帰る



 隼士が大葉と出逢って五年目の夏、ついにウイルスがその牙を剥いた。まだ幼い隼士の左腕を、溜まった鬱憤を晴らすかのような速度で侵食し始めたのだ。

 まず最初にウイルスが標的にしたのは指だった。左手の人差し指と薬指に黒子ができたかと思うと、それはみるみるうちに拡大し、翌日には指全体が真っ黒になった。大葉が対処する暇すら与えてもらえず、症状が発現した五日後の朝にはぼとりと音を立てて崩れ落ちた。

 それからも黒化の勢いが衰えることはなく、隼士の左腕は水が染み込むようにじわじわと侵されていった。己の身体が不気味な色に染まっていく過程を直視できる人間はいない。黒化によって発狂し、自ら命を断つ者も少なくないのはそのためだ。

 だがしかし、そんな絶望的な状況下に陥っていてなお、隼士は冷静だった。泣きも怯えもせず、ただ静かに状況を観察することに徹したのだ。この時の隼士は、いつ、どのタイミングで腕を斬り落とせば良いかを考えており、黒化を怖いとは微塵も思っていなかった。もし残念に思っていたことがあるとすれば、せっかくのギフトが無駄になるかもしれない、くらいのことだった。日常的に義父から虐待を受けていた過去と、「死んだことがある」と言う無二の経験が、隼士の胆力を人外の領域にまで高めていた。

 

















「ま、実際はこうして斬り落とさずに済んでるんだが、な!」


「うぐっ!?」


 自ら始めた会話をぶつ切りに、隼士は斬りかかっていた。有利な状況を作ることに注力すると見せかけての奇襲。本当に、人を殺すことに躊躇いがない。だが、会話そのものは続いていた。


「グリルの焦げ付きみたいになってた腕が、綺麗な治ったんだ」


「は、い!?」


「うん。それはもう、波が引くみたいだった」


 血の円が少しずつ増えていっている。地面に、壁に、空中に。それらは様々な角度、方向に向けられており、一貫性は感じられない。


「そんな、ことが……あるのですか」


 目を覆いたくなるような速さで「空間」が構築されている。今の皇にそれを止める術はない。彼女にあるとすれば、ここから逃げると言う選択肢だけ。だが、仲間の亡骸を置き去りにする未来など、皇が選ぶはずもない。仲間の命は彼女にとってそんなに薄っぺらいものではない。

 そしてもう一つ。皇がここから離れられない理由がある。それは、隼士の話の続きが気になって仕方が無いと言うこと。そのせいで集中力が一定しない。事実、先程の皇の口調はとても日常的で、殺し合いの最中に発せられたとは思えないものだった。


「実際にあった。ま、その理由は凄く単純だったから、勿体ぶらずに教えるけど」


 間合いを詰めてくる隼士に対し、皇は距離を取った。それを見た隼士が《躙龍剣アンドロメダ》を豪快に振り払う。その先には、血の門が浮かんでいた。


「っ! く、は……!」


 次の瞬間、皇は突如としてアンドロメダに襲われていた。背後にあった血の門から切っ先が飛び出してきたのだ。皇の肩と首筋を削るように突かれる。刀とも剣とも違う回転する刃は、触れただけで広範囲の皮膚を毟り取っていった。薄皮一枚しか切れていないのに、驚くほど出血する。だが、止血している暇などない。せめてもの救いは、刃に毒が塗られていないことくらいか。

 皇は数秒後の未来を想像する。どこまでも伸び続けるあの刀身は、この空間にある全ての門から現れるのだろう。次の攻撃をいかに対処するかの思考はしかし、隼士の言葉でぶち壊された。


「俺が五年の地下生活で得たカルマは、ウイルスによる侵食を止めると言うものだったんだ」


「……は?」


「おかげで遺伝に頼らないギフトも獲得した。ま、それがカルマ由来だったせいか、ギフトのくせに負荷があるんだけどさ」


 それこそが、隼士の負荷が常人より重い最大の理由だった。隼士のカルマはただ生きていると言うだけで無意識的に、自動的に発動されている。加えて、本来ならノーリスクのはずのギフトにも負荷がかかっている。二重の負荷が脳に及ぼす悪影響は大きく、隼士の記憶の殆どがすでに虫喰い状態だ。

 だが、それでも、隼士は一切の躊躇なく能力を発動する。腰を落とし、最初に皇に斬りかかった姿勢を取った。口元を隠した状態で言う。


「俺は、世界で唯一、正しく進化できた人間なんだろう」


 この星のありとあらゆる生物がウイルスに対抗すべく闘い、そして尽く敗れ去ってきた。この七十余年で死亡した生命の総数は、那由多に那由多を二乗しても届かないだろう。

 全ての地人が追い求め、諦め、それでも縋っている希望が、隼士という少年だった。


「あなたは、それを! ……いえ」


 皇は、形にしようとした言葉を途中で打ち消した。何故、その成果を還元しないのですか、などと、正論を片手に糾弾できるはずもない。もし隼士が自らの状態を名乗り出れば、その瞬間、彼は全ての人権を失うからだ。

 それは、知られてはいけない情報だった。それを語ったと言うことは、つまり。


「これで、説明は全部、終了だ」


 皇はそっと目を伏せ、


「……」


 そして、再び前を向いた。皇の第四の能力、【穿樹月天郭于】の展開まで、あと、八秒。これさえ発動できれば、まだ勝機はある。最早この空間に逃げ場はない。だからこそ、腹を括った。道が前にしかないのなら、荊棘を斬り払って進むまで。

 隼士が構え、皇が駆けた。桜の花弁が舞い、血の門が回転する。血と硝煙、腐肉とゴミが溢れ満ちた世界で、幼さの抜けきらない二人がぶつかり合う。


「はぁ!!」


 皇の決死の猛攻を、隼士は足場を動かすことなく受けた。余裕をかましているのではない。実際、サーベルは隼士の肉を斬り裂いている。《躙龍剣アンドロメダ》がいかに強力と言えども、皇と分身による多重攻撃を完全に捌ききるのは不可能だった。だが、それでも隼士は動かない。ひたすら計算に徹する。


「せぃっ!」


 超硬度のサーベルが鞭のようにしなり、変則的な角度で隼士を襲う。強烈な袈裟懸け。と見せかけて手首が反転。喉笛一点を狙った突き。隼士は腕を畳み、アンドロメダの柄で弾いた。皇の上体が反り上がったタイミングで剣を薙ぎ払う。並の戦士ならば即死は免り得ない剣速だったが、皇は身を低くすることで躱した。そのまま一歩強く踏み、懐に潜り込む。


「っ!?」


 が、隼士は落ち着いていた。グリップを手の中で回転。切っ先を地面に突き立てることで盾とした。破壊の化身であるアンドロメダを前に、皇は一歩後退せざるを得なかった。

 二人の攻防は、ほぼ互角。一秒に数合を打ち合う激戦は、周囲の風を熱っした。隼士は計算を続ける。


「……」


 二対の銀の刃が薄い光を反射し、暗い空間に瞬く。皇の技は達人の冴えを飛び越え、隼士の防御を突き抜けんと唸りを上げる。

 両者の鮮血が弾け飛ぶ。汗が滴る。筋肉が、骨が、細胞が軋む。皇が押し、隼士が受ける時間があと二秒続いた。そして、隼士が全ての計算を完璧に終える。その一瞬手前。

 片手の守りが、ここで崩れた。隼士の左膝ががくんと落ちる。


「っ!」


 死闘の果て、その最期の一手を先に放ったのは、皇だった。


「出でよ!」


 たった一人を除いて、この世の誰も見たことがない四景が、ついに発動した。


「【四景・穿樹月天郭于】!!」


 咆哮が天を裂く。その瞬間、皇の背後に聳えていた桜の大樹が爆ぜた。花、葉、枝、幹。大樹を構成する全ては無数の種となって周囲に撒き散らされ、その先々で芽吹き、成長し、再び見上げるような大木となって爛漫の花を咲かせた。

 壮大な大樹達が織りなす薄桃色の絶景は、隼士の視力を溶かし尽くしてしまいそうなほど美しかった。

 【穿樹月天郭于】。自然界ではあり得ないほどの巨木で構成された桜並木は、皇のあらゆる能力を跳ね上げる。身体能力、腕力、五感、思考速度。そして、これまで展開されてきた三つの能力の質。


「はぁあぁぁ!!」


 十二人の皇が空中に躍り出た。瞬間移動能力をフルに活用し、それぞれの配置を常に変更しながら隼士に襲いかかる。ここに存在する十二人は、全てが命ある本体。誰か一人でも生き残っていれば、何度でも蘇ることができる。

 これこそが、選ばれた者だけに許された、鬼神の力。


「これで終わりです!」


 乾坤一擲。研ぎ澄まされた刃が隼士の頸動脈に届く。その時。


「あ……」


 皇さくらの動きが止まった。


「あ……」


 突如として彼女の視界を染めたのは、目も眩むような毒々しい紅色。

 《躙龍剣アンドロメダ》の凶刃が、この空間にある全ての血の門から現れ、十二人の皇を全員同時に刺し貫いていた。

 これまでの隼士の行動は、全てこの一撃のため。危険に身を晒してなお行ってきた計算の「解」が、遂にその実を結んだ。あらゆる位置、角度、方向の血の門を、たった一条の剣線で繋ぐ。血の門から血の門へゲート・トゥー・ゲート。一撃必殺の剣撃が、千を越える鋼糸となって地下世界を埋め尽くす。


「《龍よクロス星を喰らい尽くせエンド・ブラッドオーダー》」


 その一振りを持って発動された隼士の奥の手は、桜並木を絶望的な殺戮で塗り潰した。無尽蔵に伸び続ける龍の牙が、呼吸を抉り取るように皇を蹂躙していく。十一人の皇は次々と腕を落とされ、脚を削られ、内臓を貫かれ、そして、首を断ち切られていった。

 美しい少女達が声も無く細切れにされていく光景は、この世の地獄としか思えないものだった。少女の血肉が滝のように降り落ちる。桜並木の冷えるような美しさがさっと消え去り、肉が放つ凄絶な湯気が辺りに立ち込め始める。それは、残酷の一言では到底言い表せない熟れ腐った世界だった。


「ぶっ」


 隼士の鼻腔から大量の血が噴き出す。能力の超過発動により、一部の脳神経のほとんどが焼き切れた。強烈な頭痛と目眩、そして全身の激痛に襲われる。朦朧とする意識の中、心臓の手前に作った血の門から《躙龍剣アンドロメダ》を引き抜き、能力を解除した。

 そのまま前向きに倒れそうになって、


「は、はは。私が……達磨になりましたか」


 この呟きで踏み止まった。声の先には、四肢を絶たれた皇が端の足りない大の字で天を仰いでいた。手で掬えそうなほどの血溜まりに横たわり、身を沈めている。


「それ、で。何故、即殺しなかったの……ですか?」


 血を吐きながらの問いに、何故か恨みは含まれていなかった。


「言い忘れていたことが、あったから」


 隼士の呼吸は極めて弱く、瀕死に近い状態だった。アンドロメダを杖に、皇のそばへとにじり寄る。


「ババァは、大葉明は死んだ。だから、あのガキは俺が預かる」


「……そう、ですか。あのお婆さんは、亡くなりましたか」


 皇は一呼吸ごとにぼやけていく思考の中で、自分と隼士に起こった一連の流れを理解した。思うところは色々とあったが、結局は、たくさん人が死んだという事実をそのままに受け入れるしかなかった。

 だが、やはり、


「……なんだ、その顔は」


「あなたが預かるんですか……? なんかやだなぁ」


 とにかく万事、これに尽きる。あの少女が幸せになれる未来が一ミリも思い浮かばない。どうやら、この数日間に新宿に居た全ての人々が、救いのない結末を迎えるらしい。まぁ、それも今となっては、皇にはどうしようもないことだった。

 皇は全身の感覚を探る。右腕は肩口から、左腕は二の腕から斬り落とされている。脚はどちらも腿から下がない。左脇腹を肺まで削られ、腹腔を貫かれ、右胸には大穴が開いている。その他にも大小様々な傷を負っており、血が流れていない箇所を見つける方が難しかった。

 それは、一級真民の回復力を持ってしても、死を免れ得ない重傷だった。【無幻霊蘭桜・七景】も消えた。能力の大元を保てなければ、【四景・穿樹月天郭于】の効果も意味がない。

 唯一残されたのは、あとほんの少しの時間だけ。全てを覚悟した皇は、視線だけを隼士に向けた。


「一つ、訊いて良いですか」


「……なんだ」


「私の【無幻霊蘭桜・七景】は……どうでしたか」


 天の層エリア・ヘブンにいた頃、皇に群がっていた誰もが【無幻霊蘭桜・七景】を褒め称えた。だが、皇がその評価を嬉しいと思ったことは一度もない。美しい、素晴らしい、美しい、素晴らしい。そんな薄っぺらい言葉で誰が喜ぶものか。この能力の本質を何も見ていない有象無象の評価など、ただひたすら不愉快なだけだった。

 だから、こうして最期に尋ねた。自分が本気で闘った最初で最期の男は、どんな風に褒めてくれるだろうかと、そう思って。自分を殺したこの男なら、きっと正しい意味と理由で「皇さくら」を評価してくれるのではないかと、そう期待して。

 隼士と皇の目が合う。すると、隼士はとても嫌そうに顔を歪め、仏頂面をしてこう答えた。


「そりゃ、最悪だったに決まってる。相性が悪いどころの騒ぎじゃない。あなたとは二度と殺りたくないね」


 その言葉に、皇は少し目を見開いて、


「なんだ。不満か」


「……えぇ。不満です。本当に、本当に不満ですね」


 くつくつ笑った。そんな風に笑っている自分がまた可笑しくて、もう少しだけ笑った。隼士には皇の問い掛けの意味も、笑っている理由も一切わからなかったが、笑う彼女は美しいと思えた。

 鮮血の赤と隊服の銀が、皇さくらと言う存在の尊さを、この上もなく引き立てていた。


「ふふ。はぁ。まぁ、最期に少し、笑えましたね」


 皇はふぅと一息つき、そして、ここで酷く血を吐いた。その滑っとした味と感触が、抗いようのない事実を少女に突き付ける。


「あぁ……。痛い。痛いよ……」


 とてもとても弱々しい声を含んだ涙が、静かにほろほろと流れ始める。


「群青さん、群青さん……。会いたい、会いたい……。群青さん、会いたいよ……」


 そうして何度も、何度も何度も、皇は群青の名を呼ぶ。ついに目も開けていられなくなって、かすかに動く唇だけで、群青を求め続ける。


「群青さん……痛い……痛いよ。すごく、痛いんです……。あぁ、痛い、痛い……群青さん、群青さん……。会いたい、会いたいよ……。群青さんに、会いたい……。あぁ、あぁ……! 群青さんに……会いたい。群青さん……会いたいよぉ……!」


 胸が張り裂けそうなほど彼を思うのに、どうしようもないほどそばにいて欲しいのに、それは絶対に叶わない。

 もう最期なのに。これで最期なのに。あと数秒しか生きていられないのに、この時、彼はここにいない。そのことがただただ哀しくて、辛くて、皇は泣いていた。

 自分が死ぬことよりも、群青に会えないことの方が、ずっと駄目だった。


「会いたい……あいたいよ……。ぐんじょうさん……ぐんじょうさん……」


 それから数秒間、皇は小さな声で群青を呼び続け、求め続け、探し続け、そして、やがてそれも聴こえなくなった。命の気配がふっと消えた地下は、とても暗かった。


「……ぷぅ」


 ずっと黙っていた隼士が、息を吐いた。皇さくらだった物体に背を向ける。血が溜まっていない場所を探し、ゆっくりと座りこむ。両膝にそれぞれ肘をのっけて、頭を下に向けた。


『過去になく疲弊しているな、暗殺者』


 声の主は、隼士が召喚した狼だった。隼士は頭を下げたまま、狼の爪を視界に入れる。


「あぁ。早く戻りたいんだけど、ちょっと無理そうだ。少し休む」


『なら、我が先に行っておいてやろうか』


「……どうした。えらく機嫌が良いな」


『あの花。いや、樹か。あれは良いものだったと思ってな。あそこで事切れておる娘のギフトであろう?』


「そうだ」


 この狼も桜を知らない。おそらく、実物の桜を見たことがある人間は、この星に百人も残っていない。それを思って、隼士は呟く。


「桜なんて、いつぶりに見ただろう」


 大葉は、あの花を覚えていただろうか。皇さくらも、どうせなら大葉のような正し真っ当な人間に見て欲しかったはずだ。

 だが、それもすでに過去のこと。意味のない想像だ。隼士は手早く止血の処置を終わらせ、膝を叩いて立ち上がった。狼を見下ろす。


「抜かりはないだろうな」


『母の誇りに誓って』


「なら良い。戻れ」


 右手から水の入った瓶を取り出し、円の形にばら撒いた。それが僅かに光り、狼の暮らす場所への入り口となる。


『あと二度だ』


 狼は睨むようにそう言い残して、円に飛び込んでいった。境界が波紋のように揺らめき、能力が解除された。

 周囲に赤い炎が立ち上る。隼士の撒いた死源燃料が、闘いの痕跡を全て燃やし尽くしていく。群青の死体も、皇の死体も灰となって土に還った。

 隼士は少しだけ首を振って炎から目を離した。全身の痛みを引き摺りながら、大葉の元へ帰っていった。





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