二羽のカラス
微かに、人の気配がする。隼士はデザートイーグル〈燕〉を無音で構えた。薄暗い道の先に銃口が向く。
「……」
大葉の遺体がある場所、あの少女がいるはずの場所。そこに、隼士の知らない誰かがいる。
「銃を下ろしなさい。こちらに戦意はありません」
その声質に、隼士は上手く言い表せない違和感を覚えた。警戒を緩めぬまま、引き金に指をかけたまま、ゆっくり近づく。すると、
「私の名は首刈り。この子を守るために生まれた、この子の別人格です。もう一度言います。こちらに戦意はありません。銃を下ろしなさい」
そこに膝立ちになっていたのは、血の染み込んだ検査服を着た、白髪の少女だった。痩せ細った身体と、生っ白い色合いに似合わぬ不気味なまでの濃い翡翠色の瞳。胸元に手を当てて隼士を見上げるその少女は、正しく「佑月」だ。だが、
ーー戯言を。
隼士は心中で吐き捨てる。目前にいるこの少女は、佑月とはまるで正反対な雰囲気を纏っている。佑月が持っていた危うさが、いつ手折られてもおかしくないような独特な脆さが、この少女にはない。別人格などと言う意味不明な言葉を信用するはずもない。
隼士は細心の注意と圧力を少女に放ったまま、周囲の気配を探った。真人、地人、新生種、どんな命の気配も、またそれによる危険も無いことを把握する。ここにいるのは、隼士とこの謎の少女。そして、もう動かなくなった大葉のみ。
「信じられない気持ちもわかります。ですが、これは歴とした事実です。私を殺せばこの子も死ぬ。それは貴方の本意では……いいえ、このお婆さんの望むところではないでしょう?」
隼士が眉根を寄せる。人差し指にかかる力が若干強まった。
「一つ訊く」
「……なんですか」
「お前がそいつを守るための別人格だと言うのなら、何故、今この時になって現れた。そのガキが危機的状況に陥った場面は他に何度もあったはずだ」
佑月は隼士が知っているだけでも複数回、命の危険に晒されている。隼人自身がその原因になったことも少なくない。だが、この別人格とやらはその全てで出てこなかった。発言は辻褄が合っていない。いよいよ持って怪しい。
「……」
少女某が隼士の目を一心に見返してくる。翡翠の瞳には、まるで心ごと吸い込まれてしまいそうな不思議な力がある。
その瞳が、静かに伏せられた。
「……その通りです。私がこうして表に出てきたのは、これがまだ二度目」
それは、寂しがっている声だった。
「私は、この子が心の底から助けを求めてくれた時にしか、出てこれません」
「……」
「あの悍しい実験の最中、私たちの誰かが身代わりになったことはたったの一度もありません。お笑い草でしょう。この子を守るために生まれた私たちが、ただこの子に守られていただけだったのですから」
この少女が語る「実験」がどう言うものだったかは、隼士も少しはわかっている。
「なら、今は何の理由で出てきている」
「このお婆さんを守ってと言われました。私は……多少は戦えますから」
瞳の色からして、佑月は三級真民だ。戦闘に適した
すぐ戻ってくると言って、戻ってこなかったのは隼士の方だ。己の実力不足で大葉の遺体を放置していた事実は、消えない。
「わかった」
銃を下ろす。
「お前が誰だろうが、何だろうが、そもそも俺にはどうでも良いことだった。とりあえずその身体が呼吸していればそれで良い」
真人の研究対象だとしても、命を狙われていたとしても、すでに何者かに乗っ取られていたとしても、構わない。それは隼士が頓着するような話ではない。隼士がすべきことは、大葉の最後の頼みを聞くこと。色々なことがありすぎて、その辺のスタンスが少しぶれていたらしい。グリップの尻でこめかみを軽く叩いた。
「多少は戦えると言ったな。なら、ずっとお前でいろ。生存率が上がる」
「いえ、それは不可能です。私は別人格に過ぎません。表に出てこれるのは、長くて一日。それ以上は、この子が消耗して死んでしまいます」
「消耗?」
「私が出ている時間も、この子の脳は起きていると言うことです。不眠不休に加えて、もし戦闘などを行った場合、どれだけ体力が削られるか。わからないわけではないでしょう」
「チッ」
要は大して役に立たないと言うことだ。まぁ、それをわかっただけで良しとするしかない。
一級や《黒鉄の英》は壊滅している。だが、それはここに長く留まっていられると言う理由にはならない。今の隼士の状態で敵の第二波、第三波に襲われたら流石に厳しい。やるべきことはまだいくつか残っている。迅速に行動しなければならない。
「けど、まだ少しくらいは出ていられるだろ。付いてこい」
「待って……。もうダメみたい。私は引っ込みます」
「はぁ……なら急げ」
「その前に……最後に、一つだけ……言わせて、貰います」
「なんだ」
少女の瞳に強さが宿る。これが本性なら多少は使えそうかなと、隼士は認識を改めた。
「はっきり言って、私はあなたが嫌いです。もし、この子を傷つけるようなことをすれば、私は躊躇なくあなたを攻げ……」
瞬きの間に、ナイフの刃が少女の首筋に触れていた。烈火を凍らせるような声で隼士は言う。
「勘違いするなよ」
ナイフの先端が、ぷちりと血の膨らみを生みだした。
「俺は、本当ならお前もそのガキもどうでも良いんだ。ババァのおかげで生かされているってことを忘れるな」
「そう言うところが嫌いなんです」
隼士の動きを目で追えていたわけではなかった。が、少女の胆力に衰えはない。超至近距離、視線だけで殺し合って、離れた。離れたのは、佑月が戻ってきたからだ。
「あ……」
「ふん」
「お婆さん……良かった……」
途端に雰囲気が切り変わった。生気がしゅるしゅると抜け、その存在が細く、薄くなる。
綺麗に横たえられた大葉の頬に、佑月の手がそっと添えられた。
「もう行くぞ」
「あ……」
隼士は佑月を押し除け、大葉を背負った。二人の体格差がありすぎて、大葉の足が地面に付いてしまいそうだった。死後硬直した身体はいやに重く、雑に止血処理をした隼士の脇腹の傷が裂けた。
後ろから心配そうに付いてくる佑月に、隼士は振り返る。
「歩く時は、俺の前か横にいろ」
「は、はい」
隣に来ても、佑月は心配そうなままだった。全身血だらけの隼士をきょろきょろしながら見つめてくる。
「……こんな傷、どうてっことない。ちゃんと前を見て歩け。転ぶぞ」
そう言っている間にも、ぺっと血を吐いた。現場に血を残すのはかなり危険な行為なのだが、大葉の遺体に群がっていた新生種が舐めとってくれることを祈る。
「新生種……」
一つ、言い忘れていたことがあった。大葉の重みで荒くなった息をそのままに、佑月に向き直る。
「お前の別人格とやら、名前は……何て言ったかな。あいつに、伝えておいてくれ。ババァを守ってくれたこと、感謝する」
佑月は少し驚いた顔をして、それから無言で頷いた。
「あと、お前も。遅くなって悪かった」
今後、決してこの少女のそばを離れることはないと、隼士は胸中で誓う。すると、
「あの……」
珍しく、佑月から口を開いた。隼士を一瞬見て、目が合うと、焦ったように下を向いた。おどおどしているのは隼士の性に合わない。少しキツい口調で問う。
「なんだ。はっきりしろ」
「あ、えっと……私の、名前……。名前は」
名前が、何だと言うのか。もしや研究所にいたより前のことを思い出したのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
「私は、名前を、何て……」
隼士は佑月から目を離して、前を向く。ぐっと大葉を揺すって背負い直した。
「……ババァに貰った名前があるだろ。佑月」
「……っ!」
「俺はそう呼ぶ。むしろ、そうとしか呼ばん」
隼士は大葉の子だ。この少女も、佑月も、大葉の子だ。
兄妹ではない。血は繋がっていない。そんな煩わしい話があってたまるか。
だが、大葉が与えた名前なら、隼士はそれを尊ぶ。この少女を、佑月と呼ぶ。
「一つ用事を済ませてから、本格的にここを離れる。かなり歩くことになるから、そのつもりでいろ」
佑月の身体は弱り切っている。あの細い脚では、歩けて一、二キロだろう。足場の悪い地下では、その半分も進めないかもしれない。
もしそうなった時は、今、隼士が大葉を背負っているように、かつて、大葉が隼士を背負ってくれていたように。
隼士が佑月を、背負うのだろう。
大葉明が、簡素なベッドの上に横たえられていた。大岩の家の外、ゴミ溜めに囲まれた狭い広場の中央。服は血のついた飛行服のまま、棺も花も、思い出の品も、何一つ側に置かれていない。
「大葉さん、言ってたんだ。自分が死んだ時は、もうそのまま燃やしてくれって。何も持たせなくて良いからって」
日向彩が疲れた笑顔で言う。隼士も、大葉が言いそうなことだと思いながら、黙っていた。佑月も生気の抜けた表情で棒立ちになっている。
「でも、これくらいは良いよね」
日向彩は、大葉の胸ポケットに写真を入れた。それは、大昔のもの。大葉と日向、そして幼い頃の隼士を写したものだった。
隼士には、その写真の記憶はない。写る自分の外見からして、十歳くらいのものだと思う。
「……お葬式のやり方なんて、知らないや」
死体は資源だ。皮も骨も肉も内臓も、必ず何かしらの使い道がある。地下社会では死んだ人間は道具にされるのが当たり前になっている。土葬だと匂いを嗅ぎ付けた新生種が沸いて危険なため火葬しかないのだが、その正式な作法はすでに失われた。荼毘に伏すのなら、心で弔うしかない。
「じゃあ、送るね」
ボロボロのライターでつけられた小さな火は、死源燃料で増幅され、見る見るうちに大葉を呑み込んだ。生き物の燃える臭いが辺りに散っていく。その臭いは、これまで隼士が殺して燃やしてきた人々と同じものだった。当然と言えば当然なのだが、それは隼士にとって少し解せないことだった。
ーー何よりも大切だった人が、どうでも良い奴らと同じ臭いで消えていくのか。
境目が、わからなくなりそうだった。
「これから、どうしよっか」
大葉がほとんど形を失ったころ、彩が言った。頬に涙の跡を残しながら、それでも笑っている。声は明るかった。
「真人達のせいで、この辺りの地人はほとんどいなくなっちゃった。皆んな、逃げたか殺されたかして……逃げた人も、多分そんなに長くは生きられないんじゃないかな」
大葉に頼り切りだった者達に、地下社会を生き抜く力は備わっていない。彩の言うように、すぐ新生種の餌になるか、解放街の連中に連れていかれるだろう。
「だから、さ。私達も……」
キン、と言う金属音がして、何かがゴミ溜めの向こうに落ちた。それは、使い込まれた形跡のあるスタンガンだった。
「あーあ。やっぱりダメかぁ」
隼士は右手のナイフをくるくると回転させた。彩は、持っていた武器が意味を無くしたのを見て、空笑いする。
「私、殺されちゃうの?」
ヒントはあった。佑月が《黒鉄の英》に捕まった時、彩は自分が連れていったと言った。このアジトから奴らがいた場所までは、距離がある。いくら佑月がまともな思考力を失っていたと言え、連れていかれる際に何一つ抵抗がなかったとは考えにくい。何か、佑月が身動きを取れなくなるような、もしくは意識を失うような事態が発生したのだ。
だとするなら、それができるの彩しかいない。
「あれは、大葉さんに貰ったんだ。護身用にね」
彩がいつもダボダボの服を着ていたのは、スタンガンを隠すためだったのだろう。隼士が初めて会った時には持っていなかったから、彼女の「とっておき」だったに違いない。
「ねぇ、隼士くん」
隼士は喋らない。
「一緒に暮らそうよ。郊外の、もっと安全なところに行って、またこんな風に家を建ててさ。毎日少しずつ働いて、慎ましやかにご飯を食べて、屋根のある場所で眠るの。もし、運良く生活が安定してきたら、子供を産んで、育ててみたい、な。私と、隼士くんの……子供だよ。家族……皆んなで、仲良く、暮らすの」
初めは歌うようだった彩の声は、徐々に掠れていき、最後には鼻声になっていた。ぐすぐすと鼻をすすりながら、必死に笑顔を作ろうとする。
「ご飯も、あんな塩を振っただけのものじゃなくて、ちゃんと料理をするんだ。隼士くんに、心の底から美味しいって言ってもらえるような」
ナイフを逆手に構える隼士。その洗練された動きに、彩は見惚れた。
「私ね、私、隼士くんに助けられたこと、ずっと覚えてる。解放街の男達に捕まって、手枷をつけられて檻に入れられた。もう怖くて怖くて、死にたいくらい怖くて、ずっと泣いてた。でも、そんな私に、隼士くんは手を差し伸べてくれた。檻から出してくれて、男達を倒して、この手を引いて走ってくれた」
知らない。知らない。隼士はそんなこと、何も覚えていない。なら、それは無かったことなのだ。隼士には関係の無いことなのだ。
「あんなに嬉しかったの、生まれて初めてだった。多分、あの瞬間から、私は君に恋をしてた。ずっと、好きだった」
その気持ちも、ここで終わり。
「いつか、隼士くんに、美味しい料理を作ってあげたかったな……」
反射光すら追いつかない二振り。彩の左右の頸動脈が斬り裂かれた。だが、彩が痛みを感じることはなかった。それは、何百を越える殺人で磨き上げられた、隼士の絶技。彩は酩酊感に似た心地良さを感じ、まろやかに眠くなる。その時。
「今度は、覚えておく」
隼士が黒いメモ帳を取り出した。
「地獄に堕ちたら、最初に会いにいくから」
あの世とやらがあるのなら、大葉は絶対に天国にいるだろう。ならば、隼士が優先すべきことは地獄にない。この約束をいつか忘れてしまった時のために、隼士は文字として残した。
そして、その瞬間を、その声を、彩は確かに目で見て、耳で聞いていた。
ーーあぁ。
彩は、困った顔で笑った。何のために生きているのかわからないほど辛く苦しいことばかりの人生だったけれど、最後にほんの少しだけ、良いことがあった。
ーーズルいなぁ。
ぺたりと膝から落ちた。この時すでに、日向彩の意識は途切れている。同時に、隼士との関連性は消えた。ゆえに、彼女についてはこれ以上描写しない。
「お前……俺に、何かしたか?」
血の付いたナイフをピッと払い、こめかみの辺りに手を当てる隼士。蜘蛛の巣がかかったような不快感を持って、そばの佑月に目をやった。
メモ帳も、ペンも、隼士は持っていない。
「……?」
よくわかっていない顔で隼士を見上げてくる佑月。出逢って日が浅いとは言え、既知の人間が目の前で殺されたと言うのに、この少女はえらく落ち着いていた。死体にも殺人にも、おそらく何も感じていない。隼士は溜め息をついて目を逸らした。
ーー気色悪い。吐き気がする。
他者の記憶や思考、未来が同調する。自分の脳内に勝手に意識を流入させられる感覚は、まさに気色悪いとしか言いようがない。しかも、それが行われるのは常に無自覚無意識だ。何がトリガーで、どんな技術、技能なのかもわからない。
隼士はべぇっと舌を出し、露骨に不快感を露にしながら、メモ帳を取り出した。そして、
ーー日向彩。死んだら最初に会いに行く。
そんな文章を記した。内ポケットに戻し、ゴミ溜めから抜けるべく歩き出す。少し遅れて、佑月が付いてきた。少女は小走りで隼士に追いつき、言われた通りに横に並ぶ。月を削り取ったような白髪が、隼士の視界の右下で揺れた。
大切なこの場所も、近いうちに新生種に呑み込まれるだろう。隼士と佑月に関わった者達は全て死に、その存在を知る者はいなくなった。
ーー守ってやっておくれよ。
大葉の声が聞こえた気がして、隼士は立ち止まった。佑月がつと顔を上げる。
「……俺は殺すだけだ」
そうやって生きてきた。今更変えることなどできはしない。フードを被り、再び歩き出し、そして、抜け殻のような少女が隣にいられるように少しだけ歩幅を狭くした。
「これから下層に潜る」
新生種が跋扈する第八、九層よりさらに下の世界。東京地下第十二層から十七層。そこには新生種など比べ物にならない連中が棲んでいる。
人権、倫理、常識、助け合い。人が共生を営む上で必ず必要なものの一切が通用しない、穢れ爛れた腐肉の街。
「【
その街の名は、解放街。社会に居られない、居てはいけない異常性癖者達の流刑地。健常な精神を持つ者ならば、一秒だって耐えられない吐瀉物を混ぜ合わせたような世界。
「すぐに思うことになるさ。死んだ方が良かったってな」
隼士が佑月を見ることもせず笑う。佑月も隼士の足に付いていくのに必死で、話をよく聞いていない。二人の次元軸は、まだ噛み合っていない。
「……」
佑月が振り返った。隼士と佑月が進んだ道に寝そべっているのは、死体だけだった。
今はもう殆どの公園から姿を消した遊具、ジャングルジム。その一番上、最も空に近い場所に、一人の少年と少女が並んで腰掛けていた。仲睦まじく身を寄せ合う二人は、触れるだけで剥がれていく塗装にくすくす笑いながら、他愛のない話に花を咲かせていた。寂れた公園に他の人影はなく、二人だけの世界がポツンと設置されている。
「ねぇ、知ってる?」
少女がふと、栗色の丸い瞳で問い掛けた。
「この世界ではね、一分間に十人以上の子供が、食べ物を食べられなくて死んでるんだよ」
少年が真面目な顔で頷きを返す。授業で習ったんだよ、そう言って少女は話を続ける。
「でも、それっておかしいよね。だって、コンビニには沢山のお弁当やパンやお菓子が並んでいるのに。私達のクラスじゃ、いつも給食が食べ残されているのに」
先進国日本には、食べ切れないほどの食べ物がある。そして、食べ切れなかった食べ物は、全てゴミ箱に放り込まれている。
「お医者さんにかかれなくて死ぬ子供もいるんだって。でも、不思議だよね。この辺の病院はどこもそんなに混んでないよ」
家を持てない人達がいる。お金が無くて食べ物が買えない人達がいる。働いてもお金を貰えない人達がいる。学校に行けない人達がいる。銃を持って戦っている子供達がいる。
でも、そんなのおかしいよね。少女はもう一度言った。
「みーんな、そのことを知ってるんだよ。テレビの中のえらーい大人は全員。でも、誰もそんな人達を助けようとはしないんだ」
スポーツ選手は何百億のお金を稼いでいるのに、それを寄付しようとはしない。ハリウッドスターはお洒落で豪華な服をいくつも持っているのに、それを分け与えようとはしない。パーティー会場では絢爛なフルコースが出され、カジノでは多額のチップが飛び交っている。だが、それらが貧しい人達に手渡されることは決してない。
そして、こう言った話は別に、海外の裕福な人達に限ったものではない。サラリーマンも、主婦も、フリーターも、学生も、子供も大人も、日本人の誰もが生活に必要なものを全て持っているのに。
彼らは、星の向こう側で人が死んでいるのを知っている。知っているのに、助けようとはしないのだ。
「それって、僕らと一緒だね」
少年が言う。
「先生も、学校も、近所の人も、警察も。誰も僕らを助けてはくれないんだ」
少年がどんなに青痣を作っていても。少女がどんなにきつく包帯を巻いていても。みんな知っているのに、わかっているのに、絶対に手を差し伸べてはくれない。
「本で読んだんだ。ね、手を貸して」
少女は少年の手の平に、指で「人」の字を書いた。
「人って、支えあっているでしょ。だから人なんだって。助け合うのが、人なんだって」
少女の右腕には、包帯が巻かれている。血を沢山取られたのだ。水色のワンピースの下には、消えない傷痕が幾つも残っている。
「この世界には、私たち以外に人なんていないのかもしれないね」
少年の身体には至る所に青痣がある。殴られた跡、蹴られた跡、タバコを押し付けられた跡。
父の研究の実験台にされる少女と、義父の虐待に遭う少年。二人は同じアパートに住まう隣人で、同じ学校のクラスメイトだった。
「私たち……これからどうなっちゃうのかな」
その時。少女が急に、急に、大粒の涙を流し始めた。
俯いて肩を震わせ、小さな手で何度も何度も目を擦る。
先程までの楽しそうな態度は、ただ気丈に振る舞っていただけ。その小さな胸の奥は不安と恐怖でいっぱいだった。
そんな少女を見た少年は、「緋山有」は、胸が張り裂けそうなほど、彼女を守りたいと思った。どうしても、何をしても、守りたいと思った。
「ねぇ、
「……うん?」
「一緒に逃げよう」
傷だらけの手が、傷だらけの手に重ねられた。
「遠くに。ずっとずっと遠くに。あいつらがいない場所に逃げて、僕らだけで生きよう」
十一歳の少年の手は、小さく弱い。自分が弱いことも、何の力も無いことも、少しくらいはわかっている。だが、それでも、それでも。
それでも、目の前で涙する少女を、絶対に守らないといけないと思ったのだ。
「逃げ、る?」
「そう。実はずっと前から考えてたんだ。準備も殆ど終わってる」
少しずつ少しずつ、義父の財布からお金を抜いてきた。服やタオルを集めてきた。十一歳の少年が思い付く限りのことを行なってきた。
「だから行こう。一緒に行こう」
「……うん」
少女は迷うことなく笑顔を返した。赤く腫れた目元が、とても美しかった。
「じゃあ、急がなくちゃ。真の分の用意もしないと……」
「あ……ま、待って」
ジャングルジムから飛び降りようとする少年の袖を、少女が引いた。
「少し、待って」
少女はそう言うと、肩に掛けている赤いポーチからある物を取り出した。
「これ、花火と、ケーキ。今日は有の誕生日でしょ? 頑張って用意したから、お祝いしたいな」
ぼろぼろの線香花火と、手の平サイズのミニケーキ。少女にはとってはこれが精いっぱいで、少年にとってはそれがもっとも尊い贈り物だった。
「ね、少しだけ。あの人が帰ってくるのはいつも真夜中だし、お父さんも今日はずっと研究室にいるって言ってたから……だめ?」
「……だめじゃない。だめじゃないよ」
「良かった……。ねぇ、ほら、火をつけて。有がつけて」
「うん……うん」
幼さゆえに、わからなかった。「いつも」は「必ず」ではないと言うことを。どんな物事にも例外があると言うことを。狭い世界に囚われてきた彼らには、初めから知りようがなかった。
そして、何より、二人で誕生日を祝うこの瞬間が愛おしすぎて、後回しにするなんて考えが思い浮かばなかった。
「美味しい?」
「うん。ほら見て、花火もきれいだ」
「うん。きれい。ほんとにきれい」
湿気た花火は、貧弱な光しか放たなかった。だが、その輝きはどんな炎よりも温かく思えた。
「ねぇ、真」
「うん?」
「もし、この世界に人がいないとしても、僕がきっと、君を守るよ」
十一歳の二人には、わからない。わかるはずもない。子供の無力さ。世界の近さ。生きると言うことの難しさ。
だが、だが。わからないからこそ、二人には未来が輝いて見えた。二人で幸せになる日が来ることを、疑うことなく信じていられた。
「うん。きっと、きっと守ってね」
これは、遠い遠い過去の話。風早飛鷹が、大葉隼士が、どんなことをしても思い出せない記憶の話。緋山有にとって、何よりも誰よりも大切だった
ゴリ、と言う音がして、公園の時計の針がまた一つ進んだ。
この日の日付けは、2016年6月6日。
時刻は17時58分である。
トーキョーミクロコスモ 夏目りほ @natsumeriho
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