第39話 ベルリン、壁のむこう⑥


 1991年10月――ドイツが統一してから一年後。

 旧西ベルリン。ノイケルン地区のノイエライン総合病院。


 「容態が安定してきていますから、もうすぐ退院できますよ。ライヒェさん」

 「ありがとうアンネ。もうすぐ孫の誕生日なの」

 「あら、素敵ね」


 25年前に西側に逃亡したハンナはアンネ・ビーアマンとして暮らし、病院にて看護師として働いていた。

 むろん彼女が東ドイツからの逃亡者だと知る者はいない。


 『ご覧ください。ブランデンブルク門では東西ドイツ統一の一周年を祝う人たちで溢れています』


 サイドテーブルのテレビからアナウンサーが実況し、ブランデンブルク門の夜空に花火が上がった。


 「まさか、統一する日が来るなんてねぇ……でもそのおかげで孫に会えたわけだけど」


 ライヒェが看護師の手を握る。


 「ドイツがひとつになって本当によかったわ。なかには統一を望まないひともいるけどね」

 「ええ……本当ね」


 アンネは複雑な面持ちでテレビを見つめる。ブラウン管の画面では相変わらず花火が上がっていた。


 1989年11月にベルリンの壁は崩壊し、ドイツ連邦首相のヘルムート・コールの政策推進によって1990年10月にドイツは再統一した。

 その結果、東ドイツにも西ドイツの商品が流入するようになり、西側と変わらない暮らしが送れるようになった。

 だが、ベルリンの壁によって人生を狂わされた者はけして少なくない。アンネもそのひとりだ。


 「アンネ! 急患よ! 早く来て!」


 病室の入り口から同僚が叫ぶ。切羽詰まった状況なのだと判断したアンネはすぐに病室を出た。


 「どんな容態?」

 「交通事故だそうよ。もう虫の息なの」

 「急がないと!」とアンネと同僚が廊下を駆け抜け、初療室へと。

 そこには頭から血を流している男性がストレッチャーに載せられていた。

 アンネは冷静に処置に取り掛かる。まずはモニターで確認だ。


 「心拍数および血圧なおも低下中! ボスミン投与して!」


 同僚が指示された薬品のアンプルを取り出して準備する。

 酸素マスクを装着しようと男性の顔を見たとき、はっと思わず息を飲んだ。

 その痩せこけた顔は血だらけになってもすぐにわかった。


 「ノイマン……?」


 声に反応したのか、ノイマンは目を見開いて、妻を見つめる。


 「ハン、ナ……?」


 だが、痛みがひどいのか苦痛にうめく。


 「当直のゲオルグ先生を呼んで!」と叫ぶアンネの手をノイマンが弱々しくもなんとか力強く掴む。

 そして息も絶え絶えに言葉を絞りだそうとする。


 「なに? 苦しいの!?」


 よく聞こえないので耳を近づける。微かにだが、その声は生涯アンネの耳に残ることになった。


 「ヴァント……壁の、むこう……」


 必死の思いで伝えると、ノイマンはそのままがくりと力を失ったかのようにぴくりとも動かなかった。


 「ノイマン、ノイマン!」


 すぐに心肺蘇生を試みるべく、胸に手をあてて心臓マッサージを。

 息を吹き返させようと力強く上下に圧迫させる。


 お願い……! 息を吹き返して!


 腕を上下に動かす度にアンネの目から涙がこぼれていく。そこへ当直のゲオルグがやってきて聴診器を首元に当てる。

 程なくして耳から聴診器を外すと首を振った。

 それでもアンネは蘇生の手を止めない。ゲオルグが止めるまで続いた。


 「無駄だよ。この患者は死亡シュテルベンしたよ」


 アンネはその場に泣き崩れた。



 「これが私と夫とのつかの間の再会だったわ……それから数年後に亡くなった夫と再婚したけど、私の心には彼の言葉がまだ引っかかっているの」


 窓から見習いシスターへと顔を向ける。


 「ごめんなさいね。こんな年寄りの昔話なんて退屈だったでしょう?」

 「いえ、そんなことないです。ほんの少しだったとは言え、ご主人と再会出来て良かったんですから……きっと神さまのおぼし召しですわ」


 フランチェスカにそう言われ、アンネはにっこりと微笑む。


 「ありがとう……あなたは優しいひとね」

 「でも、いまのお話で引っかかるところがあるんです」

 「なにかしら?」

 「ご主人の最後の言葉、『ヴァントの向こう』って何のことでしょうか?」

 「ベルリンの壁のことじゃないかしら? きっと壁の向こうから来たと言いたかったのよ」

 「はたしてそうでしょうか……? ベルリンの壁なら、ヴァントでなく、マウアーと言うはずです。ヴァントは室内の壁を指しますから」


 そう言えばそうねと老婆が頷く。


 「きっと死ぬ間際だったから、混乱して言い間違えたのよ」

 「私、思うんです。もしかしたらご主人は、あなたになにかメッセージを残したのでは、と……」


 †††


 「ありがとう。家まで送ってもらって……」


 シェーネべルク地区にあるアンネの家に着くと、付き添いの見習いシスターに礼を言う。


 「あの、ご主人の言葉なんですけど、東ドイツに住んでたときの自宅はどこですか? もしかしたら、『壁』というのは家の壁のことかも……」


 その問いにアンネはゆるゆると首を振る。


 「私たちが住んでいた家は、私が西側に逃亡してすぐ無くなったと聞いたわ」

 「では彼の仕事場かも! ご主人は建築家だったんですよね? 事務所はわかりますか?」

 「お嬢ちゃん、気持ちは嬉しいけどね……もう三十年も前の話よ。たしか、クロイツベルク地区にあるとは聞いたけど……」

 「クロイツベルクですね。まかせてください。きっと謎を解いてみせますから!」


 そう言うとフランチェスカはアンネの制止も聞かずに颯爽と駆け出した。






⑦に続く。

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