第39話 ベルリン、壁のむこう①


 1965年。東ドイツ側のベルリン―――


 その夜、ブランデンブルク門がライトアップされるなか、フリードリッヒ通りシュトラッセを一台のワーゲンが走る。

 運転席には二十代の金髪の男性、助手席にはこれまた二十代の女性が座っていたが、どこか落ちつかなげだ。しきりに窓の外を見ている。


「奥さん」


 運転席の男にいきなり呼ばれ、女性がはっと体を強ばらせる。


 「もうすぐ検閲所だ。落ち着いてやれば大丈夫だ。いいな?」

 「え、ええ……」


 だがそう答える彼女は緊張の面持ちだ。


 「あまり窓の外を見るな。東の人間だと一発でバレるぞ」

 「わかったわ……でもどういう風に振る舞えば?」

 「退屈そうにするんだ。西にはじめて来たヤツはみなそんな感じだ」

 「わかった……やってみるわ」


 そう言った助手席の女性――ハンナ・クレマイヤーは努めて西側の人間になりきろうとする。彼女の着ている服装もなんとかそれらしく見せている。


 「大丈夫だ。きっと上手くいく」


 不安そうな彼女を安心させるように夫のノイマンが後部座席から声をかける。


 「そうね。ありがとうノイマン」


 後部座席の下に作られたスペースに隠れている夫に微笑む。


 「見えたぞ! 検閲所だ!」


 フロントガラスのほうに顔を戻すと確かに検閲所が見えてきた。

 「HALT!(止まれ!)」と書かれたバーが降りている。

 詰め所から小銃を手にした兵士が出てきた。東ドイツ軍の憲兵だ。


 「いいな奥さん、手はず通りにやるんだ」


 運転席の男、通称『逃がし屋オットー』に釘を刺され、こくこくと頷く。

 この検閲所を抜ければもうすぐ西ドイツ――自由で豊かな国がすぐそこにあるのだ。

 ハンナはつい一週間前の事に記憶を馳せる。


 †††


 一週間前――

 ハンナとノイマンの夫婦が住むアパートはブランデンブルク門から離れたフリードリヒスハイン地区にある。

 路地のなかば老朽化したアパートの自室にてハンナはキッチンにて昼食の準備に取りかかっていた。

 テレビでは国産車のトラバントのコマーシャルが流れ、低価格ながらも高性能なことをしきりにアピールしている。

 ピクルスをすととんと包丁で切っているとインターホンが鳴った。


 「はい、どなた?」


 だが来訪者は答えの代わりに玄関のドアを開け、ずかずかと入りこんできた。トレンチコートにボルサリーノ帽を頭に乗せた男は挨拶もそこそこに単刀直入に切り出す。


 「ご主人は?」

 「主人は、仕事で出かけてますの。あの、うちの人がなにか……?」


 だが、男はそれには答えずにテーブル上の小物を勝手に触る。そして首を巡らせて部屋をなめ回すように見、冷酷な笑みを浮かべた。


 「良いお住まいですな。実に良い趣味だ。これだけの家具を揃えるのはかなりカネがかかったことでしょうな」

 「質問に答えて」


 ハンナは段々とこの来訪者に苛立ちを募らせていた。それでなくても看護婦の夜勤から帰ってさっき起きたばかりなのだ。


 「ご主人のお仕事は?」

 「建築家よ。今は事務所にいるはず」


 そこまで言ってはたと気付いた。


 「あなた、秘密警察シュタージね」


 当時、東西に分裂されたドイツでは互いにスパイを送りこみ、情報を収集、分析して諜報活動を行っていた。

 そのスパイを監視、逮捕する役目を負ったのが秘密警察である。

 秘密警察の男はふたたび唇を歪ませると小物をテーブルに戻す。


 「実はあなたのご主人にスパイ容疑がかかっていましてね……西側に情報を流しているとか」

 「そんなはずないわ! 主人はただの建築家よ!」


 出てって! と玄関を指さす。

 秘密警察はおやおやとでも言うように首をすくめながら玄関へと向かう。

 ドアを閉める前ににやりと笑みを浮かべ「良いお住まいだ。ご主人によろしく」と言い残して消えた。

 ひとり部屋に残ったハンナは額に手を当てて溜息をつく。


 †††


 夫のノイマンが帰宅したのは午後六時であった。


 「ただいまハンナ」

 「お帰りなさいあなた」


 夫の上着を脱がしてハンガーにかけてやる。


 「ねぇ、今日秘密警察の人が来たの」

 「本当かい? それでどうしたんだ?」

 「あなたがスパイで西側に情報を流しているとか……」


 そこまで言うと夫が笑った。


 「おいおい。まさか本気で信じたんじゃないだろうな? 僕はただの建築家だよ。しがない二流の、ね」


 ばかばかしいと笑い飛ばしながらネクタイを緩め、食卓につく。


 「今夜はレチョーか」


 よく煮たハムと玉ねぎ、パプリカ、トマトのスープをすくって啜る。


 「うん。いつもと変わらない」

 「あなたのその感想もいつもと変わらないわよ」


 食卓が笑いに包まれた。この時はいつもと変わらない日常がいつまでも続くと、そう思っていた。

 その日常が崩れはじめたのはそれから二日後のことであった。



 「なぁ、西側に行かないか?」


 夕食時、食事を終えたノイマンからいきなりそう言われ、皿を下げようとした手をぴたりと止める。


 「本気で言ってるの……?」


 西ドイツへのビザがない限り、西側へ行くことは不可能だ。これまでに強行突破や脱出を試みた者はいるが、いずれも逮捕や銃殺されている。


 「本気だ」そう言うノイマンの顔はいつになく真剣だった。


 「実は、最近仕事が入らなくなってきて……でも西なら仕事はたくさんある。すぐに見つかるよ」

 「でも、どうやって? 通行許可証やビザもないのよ?」

 「その点は心配ない。すでに西側へ渡る手はずは整ってる」

 「無理よ。もし見つかったらたちまち逮捕されるわ。最悪の場合……」


 そこまで言って首を振り、皿を流しへと運ぶ。


 「ハンナ」


 ノイマンが流しに立つ妻の後ろから手を回す。


 「僕と一緒に西で暮らそう。あそこは豊かで暮らしやすいよ」

 「出来ることならそうしたいけど……だって私たちまだ結婚式挙げてないのよ? 書類上は夫婦だけど……」

 「それも西で挙げるんだ。ここじゃ出来ないくらいの立派な結婚式をね」


 ふぅっとハンナが溜息をつき、次いで蛇口をひねる音。


 「いいわ。西に行きましょ。でも」

 「でも?」


 夫の目の前でハンナがすっと細い指を見せる。


 「結婚式の前に指輪を。指輪がないと話にならないわよ」


 はははと夫が笑う。


 「西側の給料はここより良いからすぐに買えるよ」


 †††


 三日後、ミッテ地区のアレクサンダー広場プラッツ

 ハンナとノイマンのクレマイヤー夫妻は『世界時計』の下にいた。

 ふたりの上には世界の時刻が同時に示せるようになっており、待ち合わせ場所として有名だ。そのためか、恋人や友人を待っているであろう人たちをちらほら見かける。


 「ねぇ、本当に来るの? その人……」

 「確かにここのはずだ」


 腕時計を見ると約束の時間までもうすぐだ。

 まだなのか、とそわそわし始めていると横から不意に声をかけられたのでノイマンはぎくっとした。


 「タバコいるかい?」


 ハンチング帽を被った男だ。無精髭の生えた顔ににたにたと笑みを浮かべながらタバコを差し出す。


 「あ、ああ……外国産のはあるかな? 出来れば西側のタバコが欲しいんだが」

 「大抵のものはそろってますぜ」


 そう言うと男が上着の内側を見せる。銘柄の異なるタバコの箱がポケットからはみ出していた。


 「西のならこれがおすすめですぜ」


 男がタバコの箱を差し出し、代金の東ドイツマルクを受け取ると「どうも」と帽子のつばをくいっと上げてその場を後にした。

 少ししてからふたりもその場を離れる。


 「どういうこと? あなたタバコなんて吸わないじゃない」


 だが、ノイマンがパッケージを開封し、中から取りだしたものを見て納得する。

 くるくると巻かれたタバコを開くと住所らしきものが書かれていた。


 †††


 指定された住所――アパートの一室のドアをノックすると、さっきのタバコ売りの男が出てきた。


 「遅かったな。入れ」


 ふたりを中に入れ、廊下に誰もいないことを確かめてからドアを閉める。


 「まわりくどくてすまんな。最近は秘密警察がうるさくてな」


 独身の部屋らしくあちこち散らかった居間の冷蔵庫を開けて、「なにか飲むか?」と聞く。

 ふたりとも結構と答えたので蒸留酒シュナップスを取り出してぐびりと呷る。

 ぷはぁっとひと息。


 「西に行きたいんだな?」

 「そうだ。約束の金も持ってきた」

 「で、そちらは奥さんか? なら手間賃は二人分だ」

 「待ってくれ。話が違うぞ」


 どんと瓶を叩きつける音。


 「こちとら命かけてんだ。カネがないんなら帰んな。言っとくが、この『逃がし屋オットー』さまに敵うやつはいねぇよ」


 そう言って汚らしいげっぷをひとつ。


 「わ、わかった。当日に残りの金を払おう……」


 手付金としての代金をしみだらけのテーブルに置く。


 「いいね。インテリは話が早くて助かるよ」


 またぐびりと呷る。


 「二日後にまたここに来な。それまでに脱出の準備しといてやるよ。絶対にあんたらを西へ送ってやる」




②に続く。

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