7 恩人さん
最後の力を振り絞って、ネグラはクレイスの立っている場所へと向かう。けれどヒダマリは、慌ててそれを引き止めた。
「待てよ。恩人って、昨日話してた魔物売買人潰しの男か?」
「そう……だよ。あの人の、おかげで……僕は、助かったんだ」
「だから味方ってことでいいのか? ならば何故あの場所に?」
「知ら、ない……よ。もしかしたら……僕を、手伝いに来て、くれたのかも」
「彼はそういう事をする人間なのか?」
知らない。知るわけがない。けれど今の自分の頭では、そこまで考えることはできなかった。全身が痛くて今にも意識が飛びそうで、一刻も早く楽になりたくて仕方ない。
そして、恩人さんがこちらに気がついた。
「……」
クレイスが、ネグラ達の元に向かってくる。ネグラらも、彼の元へと歩いていく。だが数歩進んだ所で、ヒダマリがぽつりと呟いた。
「……何かおかしい」
「……おかしい?」
「俺に会うまでのネグラ君は、装置の状態確認をしていたんだったよな。そして、今まで見つかったものは全て壊された状態にあったと」
「そう……だけど」
「だったら」
ヒダマリはピタリと足を止め、クレイスを睨んだ。
「あそこにある装置が“生きて”いるのは、どう考えても妙じゃねぇか」
「……ッ!」
霞みがかっていた頭の中で何かが弾けた。ネグラはヒダマリの手を引き、咄嗟に踵を返す。
「――ぐっ!」
だがそれ以上動くことは叶わなかった。ネグラの足は、痺れたように硬直していたのである。
「ネグラ君!」
「……ッ!」
どう、と雪の中に倒れる。立ち上がろうとするも、極限まで奪われた体力では思い通りに動かない。
クレイスが近づいてくる。翼を利用して立とうとするが、それも同じ呪文で動きを封じられる。続いて、腕も。ネグラがまともに動かせる場所は、もう眼球と口ぐらいしか残っていなかった。
「ヒダマリ……逃げて……!」
「逃げてって、そんな……!」
「うるせぇ……! 捕まったら困るんだろが……!」
だから早く行けって。走れって。多分お前一人なら、変な魔道具使ってなんとか切り抜けられるだろ。
痺れが首を這い上ってきて舌にまで到達し、喋ることもままならなくなっていく。けれどネグラは、ヒダマリから目を離さなかった。
一方、ヒダマリは迷っていた。逃げるか。とどまるか。そうしている間にも、クレイスとの距離は縮まっていく。
「……クソッ」
ネグラの隣で身を起こし、一歩離れる。そしてヒダマリは、クレイスとネグラの間に入るように仁王立ちした。
「……君は、ノマン側の人間か」
「……」
ヒダマリの問いに、クレイスがピタリと足を止める。彼が小さく頷くのを待って、ヒダマリは続けた。
「そうか。で、俺たちをどうする気だ」
「……とりあえず、足止めをしておこうかと。服装を見るに、あなたはノマン王国にいたヨロ国の研究者ですね」
「ああ」
「ここにいるということは、逃げてきたのでしょうか。そして、向かっている方向とこの魔物の怪我を踏まえると、何者かに追われながら二人でヨロ城へ向かおうとしていた、と」
「……」
「あの堅牢なノマン王国が、臆病者一人をみすみす逃がすはずがない。とすると、あなたの仲間達が力を合わせてあなた一人をここに送り出したと推理できる。……あなたは、彼らに何を託されたのですか?」
「おー、ネグラ君の言う通りだな。ペラペラよく喋るもんだ」
ヒダマリはどこか楽しそうである。だがすぐに真剣な口調に戻すと、クレイスに向き直った。
「そこまで察してくれているなら話は早い。実は、君に一つ頼みがあるんだ」
「頼み?」
「ああ」
自分に視線が向けられたのを感じる。珍しく静かな声で、ヒダマリは言った。
「仲間から“託されたもの”は返す。……だから、この魔物は見逃して欲しいんだ」
「……!」
――やめろ。それを渡したら、何の為に僕がこんな痛い思いをしたのか分かんなくなるだろ。
そう思ったネグラだったが、この体で制止することなどできようはずもない。
ネグラには、クレイスがどんな反応をしたのかが分からなかった。ただ、しばらく酷く重苦しい間があって。
やがてヒダマリは、白衣のポケットから掌大の真っ黒な鍵を取り出した。
二言三言呪文を唱え、真っ白な空に向かってその鍵を半回転させる。すると、たちまちそこに複数の赤点がついた地図が浮かび上がった。
「……なるほど。記憶錠ですか」
クレイスの灰色の目が、一気に険しくなる。
「また厄介なものを持ち出してくれましたね」
「まぁな。これさえあれば、ノマン王国軍がどこに空間転移装置(ポイント)を置いたのかを把握できる。故郷に戻って君らへの対策を講じるのに、これほど便利な道具も無いだろ?」
「ええ、その通りです。……まったく、これだからデータを一つに集約するのはリスクが高いと言ったのに」
深いため息をつく男に、ヒダマリは強い口調で言葉を放つ。
「こいつは渡す。もちろんかけていた鍵も開けておく。だから、俺とこの魔物の命は助けて欲しい」
「助ける命が一人分増えてるのですが」
「ついでに君んとこの追手が来てるから、それもうまくまいておいてほしい」
「要求も増えましたね」
「ふん、これにはそれぐらいの価値があるだろ。俺は別に、今すぐ記憶錠(これ)を壊したっていいんだ」
その一言を最後に、沈黙が落ちる。数秒の後、クレイスは頭を振った。
「……確認ですが、他にあなたが研究所から持ち出しましたものはありませんね?」
「ああ、これだけだよ」
「そうですか」
クレイスが足を踏み出す。彼の唇が微かに動き、パチッと小さく何かが爆ぜる音がネグラの耳に届いた。
それだけだった。
本当に、それだけだったのである。
けれどそれは、ネグラを取り巻く状況を大きく変えるに十分な音だった。
ぽとりと、記憶錠が雪の上に落ちる。それに続くようにして、彼の体も。
大きな目は見開かれ、口も半分開けたままで。
ヒダマリは、雪を散らしてネグラの隣に倒れた。
「……ッ……!」
反射的にヒダマリに手を伸ばそうとする。けれど痺れた体では、指一本とて動かせない。ヒダマリが仰向けで横たわっている。なのに掠れた声では、名を呼ぶことさえできない。
ヒダマリは、息をしていなかった。
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