第53話 El comienzo del camino(旅の始まり)
“運命というものは、人をいかなる災難にあわせても、必ず一方の戸口をあけておいて、そこから救いの手を差しのべてくれるものだ”
『ドン・キホーテ』セルバンテス
八月らしい陽射しの下、陽光を受けて流線形の列車が煌めきながらレールに沿って走っていく。
アウスコトレン。すなわちバスク鉄道の車両内――。
車両が揺れるなか扉が開き、そこから車掌が入ると順に乗客に「Veré tu boleto(切符を拝見します)」とチェックを始める。
「Está bien.Buen viaje(OKです。良い旅を)」
切符を乗客に返して、次々と捌いていく。
やがて出口の手前まできた。座席に一人の若い男が座っている。日本人のようだ。
当然、これも「切符を拝見します」と英語で対応し、受け取った切符をチェックする。
特に異常はないことを確かめ、車掌が頷く。
「Are you traveling?(ご旅行ですか?)」
車掌の問いにはいと答え、さらに続ける。
「Voy a encontrarme con mi amiga(友人に会いに行くんです)」
目の前の若い日本人がスペイン語を話したので車掌が目を丸くする。
「Eres bueno en español(スペイン語がお上手ですね)」
「Gracias(ありがとうございます)」
車掌が制帽の
若き日本人――安藤次郎は切符をポケットにしまうと、読んでいたガイドブックに目を戻す。
昨夜、パリのシャルル・ド・ゴール空港に到着し、そこからモンパルナス駅にてTGV(高速列車)に乗り換えてスペインとの国境近くの駅、オンダイエでバスク鉄道に乗り換えればサン・セバスチャンまでは一直線だ。
車窓からは山々やなだらかな丘などの牧歌的な風景がどこまでも続いている。
「Vengo de Japón.Estoy buscando a esta persona……(日本からきました。この人を探しています)」
ガイドブックを閉じ、覚えたスペイン語の単語を
うん。自分ではちゃんと言えてると思う。学校でスペイン語の授業を受けた
さらに続ける。
「Su nombre es Francesca Xavier(彼女の名前はフランチェスカ・ザビエルです)」
かの聖フランシスコ・ザビエルの末裔だという彼女は日本での見習い期間を終え、迎えに来た兄とともにそのまま母国であるスペインへと飛び立った。
彼女を追いかけようと空港まで行ったものの、結局間に合わなかった。
でも今度こそは必ず彼女を探し出してみせる。彼女のお目付け役であるマザーから聞いた話が思い出される。
「以前に彼女が語ってくれたことがあります。実家はサン・セバスチャンの近くだと」
安藤はガイドブックをめくり、サン・セバスチャンのページを開く。
美食の街で知られるその街はフランスとスペインにまたがっており、毎年世界中から観光客が押し寄せてくる。
風光明媚な景色もさることながら、やはり観光客を惹きつけてやまないのが、バスク料理であろう。
海の幸と山の幸など、豊富な自然からの恵みを上手く調理して仕上げたその味わいは、美食家やグルメ通の人も唸らせるほどである。
また、サン・セバスチャンにはバルと呼ばれる居酒屋兼食堂が軒を連ね、観光客はもちろん地元民も行きつけの店で舌鼓を打つ。
ガイドブックの解説を読み終えた安藤がふと目を上げると、車窓はいつの間にか遠くに海――ビスケー湾が見渡せるようになった。
「わぁ……!」
次第に街並みが見えていったかと思うと、いきなり壁で阻まれて見えなくなった。
それと同時に列車の速度が落ちていく。やがて列車はホームの中へと緩やかに入り、がくんと揺れたかと思うと、そこで止まった。
車内放送からアナウンスが流れるが、スペイン語とは異なる言語だ。
窓の外から駅名がわかるものがないかを探すと、柱にプレートが。
『Donostia』
ドノスティア……? まだサン・セバスチャン駅じゃないのかな?
もう一度ガイドブックを開いて、地図で現在地を調べてみる。
すると『Donostia/San-sebastian』の表記が。
ふたたびプレートを見る。やはり同じ名前だ。
そうだった! サン・セバスチャンはスペイン語で、バスク語ではドノスティアだったんだった!
慌ててガイドブックをショルダーバッグにしまい、上の棚からバックパックを取り出して背負うと、すぐに車両から出た。
安藤がホームに降り立つと、同時に背後で扉が閉まったので、ほっと一息つく。
「やばかった……バスクにはスペイン語とは違う言語があるの忘れてた……」
バスクではバスク語と呼ばれる、スペイン語とはまったく異なる体系の独自の言語が話されている。
故にバスク地方ではバスク語とスペイン語の両方の表記があることも珍しいことではない。
気を引き締めるようにバックパックのショルダーストラップを握りしめ、異国の地での最初の一歩を踏み出す。
彼の旅はまだ始まったばかりである。
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