第59話 ドン・サンチェス登場 前編


「う……? ゥ……!」


 後頭部に走る痛みで安藤は思わず呻く。

 

「Estas bien?」


 誰かがスペイン語で大丈夫かと尋ねるのをぼんやりと聞き、目をゆっくりと開けると輪郭が朧げではあるが、長い金髪をした女性の顔がこちらを心配そうに覗き込んでいる。


「フランチェスカさん……?」


 だんだんと輪郭がはっきりしてきた。

 だが、目の前の女性はフランチェスカではない。まったくの別人だ。

 意識もはっきりと戻ると、どうやらベッドで寝かされていることがわかった。

 半身を起こそうとすると、また後頭部に激痛が。


「痛っ」

「無理はしないで。頭を殴られてるんだから」


 そう優しく声をかけるのは、おそらく二十代後半であろう美貌溢れる女性だった。

 胸元が強調された赤いドレスが淫靡いんび的だ。


「ごめんなさいね。うちの部下が手荒なことをして」


 傍らのナイトテーブルに置かれたたらいから水に浸したタオルをぎゅっと絞り、そっと安藤の後頭部に当てる。


「ありがとうございます……えっと、ここは?」


 辺りを見回す。どうやら目の前の美女の部屋らしいが、当然心当たりはない。


「私の部屋よ。と言っても、この建物自体は彼の持ち物だけどね……それより」


 美女がずいっと前に出る。ただでさえ目のやり場に困る胸元が目の前に来たので、安藤は思わず目をそらす。

 

「どうして部下のあとをけたの?」

「そ、それは……」

 

 安藤は痛む頭を押さえながら、記憶を辿る。



 三時間前――。


 朝、ベッドから起きた安藤は屋根裏部屋からダイニングへと降り立ち、朝の挨拶を交わしたのちにマルガとぺぺの三人で朝食を摂る。

 人間不思議なもので、安藤は異国の地での環境や習慣に慣れてきた。


「今日も探しに行くんだろ?」

「はい。今日は教会にも行ってみようかと」

「そうかい。サン・セバスチャンには教会があちこちあるから、誰か知っているひとがいてもおかしくはないかもね」


 もっと早くこの考えに気づくべきだったと思う。なにしろ彼女、フランチェスカはあれでも見習いシスターなのだ。

 教会に務めている神父や牧師、シスターならその名前くらいは聞いたことがあるだろうと思ってのことだ。


「とにかく今日も手伝い頼むよ。あと今日はラケルが休みだから代わりに買い出しを頼むよ。市場の場所はもう覚えただろ?」

「はい。ここからそんなに離れてないですから」

 

 朝食を終えた三人は一階のバルに降り、いつものように掃除から始め、次に仕込みを。

 

「さてと、こんなもんかね。アンジロー、買い出し行っといで!」

 

 マルガからメモを受け取ると「行ってきます」と外に出る。

 

 †††


 三十分後。

 買い出しを終えた安藤は食材の入った紙袋を抱えながら、ラ・ブレチャ市場を出た。

 

「っとと」


 紙袋からオレンジがこぼれそうになるのを押さえ、ふうっとひと息。

 オレンジを奥に押し込んでバルへ戻ろうとした時――――


 視界の片隅で見覚えのある男の顔が目に入った。反射的に建物の角に隠れる。

 そっと角から顔を少しだけ出して覗き込む。

 間違いない。サン・セバスチャンに着いた直後にバッグを盗った男だ。小柄な男なので印象に残っている。

 バスク語でまくし立てているが、どうやら屋台で売られている果物に文句をつけているようだ。

 やがて気が晴れたか、くるりと向きを変えたので慌てて顔を引っ込める。

 買い物袋で顔を隠すようにしてやり過ごし、ふたたび角から顔を出すと小男は肩で風を切るようにして歩いていた。


 どうする……? あとをけてみるか?


 盗られた金をすんなり返してくれるとは思えないが、小男の所在だけでも突き止めようと決心し、そろりとあとをつけることにする。


 †††


 盗人である小男の挙動に注意を傾け、少しでも後ろを気にする素振りを見せたらすばやく隠れ、少ししてから追跡を再開を幾度か繰り返す。

 

 ずいぶん歩くな……。


 追跡を諦めてバルに戻るかどうしようかと迷っていると小男が角を曲がったので、慌てて安藤も角を曲がり――――


 小男が目の前にいた。

 じろりとこちらを睨み、何かを呟くが、恐らくは「なんで俺のあとをつけるんだ?」と言っているのだろう。


「い、いや、これはその」


 なんとか言い訳を取り繕うとする安藤の頭にいきなり脳天をかち割られるような衝撃が走った。

 後ろにいる誰かに殴られたのだ。

 その場に倒れ、落とした買い物袋からオレンジと食材がばらばらと地面に転がり落ちるのを安藤は遠のく意識の中で見つめ、そのまま意識を失った。


 †††


「そう……そんなことが」


 記憶が戻った安藤の話を聞いた美女は申し訳なさそうにする。


「ごめんなさいね。そういえばまだ名乗ってなかったわね。エステルよ」


 エステルと名乗る美女はよろしくねと少しはにかんだ表情を浮かべながら。


「あなた、名前は?」

「アンジローです。日本から来ました」

「日本人なのね。あなた観光に来たようには見えないけど、なぜサン・セバスチャンに?」


 安藤はこれまでの経緯を話し、サン・セバスチャンで彼女の手がかりを探していることを告げる。


「そうなの……」


 エステルは目を丸くするが、すぐに優しい笑みを浮かべる。

 

「いいなぁ……そのフランチェスカって娘、こんなに想ってくれているなんて。私も、そんなふうに思われたいな」


 次第に優しい笑みは淋しげを帯びるようになってきた。


「でも無理。私はドン・サンチェスの所有物だから……」

「ドン・サンチェス?」


 聞き慣れない名前に首を傾げる。

 その時、ドアからノックの音がしたかと思うと、いきなりドアが開けられた。

 入ってきたのはバッグを盗った小男だった。


あねさん、ドンがお呼びですぜ。それからそこのガキも連れてこいと」

「わかったわ。すぐに行くと伝えてちょうだい」


 へいと頷くとドアをぱたりと閉める。

 エステルは溜息をつき、くるりと安藤に向きなおった。そして申し訳なさそうな表情を。


「ボスがあなたを呼んでるわ。私は彼の愛人なの」

「あの……ドン・サンチェスってどんな人なんですか?」

 

 するとエステルは表情を固くする。

 言いにくそうにするが、やがて意を決したかのように口を開く。


「彼は……ドン・サンチェスはここサン・セバスチャンを牛耳るマフィアのボスなの」

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