大切な思い出

 水曜日、杉浦おばあさんの外出許可が下りたので、お昼過ぎごろ、滝川と陽人は『清光園』の玄関へ迎えに来ていた。

 滝川は陽人に、一緒にこなくても大丈夫だと言っていたのだが、陽人はなんとなく付いていくべきと思っていた。また、滝川のおじいさんに間違われたら、きっとどうしてよいか困るとは思うが、傍にいるだけでも何か役に立てるかもしれないという思いが強かった。

 

 滝川の軽トラでは、車椅子のまま乗り降りできないので、施設の人が車で送ってくれることになっていた。

 杉浦おばあさんは淡い紫のカーディガンを羽織って、うっすらお化粧もして、嬉しそうにニコニコと車椅子に座って待っていた。体調を考えると、往復の時間も含めて二時間ぐらいが限度という事と、注意事項を確認してから、丘の上の家へと出発した。

 

 車の窓から懐かしいわが家への道筋が見えてくると、杉浦おばあさんは身を乗り出して眺めていた。家の前に降り立つと、「やっと着いたわ~」と嬉しそうに呟いて、家の周りをゆっくりと見回す。陽人の手入れの甲斐もあって、新緑が美しかった。


「緑が綺麗……」

「こいつが手入れしてくれたんだよ」

 滝川が陽人の肩に手をかけながら言うと、

「ありがとうございました」

 杉浦おばあさんは丁寧にお礼を言ったが、今日は陽人を滝川善三たきがわぜんぞうと間違っている様子は見えなかった。老人ホームのスタッフを見ているような落ち着いた表情をしていた。


 今日は善三おじいさんの振りしなくても大丈夫そう。

 

 陽人はほっと胸をなで下ろした。


 俺は滝川さんみたいにはうまく話せそうも無いし、助かった。

 

 家の中へは、滝川が作って置いたスロープを使って車椅子ごと上がった。

 まだ作業途中ではあったが、基本的なレイアウトは変えていないので、杉浦おばあさんは懐かしそうに家の中を見回している。

「あら、私がひっかいてしまった床の傷が無くなっているわ! 良かった~」

 杉浦おばあさんは、いたずらっ子のような無邪気な顔でそう言った。家での色々な出来事が蘇ってきているようだ。


 「ああ、今日も海が穏やかね……」

 部屋の中央に立つ大黒柱越しに、青い海が煌めいている。嬉しそうに声を挙げると、しばらくそのまま見つめていた。

 滝川が窓を少し開けると、風に乗って檜の香がふわっと鼻孔をくすぐった。その香りを堪能するように、大きく息を吸うと、大黒柱の傍に連れて行ってくれるように滝川に頼んだ。


「そうそう! この柱!」

 大黒柱に手を添えて、何回も何回も愛おしそうに撫でる。

「この大黒柱、あなたがどうしても剥き出しの形にしたいとこだわって、そうしたら、善三さんが、だったら檜がいいとおっしゃって。でも、こんなに太い木を手に入れるのは難しくて、善三さんがあちこち駆けずり回ってようやく見つけて下さったのよね」

 滝川も初めて知る、善三のエピソードだった。

「私もこの柱好きでしたの。お部屋の真ん中にあるから、最初はちょっと邪魔かしらと思ったんですけど、家事をしながら、何度もこの柱の傍を通りながら海を眺めていると、とっても安心できるんですよね。なぜかしら? 檜の香りが良いから、森にいる気分と海にいる気分と、同時に感じられるからかしらねえ。あなたはこのことを分かっていたから、剥き出しの形にこだわっていたのでしょう」

「ああ、そうだよ」

 即座に滝川が応じる。車いすの横に膝をついて座り、目線を合わせて話していた。


 今日も滝川さん、優しいな~


 陽人は滝川の穏やかな眼差しに脱帽した。

 だが、それと同時に、滝川が誰かとおばあさんを重ねているのではないかという、唐突な思いつきにドキリとした。


 誰と重ねているんだろう?


 死んだおじいさんと重ねているのかな?

 それとも他の誰か、大切な人……


「そう言えば、一度、セミが間違って家の中に入って来たことがありましたね!

あの時は善三さんもいらしていて、あなたと二人で追いかけて。セミも慌てているようで、部屋の中をブンブン飛び回っていたけれど、ようやくこの大黒柱に止まって、そしたら急に大きな声で鳴き始めて」

 杉浦おばあさんはふふふっと可愛く笑って手を口に当てた。

「鳴き声が家中響き渡って大変でしたね」

 思い出したように耳を塞ぐ仕草もする。

「でも、善三さんが後ろからそーっと近づいて、パッて素手で捕まえてしまって。びっくりしましたよねー」

 今度は心から面白そうに笑った。


「あなたったら、善三さんに、お前は忍者みたいに気配を消せるのか! っておっしゃったら、善三さんが、まさか! っておっしゃって。俺は木になっただけだって。この檜の呼吸に合わせただけだっておっしゃって。ふふふ……後で善三さんらしいわねーってお話しましたよね」

 滝川は驚いたように杉浦おばあさんの顔を見つめた。滝川の知らない善三じいさんのことを次々話していく。


「善三さん、時々家の点検に来てださっていたわね。まるでお家のかかりつけ医みたいで。その時はその縁側であなたと二人で話しながらお菓子を食べていらしたわ。お酒も強いけれど、あなたと同じで甘い物もお好きで。あら? あなたに合わせてくださっていただけかしら?」

「いや、同じくらい甘党だったよ」

 滝川が懐かしむようにそう言った。

「あら、そうでしたの。あなたお仲間がいて良かったじゃないですか」

 杉浦おばあさんも滝川の目を見てほほ笑んだ。


「お孫さんが生まれた時も嬉しそうでしたね。でっかい声で泣く男の子で、元気でいいっておっしゃってたわね。あなたが、大工を継がせるのか? って聞いたら、そうなったら嬉しいけどなって」

「じいさんが、そんなことを……」

 滝川の口から思わず漏れた。

「善三さん、すっごく嬉しそうでしたよね。あなた」

 杉浦おばあさんはニコニコしながら、もう一度滝川の目を見た。


 滝川は一瞬、おばあさんは全てを分かって話しているのかと思った。けれど杉浦おばあさんの表情からは、どちらとも読み取れなかった。

 

 その後も、杉浦おばあさんは次々色々な事を思い出しては語ってくれた。

 まるで、この家で起こった事を全て伝えようとしているかのように……


 時間は瞬く間に過ぎて、とうとう帰り時間となった。

「色々思い出してくれて……ありがとう」

 滝川は心の底から、お礼を言った。

「あなた、連れて来て下さってありがとう」

「もう少しで完成するから、そうしたら、また来よう」

 滝川がそう言うのを、杉浦おばあさんはニコリとして頷いた。

「でも慌てなくても大丈夫ですわ。今日、いっぱい目に焼き付けておきますから……」

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