第58話 アンジローのバル修行 前編


「――! ――――――!」

「う……?」


 遠くから微かに聞こえるその声は不明瞭だが、確かにそれは自分を呼んでいた。


「――、――さい」

「フランチェスカさん……?」


 閉じた目をゆっくりと開く。するとおぼろげで輪郭がはっきりしない顔が目の前に現れ――。


「起きな!」


 耳元で響く怒声で安藤の眠気はすっかり冷め、ベッドの上で「ふぁいっ!」と頓狂な声を上げながら。


「いつまで寝てんだい!? うちは宿屋じゃないんだよ!」

「あ、おはようございます……アマ・マルガ」

「目が覚めたんならさっさと顔を洗ってきなさい」


 マルガが店主を務めるバル――カサ・マルガの最上階であり、安藤が寝泊まりしている屋根裏部屋から二階へ下りて、洗面所で顔を洗う。

 身支度を整え、リビング兼ダイニングへ向かうとすでにテーブルには朝餉あさげが並んでいた。

 食卓にはマルガとその亭主であるぺぺが席についている。


「さ、そこに座って」


 安藤はマルガが指さした席へ。


「おはようございます」

「はい、おはようさん」

「Egun on」


 マルガはスペイン語で話すが、ぺぺはバスク語しか話さないので、その意味はなかなかつかめないことがあるが、今のはおはようと言ったのだろう。

 安藤がフォークを手に取ろうとした時、目の前のふたりが手を組みながら祈りを唱えたので、慌てて安藤もそれに倣う。

 食前の祈りは十秒ほどで終わり、「アーメン」と締めくくると食事の開始だ。

 朝食は目玉焼きにトースト、コーヒーといった簡単なもので、安藤はかりかりに焼けたトーストをぱくりと齧る。


「アンジロー」

「あ、はい」

「昨日も言ったけど、あんたは今日から仕込みを手伝ってもらうからね」

「はい!」


 よろしいとマルガが頷く。


「さ、まずは腹ごしらえだよ。あんたにはたっぷりと働いてもらうんだからね。しっかり食べな」


 †††


 朝食を終えた三人が階下を降りると、そこはバルだ。もっとも開店前なのでいまはがらんとして誰もいないが。

 

「まずは掃除だよ。さ、あんたはモップがけね」

 

 マルガからモップを受け取り、床の掃き掃除をするなか、女店主と亭主のふたりはカウンターの拭き掃除だ。

 分担が決まっているのか、その動きは無駄がなく、長くふたりでやってきたことをうかがわせる。

 三十分後に安藤が「終わりました」とモップを返すと、「ありがとね。そろそろ店を開けるよ」と開店の札を出すよう指示を受けたぺぺが入口へと向かう。


「あ、あの。俺はなにをすれば……?」

「そうだねぇ。じゃ、こっちにまわって」


 安藤はカウンターの裏側へと回る。そこでマルガからエプロンを受け取った。

 

「あたしがお客さんの注文を受けて、それをスペイン語に翻訳するから飲み物を作って」

「は、はい」


 そう言う安藤はがちがちに緊張した状態だ。無理もない。これが彼にとってはじめてのアルバイトなのだから。


「そんな緊張しなくていいよ。あと、お客さんにあんたが探している子のことを聞いとくからね」

「あ、ありがとうございます!」


 礼を言って頭を下げると、店のドアが開いた。今日最初の客である。


「おはようアマ・マルガ、ぺぺ。と、新入りかな?」


 スーツに身を包んだ常連客らしい男はカウンターへと歩く。

 

「この子、日本から来たんだけどね。訳あってウチに置いてるのさ。注文はいつもどおりで?」

「ああ頼む」

「ほいきた。ぺぺ、チュロスを! アンジロー、あんたはそこのマシーンでカフェ・コン・レチェを!」


 ぺぺがフライヤーで手際よくチュロスを揚げるのとは対照的に、安藤はもたもたとカップをマシーンにセットする。

 そしてCafé con lecheと書かれたボタンを押すとカップにコーヒーとミルクが同時に注がれていく。

 

 そっか。カフェ・コン・レチェってカプチーノのことなんだ……。


「はいどうぞ」

「Eskerrik asko!」


 カップを置くと、常連客がバスク語で礼を。次に出来立てのチュロスが皿に乗せて運ばれる。

 マルガと常連客のあいだでバスク語でやり取りが交わされるが、おそらくフランチェスカのことを聞いているのだろう。

 やがて話し終えると安藤のほうを向いてふるふると首を振り。


「すまないねぇ。このお客さんも知らないと言ってるよ」


 ああやっぱりとうなだれる安藤の肩に手が置かれる。


「あきらめるのはまだ早いよ。お客さんはこのあと何人も来るからね」

「はい!」

「それにしてもあの子、遅いねぇ……もう来てもいい頃なのに」

「あの子?」


 尋ねようとした時、もうひとり客が入ってきたので、ふたたびカップをマシーンにセットしようとカップに手を伸ばしたとき――――


 なにかが隅の方でもぞもぞと動くものがあった。

 安藤がおそるおそるそのほうに目を凝らす。

 そこには少女がうずくまりながらチュロスを頬張っていた。

 彼女の肩まで伸びた栗色の髪と小柄な体型はまるでリスを思わせる。


「…………あの」


 だが、少女は一心不乱にチュロスをむさぼるだけで、こちらには見向きもしない。

 今度は大きい声で呼びかけることにした。


「あのっ」

「…………はっ!?」


 かっかっかとむさぼる手を止め、驚いて今頃気づいたかのようにこちらを見る動作もリスにそっくりだ。

 

「誰……ですか?」


 少女はそれに答えず、じっと安藤を見つめるだけだ。

 さらに問おうとすると、背後からマルガの怒声が響く。


「ラケル! なにやってんだい!」

「ひっ!」


 ラケルと呼ばれた女性は両手で耳を塞ぐ。それでもチュロスはくわえたままで完食は諦めていないようだ。


ほへんははいごめんなさいはははふかアマ・マルガ

「しゃべるのか、食べるのかどっちかにおし! 売り物のチュロス食べるんじゃないよ! 給料からさっぴくからね!」


 そんなぁ〜と情けない声を上げながら立ち上がり、安藤を恨めしそうに見る。

 安藤よりも背が低いので、見上げるかたちとなる。


「あの、この子は?」

「うちのアルバイトだよ。料理学校に通ってるんだけどね……ちなみにあんたより年上だよ」

「え?」


 いったいいくつなのだろうと自分より小柄なラケルを見下ろす。

 すると意図を察したのか、ラケルが左手の人差し指と中指を立てた。さらに片手で丸を作る。


「えっと……二十歳!?」


 安藤のリアクションを見てこくこくと頷く。そして両手を腰に当てながら、ふんすっと薄い胸をそらす。

 次の瞬間、ドヤ顔で決めるラケルの頭にマルガの手刀が叩き込まれる。

 

「あう」

「遊んでないで買い出し行っといで!」

「ふぁい」とラケルが頭を押さえながら間延びした声で返す。

「あ、そうだ。アンジロー、せっかくだからあんたも一緒に行ってあげて。はいこれ食材のメモ」

「はぁ」

 

 マルガからメモを受け取ると、くいくいっと誰かがズボンを引っ張るので見下ろすとやはりそこにはラケルが。

 入口のほうをぴっと人差し指でさす。

 

「Jarrai nazazu!」


 バスク語のわからない安藤だが、その言葉ははっきりと「ついてこい」と言っているのがわかった。

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