第49話 彼の事情、彼女の事情 前編
「それじゃ、いってきます」
玄関で靴のつま先をトントンと蹴ってから、安藤はショルダーバッグを背負って外に出た。
八月の容赦ない陽射しが降りそそぎ、その眩しさに手で
目指すは市立図書館だ。
家から歩いておよそ二十分ほどのところにある建物のなかへ入ると、クーラーの冷気が肌に心地良い。
ふぅとひと息ついて、額の汗を拭う。
まずは席の確保だ。本棚が並んだ奥のほうに空いている席がふたつ。
安藤はそのひとつにバッグを置いて、本棚のほうへと。夏休みの課題で必要な資料を本棚から適当に抜き出していく。
「こんなもんかな……ん?」
席へ戻ろうとして、ふと隣の棚に目をやる。
外国のガイドブックが並んでいる棚だ。左からアジア、アフリカ、オセアニアと大陸毎に並んでおり、端のほうに目をやるとヨーロッパの国々のガイドブックが並んでいる。
当然そのなかにはスペインも――。
スペインのガイドブックを手に取った安藤は席に戻って資料を机に置く。
まずは課題である英作文からだ。指定のレポート用紙に英文を書き連ね、時おり参考書をめくる。
一時間ほどしてやっとレポート一枚分が書き上がったので、安藤は伸びをひとつ。
ふとガイドブックが目に入った。なんとなく手にしたそれを手に取ってぱらぱらとページをめくる。
そこにはスペインの主要都市の写真と解説が載っており、特にバルセロナのサグラダファミリアの礼拝堂の写真には惹きつけられるものがあった。
解説によればアントニオ・ガウディによって設計されたこの教会はまだ未完成で、2026年の完成を目指しているそうな。
次のページはバレンシアの地中海に面した都市と名物であるパエリアの写真だ。
バレンシアってパエリアの発祥地なんだ……。
ふと、彼女――フランチェスカのことが思いだされた。
フランチェスカから動画メッセージが送られてからすでに一週間が経っている。
もちろん何度か彼女にメッセージは送っている。だが、いずれも既読はつかないままだ。
以前、彼女に会おうとして成田空港まで行ったのだが、彼女はすでに日本を発ち、母国であるスペインへと――。
ぎゅっと奥歯を噛みしめる。
なぜ、もっと早く行かなかったのか。もっと早く自分の想いを打ち明けなかったのか。
後悔してももう遅い。彼女はもう自分の手が届かないところにいるのだから――。
「あ……」
次にめくったページはバスクの紹介だ。
そういえば、彼女バスクの生まれだと言ってたっけ……。
安藤はそのページを読む。
バスク。それはフランスとスペインにまたがる地方の名称で、ビスケー湾に面した情緒あふれる街である。
バスクを語る際に、やはりバルなくしては語れないだろう。
バルとは飲食店や軽食喫茶店のことを指し、バスクではこのバルが盛んである。特に、サン・セバスチャンはバスクの美食文化が凝縮された街と言える。
ぺらりと次のページではバルの写真にカウンターではピンチョスと呼ばれる小皿料理が並んでいた。
料理が趣味である安藤にとって、その写真は強く興味を惹かれた。
またページをめくるとバスクの地図が目の前で広がる。
カンタブリア海に面したバスク地方の都市の名前が地図上に記載されたそれに、安藤はそっと指を這わせる。
ここのどこかに、彼女がいるのだと思うと、自然と頬が緩んでしまう。
フランチェスカ・ザビエル。
かのフランシスコ・ザビエルを先祖に持つ彼女はシスター、正確には見習いシスターだが――
およそ聖職者とは呼べないわがままで、お転婆な彼女の無邪気な笑みが思い起こされる。
やっぱり、俺は彼女のことが……
「アンジロー?」
自分を呼ぶ声ではっと現実に戻り、見上げるとそこには舞が立っていた。
後編に続く。
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