第4章:敵地からの脱出

4-1:悪夢からの目覚め

 男たちの息づかいが背後から聞こえてくる。

 獣のように荒々しい呼吸からは、吐き気を催すようなにおいが漂ってきた。


 こんなにおい、今まで嗅いだことがない。

 野に放たれた家畜のにおいよりも、地面にまき散らされた臓腑のにおいよりも不快だ。


 ユスティナは死にものぐるいで走り続けるが、次第に泥の中を進んでいるかのように足が重くなってくる。そうしている間に男たちの息づかいが迫ってきて、それはついに彼女の耳元まで近づいてきた。


「諦めろ、お姫さま……お前は所詮、都合のいい操り人形なのさ」


 アルフレドのおぞましい声が耳元でささやかれる。

 背中には彼の体温すら感じられた。

 ユスティナは「ひっ……」と引きつるような短い悲鳴を漏らしながら、とっさに振り返って背後のアルフレドを突き飛ばす。


 アルフレドは仰向けに倒れると、ぴくりとも動かなくなった。

 彼の胸からはどす黒い血がわき水のようにどくどくと流れ出している。


 まさか……。


 ユスティナは不吉な予感を覚えて自分の手に視線を落とす。

 自分の手にはいつの間にか、血まみれのナイフが握られていた。


「うああああっ!?」


 とっさにナイフを投げ捨てようとするも手からナイフが離れない……いや、自分の手がナイフを放してくれない。

 胸から大量の血を流しながらも、しぶとく息をしているアルフレドが目に止まる。


 今ならこいつにとどめを刺すことだって……。


 ユスティナは血まみれのナイフを逆手に持ち替える。さっきは必死になって手を振っても全く捨てられなかったのに、こうして刺しやすいようにナイフを持ち替えるのは簡単にできてしまった。


 ナイフを高らかに振り上げた瞬間、ユスティナの顔に刃から跳ねた血が降りかかる。彼女のほおを赤黒い血が伝って、死のにおいがする背徳的な血化粧を施した。


 そうして、ユスティナは血に染まったナイフを振り下ろし――


 ×


 ユスティナは全身汗まみれになって飛び起きる。


 ドギマギしながら自分の両手を確認すると、ナイフを握っていない代わりに金属製の手かせをはめられていた。手かせ同士を繋いでいる鎖は、まるで猛獣をつなぎ止めるために作られたかのように太くて頑丈そうだ。


 私はオルドンの街で戦っている最中、バビロンから不意打ちを受けて……。


 ユスティナは記憶を探りながら周囲を見回す。


 閉じ込められている部屋の広さは大人が寝てギリギリ手を伸ばせないくらい。天井も壁も床も全て石造りで、出入り口として鉄格子のドアがはめられている。ドアの向かい側に小さな窓があるものの、そこにも当然のように鉄格子が取り付けられていた。ユスティナがいくら小柄でも流石に通り抜けられそうにない。部屋の隅にはトイレとおぼしき穴が空いていて、そこから嫌なにおいが微かに漂っていた。


 自分の体を確かめてみると、ワンピースと呼ぶのもためらわれる粗末な服に着替えさせられていた。かなり着古されているのか袖と裾がすり切れており、肌寒い空気が薄っぺらな布地を通り抜けてくる。


 ここって牢屋……だよね?


 ユスティナは心細くなって体にかかっている毛布を胸元に引き上げる。


 自分はやはり反乱軍に囚われたのだろうか?

 アルフレドの凶行に気を取られている間にバビロンから攻撃されて……でも、あのときの判断が全て間違っていたとは思えない。

 アルフレドを咎めようとしていなければ、オルドンの街の女性たちはあの場でもっとひどい目に遭わされていたはずだ。


 いや、結局はバビロンに負けて止められなかったのか……。


 先ほどの悪夢が脳裏にフラッシュバックする。

 まさか自分はあんな風に仕返すことを望んでいたのだろうか?


 否定しきれない自分が恐ろしい。アルフレドと愚連隊の兵士たちが今後もあんなことを繰り返すのなら、誰かが止めなければいけないのではないか。士気を高めるためにロゴス将軍が認めているのなら、それこそ命を奪ってでも――


「――起きてたのね」


 鉄格子の向こうから聞き覚えのある声が聞こえてくる。

 牢屋の外は廊下になっており、同じような小部屋がいくつか並んでいたものの、どこも空っぽで使われているようには見えなかった。


「返事くらいしたら?」


 鉄格子の前に現れたのはやはりシックスだった。


 軍服の上着がぶかぶかで袖を余らせていたり、ショートパンツを穿いていたりするのはいつものことであるが、今日はツインテールに赤色のリボンを結んでおしゃれしていた。これが彼女のしっとりとした黒髪にとても似合っていて、本当は警戒するべきなのについ可愛いと思ってしまった。


 シックスは同行している反乱軍の兵士に鉄格子を開けさせると、見張りを任せて一人で牢屋に入ってくる。

 すると、鉄格子が再び閉ざされて錠前もかけられてしまった。

 牢屋の鍵は兵士が持っているが、とても奪えそうな状況ではない。


「ここ……どこなの?」


 ユスティナが恐る恐る問いかけると、鉄格子に背をもたれているシックスが鼻で笑った。


「質問できる立場だと思ってる?」

「うっ……」

「うそうそ。ここはブラムスの前線基地。あなたはオルドンの街で私に倒されて、ユニティと一緒に運ばれてきたというわけ。あれから丸一日は経ってるかな。それから言っておくと……私、今日はあなたを説得するつもりで来たから」

「……説得?」


 この子は私を仲間に引き入れようとしている?

 邪魔するものは全て皆殺しにする勢いのシックスからは考えられない発言だ。

 戦場の彼女と今の彼女に大きな差異を感じる。


「なに不思議そうな顔してるのよ」


 シックスが不満そうに口をとんがらせる。

 そのすねた表情は等身大の女の子らしいものだった。


「バビロンに対を成す巨神と乗り手……そんな強大な戦力、倒すよりも味方に引き入れた方がいいに決まってるでしょ? あなたを捕まえた時点で戦況はかなり有利になったけど、戦争を早く終わらせるのに戦力はいくらでもほしいわ。戦場に出ると気持ちが高ぶっちゃうから、いつもは説得しようなんて気になんてならないけど……せっかくの機会だもの、今日はじっくり話し合いましょう」

「ちゃんと話し合いたいならこれを外してよ」


 ユスティナは両手にはめられた手かせを見せつける。

 手かせから垂れている太い鎖がじゃらりと音を立てた。


「それは無理よ。暴れられたら困るもの。それにあなたが工作員として訓練されていて、私を人質に取って逃げようとするかもしれない。天井に両腕を吊されていないだけ、今はありがたいと思いなさい」


 シックスが廊下にいる兵士に声をかける。

 すると、兵士が鉄格子の隙間から黒パンとコップ一杯の水を差し入れてきた。


「はい、食事」


 シックスが黒パンと水を手渡してくる。

 黒パンはカチカチに固くなっており、人間の食べ物とは思えないレベルだ。

 ユスティナは思わず警戒してシックスを見上げた。


「毒なんか入ってないわよ」

「……いただきます」


 お腹が空いていたこともあり、ユスティナはがむしゃらに黒パンをかじった。

 噛むのが疲れるくらい固い黒パンを水で流し込む。

 食事を終えるのを見届けてからシックスが問いかけてきた。


「さて、単刀直入に聞くけど……ブラムス解放戦線に入るつもりはない?」

「解放戦線?」

「私たちは自分たちを一度も反乱軍なんて名乗っちゃいないわ。ブラムス人が反乱したなんて思っているのは本地の人間だけよ」

「反乱軍でも解放戦線でも、とにかく寝返るなんてできないよ」


 迷うことなくユスティナは答えた。


「反乱軍は私の故郷を襲った。お父さんだって……殺された」

「それについては謝っておかないといけないわ。あそこまで手荒にするつもりはなかった」

「どういうこと?」

「解放戦線の部隊がコーンヒルを襲ったのはあくまでユニティを手に入れるのが目的よ。バビロンを復活させる過程でノーマンはもう一体の巨神について情報を得ていた。もちろん、ノーマンは村人を皆殺しにしろなんて命令は出していなかったわ。ユニティや巫女に関する情報を欲しがっていたもの。だから、あれは兵士たちの暴走だったのよ。王国本地の人たちを恨むが故のね……」

「単なる手違いだから許せっていうの!?」


 ユスティナは思わずベッドから立ち上がる。

 胸の奥から一気に怒りの感情が吹き出してきた。


「そんなの……殺された人たちからしたら関係ないよ!」

「でもね、それはあなたたち王国本地の人たちの自業自得なのよ?」

「自業自得!?」


 平和に暮らしていただけなのになんという言いぐさだ!

 ユスティナは反射的に体が動きそうになったのをグッと堪えた。


「あなたはこの戦争、どういう風に始まったって聞かされた?」

「それはもちろん反乱軍がいきなり襲ってきたって――」

「不正解! ねえ、あなたはブラムスがどんな場所なのか知ってる?」

「どんな場所って……鉱山があって……北にあるから寒い場所で……」

「王国民って本当に何も知らないのね……いや、何も知らされていないって言った方が正しいのかしら。あなたみたいな田舎育ちなら、なおさら何も知らなくて当然よね」


 シックスが腹立たしそうに言い放った。


「ブラムスはミゼル王国の植民地だったのよ!」

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