第55話 路地裏のコック


 夕暮れのサン・セバスチャン旧市街地。

 バルが常連客で賑わうなか、路地裏では薄汚れた身なりの男が調子外れで歌いながら歩く。


「ここは美食の街サン・セバスチャン。フレンチやイタリアンなんて目じゃねぇ」


 げっぷをひとつし、上着のポケットからスキットルを取り出して酒をがぶりと呷る。


「食べかすや生ゴミさえ美味しくいただける。世界中まわってもこんなうめぇメシはねぇとくらぁ」


 そう歌う男の鼻腔に生臭い臭いとは別に、焦げたような臭いがつんととらえる。


 こりゃ火事でもあったな……そういやさっきサイレンが鳴ってたっけ。


「イヤな臭いだ」


 ずずっと鼻をすすってまたスキットルから酒を呷ると、ゴミ缶が目に入った。

 アルミのゴミ缶に近寄ると、蓋を開けて物色を開始。

 賞味期限の切れた食材や野菜の切れ端からがさごそと目ぼしいものを漁っては次々とポケットの中へと入れていく。

 「大漁大漁」とほくほく顔でいると、隣のバルの裏口から従業員が空き瓶の入った木箱を持って出てきたので、慌ててゴミ箱の後ろに隠れる。

 がちゃがちゃと瓶が音を立て、地面に荒々しく置くと、がちゃんとあたりに響く。

 従業員が荒々しく扉を閉めると、ゴミ箱からホームレスの男が出る。

 木箱のなかを見ると、ほとんど空になった酒瓶だ。

 それでも何かないかと物色していると、三分の一ほど残った酒瓶があった。

 バスクでシドラと呼ばれるリンゴ酒だ。


「こりゃ上物だ! 神よ、感謝します」


 酒瓶を手にしたまま胸の前で十字を切り、最後に「アーメン」と唱える。

 意気揚々とその場を離れ、キャップを外してボトルを傾けようとした時。

 数メートル先の路地裏の出口の角に男が蹲っているのが見えた。

 背中にバックパックを背負っているところを見ると、旅行者のようだ。

 近寄ってみると、東洋人――日本人の顔立ちだ。

 

 こりゃいいカモだ。日本人は金持ちだからな。


 小銭だけでも恵んでもらおうと、チャコリの瓶を上着の内側にしまってから旅行者に近づく。

 

「なぁ兄ちゃん、恵んでくれねぇか?」


 汚れた手を差し出しながらお決まりの文句。

 だが、旅行者は無反応だ。相変わらず蹲ったままである。


「聞いているのかい? 小銭でもいいんだ」


 ほら、とさらに手を差し出すとようやく気づいたのか、顔を見せた。

 だが、その顔は涙で濡れていた。


「兄ちゃん、泣いてるのかい?」


 そう言われて気づいたのか、男がごしごしと手で拭う。


「すみません。なんでもないんです……」


 そしてポケットから財布を取り出して硬貨をホームレスの汚れた手に渡す。


「あんがとよ」


 へへっと笑いながら、これまた汚れたズボンのポケットの奥深くにしまい込む。

 あばよと踵を返して路地裏へ戻る。3歩歩いてからふと振り向くと、男はまだ蹲ったままだ。

 ふるふると頭を振って再び路地裏へと足を向けようとした時。


「しょうがねぇな」


 がりがりと頭を掻く。その拍子にぱらぱらとフケが落ちる。

 

 まったく。俺のお人好しさには自分でもあきれるぜ!


 若い旅行者の隣にどかりと腰を下ろすと、男が驚いた顔でこちらを見る。


「兄ちゃん、おめぇがこの国でスリにあったり、不幸な目にあったとしても俺には関わりのねぇことだ」


 上着の内側から調達したシドラの瓶を取り出す。


「だが、話くらいは聞いてやる。話せばちったぁラクになるぞ」


 ぐびりと呷るが、すぐにぶっと吐き出す。


「なんだこりゃ! 腐ってるじゃねぇか!」


 中身が残った酒瓶を放る。口直しにとスキットルを取り出してがぶりと呷ってから、げぷと酒精を吐き出す。


「おれはエンリケだ。いまじゃこんなナリだが、こう見えてももとコックだ」

「…………僕は、」


 名前を名乗ろうとしたとき、ぐぅっと腹の虫が鳴った。

 エンリケが笑う。


「なんだお前。ハラがへってたのか? よし、ちょっと待ってな」


 そう言うなりエンリケは上着の膨らんだポケットに手を入れ、ごそごそ探っていたかと思うと取り出したのはバゲットだ。あちこちにカビが生えている。

 折りたたみナイフでカビの部分を器用に削ぎ落としていく。

 

「ええと、たしかこっちに……」


 今度は反対側のポケットからボロボロになった生ハム――ハモンセラーノをバゲットの上に乗せた。

 

「さて、お次は」


 上着の内ポケットから取り出したのはやや黄色がかった緑色の液体が入った小瓶だ。


「仕上げにこいつをかけてと……」


 とろりとハモンセラーノの上に液体を垂らしていき、バゲットにも染み込ませるようにまんべんなくかける。


「これで出来上がり。エンリケ様特製タパスだ」

 

 食えとでも言うように男の目の前に差し出す。

 男が辟易していると、さらに差し出す。


「遠慮するな。オリーブオイルかけてあるから心配はいらねぇ」

「はぁ……」


 観念したかのように受け取り、しばらくじっと見つめているとまたエンリケから「食え」と催促。

 おそるおそると口に運び、目を閉じると意を決してがぶりと齧った。


「美味い!」


 思わず日本語が口をついて出たが、エンリケにはその意味が伝わったらしく、破顔した。

 「だろ! オリーブオイルは万能だ」とうんうんと頷きながら。

 

「兄ちゃん、ここへは何をしにきたんだい?」


 男が食べ終わるのを待ってから聞く。

 ごくりとタパスを飲み込み、ぱんぱんと手からパン屑を払う。

 そして一息ついてから、口を開いた。


「実は……」


 男が努めてスペイン語でとつとつと話し、エンリケはスキットルから酒を呷り、うんうんと頷きながら聞く。

 話が終わりに近づくにつれ、エンリケはにわかには信じがたいという風に首を振った。


「するってぇと、兄ちゃんはその娘に会うためにはるばる日本からここに来たってのか?」

「はい……その手がかりがあるかもしれない教会が火事になってしまって……」


 なるほど、さっき嗅いだ焦げ臭いにおいはそれかと納得がいった。


「それで途方に暮れてここに来た、というわけか。残念だが、おれもその娘の所在は知らねぇんだ」


 スキットルを傾け、げっぷをひとつ。


「兄ちゃん、おれはもとコックだと言ったな。それこそ自分の店も持っていたし、女房もいた。だがな、それもこれもみーんな火事でなくなっちまった」


 ぐいっと一息に呷り、ぷはぁっと酒臭い息を吐き出す。


「人生は愛こそあればだ。その娘に会えるといいな」


 よっこいしょと立ち上がり、尻についた埃をぱんぱんと叩く。


「兄ちゃんついてこい」

「え、でもどこへ……?」と男が立ち上がりながら。


「ここいらのバルを案内してやる。なに、おれの作ったタパスを美味いと言ってくれたお礼だ」


 ついてこいと指を動かし、思い出したように立ち止まると、男の方を向く。


「そういや兄ちゃん、おめぇ名前はなんていうんだ?」


 男が名前を名乗る。


「アンジローか。いい名前だ」


 うんと頷き、親指をぴんと立ててバルのほうを指す。


「世界一のバルを案内するぜ。ついてきな」

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