第58話 アンジローのバル修行 中編
――ラ・ブレチャ市場。
マルガが営むバルから歩いて10分ほどのところにその市場はあった。
それは博物館、または劇場に似た古風な建物で、市場があるようには見えない外見だが、中に入ってエスカレーターで地下まで降りるとそこにはまさしく市場の光景が広がっていた。
安藤とラケルのふたりはタイル張りの床に降り立つ。と、ラケルがズボンをくいくいっと引っ張る。
安藤より小柄で背の低いラケルは二十歳なのだが、傍から見れば、幼っぽさの残る見た目も手伝って幼女にしか見えない。
「どうしたんですか? ラケルさん」
「Oharra、Oharra!」
「ええと、どういう意味ですか?」
バスク語がわからない安藤に業を煮やしたか、人差し指を両方ぴんと立てて四角を作り、そこへ何かを書くふりをする。
それでやっとわかった。
「メモ? ああ! 買い物メモのことか!」
ポケットからマルガから受け取ったメモを取り出すのを見てラケルがこくこくと頷く。
「えーと……cebolla? berenjena?」
スペイン語はひととおり話せるが、食材の単語までは学習していない。
ラケルがすっと手を差し出す。見せろというのだろう。
メモを受け取り、さっと目を通してから安藤を見上げてこくりと頷いた。
そしてついてこいとでも言うようにふたたび安藤のズボンを引っ張る。
†††
市場は実にいろんな店が並んでおり、精肉店では牛や豚の様々な部位がカウンターの上にぶらさがっている。
かたや魚屋のほうは敷き詰められた氷の上に種々雑多な魚がそのままの姿で並べられており、値札代わりの紙が魚の腹の上に。
いずれも日本では見たことのない陳列のしかただ。
ラケルが立ち止まったので、安藤も止まる。
彼女が陳列された魚の一匹を指さす。
タラに似た魚だ。
「タラかな?」
「メルルーサ」とラケルが訂正し、店主を呼んで三尾購入する。
続いて向かったのは八百屋だ。ここは日本のスーパーにある青果コーナーと大差ないが、見たことのない野菜や果物が箱のなかにおさまっている。
鮮やかな色をした珍しい野菜に夢中になった安藤をラケルがズボンを引っ張って現実に戻す。
そして野菜のひとつを手に取って見せた。
「cebolla」
「え、これがセボージャ?」
ラケルがこくこくと頷く。彼女が手にしたのは玉ねぎだ。
次にナスを手にする。
「berenjena」
「なるほど、ベレンヘーナがナスなのか」
そう言いながら安藤は日本語の訳をメモに取っていく。
「tomate」
「トマトはトマテか。そこは英語と変わらないんすね」
野菜を買い揃えると最後に向かったのは精肉店だ。
店主とは顔なじみなのか、ラケルの姿を認めるなりぱっと顔を明るくする。
「やあラケルちゃん! 今日はなんの肉にするかい?」
店主とバスク語で二言三言交わし、店主がショーケースからブロック肉を取り出してカットした肉を計量器にどんと乗せる。
「15ユーロだけど、おまけして12ユーロにするよ!」
代金を支払い、店主が「毎度あり! また来ておくれよ」と手を振りながらふたりを見送る。
精肉店から離れたところでいきなりラケルが立ち止まった。
そして安藤を見上げながらドヤ顔でサムズアップ。ふんすっと誇らしげなのが可愛らしい。
市場から出ると、来たときと比べて通行人が増えてきていた。
人混みのなかを買い物袋を両手で抱えた安藤はなんとか避けながらラケルの後をついていく。
小柄な彼女の後ろ姿は少し目を離しただけでも見失ってしまいそうだ。
数分してからやっとバルにたどり着いた。バルはすでに常連客でいっぱいになっていた。
「ただいま戻りました」
「おかえり。あとはこっちでやるからあんたは人探しに行っといで」
「はい!」
踵を返そうとしたところでまたズボンを引っ張られる感触。
ラケルが首を傾げながら見つめる様は「どこへ行くのか?」と言っているようだ。
「あ、実は人を探してて……」
ちょうどいい機会なので、ラケルにも聞いてみることにした。それを察したマルガが伝える。
スマホのフランチェスカの画像を見せるが、彼女はぶんぶんと首を横に振るだけだ。
「やっぱり知らないか……」
礼を言い、スマホをポケットにしまってから店の外へ。
「いってきます」
「はいよ。5時までには戻ってきてね」
早足で駆ける安藤の背中はあっという間に見えなくなった。
マルガが店内に戻るが、ラケルはまだその場に立ったままだ。
両手を胸に当てながら、自らの実り乏しき胸を見下ろす。
「胸、でかかった……」とむぅっと頬を膨らませながら。
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