神様の部屋
浜村麻里
神様の部屋
そっとふすまを閉めてにぎやかな座敷から退出した。
足元に用意されていたスリッパを履かずに廊下を歩く。
冬の古い日本家屋の廊下を靴下のみでトイレまで目指すのは無謀な挑戦だと気づくのにそう時間はかからなかった。
それでも長く伸びた廊下をいそいそと進み素早く木製の扉を引くと中に入り用を足した。
トイレの中には手洗い場がないため洗面所までまた、ほぼ走りながら向かった。
バタバタと忙しない動きで蛇口をひねる。
そこから出る水も恐ろしいほどに冷えていた。
小さくうめきながら手を洗っていると、ふっと雨のにおいが鼻先をかすめた。
変な天気だった。
半分外のこの洗面所の正面には小さなスペースがあり、いくつか木が植えられている。このなんちゃってな庭で、夏場ではカエルが大合唱をするのだ。
瓦が作る庇により小さく切り取られたどんよりと明るい空から、細く長い雨が静かに降ってくる様がよく見えた。
冬にこんな天気なのは珍しい。
その時、座敷のある方角からドッと大きな笑い声が上がり、一瞬で現実に引き戻された。
寒さも忘れて手を冷たい水に突っ込んだままだったことを思い出し慌てて引き抜く。
かじかみ真っ赤になった手を近くにあったタオルで擦りながら木製の扉を押し開き母屋に戻るため、またも冷え切った廊下へ足を乗せた。
廊下を戻りながら雨のにおいがうすく体の周りにまとわりついてくるのを意識していると、昔よく座っていた安楽椅子が奥の和室に置いてあるのが視界の端に引っかかった。
視線をその椅子へ移せば、すっかり懐かしい気持ちになり進路を変えて畳に足を踏み入れることになった。
遠くでおじさんが最近あったエピソードを大きな声で披露しているのが微かに聞こえる。
大分お酒もまわっているのだろう。
呂律が怪しい。
廊下とは違い、日光の届かない薄暗い手前の部屋を抜けて椅子のある部屋へと入った。
以前来た時には畳が傷つくからといった理由で庭へと面する廊下に出されていた、この洋風の椅子が和室に戻されている。
暗に示される使う者がいない事実に、なんだか悲しい気持ちになりながらその椅子に触れた。
しかし日常から誰かに使用されて居るかの様にこの椅子にはほこりなんて微塵も積もっていなかった。
最近になって仕舞われたのだろうか?
私が入ってきた方向に背を向ける形で置かれた椅子は長い雨の降り続ける庭を見守っていた。
あんなにも大きかった安楽椅子。
それに腰を下ろした。
地面に足が届かず、自力では揺らすことの出来なかったこの椅子が今では少し小さく感じる程になっていた。
大きく開けられたふすまから庭を眺めた。
洗面所の前にある小さなものとは違う立派な庭。
しかしその庭も、私が幼少の頃とは様相が異なり、植木の数も大きく減らしていた。
私の祖母の家には神様の部屋がある。
家の南西端にあるその小部屋は蔵などと同じように普段人が寝食に使用する空間とは真逆に位置した。
大正時代に建てられた木造の家。
古く人気のない場所にあるその部屋からは静かでどこか冷たい気配がした。
私が初めて神様の部屋に気づいたのは5歳の夏で、家族で泊まりに来ていた時だった。
庭に植えられたきれいに剪定された木々で蝉が騒ぎ、真上から照らす太陽を瓦が防いでくれていた。
当時は無限に続くかと感じた庭の池にはきれいな水が張られていた。
その近くには鹿威しがあり定期的に響くコツンといった音が周囲に響き、先の山で冷やされた風が大きく開かれた縁側から家の中を通り抜けていく。
今考えれば茶器等が並ぶ棚に子供を寄せ付けたくなかったから出た方便だったのだと思う。太平洋戦争で夫を亡くした曾祖母は華道の師範でもあり、客人にお茶を振舞うこともあった。
「神様の部屋には子供は入ったらあかん」
当時まだ元気だった曾祖母の唱えるお経が薄く聞こえる閉ざされたふすまに手をかけようとした時、母に止められた。
「ここは神様の部屋で、大きいばあちゃんだけが入れるねん。うるさくして神様怒らせたくないやろ?」
「でもお経は?」
「神様のための言葉やからええんやで。でもちょっとでも神様の言葉と違ったら怒らはるから勝手に入ったらあかん。おばあちゃんに困ってほしくないやろ?」
それでも中が見たくて仕方がなかった私の様子を見かねた母が、シーっとジェスチャーをしながらそっとふすまを開けてくれた。
四畳ほどしかない小部屋には書道道具の乗った小さな文机と、茶器をしまう食器棚があるだけだった。
その静謐な空間で曾祖母はきれいに花の活けられた床の間に向かい目をつむってお経を唱えている。
床の間には達磨大師の掛け軸がかけてあり、幼い私には少し恐ろしいもののように見えたのだった。
もうええやろ、とふすまを閉められ居間のほうへと追い立てられながらもなんだか不思議な気分はなかなか抜けなかった。
「神様おったやろ?」
居間で麦茶を飲み、人間の生活圏に戻ったとはっきり感じ始めた頃、母にそう話しかけられた。
私にはどれが神様だったのか分からなかったため首を傾げ質問を返した。
「お母さんは見えたん?」
「おったで。大きいばあちゃんの前に。ちょっとこっち見てはったわ。怒られんでよかった」
「あの絵?」
「達磨とちがうよ。その前におった。神様や」
どこまで本気か分からない表情で話す母と、先ほど見た現実とは隔離されたような空間と線香の香り。
幼い私の中であの部屋には神様が住んでいることが事実となるには十分な理由だった。
「神様というのは」
もう十数年も水を張っていない庭の小さな池を見つめながらなんとなく口に出してみる。
はるか昔の幼年の記憶にある庭の内、立派な松の木がなくなったここには好き勝手に枝を伸ばした楓が一本だけ残っている。
紅葉も楽しめるし、これくらいならば剪定せずとも掃除が楽だという合理的かつ消極的な考えによるものだろう。
毎年一輪だけ花を咲かせていたユリは今も美しい姿を見せてくれているのだろうか。
なぜここに、という場所で白い花びらを大きく広げる様を曾祖母がこの縁側から見つめていたのを思い出した。
水道を撤去したがために動くことのない鹿威しが小さな灯篭の横で佇んでいる。
冬の冷たい雨に晒されるそれはところどころ緑のコケが侵食し、腐っていないことが不思議なほどに見えた。
日焼けしたレースのカーテン越しに見えるような思い出の景色ばかりが、美化されていることに一種の自己嫌悪にかられる。
幼いころ、曾祖母が亡くなるまでは数えるほどしか立ち入れなかったこの場所も今では神聖さが失われたただの物置と化していた。
「神様は引っ越されたんや」
曾祖母が死に、片づけを手伝っているときに神様の部屋にも足を踏み入れた。
晩年、ほとんどを病院の一室で過ごしそこで息を引き取った彼女がここを最後に出入りしたのは遠い昔のことで、片付けるべきものは殆どないように見えた。
幼い自分に墨と硯の使い方を教えてくれた文机も片隅に追いやられ、一度お茶をたててくれた時に使用した茶器は食器棚から姿を消していた。
様々なことを教えてくれたが、それが一つも自分の身になっていないことに気づいた時やっと私は喪失したものの大きさを知った。
複数人で部屋に立ち入っては普通に言葉を交わし、忙しなく動く様子は私にとってどこか不謹慎に感じたため、当時さりげなくその場を離れた。
神様のために整えられた空間が色あせ、みるみる実用的な物置になってゆくのをなぜか見届ける気持ちになれなかった。
この時、神様は引っ越したのだと、自然と思い浮かんだ。
恐れ多くも守ってくれる神様が去っていったのは残念だと感じたが、それよりもなによりも思春期だった私にとっては曾祖母の死が目下の問題でもあった。
幼年時代の美しい光景とは反比例し自身のあまりにも幼稚な言動を思い出しては自己嫌悪に陥る。
私を見るたびに大きな声で話しかけてくれていた曾祖母に煩わしさを感じ、それを隠そうともしなかった事実と向き合えるようになったのは彼女の死から十年は経ったころだった。
そんな生意気で、他人の感情を慮ることのできない子供に神様を見ることなど、そもそも出来なかったのだ。
母から伝え聞いた昔この家であった少し不思議な出来事に相まみえることなく育った私がそれらの機会を逃したのは順当なものだったのだろう。
『少々内気だが問題行動もなく、他人を思いやれる優しい子だ』
曾祖母の生きていたころ受け取った通知表に書かれていた担任からの評定に、今では苦笑いが浮かぶ。
周囲の友人からも優しいと評されていた私は、自身のことを優しいのだと思い生きてきたが、当たり障りなく振舞うのが上手だっただけに過ぎない。
そのことを曾祖母は見抜いていたのだろうか。
どこまでも人間的な卑怯さを持つ自身を欺き生活をすることに慣れた今、やっと自分の本質に気づけるとは。
こうしている間にも畳を傷つけていることを思い出し、椅子からゆっくりと立ち上がった。
曾祖母の法事以来集まることのなかった親戚がまたこうやって集結しているのは、新たな死を昇華させるためだった。
宴会が繰り広げられている最東に位置する間に向かうため、庭を臨む縁側に踏み出した。
縁側の途中にあるつなぎを超えた時、ひときわ強い雨のにおいを感じた。
思わずガラス戸の閉じてある庭へ目を向けると雲の隙間から鈍い陽光が射していた。
静かな雨は相変わらず降り続け、カーテンのような光の筋は先ほどまで私が座っていた安楽椅子があるであろう場所まで伸びている。
『今でも神様は居るのだ』
そう都合よく解釈したくなる自分にうんざりしながらも、救われた気持ちになる。
自身も腰かけたあの心地よい椅子を普段は神様が使用しているのだ。
なんだかんだ言いつつ神様の気配を探す自分を笑いながら、人間の生活圏へと戻った。
神様の部屋 浜村麻里 @Mari-Hamamura
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