第39話 ベルリン、壁のむこう⑦


 旧東ベルリン側のクロイツベルク。

 シュプレー川沿いのヴァルシャー通りシュトラッセ


 「最近はどこもかしこも不景気だ。おまけにトルコからの移民も多くなってきたしな。この町は不景気がお似合いよ」

 「ここらへんは東ベルリン側だからな。残ってるのはその残骸さ」


 パブの一席にて常連客がぐびりとビールを呷る。


 「で、俺らになにを聞きたいんだ? 嬢ちゃんフロイライン?」


 赤ら顔を向けた先には修道服スカプラリオに身を包んだフランチェスカだ。


 「あるひとが働いていた事務所を知りたいの。ここらへんに詳しい人ってたいてい酒場に集まるもの」


 すっと新しいジョッキを差し出す。情報料の代わりだ。


 「名前はノイマン・クレマイヤー。建築家だったひとよ」

 「知らねぇな」

 「俺は三年前に越してきたばかりだ」


 情報料のジョッキをがぶりと呷ってげっぷをひとつ。


 「お願い! だれか詳しいひとを教えて! 五十年以上前に西側に逃亡して、夫と離ればなれになった奥さんの願いを叶えてあげたいの」

 「そうは言ってもなぁ……生きてたらかなりの年配だぞ」


 そうだそうだと隣の常連客もうなずく。


 「それよりビールもう一杯くれねぇか?」

 「もういいわよ! “働かざるもの食うべからず”よ!(テサロニケの信徒への手紙第3章10節)」


 ぷんすかとその場を去ろうとする見習いシスターを呼び止める者があった。


 「待ちな嬢ちゃん」

 「なによ」


 くるりと振り向くと、声の主はカウンター席で頭にハンチング帽を乗せた老人だった。


 「さっき、なんと言った? 人を探してるんだって?」

 「ノイマン・クレマイヤーよ。そのひとが働いてた事務所を知りたいの」

 「ノイマンか……懐かしい名前だ」

 「知ってるのね!」


 老人が「ああ」と帽子のつばをくいと上げる。


 「冷戦時代では情報屋ハンスと知られてた俺さまだ。もっとも、その前は逃がし屋オットーと呼ばれてたがね」とにやりと笑う。


 「案内してくれる? ビールおごるわよ」

 「ビールより俺はシュナップスだ。案内してやるよ」


 †††


 ミッテ地区。

 ノイマンの事務所――があったビルは老朽化が著しく進んでおり、廃ビルとなっていた。


 「ほんとにここなの?」

 「ああ。ここいらは東ドイツ時代の建物がそのまんま残ってるからな。中に住んでるのはネズミくらいなもんさ」


 二階だと顎でしゃくる。見上げると割れた窓ガラスが目に入った。

 幅が狭いコンクリートの階段を上る。二階に着くと、すぐそばにペンキが剥げたドアが。

 ノブを回してみるが、鍵がかかっている。


 「残念だな。カギがないことには話にならない」

 「あきらめるのはまだ早いわよ」


 そう言うと修道服のポケットからヘアピンを取り出す。曲げてまっすぐにするとそれを鍵穴に差し込む。

 その慣れた手つきに元逃がし屋は「ほ!」と感心する。


 「こりゃ驚いた。最近の尼さんはピッキングもするのか」

 「あたしがスペインの神学校にいたとき、門限で寮に入れなくなったときによくやってたの。えーと……ここをこうして……」


 かちゃりと錠の外れる音。


 「ビンゴ! さぁ入るわよ」


 ぎぃいと軋みを立てて入ると、そこには乱雑に置かれた机と椅子、設計図らしき図面が散らばっており、かつてそこが建築事務所だったことを物語っていた。


 「ひどい散らかりようね」かびくさい臭いに顔をしかめる。

 「逃亡したやつの家や事務所はもっぱら泥棒や秘密警察シュタージの的だったからな」

 「問題は亡くなった旦那さんの『壁の向こう』がなにを意味するか、よ」


 窓のほうへ歩いて上に開ける。そこから見えるものはなにもない。


 「壁の向こうと言うから、向かいの壁かと思ったけど、なにもないわね……」

 「三十年も前だぞ。そのなにかがまだあるとは思えんがね」


 老人が煙草に火を付ける。


 「あんた言ってたじゃない。ここらへんは昔の建物がそのまま残ってるって」

 「全部が全部ってわけじゃないさ。おおかた、そのダンナはボケてたんだろうよ」


 きひひと下卑た笑みを浮かべる。


 「とにかく、ここにはなにもないようね。窓はここしかないし……」


 ぴしゃりと上げ下げ窓を閉める。

 その時、違和感を感じた。だが、それが何なのかがわからないので気のせいだと思うことにした。


 「なぁ、もう一杯シュナップス恵んでくれよ。二杯分の働きはしたと思うがね」


 階段を下りて外に出るなり、元逃がし屋がそうせがむ。


 「しつこいわね。こっちはそれどころじゃないってのに……」


 元逃がし屋に文句を言おうと振り向く。そこで彼女の目がある物に留まった。


 「そうか! さっきの違和感はこれだったんだわ!」


 だだだっと階段を駆け上がって事務所に戻る。


 「お、おい。こちとらもう年なんだぞ……」


 フランチェスカの後を追ってきたオットーがぜぇぜぇと喘ぐ。


 「みて。この窓を」と上げ下げ窓を指さす。

 「俺にはどう見てもただの窓にしか見えないが……」

 「違うわ。外から見たとき窓が見えたけど、この窓は割れてないのよ。最初に見たときは割れてたのに……」


 それに、と付け加える。


 「最初見たときの窓と、この窓は位置が違うの」

 「するってぇと?」

 「もうひとつ窓があるんだわ。この部屋にね」


 ふたりが同時に壁のほうを見る。それはちょうど外から見た窓がある位置だ。

 フランチェスカが壁に手を触れ、次にコンコンと叩いてみる。


 「この壁の向こうになにかあるんだわ。亡くなった旦那さんはこのことを言いたかったのかも……」


 床に転がった椅子を掴むと、そのまま壁に叩きつける。何度か叩きつけると次第にヒビが広がっていく。


 「嬢ちゃんどいてろ!」


 見るとオットーがどこからか消防斧を手にしていた。振り下ろすと刃が壁にめり込み、だんだんと亀裂が広がっていく。

 二度、三度と斧を振り下ろすとやがて壁の一部ががらがらと崩れた。

 人ひとりがやっと入れるくらいの穴がぽっかりと開き、そこへフランチェスカが、次いでオットーが窮屈そうに入っていく。

 そこは小さな部屋であった。壁には割れた窓ガラス。横には書き物机が、壁際には古い機械が置かれていた。


 「こりゃ盗聴器だな。ここにいたやつはスパイ活動してたんだろうな」


 フランチェスカは机のほうを探る。机の上にはなにもない。ならば引き出しはどうかと順に開けてみる。


 「ノートや筆記用具しかないわね……旦那さんはいったいなにを伝えたかったのかしら?」

 「そりゃお前、自分がスパイだったと伝えたかったんだろ」


 かつて逃がそうとした男の書いたノートをぱらぱらとめくる。

 さして重要なことは書かれていなさそうだ。


 「探し物は済んだかね? もうここに用はないと思うが……」

 「まって! この引き出し、二重底になってる!」


 引き出しを逆さまにして床に叩きつけると、底が外れて中身がこぼれ出た。

 フランチェスカがそれをつまむ。茶色の封筒だ。逆さにして中身を取り出す。


 「これって……」


 †††


 翌朝、シェーネブルク地区にあるアンネのアパートでインターホンの音が鳴った。


 「はい、どちらさまで」


 ドアを開けると、そこには昨日会った見習いシスターが。


 「あら、お嬢ちゃんだったのね」

 「おはようございますグーテンモルゲン。お時間ありますか?」

 「もう年寄りだもの。時間ならたっぷりとあるわよ」

 「では、今から私と一緒に来てもらえますか?」

 「え、でもどこへ?」


 困惑するアンネにフランチェスカが自信満々に言う。


 「三十年前に、ご主人があなたに伝えたかったことが、わかったかもしれないんです」


 †††


 「すると、夫の事務所に隠し部屋があったのね?」


 タクシーの車内の後部座席にて事のあらましを聞いたアンネが聞く。


 「はい。そこで探していたら、こんなものを見つけたんです」


 取り出したのはあの引き出しの底にあった封筒だ。逆さにして手の平に中身を出す。

 くしゃくしゃになった一枚のメモと鍵だ。

 メモには住所らしきものが書かれており、ふたりはタクシーでそこに向かっているところだ。


 「でも、これはなんの鍵なのかしら?」

 「隠し部屋や事務所の鍵穴を全部試したんですが、合わなかったんです。で、もしかしたらこの場所に行けば、なにかわかるかもしれないと思ったんです」

 「そう……」


 アンネが窓のほうを向く。


 ノイマン、やっぱりあなたはスパイだったのね……。


 途端、車が停まった。


 「お客さん方、着きましたよ」


 料金を払って外に出ると、そこは銀行だった。

 回転扉を開けて中に入る。行内は東ドイツ時代の建物をそのまま利用した旧いものだ。


 「ようこそいらっしゃいました」


 恰幅の良い年配の、スーツを着こなした男性が出迎えた。


 「頭取のヴォルフガングです。何か御用でしょうか?」

 「この鍵がなんなのかを知りたいの。このメモに、ここの住所が書かれていたから……」


 ちょっと失礼と頭取がメモを受け取って、老眼鏡をかける。

 メモを読む頭取の顔がみるみる強ばった。


 「失礼ながら、お客様はノイマン・クレマイヤーの御親族の方でしょうか?」

 「私の主人です。夫を知ってるの?」


 ああやはり! と老眼鏡を外す。


 「四十年以上前に、あなたのご主人には大変お世話になりました。スパイ容疑がかかっていた私の疑念を晴らしてくださったんです」


 アンネの手を固く握りしめる。


 「この鍵は当行の貸金庫の鍵です。あなたのご主人から、奥様がいらっしゃったら案内するよう、申しつかっております」


 ご案内しますとヴォルフガングがふたりを誘導する。

 ヴォルフガングが鉄製の扉まで来ると、暗証番号のキーを打ち込み、電子音が鳴ったのを確認してハンドルを回す。

 重厚な扉の向こうには貸金庫の小さな、金属製の扉が壁際に列をなしていた。

 「鍵を拝借します」とそのなかのひとつに鍵を差し込み、かちりと解錠音。

 把手を掴んで手前へと引き出すとジュラルミンのケースが現れた。

 それを金庫室の中央に据えられたテーブルにごとりと置く。


 「私は外で待機しております。何かあればお呼びください」


 では、と頭取が金庫室を出るとアンネとフランチェスカのふたりだけになった。

 アンネは目の前のケースを見てごくりと唾を飲む。そしておそるおそるとケースの蓋を開く。

 まず目に入ったのは札束だった。ケースの半分を埋めるかのように収まっている。


 「これ……東ドイツマルクだわ」


 当時、東西に分断されていたドイツではそれぞれ独自の紙幣が発行されていた。

 だが、統一した今となっては価値はない。


 「ノイマン、あなたは私にこれを渡したかったのね? でも、もうマルクは使えないのよ……」

 「待ってください。まだなにかあるみたい」


 フランチェスカがケースを傾けると、すとんと手前に転がる。

 ビロード張りの小さな箱と便箋だ。フランチェスカが便箋から手紙を取り出す。


 「あなた宛てのです」


 アンネが受け取って見る。その筆跡は確かに夫のだ。


 『愛するハンナ。僕にもしもの事があったときのために、この手紙とお金を残しておく。

 ハンナ、実は僕はスパイなんだ。でもこれだけは信じて欲しい。東ドイツのスパイとしてではなく、ドイツが統一し、本当の姿を取り戻すために自分が正しいと思ったことをしたまでのことだ。

 君との結婚は、けしてスパイ活動のためじゃない。出来れば西側で結婚式を挙げたかったが、そうもいかなくなったようだ。

 ハンナ、覚えているかい? 僕が西へ行こうと持ちかけたとき、君は指輪を欲しがっていたね?

 ささやかだけれども、僕の気持ちを受け取ってほしい。これだけは忘れないで。僕は君が西へ脱出したあとも、ずっと君のことを思っていた。ずっと考えていた。でも秘密警察に目を付けられている身としては、君に会うことは出来ない。

 最後に、君と会えて、良かったと思っている。変わらぬ愛を込めて。


        ノイマン・クレマイヤー』



 「ああ、ノイマン……」


 アンネがくずおれそうになるのをフランチェスカが支え、震える手でビロード張りの箱を開く。

 きらりと鈍い光を放つ指輪がそこに収まっていた。細い指でつまみ、薬指に嵌める。薬指には再婚した夫の指輪も嵌まっていた。


 「私も、愛してるわ。ノイマン……」


 †††


 ヴォルフガングに見送られてふたりは銀行の外へと出る。

 「あの……」とフランチェスカが気まずそうに声をかけ、アンネが彼女の方を向く。


 「あたし、あなたに余計なことしちゃったかもしれない……スパイだった事実を知らないほうが良かったかもしれないのに……」


 悩める見習いシスターの手をアンネが優しく握る。


 「とんでもないわ。私のために調べてくれて……確かに夫はスパイだったけど、彼の、私への愛は本物だった」


 薬指に嵌まったふたつの指輪を見て、微笑む。東と西。ふたつに分かれたが、ふたつの愛に包まれていたのだ。


 「あなたは天使よ。あなたはとても優しい子だわ」


 西へ逃げ延び、アンネ・ビーアマンとして生活し、やがて再婚してフォルトナーへと姓を変えた彼女はやっと、ハンナ・クレマイヤーというひとりの人間に戻れたような気がした。


 「どうもありがとう……フラウ・フランチェスカ」



 1989年にベルリンの壁が崩壊するまでに、毎年東から15万人から30万人が西ベルリンへと流出した。

 1990年にドイツは再統一して現在に至るが、ある世論調査によれば、所得格差に不満を持ち、7人に1人はベルリンの壁再建を望んでいると言われている。






次話に続く。

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