第54話 Ongi etorri euskarara(ようこそ、バスクへ)


 ホームから改札口を通って駅舎を出ると、安藤は太陽の眩しさに顔をしかめ、手でひさしをつくる。

 目の前にはウルメア川の上に架けられ、見事な彫刻が施されたマリア・クリスティーナ橋が。

 そこは観光名所らしく、通行人が立ち止まってはスマホやカメラで風景を収めていく。


「ここがバスクか……いかにもヨーロッパって感じだな」


 考えてみればこれが初めてのヨーロッパ旅行で、おまけに自身初の一人旅なのだ。

 海外旅行は春休みに行ったバンコク以来だが、今回の旅の目的は物見遊山で訪れたわけではない。

 フランシスコ・ザビエルの末裔であり、友人でもある見習いシスター、フランチェスカに会うために――――。


 安藤はふたたび気を引き締めるようにリュックのバンドをぎゅっと握り、橋を渡って対岸へと渡る。


 †††


 しばらく川沿いを歩いていくと、ちらほらと店舗が見えてきた。

 ブティック、カフェテラス、そしてサン・セバスチャン名物のバルが軒を並べる。

 路面に展開されたテラス席では昼間にも関わらず、ワインを楽しむ地元民が談笑し、安藤に気づくとにっこりとワイングラスを掲げる。

 

「Kaixo!」


 こんにちは、かな……?


 とりあえず手を振りながら「オラ!」と挨拶すると破顔した。

 それにつられて安藤も笑顔になる。

 現在地を確認しようとショルダーバッグからガイドブックを取り出し、サン・セバスチャン市内の地図のページを開く。

 それによればこのまま川沿いに歩くと新市街地に、さらに奥へ進むと旧市街地だ。

 ガイドブックを閉じてバッグに戻す。

 ふたたび歩きだそうとした時、いつの間にか目の前を小柄な男が歩いていた。

 手にはソフトクリームが。

 避けようとした瞬間、男がバランスを崩したのか、ソフトクリームが手からぽろりと落ち、安藤の服にかかった。


「冷たッ!」


 小柄な男が大仰な身振りで詫びる。話されている言葉はバスク語だが、謝罪していることはわかった。


「大丈夫ですよ。ティッシュで拭けばいいんですから……」


 ショルダーバッグの口を開け、そこからティッシュを取り出そうとした途端、男がいきなりバッグを掴むとそのまま走り出した。


「え?」


 電光石火の早さで何が起きたのか分からず、バッグを盗られたのだと気づくまで数秒の時間を要した。


「まって! そのバッグには……!」


 兄からもらった旅費とガイドブックが……!


 慌てて後を追いかけようとするが、手練のスリ師はみるみるうちに遠ざかっていく。

 やがて角を曲がり、安藤も曲がると地元民や観光客で溢れかえった通りに入った。

 スリを探そうと目を凝らすが、小柄な男を探すには人が多すぎる。すでに人混みのなかに紛れて逃げ出したことだろう。

 安藤は自分の迂闊さを呪いたくなった。


 †††


「で、盗られたバッグの中身はガイドブックと現金だけか? 現金はどのくらい入ってたんだ?」

「ええと、2000(約25万円)ユーロくらいです……」


 受付にて警官が「大金だな!」と目を丸くしながら調書に記入していく。


「汚し屋ってヤツだな。わざとソフトクリームとかを付けてそのスキにかっさらうんだ」


 ここは新市街地にある警察署だ。安藤はスペイン語でなんとか質疑応答に答える。


「パスポートは盗られてないな?」

「はい。ズボンのポケットに入れてましたから」

「ホテルは取ってるのか?」

「ホテルは……」


 取っていないと言おうとしたとき、「あ」と思い出したように声を出す。


「ここにある教会で泊まるんです。日本のマザーが手配してくれました」

 

 ふーんと警官は興味なさそうにペン先でこめかみをコリコリと掻く。


「とりあえず宿はその教会なんだな。OK、盗難届を出しとくぞ。言っとくが、期待はするなよ」とペン先を安藤に向けながら。

「はい……」

「今のあんたに出来ることはただひとつ」


 そう言って太い指をぴんと立てる。


「神に祈ることだ」

「はぁ」


 よろしいと書類をトントンと揃え、安藤がまだ座っていることに気づくと、口の端をわずかに歪めながらバスク語で言う。


「Ongi etorri euskarara.(バスクへようこそ)」


 十分後。

 警察署を出た安藤はかつてないほどの深いため息をつく。


 まいったな……着いて早々に盗られるなんて。


 ふたたび深いため息。

 いや、ここでへこたれてはいけないと思い直し、ポケットから封筒を取り出す。

 日本を発つ前にマザーからもらった現地の教会への紹介状だ。住所も書かれている。

 ちょうど目の前にタクシーが停まっていたので、それに乗り込むことにした。


「らっしゃい。おや、日本人ハポネスかね?」


 ハンチング帽を被り、鼻の下にひげをたくわえた中年の運転手がにこやかに笑う。


「はい。日本から来ました。それで、この住所の教会に行きたいんです」

「そこだとサン・クリストバル教会だな。日本はいい国だ。お客さんからこのキーホルダーもくれたしな」


 そう言ってバックミラーに下がったアニメキャラらしきキーホルダーをちょんと突く。


「お若いの。ここへは観光で来たのかい?」


 アクセルを踏み、ハンドルを握りながら言う。


「友人を探しに来たんです」

「当ててやろうか? 女の子だろ」

「え!」


 バックミラーに安藤の驚く顔。


「図星だな。この仕事を長くやっていると、カンが働くのさ。おれはアントニオだ。ドライバーの聖人と同じ名前の、ね」


 よろしくなとバックミラー越しにウインク。


「あ、あのもしかしてフランチェスカ・ザビエルのことを知りませんか?」


 タクシードライバーなら知っているかもしれないと思い、ダメ元で聞いてみる。


「ザビエル? そりゃフランシスコ・ザビエルさまのことか?」

「そうです! 彼女はその末裔なんです。どこにいるか知りませんか? サン・セバスチャンの近くに住んでいるみたいなんです」


 アントニオはハンドルを握ったまま、首を傾げ、うーんと唸る。


「知らんなぁ……ザビエルの末裔がいるという話は聞いたことはあるが、場所までは知らねぇんだ」

「そうですか……」


 やはりダメだったか。


「まぁ生きてりゃそのうち会えるさ。すべては神さまの思し召しさ」


 信号が赤になったので、停車する。

 アントニオによれば目的地の教会まではもうすぐだそうな。

 安藤はポケットから財布を取り出して、中身を確認する。

 少なくとも現地で必要な分と帰りの航空券代はある。

 兄からもらった旅費の一部を財布に入れたのはまさに不幸中の幸いだった。

 それでも足りなければ教会にお願いしてみようと思った時――――

 

 いきなりけたたましいサイレンの音が。

 

「こりゃ、どっかで火事でもあったみてぇだな」


 アントニオの言うとおり、目の前を消防車と救急車がサイレンを鳴らしながら横切っていく。

 それと同時に信号が青になり、ハンドルを右に切って右折。

 目の前では二台の車がサイレンを鳴らしながら直進している。

 その先には黒煙がもくもくと立ち昇っていた。

 

「おいおい……ありゃ教会じゃねぇか?」


 安藤が身を乗り出すようにしてフロントガラスを覗くと、確かに教会らしき建物からは黒煙と火が。

 路肩に停め、車から降りると教会の周りでは野次馬が群がり、警官が下がるように指示しているが、それで群衆の好奇心が抑えられるはずもない。

 警官のひとりがアントニオに近づく。


「危険ですのですぐに移動してください」

「なにがあったんだね?」

「わかりません。ガス漏れらしいのですが……」

「すみません! あの、ここってサン・クリストバル教会ですか……?」


 会話に割って入った安藤をふたりが見つめる。


「残念だが、ここがその教会だよ……」


 アントニオが申し訳なさそうに言う。

 安藤は目の前が暗くなった感覚に襲われ、呆然とその場に立ち尽くすしかなかった。

 彼女、フランチェスカを探す手がかりは目の前で炎の中へと消えた。


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