第十六話 変化、恐怖、希望
冷凍野菜をいい加減に炒める。
適当に醤油を絡める。
豆腐を大雑把に砕いて混ぜ、少し加熱する。
皿に移す。
以上。
数年前の陽一が、ない知恵を絞って生み出した名もなき料理。ありとあらゆる手間を、それこそレシピを調べるという初歩的な手間さえも惜しみぬいた、ある意味調理という工程に対する最大限の侮辱。いやまぁ食べられないことはないだけマシとも言えるが。
ともあれ、陽一にとってはそこそこ大きな黒歴史の一つだったのだが、まさか再びその手で生み出すことになろうとは。
「ありがとー陽一。久しぶりだなぁ、これ」
後悔やら無力感やらに打ちひしがれる陽一とは対照的に、星奈は喜色満面で食卓に置かれた皿を見下ろしていた。ニコニコと輝かしい笑みに、陽一の陰鬱な眼差しが突き刺さる。
「ったく、何でわざわざこんなもん食いたがるかね……」
恨み節を呟けば、星奈はやはり笑顔のままで、
「陽一が作ってくれたものなら、何だって嬉しいよ」
「美味しいとは言わねぇんだな」
不貞腐れた声でなおも不平を垂れる陽一だったが、星奈は小さく首を振りながら応える。
「嬉しい方が大事だよ。一人きりで美味しい料理食べてたって、きっとつまらない」
「まぁ、な」
「だから私、陽一の作ってくれた料理、好きだよ」
毒気を抜かれて陽一が目を瞬いた。
花が咲くように、星奈が可憐に微笑む。彼女は透き通った眼差しで陽一の双眸を真っ直ぐに覗き込みながら、柔らかな声で紡いだ。
「だって陽一、私のためじゃなきゃ、料理なんてしないから」
「…………」
「前にこれ作ってくれたのも、私が風邪ひいて動けなかったときだよね。なんか懐かしくなっちゃって」
少しだけ、また嫌な予感が駆け抜けていった。見慣れた笑顔に、聞き慣れた声に混じる一片の毒のような、手応えの薄い心地の悪さ。それを、陽一は表情を変えないようにじっと耐える。
「……ご飯はどうする? おかゆもあるけど」
炊飯器から自分の茶碗に白米を盛りつつ、陽一は素知らぬ調子で尋ねた。星奈は数秒悩んだが、結局顔を上げて、
「私もご飯がいい。あ、ちょっと少なめで」
「分かった」
要求に、陽一は星奈の茶碗に普段の半分程度ご飯をよそった。
名無しの料理と、ご飯、箸と箸置き、最後にグラスにお茶を注いでテーブルに置き、陽一は席に着いた。星奈と向かい合い、どちらからともなく手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
それぞれがそう言って、箸を手に食事を始めた。
「ごちそうさま~」
ほどなく食べ終えた星奈が、手を合わせて言った。実に満足そうな笑顔だ。
相対する陽一は、絵に描いたような仏頂面で肩を竦め、
「お粗末様……ホント、よくこんなもん平気で食えるなお前。ま、だいぶ元気になってきたみたいで安心したけど」
呆れ声で吐き捨てた彼の手元には、まだ彼の手による名無しの料理が残っていた。既に一度、醤油を足した形跡がある。
ご機嫌な笑い声を零すばかりで何も言わない星奈に、陽一もそれ以上食事や彼女の好みに言及することはしない。代わりに、少し真面目な顔をして星奈に目をやり告げる。
「片づけはしとくから、お前はさっさと休めよ。まだちょっと熱あるだろ」
彼の言葉に、星奈は虚を突かれた様子で目を丸くした。だがそれも一時のことだ。彼女はすぐに微笑に戻ると、まだ残っていたお茶のグラスを手に取りつつ言う。
「もう大体治ったよ」
「あとちょっとのところで気を抜くなって。ぶり返したら困るだろ」
「それはそうだけど」
指摘を素直に肯定しながら、それでも星奈は不満げだ。何がそんなに気掛かりなのか、と訝る陽一の顔を、星奈は一度は伏せていた目を再び上げ、まじまじと見つめた。
真剣味のある表情に、陽一も気を引き締めてその両眼を見つめ返す。そんな彼に、星奈ははっきりとした声で告げた。
「今晩一緒に寝て欲しい」
「……馬鹿。治ったらって言っただろ。
途端、脱力とともにそう漏らし、陽一は星奈の額を小突いた。一蹴された彼女は、拗ねたように唇を尖らせながら、陽一の袖を摘まんで引っ張る。
「そしたら今度は私が看病する」
「そーじゃねぇよ、
「むーぅぅ」
もう一度星奈を引き剥がそうと額を押すが、彼女は左右に頭を振って、なかなか手を放そうとはしない。思いの外頑固な反応に、陽一は眉根を寄せた。やむなく、さらに声のトーンを落として言い聞かせる。
「あのなぁ、一回だけって言っただろ。もうちょっと勿体ぶらなくていいのか?」
「いいもん」
即答。あまりの反応の早さに、陽一はふと、彼女の腹が読めてしまった。双眸を細く絞り、問いを投げる。
「……星奈お前、「頼み込めばどうせ二度目も断れないだろう」とか思ってんじゃねぇだろうな」
「……実際断らないでしょ」
「あっ、てめぇやっぱりか! しかも微塵も悪びれねぇな!?」
ぷいっ、とそっぽを向いて、素っ気ない声で呟く星奈に、陽一がとうとう眦を吊り上げる。荒々しい口調での批難にも、星奈はどこ吹く風であらぬ方向を向いたまま動かない。
「ほほぉぅ、お前がそういう態度取るんなら、こっちも気が変わった。やっぱお前、寝るときは一人で寝ろ。一回たりともサービスはしてやらねぇからな」
怒りに任せて吐き捨てた陽一だったが、その瞬間、星奈の目の色が変わった。彼女は陽一と同じような細い目をして、彼を睨み返してきた。
怯まず視線を合わせる陽一だったが、星奈の方も引き下がらない。それどころか、彼女は口元にどこか余裕を感じる薄笑みを浮かべて、
「ふぅん、そんなこと言っていいの?」
「ちょっと待て、何する気だお前」
薄ら寒い不安を覚え、陽一が慄きながら言う。彼の視線を押し返すように、星奈は酷薄な笑みの鋭さを増しながら囁きかけた。
「なら、陽一が寝たあとで、勝手にベッドに潜り込む方がいい?」
「やめろよそういうことすんのっ!」
「じゃあ最初から一緒に寝て」
星奈に迫られ、陽一は心底嫌そうに抗議の声を上げた。彼の反応が気に入らなかったのか、星奈はムスッとした表情で彼を睨み上げ、一歩詰め寄る。
必死で抗おうとする陽一ではあったが、結局その要求を突っぱねた先にあるのは、勝手に同じベッドに入ってくるという結果でしかない。無理矢理部屋のドアを塞げばまた違う結果にもなるかもしれないが、そうまでして拒絶することはどうにも躊躇われる。
――その時点で、どうにもならないような気がしてならなかった。
「……あ~もう、しょうがねぇなぁ……」
結局、陽一はそう声を絞り出すしかなかった。気のせいか、最近はこんな風に星奈に強引に押し切られることが増えたように思う。敗北感に背中を丸めた陽一の手を、満開の笑顔の星奈が握りしめた。
「やった。じゃあ、陽一が寝るまで待ってるね」
「先寝てろ。あとからちゃんと行くから」
「やだ。そう言って来ないつもりでしょ」
力のない声で陽一がぼやくと、星奈は疑いも濃く言い返してくる。が、陽一はそれに首を振って、
「んなことしねぇよ。あとが怖い」
苦々しく言って肩を竦めた。彼をジト目で睨んでいた星奈は、やがて納得したように鼻息を漏らし、小さく頷く。
「シャワー浴びてから寝る。早く来てね?」
「はいはい、分かったよ。なるべく急ぐ」
両手を挙げて陽一が請け負った。「ん」と大儀そうに短い声を上げて、星奈は彼の手を放して自分の部屋へと向かっていった。着替えを取りにいくのだろう。
残された陽一は一人、懊悩に塗れた吐息を落とした。眩暈を起こしたように、テーブルについた手で身体を支えながら、もう片方の手で頭を押さえる。
「……「怖い」、か」
何度か星奈が漏らした不安の言葉を、力ない声で呟く。
陽一と一緒にいられなくなるのが怖い。星奈はそう言った。その気持ちが分からないわけではない。それでも、陽一自身はふと思ってしまう。
彼にとっては、ここ数日の星奈の変化こそが「怖い」。
いつか一緒にいられなくなる恐怖を紛らわすためなのか、或いは一緒にいたいがための行動なのかは分からないが、いずれにせよ最近の星奈は――星奈と陽一の仲は、既にかつてのものから変容してしまっている。その実感が折に触れて、陽一の胸に重く圧し掛かる。
どうすればいいのか分からない。分からないが、何も思いつかない限り、陽一は星奈の望む通りにしかできないだろう。拒む気力は、勇気は、今の彼にはない。
「情けねぇ兄貴だな……」
疲れに膿んだ嘲りを自らに浴びせて、陽一は片付けを始めた。早く星奈の元に向かってやるために。それが良いのか悪いのか、結論を出せぬままに。
「遅いよ、陽一」
「まさか俺の部屋にいるとはな……いつの間に来た?」
「陽一がお風呂入ってる間に」
「寝てろっつっただろ、きっちり人の動向マークしてんじゃねぇよ」
食事の片づけを済ませ、入浴も終えた陽一が自室に戻ると、既にベッドには星奈が潜り込んでいた。風呂に入る前に着替えを取りに来たときにはいなかったはずなのだが。
自分から彼女の部屋に出向くつもりだったため、陽一にとっては意表を突かれた格好だ。げんなり呻く彼だが、星奈の方はマイペースなことこの上ない。
「早く寝よ?」
彼女は掛布団を捲り上げながら、ベッドを軽く叩いて、陽一を促す。聞えよがしな溜息とともに、陽一はベッドではなく、壁際の照明のスイッチに手を伸ばした。
「消すぞ」
「いいよ」
返事があると同時に、明かりを消した。途端、部屋が真っ暗になるものの、一拍遅れてベッドの方がぼんやりと光る。星奈がスマホの画面を光らせていた。
彼女の誘導に従ってベッドに向かった陽一は、そのままベッドに身を横たえた。星奈に背を向けるように横向きに寝転がる彼に、星奈は苦笑にも聞こえる吐息を漏らした。
苦情は口にしない。代わりに、彼女の手が陽一の背に触れる。おずおずと、躊躇いがちに何度も彼の背を撫でた手が、やがて肩に移る。それとともに、星奈の身体が背中に抱きついてきたのが分かった。
「星奈」
小声で、だがはっきりと。制するように名を呼ぶ。彼女は怯まなかった。のろのろとした動きで、なおも陽一への密着を強めながら、
「……陽一、ここにいる?」
掠れかかった猫撫で声。陽一はそれに、敢えて言葉を返しはしない。ただ、触れてくる星奈の手に自分の手をやんわりと重ねた。
大きく息を吐きながら、星奈の頭がぐりぐりと陽一の背中を抉った。彼女はやはり小さく抑えた声で続ける。
「ずっとこうしていたいな……」
希望を紡ぐ言葉とは裏腹に、その声音は寂しげに響いた。言外にある、正反対の予感を、不安の源を匂わせる。
「ねえ陽一」
「…………」
「兄妹って、やめられないのかな」
陽一の肩を揺すりながら、星奈が今度はそんな台詞を漏らした。
問いかける言葉に、陽一は無反応。それでも構わず、星奈はもぞもぞと陽一にすり寄りながら、小声で言葉を重ねる。
「もしやめられるなら……やめて陽一と一緒にいられるようになるなら、私――」
「星奈」
そんな星奈の声に、陽一は振り返らず、もう一度彼女の名前を呼んだ。言いたいことを半ばで遮られた星奈は、それでも素直に相槌を打つ。
「……なぁに、よーいち?」
「俺はまだ、諦めてねぇからな」
星奈と同じく、眠気の混じる小声ではあったが、それでも芯を感じさせる語調に、星奈は意識を吸い寄せられた。背中越しではあっても、妹の注意が向いたことを敏感に察した陽一は、同じ調子でもう一度囁いた。
「何があっても俺はお前の兄貴だし、だからってお前と一緒にいることも諦める気はない。文句あるか?」
放り投げるような、ぞんざいな口ぶりだ。言い終えた陽一は、小さく身動ぎしてそれきり黙りこくる。
星奈は、しばらく黙ってその言葉を反芻していた。だが、やがて唇の隙間から笑い声を零し、もう一度陽一の肩に置いた手を滑らせた。さらにもう片方の手で、再び陽一の背中に触れつつ、
「陽一も、私と一緒にいたい?」
短い沈黙。すぐに陽一が答えを口にした。
「ああ、そーだな……」
不機嫌そうな声音。それが照れ隠しだと、星奈には分かる。
「ね……こっち向いて?」
肩を揺すって、星奈が囁きかけた。陽一は無言。要求に応じようともしない。
それでも、幾度も引っ張りながら星奈が身体を離すと、やがて陽一は大儀そうに身体を反転させた。渋面で星奈と向き合った彼は、無言を貫いたまま小さく鼻を鳴らす。そんな彼の胸に、星奈が顔を埋めた。
「…………」
それ以上は何も言わず、そのままの姿勢で動きを止めた彼女を見やった陽一は、その頭に手を伸ばして髪を撫でた。
嬉しそうな短い吐息とともに、微かに頭を揺らした星奈は、すぐにまた動きを止める。陽一もまた、彼女の髪に触れたまま、ようやく目を閉じ――
「あ、そういえば、本棚とか机の引き出しにもいかがわしい本とか見つからなかったけど、陽一どこに――」
「寝ろ」
星奈の言葉を押し潰すように重々しい声で告げ、今度こそ陽一は固く目を瞑った。
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