第57話 はじめてのバル
マルガに背中を押され、入った店内はカウンターが奥まで続き、その上には串が刺さった
常連客たちはピンチョスをつまみ、ビールやワインなどの酒を傾けながら、談笑していた。
「あんた、もしかしてバルははじめてかい?」
「え? あ、はい!」
マルガに声をかけられ、思わず声が
「そうかい。じゃここで待ってな」
案内されたのはカウンターの端だ。椅子がないので安藤は立ったまま待つ。
辺りを見回すと、地元民らしい常連客のあちこちからバスク語で話し声が飛び交う。
「お待たせ。まずはこれだよ」
マルガがそう言って安藤の目の前に差し出されたのはオリーブやアンチョビ、唐辛子が一本の串に刺さっている。
ヒルダというピンチョスさと彼女が言い、「そのまま食べてみて」と指でつまんで食べるジェスチャーとともに。
「いただきます」
言われたとおり串をつまんで口に運ぶ。オリーブの酸味と唐辛子の辛味、そしてアンチョビの塩気がじゅわりと舌の上に広がる。
「美味しい……!」
安藤の反応にマルガが満足げにあははと笑う。
「ヒルダはバルで最初に味わうピンチョなのさ。悪いけどいま書き入れ時だからね。お客が少なくなったら、あらためて話を聞くからさ」
†††
「またな! アマ・マルガ」
「また来るよ!
酔客が手を振りながらバルを出、店内にいる客がまばらになってきた頃にマルガがふたたびやってきて、カウンターに太い腕を乗せながら身を乗り出す。
「お待たせ。遅くなって悪いね。あんた、夕飯あんまり食べてないだろ? これはうちの名物だよ」
マルガがカウンターにカスエラと呼ばれる耐熱性の容器皿を差し出す。
容器には濃い茶色のソースに、中心には三角形の鮮やかな赤いピーマン――ピキージョピーマンが浮かんでいる。
「Pimientos Rellenos de bacalao(赤ピーマンの塩ダラ詰め)さ」
「あ、ありがとうございます……ええとお代は」
「余りものだからお代はいらないよ。さ、冷めないうちに食べな」
マルガがカトラリーケースを差し出し、安藤が「いただきます」と礼を言って受け取る。
ナイフとフォークでピーマンを半分にカットすると、中からクリーム色の
「ッ!? 美味しい! こんなの食べたことない!」
料理が趣味の安藤でもそれは未知の体験であった。それを見てマルガが破顔する。
「気に入ったみたいだね。あんたの国の料理……ワショクだっけ? 世界でも美味い料理に入るけど、バスク料理も負けてないからね」とウインク。
安藤がははと笑い、またひとくちを口に運ぶ。
「このソース、野菜の旨みが詰まってますね」
「わかるかい? これはサルサビスカイナソースといって、ビスカヤ県特有のソースなんだよ」
「料理が趣味なんです」と言うとマルガは目を輝かせる。
「そうかい。ならあんたは良いところにきたよ。“食はバスクにあり”と言われているくらいだからね。バルの心得その
「それはそうと、あんた、ただの旅行者ってわけじゃないようだけど、なんの目的でここに来たんだい?」
「実は……」
そこへ傍らに立つ中年の店員が声をかける。
「マルガ、そろそろ看板だぞ」
「もうそんな時間かい? じゃ、さっさと店じまいしないとね」
「あ、あの!」
マルガと中年店員のふたりが安藤を見る。
「よければ、お手伝いさせてください。その、ご馳走になったお礼です」
「ほんとかい? 助かるよ」
中年店員が抗議しようとするが、女店主には敵わない。
「あんたは黙ってな! たったひとりでこの国にきただけでも大変なのに、そのうえ手伝ってくれようとしてるんだ。その好意を無下にするんじゃないよ!」
いいからあんたは店先の掃き掃除でもしなと箒を無理やり持たせる。
†††
「おかげで楽に店じまいできたよ。ありがとね」
店じまいを終えた三人はバルの二階――住居スペースのダイニングテーブルについていた。
「いえ、これくらいは当然のことですから……」
そう言ってマルガが淹れてくれた紅茶を啜る。
「Zertara etorri zara hona?」
マルガの隣に座る中年店員が無愛想な顔で尋ねるが、バスク語なので安藤にはその意味はつかめなかった。
「ちょっと、この子はバスク語はわからないんだよ」
彼女がそう
「すまないねぇ。うちの亭主、バスク語しか話せないからさ。さっき聞きそびれたことだけど、何をしにここへ来たのかと聞いてるよ」
「あ、はい。実は」
カップを置き、フランチェスカとの出会いから彼女がスペインに帰国し、そしていま彼女を探しに来たことを話すと女店主は目を丸くした。
「するとあんた、少ない手がかりで彼女を探しにはるばるここまで来たのかい?」
「はい。これが彼女の写真です。どこにいるか知りませんか?」
スマホを取り出して彼女の写真を見せる。受け取ったマルガはしばし凝視するが、首を横に振る。
「知らないねぇ。あんた、この子知ってる?」
亭主にも見せるが、やはり知らないと首を振った。
「そうですか……」
受け取ったスマホをポケットに戻す。
「それで、これからどうするの?」
「とりあえずホテルを探して……彼女を知っていそうなひとを探してみます」
「エンリケから聞いたけど、あんたお金あんまり持ってないんだろ? 言っとくけど、ここらへんの宿屋は割高だからね」
「それは……」
安藤が何も言えずに黙っていると、マルガが深いため息をひとつ。
「しょうがないねぇ。ぺぺ、屋根裏部屋にベッドあったかい?」
ぺぺという名の亭主にバスク語で尋ね、ぺぺがそうだと頷く。
「決まり! それじゃアンジロー、あんたをここに泊めるよ」
「ホントですか!?」
少ない所持金でどうやって過ごすか不安だっただけにこの提案はまさに渡りに船だ。
「ただし!」
目の前でマルガが人差し指を立てる。
「タダでというわけにはいかないよ。朝起きたら仕込みを手伝ってもらうからね。それが終わったら昼休みだよ」
「は、はい」
「午後五時になったら店に戻ってまた手伝ってもらうよ。彼女を探すのは昼休みのあとになるけど、それでもいいかい?」
宿だけでなく食事まで提供してくれるのだ。当然、安藤は首を縦に振る。
「それで構いません。よろしくお願いします!」
「良い返事だね」とマルガが満足そうに頷き、隣の部屋を指差す。
「まずはシャワーを浴びていきな。そのあいだにベッドを用意するからね」
†††
安藤がシャワーを浴び終え、マルガに案内された屋根裏部屋では確かにベッドが用意されていた。
「今日からここがあんたの部屋だよ。ガラクタばっかで、ベッドはスプリング効いてないしで高級ホテルとまではいかないけどね」
「とんでもないです! なにからなにまで本当に良くしてくれて……」
「明日は朝早いからね。早く寝るんだよ」
おやすみと言い残してドアが閉まり、狭い屋根裏部屋では安藤ひとりだけとなった。
明かりといえば窓から差し込む月明かりのみで、ベッドに腰かけるとぎしりと軋んだ。
食事や寝る所も提供してくれたのだから贅沢は言えない。
靴を脱いでベッドの上で横になる。
眠ろうとして目を閉じた時、「あ」と思い出したように起き上がると、スマホを手に取り、傍らに置いたバックパックからルーターを取り出してオンにする。
兄から借りたルーターはここバスクでもネット環境を快適にしてくれた。
まずはラインを開いて日本にいる母に連絡を。
無事バスクに到着したことを伝え、窃盗にあって訳あってバルに寝泊まりしていることを伝えようとしたが、いらぬ心配をかけたくないのでやめた。
だが、兄の一郎には事実を伝えておくことにした。
「……よし」
既読はまだついていないが、返事は明日でもいいだろう。
なにより疲れてて眠い。
本当に今日はいろいろあった一日だった。フランスから鉄道でスペインに入国し、バスクに着いた途端にスリに遭って、その次はホームレスに案内されたこのバルで泊まりながら働くことになるとは。
とにかく明日から彼女を探そう。そのために今は眠って体を休ませるのだ。
そう決意を新たにして安藤は眠るべく目を閉じた。
日本を発ってから二日目の夜はたちまち安藤に深い眠りをもたらした。
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