8 翼の下の

 ネグラの頭の中に、一年前の光景が蘇った。積荷も同然にぎゅうぎゅうに詰められた魔物。そこに差し込んだ光と、怯えて自分にのしかかってくる子供たち。そして、覗いたグレーの瞳。

 同じ人のはずだ。あの時と、まったく同じ人のはずなのに。

 ……どうして。


「――ッ!」


 絶望感と無力感に胸の内がぐちゃぐちゃになり、吐き気がこみ上げてくる。けれどそれをぶち撒けて楽になることすら、今の自分には許されていなかった。

 近づいてくる数人の足音に気づく。ネグラは歯を食いしばり、唯一かろうじて動かせた右の翼でヒダマリの体を覆った。


「あなたは……クレイス様!?」


 そして、ネグラ達を追ってきていたノマン兵達が到着した。


「何故あなたがここに……うわっ、この魔物は!?」

「落ち着きなさい。もう無力化していますよ」


 そう言うと、クレイスはネグラの腿あたりを軽く蹴った。反応するできるほどの体力も残っていないネグラは、無抵抗に揺さぶられる。


「し、失礼しました! 我々は、ノマン王国より逃亡した研究者を捕らえる為派遣された兵です! 恐れ入りますが、この魔物と共にいた白衣の男を見ませんでしたでしょうか!?」

「ああ、それなら翼の下に倒れていますよ」

「え、倒れ……? ヒッ!? こ、コイツ、死んで……!」

「……」


 ――死んで、いるのか。やはりそうか。そうなのか。

 翼から伝わる冷たい温度に、ネグラは奴らから見えないよう強く唇を噛んだ。

 ――信じられなかったし、信じたくなかった。けれど、だからといって今の自分にできることなど何一つ無い。


「な、何をしているんですか! 彼は貴重なヨロの研究者ですよ!? こ、殺すなんて……!」

「おや、そうだったんですか。俺は攻撃されそうになったので、自分の身を守っただけなのですが」


 ざわつく兵士らに、クレイスは落ち着き払って言う。


「れっきとした正当防衛ですよ。大体、あなた方がとっとと彼らを捕まえていれば、俺も危険な目に遭わずに済んだのですがね」

「ぐ……」

「まあ過ぎたことです。彼らも死に、もうここに用は無いかと。幸いそこに空間転移装置がありますので、そこからノマンに帰って……」

「お待ちください! 我々はまだ、こいつの盗んだ重要機密を取り返しておりません!」

「これのことでしょう?」


 兵士らがどよめいた。クレイスは、ヒダマリの落とした記憶錠を拾っていたのである。


「え、ええ……まさしく、それです……!」

「それなら良かった。……帰ったらすぐにデータ分散の構築、錠のアップデート、盗難の対処法などの見直しをせねばなりませんね。ああもう、少し不在にしただけでこんなに面倒な仕事が増えるとは……」

「も、申し訳ありません」

「さあ、これでご用事は全てですか? ならばここから撤退しますよ」

「し、しかし」

「まだ何か?」


 うんざりしたようなクレイスの言葉に、しかし兵士らは譲らない。ネグラは、憎々しげな感情がこちらに向けられるのを感じた。


「こいつらは、散々我々を侮辱し無様に逃げ回ってくれました! 死んだといえ、肉を焼き、骨まで砕いてやらねば気が済みません!」

「そうです! それに、竜族の体は死体とはいえ高く売れると聞きました!」

「見てください、この美しい空色の翼を! せめてこの翼だけでも持ち帰って売れば、どれほどの金が得られるかと……」

「いい加減にしてください!」


 ネグラの水色の翼に手を伸ばそうとした兵士に、堪忍袋の緒が切れたクレイスが一喝する。ビクリと手を引っ込める男に、彼は苛々と頭を掻いた。


「死んだ直後の竜族は、遅効性の毒をその身から出します。迂闊に触ろうものなら手が爛れますよ。そんなことも知らないのですか」

「う……」

「そして、まもなくここには俺を追ってヨロ国と魔国から兵が来るでしょう。これ以上ここでグズグズしている暇は無い」

「よ、ヨロ国と魔国からですか? そんな追手が来るなんて、クレイス様は何をしたので……」

「……」


 質問には答えず、クレイスは空間転移装置(ポイント)に向かって歩き出す。それを慌てて追う兵士らに混ざり、大きな声が聞こえた。


「な……! ヨロ国の宝珠をですか!?」

「……」

「まさか一国の宝珠を奪うだなんて……! 流石我が国の諜報大臣でございますね!」

「……」


 ――諜報大臣?

 耳慣れぬ言葉に、ネグラは雪に顔を埋めたまま頭の中でぐるぐると思考を巡らせる。

 ……諜報、とはスパイの意味と捉えていいのだろうか。すると彼はやはりノマンから遣わされたスパイで、かつ魔物軍に入る事で目的を果たそうとしたのか。

 ならば、果たしてその計画はいつから始まっていたのだろう。もしや一年前に魔物を助けた時から? ああすることで魔物への信頼感を獲得して、取り入ろうとしたとか……。

 ……いや、それならピィ様に猛アピールする理由が分からない。あれをやるたびに、窓から放り出されそうになってたって聞いたもんな。スパイだとしたら逆効果だろ。


「……あ」


 そうして考え込んでいたネグラは、兵たちが完全に去ってようやく、自分が助かったことを知ったのである。


「……」


 もう、誰の姿も見えない。だだっ広い雪原に、自分とヒダマリが横たわっているだけである。

 ネグラは、ゆっくりと翼を持ち上げて彼の姿を見た。……真っ白な肌に、栗色のふわふわとした巻毛。幸い、眼鏡は壊れていないようだった。

 けれどあれほど好奇心に満ちていたくりくりとした目は、今は静かに閉じられている。


「……ヒダマリ」


 まだ痺れの残る唇を動かし、名を呼ぶ。

 助かったよ。もう大丈夫だよ。まあ記憶錠は奪われたけどな。せっかく僕人生で一番くらい頑張ったのに、無駄になっちゃったじゃねぇか。ほんと慣れない努力とかするもんじゃない。

 ……なぁ、ヒダマリ。

 そんでも、僕は別に怒ってないよ。

 だから、目を覚ましてもいいんじゃないか。


 虚しい気持ちが胸を渦巻く。雪がヒダマリの頬に落ち、溶けていく。

 それを見て、ふとあることを思い出した。

 ――そういやコイツ、最後に見た時は目ぇ開けてなかったっけ?


「いやー、やっぱり君の恩人君は妙だぞ、ネグラ君!」

「ッッウワーーーーーッ!!?」


 突如目をかっぴらいたヒダマリに、ネグラはかけられた麻痺もかくやという悲鳴を上げたのである。

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