滝川の過去 ― 零れ落ちた光 ―

 ようとの恋は、ゆっくりとした静かな恋だった。

 でも、それはこれからがあると疑いもしなかったから。

 これからずっと一緒だと思っていたから。

 二人の気持ちさえ確かなら、ゆっくりと深めていく関係を楽しみに。

 それでいいと思っていた。


 まさか、こんな急に絶たれるなんて……思ってもみなかった。


 陽が体調に異変を感じたのは、二年生の冬。ちょっとした貧血、鼻血、そんな小さな異変だった。病院で検査すると急性白血病の診断。

 早期の発見と言われて、今では治る確率も高いと聞いて、前向きに治療に励んだ。

陽はいつでも明るかった。少なくとも、葵や茜、良平の前では。

 けれど、思ったように抗がん剤の効き目がなく、副作用も辛く、陽はだんだん痩せていった。最後の頼みの綱である骨髄移植も、両親共に適合が叶わず、一人娘の陽にとっては、厳しい結果となった。

 もちろん葵たち友人も調べてもらったが、そう簡単に適合者は見つからなかった。

 

 刻一刻と、陽の命のリミットが迫っていた。


 陽の母親が心労で倒れたので、今日は一人でお見舞いに行って欲しい。茜からのそんな連絡を受けて、その日葵は一人で無菌室を訪れた。

「あおくん!」

 辛そうに横たわっていた陽が、ゆっくりと目を開けた。

 そして、葵を見て、嬉しそうに微笑んだ。

「つらそうだな」

「ううん、今日は結構気分いいの。ちょっと、待っていて」

 そう言って、陽はゆっくりと、本当に亀の歩みのように、ゆっくりと起き上がり、歩行器にもたれるようにして、無菌室を隔てているガラスのところまで歩いてきた。

「おい! 無理するなよ」

「大丈夫! あおくん心配性なんだから」 

 陽の瞳にきらめきが増す。きっと込み上げる涙を堪えているに違いない。

 

 葵が慌ててガラスに近づく。近づきすぎて、ゴツンとガラスに額がぶつかった。

 陽も向こう側からそっとガラスに額を当てる。目線が重なった。

 お互いを目に焼き付けるように見つめ合う。

 陽の目は涙で潤んでいたが、笑っていた。

 その頬に触れたくて、差し伸べた葵の手が冷たいガラスに阻まれた。

 そのまま右手をガラスに押し当てる。

 その右手に合わせるように、陽も手をガラスに添える。

 そして、左手も重ね合わせた。

 

 分厚いガラス越し。それでも、お互いのぬくもりが伝わってくる気がする。

「あおくんの手、温かい……」

「そうかな」

「あおくん、私幸せ者だね」

「そんなことあるか! 苦しい思いしているくせに」

「ううん、幸せ。だって、今私、あおくん独り占めしてる」

「そんなの……退院したら、いつでも独り占めさせてやるよ」

「ほんと! やったー!」

 心の底から嬉しそうに笑った。

「でも、ダメ!」

「え! なんで?」

「あおくんはあおくんだから。陽の物でも、誰の物でもないんだからね。だから、今だけでいいの。今だけで充分なんだ」

 今日だけは、照れも恥もかなぐり捨てて、ストレートに気持ちを伝えたい……そう思って頑張ったのに、なんだかダメだしされた気分になって、葵はちょっと落ち込んだ。

「だから、陽のことも独り占めさせてあげないよ。今日は特別!」

「けちだな」

「すねたあおくん、かわいいー」

 いたずらっ子のような顔で笑う。


「あおくん、これだけは絶対覚えておいてね」

「なんだよ?」

 真剣な陽の表情にただならぬ決意を感じて、あえてはぐらかす。


 そんな、遺言みたいな言い方するなよ!


「俺はそんなに忘れっぽくないよ。頭いいんだからな」

「そうだね。知ってる」

 陽はニコニコと笑いながら言った。

「私はね、絶対死なないんだよ。だって、私は太陽の陽ちゃんだからね。太陽が死んだら、地球滅亡だよ。そんな事ありえないでしょ~」

「そうだな……お前は太陽だからな」

「陽はね、あおくんが誰よりも優しいこと知ってる。あおくんが、陽のこと、すっごく大切に思ってくれているのも知ってる。だから、あおくんは、いつだって大丈夫だからね」


 何がどう大丈夫だって言うんだ! 

 陽がいなきゃ、俺は全然ダメなんだよ!


 心の中が悲鳴を上げたのを感じたが、顔に出さないようにぶっきらぼうに言う。

「俺はお前が大切だ! 陽は俺のこと大切か?」

「すっごく大切。大切だよ。大切だから、あおくんには、立ち止まらないで欲しい。真っすぐ前に進んで欲しいんだ」

「なんだよそれ? 俺は方向音痴じゃねえよ」


 陽の姿にもやがかかる。ぱちぱちと瞬きをして葵は言葉を続けた。

「お前はそそっかしいからな。いつでも俺がお前の手を引いてやる! 絶対手を離さないから安心しろ!」

「……ありがと」

 

 透き通るような微笑みを残して、力付きたように、陽の体が崩れ落ちた。


「陽!陽!」

 葵は狂ったように大声で叫んだ。看護師が慌てて入って来る。

「もう……あおくんは……大げさなん……だから。ちょっと、膝カックンしちゃった……だけだよ。インターフォンの声、大き……すぎだよ」

 看護師に肩を貸してもらって、ベッドに戻って横になると、息も切れ切れになっている。それでも弱々しい笑顔を向けた。

「手を離しても……大丈夫だよ。陽はね、いつでもあおくんの傍にいるんだから。あおくんのこと、ちゃんと見ているからね」

 

 次の日から、陽の面会は家族だけになった。


 そして、陽は静かにこの世を去った。

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