第58話 アンジローのバル修行 後編


 バルを出た安藤はひとまず隣や向かいにあるバルで聞き込みを開始することにした。

 ガイドブックに載っている地図があれば効率よく回れただろうが、初日にバッグとともにすられてしまって手元にはない。

 仕方なくスマホの地図を頼りにして探すことにする。

 地図アプリをタッチして現在地を確認。やはり激戦区だけあってバルの数は多い。

 これだけあれば誰かひとりくらいは知っているかもしれないだろう。

 その時はそう思っていた。

 だが――――



「知らないなぁ」

「悪い。力にはなれないよ」

「仕事の邪魔だ! とっとと消えろ!」


 程なくして安藤の淡い期待は打ち砕かれた。

 みな口を揃えて知らぬ存ぜぬと言うばかりでわずかな手がかりすら掴めないでいた。

 ならば、と次に向かったのは警察署だ。ここはバッグの盗難届けを出したところで、幸い受付に対応してくれた警官がいた。

 警官もこちらに気づいたらしく、挨拶を交わす。


「Kaixo! 残念ながらあんたのバッグはまだ戻ってきてないよ」

「こんにちは。今日来たのはバッグのことじゃないんです」

 

 警官が肩をすくめる。今度はどんなトラブルなんだ? と言わんばかりに。


「実は人を探してて……」


 これまでの経緯を説明し、最後にスマホの彼女の写真を見せる。


「名前はフランチェスカ・ザビエルです」

「キレイな娘だな。あいにくだが、俺も知らないんだ。言えるのはこの娘はサン・セバスチャンにはいないってことだ」

「それは知っています。ほかに誰か知っているひとはいませんか?」

「俺が知らないってことは、ここにいる全員も知らないってことだ。他を当たるんだな」


 そう言うと警官は傍らからプレートを取り出すと、目の前にどんと置いた。


 『Bazkaltzeko atsedenaldian』


 バスク語だが、下にはスペイン語の表記も。


 『Durante la pausa del almuerzo』

      (ただいま昼休み中)


「悪いな。メシの時間だ」


 †††


「はぁ……」


 警察署を出た安藤はウルメア川沿いの歩道に設置されたベンチでひとりため息をつく。

 途中売店で買ったサンドイッチを頬張り、ペットボトルのミネラルウォーターで喉を潤す。

 ふうっとひと息ついて対岸のほうを見る。新市街地なので林立するマンションやビルが見えた。

 かたや旧市街地は昔ながらの景観がそのまま残っているため、高い建物はほとんどない。

 ひゅうっと風が吹いて安藤の前髪を軽くなぶる。

 

 やっぱり無謀だったかも……。


 今さらながら自分のしていることが馬鹿らしくなってきた。

 たったひとつの手がかりだけでこの広いバスク地方をひとりで探し回るなんて、自分でも正直呆れる。

 上を見上げると、空には雲ひとつない青空がどこまでも広がっていた。


 父さんと母さん、どうしてるかな……?


 母親からラインで返信が届いたが、母は現在の状況は知らない。

 残ったサンドイッチを口に放り込み、水を飲もうとした時――


 ポケットから着信音が鳴った。

 慌ててスマホを取り出す。ラインによる通話だ。

 通話をタッチして耳に当てる。

 受話口から流れたのは兄の声だ。懐かしいその声は耳に心地よく響く。


「大丈夫か? すまん、ライン見るの遅くなって」

「大丈夫だよ兄ちゃん。それよりごめん。兄ちゃんからもらったお金盗られちゃって……帰りの航空券を買うお金はあるから心配しないで」

「気にするな。お前が無事ならそれでいいさ。で、どうなんだ? フランチェスカさんには会えそうなのか?」

「それが、彼女のことを知っているひとがなかなかいなくて……色んなひとに聞いてまわってるんだけどね」

「そうか……でもまだ帰らないんだろ?」


 そう問われて返答に詰まったが、すぐに気を取り直して答える。


「もちろん。まだフランチェスカさんに会ってないし」


 それに、と付け加える。


「タイムリミットは日曜日だから、あと7日あるし」


 タイムリミットの日曜日。それは彼女の誓願式が行われる日だ。

 誓願式が終われば、彼女は正式にシスターとなって修道女として厳格な生活を送ることになり、そうなれば――――


「もう会えなくなるかもしれないから、せめてもう一度だけ会いたいんだ」


 受話器の向こうで兄がうんと頷く。


「自分で決めたことだからな」

「うん」

「そろそろ仕事に戻らないといけないから、切るぞ」

「うんわかった。あのさ兄ちゃん」

「なんだ?」

「ありがとう……」

「おう、頑張れよ」


 じゃあなを最後に通話が切られた。

 しばしスマホをじっと見た後にポケットにしまい、サンドイッチをぱくりと口に入れて水で流し込む。


「よし!」


 腹が満たされたせいか、さっきより頭がすっきりとしたような気がした。

 ベンチから腰を上げ、ズボンに付いた埃を払ってから安藤はふたたび聞き込みを開始すべく歩き出した――――。


 †††


 聞き込みを終えてカサ・マルガに到着したのは午後5時前であった。

 厨房にはすでにぺぺとラケルが。

 マルガが「おかえり」と声をかけてくれ、安藤が成果はなかったと言おうとするとマルガがそれを止める。


「なにも言わなくていいよ。あんたの顔を見ればわかることだしね。さ、仕込みをはじめるよ」


 マルガからエプロンを受け取り、紐を後ろで結ぶとカウンター裏の厨房へと向かう。


「サマになってるね。それじゃこのセボージャを刻んで。みじん切りでね!」

「はい!」

 

 セボージャが玉ねぎだということはラケルと買い出しに行ったときに学んでいる。

 玉ねぎの皮を剝いて、中身が露わになると半分にカットしてさらに切れ目を入れていく。

 すとととんとリズミカルにみじん切りにするその手際の良さは厨房にいる三人が目を見張るほどだ。


「やるじゃないか。こりゃ掘り出し物かもね」


 女店主の隣でぺぺも頷く。ラケルのほうは親指を立ててサムズアップ。


「終わりました!」

 

 みじん切りにした玉ねぎはあっという間にボウルの中でいっぱいになった。


「それじゃ次はエビの殻剝きをやってもらおうかね」


 ボウルいっぱいの海老をどんと置く。

 すぐさま殻を剥こうとするが、なかなかうまくいかない。


「なんだい、エビの殻むいたことないのかい」


 マルガがボウルから一匹を取り出すと器用に剥いていく。


「まず頭を取って、次に脚をこうやってまとめてちぎるのさ。そうするとこんな具合に背中の殻もきれいに取れるからね」


 数秒もしないうちに海老はマルガの手の中で剥き出しの状態となった。ぷりぷりとした身が美味そうだ。

 やってみなと海老を手渡され、安藤も見よう見まねで殻を剥いていく。


「慌てなくていいからね。ビスケー湾のエビは繊細で傷つきやすいから」


 安藤が剥いた海老をボウルに入れていくなか、マルガとぺぺ、ラケルはそれぞれ分担された仕込みをこなしていき、あっという間にカウンターにはピンチョスやタパスが並べられていく。


「もう料理を並べるんですか? お客さんまだ来てないのに……」

「ピンチョスは指差して頼むもの。バルの心得その二さ」


 安藤の疑問にマルガが答える。

 次々とピンチョスやタパスが並べられ、ぺぺが黒板に当日のメニューをチョークで書き、ラケルが入口の『ITXITA(閉店)』のプレートを『IREKITZE(開店)』に変え、バルの入口が開かれた。


 夕刻のバルはいずれも書き入れ時だ。

 カサ・マルガも例に漏れず繁盛しており、厨房はまさに戦場の体を成していた。


クロケッタスコロッケ2個追加! あっちのテーブルにハモンセラーノを!」


 マルガが的確な指示を飛ばし、同時に客の注文も捌いていく。

 ぺぺとラケルがきびきびと動くなか、安藤は慣れない環境にあたふたするだけだ。


「カマレロ! セルベッサを!」


 カウンターの客が安藤に注文を。


「え、ええと……」

「カマレロはウェイターであんたのこと! ビールの注文だから、そこのサーバーで注いで!」

 

 マルガの通訳でなんとかこなしていき、飲み物や出来上がった料理を運んでいく。

 時計の針が10時を指したときはやっと落ち着けるようになった。

 長時間立ったままの労働の経験がない安藤は強ばった腰をとんとんと叩く。

 そこをぺぺが言葉をかける。


「お疲れさんと言ってるよ。今日はあんたがいてくれて助かったよ」

「いえ、お役に立てたのなら幸いです」


 頭を掻くと、ズボンが引っ張られる感覚。案の定、ラケルだ。

 くいくいっと手を振る。かがめというのだろう。

 しゃがんで彼女の顔と同じ高さにすると、彼女が手をパーの形にする。

 とりあえず安藤も同じようにするとぺちっと手を叩かれた。

 ハイタッチだ。さらに彼女がバスク語で言い、マルガが「よくやったと言ってるよ」と通訳。


エスケリ・アスコありがとうございます! ええと……先輩マヨール!」


 覚えたてのバスク語で礼を述べ、マルガが「先輩」をバスク語で通訳すると、ラケルがぴくっと反応する。

 そしてドヤ顔でふんすっと胸を反らす。

 

「あんたはすぐ調子に乗るんだから!」 


 ぺしっと頭を叩かれた小さな先輩は「あう」と後頭部を押さえる。


 †††


 店じまいを終え、遅い夕食を摂ったのちに風呂からあがった安藤は屋根裏部屋へと。

 聞き込みであちこち歩き回り、おまけに慣れない労働でどっと疲れが押し寄せた。

 すぐにベッドで横になろうとした時、屋根の窓から月明かりが漏れていることに気づく。

 窓の下まで行ってそこから上を見上げる。

 満月だ。

 夜空に煌々と輝くそれは迷い人の道標を照らす明かりのようで不思議と安心感をもたらしてくれる。

 

 フランチェスカさん、どうしてるかな……?


 いつだったか、日本で彼女が住む教会の屋根裏部屋で一緒にこうして満月を見上げていたことを思い出す。


 彼女も見ているかな?


 しばしその場で見上げ、やがてベッドに入って目を閉じた。

 明日の朝も早い。いま出来ることは明日に備えて体を休めることだ。



 ――――同時刻。

 

 部屋の窓から同じく満月を見上げる寝間着姿の少女がひとり。

 彼女もまたこうしてふたりで満月を見上げていたことを思い出していた。


「懐かしいな……」


 そこまで昔のことではないはずなのに、まるで遠い星の思い出のように感じられるのはなぜなのか。

 一緒にその場にいた男友達の名前をぽつりと呟く。


「アンジロー……」


 偶然にもお互いに見上げている月は夜空でその輝きを煌々と放つ。

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