鏡の国
渋谷楽
第1話 鏡の国
「先輩! おはようございまーす!」
大学のキャンパスに「新田優奈」のハツラツとした声が響く。
優奈と同じ高校に通っていたにも関わらず、口下手で陰キャらな俺、「加藤守」は、その挨拶にさえどもってしまう。
「お、おはよう……」
「先輩元気ないっすよ! 元気出していきましょ!」
そう言って背中をバンバン叩かれ、苦笑いを零した俺は、短い茶髪がよく似合っている優奈の背中を見送った。
そして優奈は、短髪で筋肉質なある男の隣に駆け寄り、その華奢な身体を男の腕に擦り寄せた。
「ああ、やっぱり好きだ」
俺は、誰に言うでもなく、そう呟いた。
俺は、叶うはずもない片思いを、高校生の頃からずっと続けていたのだった。
俺の大学生活は、色で例えるなら灰色だ。
友達にこんなことを言うと、きっとポエマーみたいだと言われるから、決して他人には言わないけれど。
「おーい、加藤! 今日あの事話してたけど、どうなんだよ?」
特に、この竹中みたいな性格の人の前では、絶対に言えない。
「灰色だよ……」
「え?」
「あ、いや、何でもない。優奈とは、特に何もないよ」
「いや、そうだろうけどさあ、ほら、これから勝算はあるのかっていう話」
勝算、と聞かれ、自然に優奈の彼氏の顔が思い浮かぶ。
サッカー部の主力らしく日焼けして引き締まった顔は、立っているだけで凛とした男らしさを醸し出す。
そう、それは、地味で引っ込み思案な自分とはまるで正反対で、思わずため息をついてしまう。
「無いなあ……勝算」
「そっか……ま、これからだよ。俺ら高校からの付き合いだしさ、何でも相談してくれよ」
「ああ、それはありがたいけど……お前、心理学用語全集はどうした? それが無いと、また池田にどやされるぞ」
講義開始の時間が近くなり、長机の上に資料を出し始めている生徒たちの中で、未だ綺麗な竹中の席は嫌でも目立つ。そのことをすぱっと指摘してやると、竹中の特徴でもある人懐っこい笑顔を向けられた。
「それのことだけどさ、悪いけど、今日一日見せてくんね?」
「おいおいまたかよ。しっかりしてくれよ」
「良いじゃん、良いじゃん。あの娘とのこと、アドバイスしてやるからさ」
「そんなずぼらな奴の話なんて聞きたくない」
とは言ったものの、俺と正反対な性格のはずの竹中といると、何故かいつも心が落ち着いた。
竹中の程よい強さの言葉のパスを受け、俺は竹中がアッと驚くような言葉を返す。
それを何とかキャッチし、「そう来たか」と悪戯っぽく笑う。そんなやりとりがどこか心地良くもあったし、それは恐らく竹中も同じなのだろう。
人は結局、自分と似た感覚を持つ人に好意を持つのだ。そんな当たり前の事実が、今は、凄く苦しい。
「んじゃ、俺バイトだから、また明日な。頑張れよ」
「お、おう、また明日な」
一日の講義が無事に終わり、茜色の夕日が教室に差し込んできた頃、俺は重い腰を上げる。
「ああ、もう、諦めた方がいいのかなあ」
それは、至極真っ当な考えだと言えた。
身長はそこそこあるし極端な不細工とは言えないが、目つきが悪く愛想が悪い。口下手な性格も相まって、女性と付き合えたことは一度も無かった。
諦めて、新しい恋をしようと思っていた。
キャンパスの出口で静かに泣いている、彼女を見るまでは。
「ゆ、優奈……?」
おかしい。この時間は、優奈はサッカーグランドに行って彼氏の応援をしているはずだ。
それが、今は一人で、声を押し殺すように泣いている。
気が付けば、身体が勝手に動き出していた。
「おい、優奈。どうし、た……」
彼女の肩を掴んだ右手は、小刻みに震えている。
しかし、優奈の表情は、俺の臆病さを蹴り飛ばせるくらい、弱々しいものだった。
「あはは、先輩、いたんすか。恥ずかしいな」
「どうしたんだよ? 今日は彼氏と一緒じゃないのか?」
「ああ、あの人すか……あたし、ほんと馬鹿っすよね。今まで遊ばれてるのにも、気づけずに……」
そう言ってまた俯く優奈を、気が付けば慰めるように撫でていた。
「……今日、俺のおごりで、飲みにでも行くか?」
高校生の頃、優奈はこうされるのが好きだったことを思い出した。
「あたし、酒癖悪いっすよ」
そして、優奈は俺の誘いを断ったことが無いことも思い出したのだった。
先に言っておきたいが、俺は飲み屋に行った経験が殆ど無い。
酒を飲むと言ったら、もっぱら宅飲みになったし、お酒の種類もチューハイ以外のものをあまり知らない。
それでも何とか個室のあるお店を選べたのは、目の前のか弱い女の子に対する想い故だと、今はそう言いたい。
「結局男って、身体目的なんですか~?」
だから、優奈から投げかけられたその問いにも、すんなりと答えられた。
「皆が皆そうじゃないよ」
「先輩はどうなんですか?」
「俺は違うよ。女の子をそういう目で見ない」
ふーん、と小さく呟いた優奈は、ジョッキに半分残っていたビールを一気に飲み干し、大きなため息をつく。
「でも、あたし、女の子らしくないし、性格もそんなに良くないし」
「そ、そんなこと」
「今も、先輩に慰めてもらってばっかりで、ほんと、ダメダメっすね」
「……俺は」
普段はお酒を好んで飲まないけども、今だけはお酒の力を借りたい。運ばれてきたばかりのジョッキを一気に空にすると、覚悟を決めるように大きく息を吸い込んだ。
「ちょっと先輩!? そんなにお酒強くないんじゃ……」
「俺は、優奈を慰めるためだけに来たんじゃない」
「え?」
「お前に、告白するために来た」
優奈は驚いたような顔をするが、俺は構わず続ける。
「好きだ。優奈、ずっと前から」
一拍置き、たちまち頬を赤らめた優奈は、数舜目を泳がせてから、俯きがちにぽつぽつと言葉を零し始める。
「ず、ずっと前って、具体的にいつからですか……?」
「高校生のときから」
「そんな、全然気づかなかったすよ。先輩、あたしに興味ないのかなって思ってたから……あの、先輩?」
潤んだ瞳で上目遣いをされてしまうと、どうしたってドキッとしてしまう。
「あの、隣行って、良いですか?」
「お、おう」
店内はそこそこ賑やかなはずなのに、衣擦れの音だけがやけに大きく聞こえる。
優奈の柔らかい肌もやけに熱く感じて、触れた瞬間にビクッと身体が跳ねてしまう。
「あたし、めんどくさいっすよ」
「……知ってる」
「先輩と違って頭悪いから、毎日勉強教えてください」
「もちろん」
「あたし、凄く寂しがりやなので、ちゃんと構ってくれないと、嫌っすよ?」
「それは、俺も同じだ」
優奈の細い方に手を回し、こちらにそっと寄せる。すると優奈は、心底幸せそうに笑った。
「じゃあ、最後まで、面倒見てくださいよっ」
懐に潜り込んできた優奈を抱き締める時には、手の震えはすっかり消えていた。
これまでの冴えない人生を振り払うように、勇気を振り絞った後は、俺も、大切な人と同じように笑っていたのだった。
鏡の国
鏡の国 渋谷楽 @teroru
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