丸め込める。かつ、勇者という肩書きは他の国を御する際にも便利なものだったのだ。

 と、そんな見込みだったのだが……。

 ……勇者として各国を巡る際に、魔物売買人の馬車を成敗してしまったことだけは、あとで冷や汗をかいたものである。本来なら勇者として人間に名前を売らなければいけない所を、よもや魔物側を助けてしまうなどと。

 いや、これは仕方ない。幼少期の自分の境遇と、捕らえられた魔物の姿を重ねてしまったのだ。仕方ない。だがこれが逆に功を奏し、魔物軍に好意的に迎えられたことは幸運だった。


 ――そうして一年が経って、勇者として名前が売れた頃。クレイスは、満を辞して魔王城へと乗り込んだ。

 口先三寸で魔物を騙くらかして、戦わずして城に入り、最後の扉を開ける。


 そこで、やっと青年は彼女に再会したのだ。


 闇の中でも眩い月色の髪に、緋色の瞳。凛とした声と、どこか寂しげな佇まい。

 彼女を一目見た瞬間、クレイスは雷に打たれたような衝撃を受けた。胸を締め付けられる思いと、燃え上がるような感情。――彼女の笑顔が見たい。そしてどうか、それが向けられる先が自分であってほしいと。そう思わずにはいられなかったのだ。

 けれど、長い月日の経っていた彼の意識は、ピィをあの日の女の子だと関係づけることができなかった。もっとも、人間から魔物になれると知らなかった点も大きい。ともすれば、クレイスは一時の気の迷いやもと頭を振ったのである。

 だから、振り払えると思ったのだ。だから、目的の為に裏切ろうとしたのだ。しかし、幾度クレイスから手を離そうとも、ピィはまた彼の腕を掴んできたのである。

 温かな、優しい熱を持って。


 ――そんな、彼女の信頼と疑うべくも無いまっすぐな感情が。どれほど、彼の強張りきった心臓を揺り動かしたか。どれほど、彼を救ったか。


(……ピィさんは、知らないんだろうな)


 ――朝の柔らかな日差しの差し込む部屋にて。ベッドに腰掛けたクレイスは、まどろむピィの頬を撫でた。


「……ピィさん、起きてください」

「むう……」

「お寝坊はいけませんよ。今日は、結婚式でしょう」


 耳孔をくすぐる優しい声に、ピィの緋色の目がパチリと開いた。

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