第十七話 噂と詮索
ゴールデンウィークが明けると、月末には中間テストが控えている。超がつくほど真面目な生徒たちならいざ知らず、大半にとってテスト勉強が本格化するのは連休が明けてからだ。陽一にしてもそうだった。いや、そのつもりだった。
家にいる間はなるべく星奈と一緒に過ごす――妹の要求は、思いの外彼のテスト勉強を妨げた。
帰宅してからは部屋に荷物だけ置いて、食事の準備をする星奈のいるキッチンを眺められるリビングで過ごす。食事が終わってからもだ。二人でソファに並んで座り、各々勉強していたのだが、星奈はその間ずっと黙っているわけではなかった。
「陽一、ここ教えて~」
「……あのな、学年違うんだから当然範囲も違うんだが?」
二年の教科書を開き、臆面もなくのたまう星奈をジト目で見やり、陽一は嫌そうな声で言い返す。が、星奈はそれでも遠慮なく、教科書の一部を指で示しながら、
「受験勉強が本格化したら、どうせ二年の復習だってするでしょ。それがちょっと早まったと思って」
「また微妙な正論を吐く……分かったよ、教えりゃいいんだろ教えりゃ。どこだ?」
「やったぁ、陽一ちょろい」
「
苛立ちも露わに唸りつつ、陽一は星奈の掲げた教科書を覗き込んだ。
そんなことを繰り返していたため、当然、陽一の勉強が捗るはずがない。今回の点数はそれなりに覚悟する必要があるだろうと、億劫に思うところではあった。
連休中やその翌日よりも、星奈が精神的に安定している様子なのは喜ばしかった。案の定と言うべきか、連日「一緒に寝てほしい」と言ってくるようになった彼女の願いを拒み切れず、いまいち落ち着かない夜を過ごす羽目にはなっているが。
そして、もう一つ大きな変化があったことといえば。
「春日くーん」
気安い呼び声とともに、弁当箱を開こうとしていた陽一の前にひょっこりと顔を覗かせたのは、連休明け以降やたらと彼に構うようになった鬼頭だ。彼女は手にした包みを机の上に載せながら、にこやかな笑顔で言う。
「昨日はクッキー焼いてみたんだ。よかったら食べてー」
「何か悪いな、テスト週間にまでわざわざ」
「私だって息抜きでやってるだけだから。気にしないで」
薄い苦笑とともに受け取る陽一に、鬼頭が応える。
週に二度ほど、鬼頭はお菓子を作っては陽一に渡してきた。そうでないときも、少なくとも一日に一回は話しかけてくる。戸惑いを覚える反面、嫌というわけでもなく、陽一は彼女がするがままを受け入れていた。
向かいに座りながらその様子を見ていた将也の眼差しが、日に日に瘴気を濃くしていくのは気がかりではあったが。とはいえこちらも、鬱陶しくはあっても困ることはない。
「じゃ、また感想聞かせてね」
「ああ。ありがと」
手を振って自分の席に戻る鬼頭に、陽一も軽く手を振り返す。それから、改めて弁当箱に手をかけた、その瞬間。
「はぁぁぁぁぁ」
「……でけぇ溜息だな香坂、人の顔見てそんな辛気臭ぇ面するなら、どっか余所行ってろよ」
正面から浴びせられた溜息に、陽一もつい渋面で応じてしまう。不機嫌な双眸を真っ向からぶつけ合いながら、将也は陰気がそのまま形になったような陰の濃い表情で言う。
「ほんっとお前、ムカつくくらいあっさり鬼頭とくっつきやがったな。薄情者め」
「日頃の行いの差だ……つってもまぁ、去年のお礼だ、って一方的に良くしてもらってるだけだけどな」
涼しい顔で肩を竦めてから、少し居心地悪そうに陽一は目を逸らす。
何分、彼自身はそこまで恩を感じられるようなことをした自覚がない。だから、鬼頭にそこまで重ねてお礼をされることに違和感があるのも確かだ。かといって、それを拒むのも失礼に思えてしまう。
そんな彼の心情をどこまで酌んだかは分からないが、将也はなおも妬ましそうな顔で辺りに視線を走らせつつ、低い声で嘯いた。
「しゃあしゃあと抜かしやがる……言っとくけど、他の連中も多かれ少なかれ、お前らが付き合ってるんじゃないかって噂してっからな? 「とうとうあの春日が、妹から鬼頭に乗り替えた」ってな」
彼なりに真剣な表情の将也ではあったが、陽一はというと、「所詮は将也の与太話」とでも言わんばかりに関心薄く、箸を手に取っていた。弁当をつつきつつ、
「馬鹿言え。あり得ねーだろンなこと」
軽くあしらう口調で陽一は吐き捨てたものの、将也は一段とその眼差しを細めながら首を振る。
「馬鹿はお前だ。いいか、自分のことだと思わず考えてみろ。女子が頻繁に手作りのお菓子を、特定の男子にだけしょっちゅう手渡してて、人前でも構わず毎日のように仲良さげに話してる。これ、何もないと思うか?」
「そりゃお前……あ~……」
同じく軽い調子で返そうとした陽一はしかし、そこで言葉を詰まらせた。ようやく自身が周囲からどう見られているかを悟った彼を見やり、将也がもう一度大きく嘆息してみせる。
「で、誰が馬鹿だって?」
「いやお前が馬鹿なのは変わらねぇけど」
「何だコイツ蹴り倒してぇ……」
「とはいえ、そりゃ鬼頭にも悪いな。そろそろもういいって断った方がいいのかなぁ」
半ば殺気立った顔で睨みつける将也を鮮やかに無視してのけながら、陽一は独り言の口調でそう零す。
あらぬ方向を向いた彼を、将也は忌々しげに見据えていた。そんな彼は、改めて少し抑えた声音で、陽一に語りかけた。
「ホントに、去年の文化祭がきっかけで今みたいになってんのか?」
再び垣間見えた神妙さに、今度は陽一も姿勢を改めて彼に視線を戻した。眉根を寄せて頷き、
「ああ、他に心当たりはないし、鬼頭自身もそう言ってる」
「ふ~ん……」
陽一の答えを聞くと、将也は顎に手をやって軽く俯き、短く唸った。つくづく彼には珍しい姿に、陽一は目を丸くして見やった。
「何かあんのか?」
思わずそう尋ねてしまう。そんな陽一に、将也はやや勿体ぶるようにゆっくりと顔を上げ、
「俺もそんな風に女子との接点作れないかなって考えてた」
「……そうかよ。まあせいぜい頑張れ」
一気に気力を奪われ、陽一はどうでもよさそうに呟いて肩を落とした。彼の冷ややかな眼光を意にも介さず将也はなおも真顔のまま、思索に没頭していた。
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