第39話 ベルリン、壁のむこう②


 二日後、ハンナとノイマンはふたたび逃がし屋オットーの下を訪ねた。


 「よく来たな。準備はいいか?」


 ノイマンが頷き、オットーに残りの代金を支払い、オットーが指を舐めてぱらぱらとめくって偽札でないことを確認する。


 「よし、カネは問題ないな。で、奥さんは」


 夫の隣に立つ妻をなめ回すようにじっと見たので、ハンナは思わず身震いした。


 「すこし地味だが、まぁいい。西側の人間に見えないこともない」


 オットーの指示でなるたけ派手な柄の服を着ろと言われたのだ。逃がし屋いわく、東側の人間は地味な服装が多いのでそれでばれることがあるのだそうな。


 「それと、これがあんたらの身分証明書だ」


 それぞれ受け取ったものをめくると顔写真と新しい名前が記載されていた。


 「ハインツ・ビーアマンか。早くこの名前に慣れないとな」

 「私はアンネね。」


 ふたりが身分証明書をポケットに入れたのを確かめると、オットーがハンチング帽を被る。


 「それじゃ次は車だ。こことは別の場所にあるから移動するぞ。クレマイヤー……いや、ビーアマンのおふたりさん」


 †††


 クレマイヤーあらため、ビーアマン夫妻とオットーはアパートから離れたところにある寂れたガレージの前にいた。

 オットーがロックを外してシャッターを上に上げる。錆びているのか、がらがらと音を立てて収納ケースのなかへと吸い込まれていく。

 オットーが闇のなかを歩いて壁を手探りする。スイッチを探し当てたらしく、裸電球に明かりが灯った。


 「これは……ワーゲンか? 見るのは久しぶりだ」


 ノイマンからハインツと名前を変えた夫が目の前の黒塗りの車を見つめ、オットーが自慢気に頷く。


 「西から観光に来たという設定だからな。ま、これでも向こうではすでに中古車同然だがね。手に入れるのに苦労したぜ」

 「信じられない! ここじゃ車が手に入るのに10年以上もかかるのに……」


 同じくハンナからアンネと名を変えた妻も驚きを隠せなかった。


 「さて、奥さん。あんたは助手席だ。それとご主人は悪いが、ここに入ってくれ」


 そう言うなりオットーが後部座席のドアを開けると、シートを上に上げる。するとそこにはちょうど人間ひとりが隠れられるスペースがあった。

 ビーアマン夫妻が顔を見合わせ、その疑問にオットーが答える。


 「ご主人は秘密警察シュタージに目を付けられているからな。ここのほうが安全だ」


 それに、と続けてトランクを開ける。


 「いざというときはここから逃げられる。いざって時が来ないのを祈るんだな」


 皮肉っぽく笑ってからばたんと荒々しく閉める音。


 「それと奥さん。あんたは俺の妹の友人という設定だ。くれぐれもボロは出すなよ」


 そう釘を刺され、ハンナはこくりと頷く。


 「さ、乗んな。ぐずぐずしていると置いていくぞ」


 運転席に入ったオットーがドアをばんばんと叩いて急かしたのでふたりは慌てて乗り込んだ。

 ハンナが助手席におさまり、ノイマンが後部座席のシートの下に隠れたのをミラーで確認してからアクセルを踏み込むと、ワーゲンは闇のなかへと駆けていく。


 「西への楽しいピクニックの始まりだ」


 †††


 「見えたぞ! 検問所だ」


 逃がし屋の声でハンナはフロントガラスのほうへ顔を向ける。

 確かに検問所が見えてきた。ハンナは今の自分はアンネ・ビーアマンなのだと気を引き締める。


 「いいな奥さん。手はず通りにやるんだ」


 そう釘を刺され、こくこくと頷く。程なくして詰め所からヘルメットを被った東ドイツ軍の憲兵のふたりがやってきた。

 黒塗りのワーゲンをじろりと睨み、そしてふんと悪態をひとつ。


 「今晩はグーテンアーベン。身分証を」


 オットーがハンナと自分の分、偽造した通行許可証をまとめて渡す。憲兵は引ったくるようにして取るとページをめくる。

 もうひとり年の若い憲兵は興味深そうにワーゲンを眺めているだけだ。


 「ウルリヒ・ラムケとアンネ・ビーアマンか」


 むろんオットーのも偽造だ。


 「夫婦じゃないんだな」

 「へぇ、こいつは俺の妹の友人でね。どうしても東側を見たいって言い出しましてね。それでしかたなく俺が仕事のついでに連れてってやったんで」


 前から考えておいたオットーの口実をハンナは隣で聞く。


 「で、これから西へ帰るとこなんでさ。東は退屈だったろ?」

 「え、ええ。退屈だったわ。とても!」


 声が上ずったのが自分でもわかった。果たしてこの芝居が通じるか……。


 「だろうな。おい、トランクを調べろ。俺は下を見てみる」


 どうやら信じてくれたらしい。身分証明書と通行許可証が戻され、憲兵がライトを照らして車の下を見ようと屈む。

 車の下に隠れて西へ脱走を図る者も少なくない。ハンナはまるでスカートの下を覗かれているようで、気が気でなかった。


 お願い。このまま西へ通して……!


 後ろのほうでばたんと閉まる音がしたのでハンナは思わずはっとする。

 どうやらトランクに誰もいないことを確かめ終えたらしい。


 「どうだ?」

 「トランクにはなにもありません」

 「そうか。こっちも下に異常はないようだ。待ってろ、バーを上げてやる」


 憲兵がバーのほうへ向かうのを見てハンナはほっと胸をなで下ろす。

 その時、不意に声をかけられた。トランクを調べていた若い憲兵だ。


 「そのスカーフ、すてきだね」

 「え? ああこれね。お気に入りなの」と首下に巻いたスカーフに手をやる。


 「僕もそんなスカーフを恋人にプレゼントしたいな。それもしかしてシェーネベルクのヴェルデン百貨店カウフハウスの?」と無邪気に聞く。

 ヴェルデン百貨店は東側でもその名前を聞いたことはある有名なデパートだ。

 もちろんそこで買ったわけではないが、ここは話を合わせるのが良いだろうと思い、ハンナは頷いた。


 「ええ、そうよ。そこのスカーフ専門店で買ったの」

 「へぇ! ちなみにいつ買ったの?」

 「ええと、去年よ」と適当にはぐらかす。


 去年と聞いた憲兵の顔がみるみる強ばる。さっきまでの無邪気な表情は消え失せ、憲兵の顔へと戻っていく。


 「ヴェルデン百貨店はもう五年前になくなってるぞ」

 「え?」

 「こいつら東の人間だ!」


 バーを上げようとする先輩にそう声をあげる。


 「くそっ!シャイセ!


 隣の運転席のオットーが舌打ちし、若い憲兵がマシンガンをこちらへ向けるのが見えたとき、いきなりトランクが音を立てて開いたのでふたりの憲兵はそちらに気を取られた。

 見るとノイマンがトランクから出て逃げ出すところだ。


 「ノイマン!」

 「行け! このまま西へ行くんだ!」


 ふたつの銃口はハンナたちから闇の中へと駆けようとするノイマンに向けられ、たちまち火を噴いた。

 むろんこの好機を見逃すオットーではない。憲兵がノイマンに気を取られている間にアクセルを踏み込み、降ろされたバーに突っ込む。

 憲兵が振り向いたときはワーゲンはすでにバーをへし折り、西側へと脱出していた。


 「お願い! 戻って! ノイマンがまだ向こうに……!」

 「諦めるんだ! 捕まったら殺されるぞ!」


 バックミラーで後方を確認する。追ってはきていないようだ。もっとも今のところは、だが……。


 このままではいずれ捕まる……!


 車を路肩に停める。


 「ここで降りるんだ」

 「でも……!」

 「早く! このままだと俺も捕まる。あんたはここに行け」


 そう言うとオットーが上着のポケットからメモを取り出してハンナに渡す。


 「あんたがここで住む家の住所だ。足がつく恐れはないから安心しろ」

 「嫌よ! 夫と」


 オットーが激しく肩をつかむ。


 「痛いわ!」

 「よく聞け! 決して東へ行って亭主を探しに行こうなんてバカなことは考えるな! 東に行ったら、あんたはすぐに殺されるぞ!」


 助手席のドアを開けて降りるよう促す。それでも降りようとしないので強引に降ろした。


 「お願い!」

 「俺の仕事はあんたらを西へ逃がすことだ。結局あんただけになったが、これで俺の仕事は終わりだ! さっさと逃げろ!」


 ばんっと荒々しくドアが閉められ、ワーゲンは西側の闇へと消えていき、後に残ったのはむせび泣くハンナだけだ。


 「お願いよ……」


 遠くからサイレンの音が鳴り響く。音は段々とこちらへ近づいてきていた。

 ハンナは我に返り、オットーから受け取った住所のメモを見る。ここからそんなに離れていない。

 ハンナは逃げ出す前に東のほうへ顔を向ける。


 ノイマン、無事でいて……!


 踵を返して夜の町を駆け抜ける。目から涙がとめどなく溢れてくる。

 だが、止まるわけにはいかない。夫が命を賭けて逃がしてくれたのだから。

 ハンナは前を向いて走りだす。そして意を決する。

 今の自分はハンナ・クレマイヤーではなく、アンネ・ビーアマンとして生きるのだと――。



 それから24年後、ベルリンの壁が崩壊し、その翌年、東西ドイツは統一した。






③に続く。

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