第17話 ある老人の物語②


 1939年、ドイツ軍はオーストリアを併合し、その後、チェコスロバキアを占領した。その勢いたるやまさに破竹の如しで、次にヒトラーが目を向けたのはポーランドであった。

 わずか1ヶ月でドイツ軍はポーランドをも占領し、そこに住むユダヤ人はゲットーと呼ばれるユダヤ人専用の居住地区へと押し込められた――。


 クラクフ。チェコの国境に近いポーランドの街。


 「まてよ! おまえが鬼だぞ!」

 「つかまえてみろよ!」


 ゲットーの石畳の路上を少年たちが駆け抜ける。きゃっきゃっと笑いながら路地を抜け、道路へと出た。


 「元気の良いことだな! ぼうず!」


 ドラム缶の焚き火で暖を取る老齢の司祭ラビが声をかける。


 ゲットーのなかで子どもたちは今日も壁の向こうでなにが起きているのかも知らずに、無邪気に駆け回る。


 †††


 「どこ行ってたの!? もう夕飯の時間よ?」

 「ごめん、ママ」


 古いアパートの部屋に入るなり、ヤコブは母親のエマに叱られ、説教が済むと食卓につく。

 二本の蝋燭で灯されたテーブルには黒パン、野菜くずのみのシチュー、それとすこしばかりのチーズだけだ。


 「今日もこれだけ?」

 「しょうがないでしょ? 配給制でこれしか手に入らないんだから。さ、お祈りをして」


 祈りの言葉を唱えたあとは黒パンをちぎってシチューにつけると口に運ぶ。

 母親から「なんてお行儀の悪い!」とたしなめられるが、ヤコブはこの味が好きだった。

 しばらくして父親のアダムが「帰ったぞぉ」と帰宅を告げた。


 「お帰りなさい、あなた。仕事はどう?」

 「いつもと変わらないさ。それより湯を沸かしてくれ。靴墨で手が汚れた」


 父のアダムは腕の良い靴職人で、ゲットーに住むユダヤ人たちだけでなく、そこに駐在しているドイツ軍の軍靴の修理も行っていた。時々チョコをくれるので、それをヤコブに渡す。


 「ちゃんと歯を磨けよ。虫歯になっても知らないぞ」


 アダムが息子の柔らかな頬を軽くつねる。そして食卓について三人で夕食を摂りはじめた。


 夕食を終え、エマが食器を洗い、アダムが紙巻き煙草に火を付けて一服する。

 ヤコブはすでに隣の部屋のベッドで寝ていた。

 その時、玄関のドアをノックするものがあった。アダムとエマは緊張の面持ちで顔を見合わせる。


 まさか、親衛隊シュッツスタッフェル……!?


 親衛隊、通称“SS”は総統フューラーアドルフ・ヒトラーを護衛するために組織された軍隊である。親衛隊はヨーロッパ各地で転戦し、治安維持、反政府勢力の鎮圧に努め、さらにはユダヤ人狩りも行った。

 だが、ドアから出てきたのは隣人のオレイグだ。オレイグの顔を認めたふたりはほっと息をつく。


 「オレイグさん、どうしたんだ? こんな時間に……」

 「……アダムさん、よく聞いてくれ。はっきりとしたことはわからないんだが、近いうちにこのゲットーは解体されるらしい」

 「なに?」

 「確かだ。新しく就任されたアーモンとかいう所長のところに勤めているカポ(SSの協力者)が話してたのを聞いたんだ」


 ※アーモン・ゲート

 クラクフ・プワシュフ収容所の所長であり、親衛隊少尉(のちに大尉に昇進)。

 収容所内で処刑や虐殺を日常的に行ったことから『プワシュフの屠殺人とさつにん』と呼ばれた。


 話し終えるとオレイグは椅子に腰かけた。アダムとエマはふたたび顔を見合わせる。

 ゲットーが解体されるということは自分たちがどこかへ連れて行かれることを意味していた。最悪、それは死をも意味している。


 「アダムさんにはゲットーに入れられる前から世話になってるから……せめて、あんたたちだけでも逃げてほしいんだ。

 さいわい、やつらはまだここにいる人数を把握していない。逃げるなら早いほうがいい」

 「……だが、逃げるにしてもどうやって? 出入口は兵士が監視してるんだぞ」

 「俺にまかせてくれ。トラックの荷台に隠してあんたらを逃がすよ」


 うむー……とアダムが唸る。


 「だが、その後は? どこへ逃げればいい?」

 「地図はあるかい? なるたけ広範囲のがいいが……」


 エマが棚から地図を取り出してオレイグに手渡す。彼はそれをテーブル上に広げた。

 そしてクラクフを指さす。


 「ここが現在地。そしてゲットーを出てクラクフ駅へ向かうんだ」

 「すると列車に乗るわけだな」

 「そうだ。で、ここから」つつと指を走らせる。

 「カジミエツ駅で乗り換え、ワルシャワへ向かうんだ。そこからリトアニアへ向かう列車がある」


 リトアニア。ポーランドの隣国で、バルト三国のひとつだ。


 「噂で聞いたんだが、ここの日本大使館がビザを発行してくれるらしい。だからリトアニアへ行けば……」

 「待て、待ってくれ」とまくし立てるオレイグを止める。


 「無理だ。途方もない話だぞ。それに私たちだけが助かろうなんて……」


 うな垂れるアダムの肩をオレイグが掴む。


 「頼む。あんたたちには生き延びてほしいんだ。ろくでなしでチンピラだった俺に仕事をくれた、あんたに恩返しがしたいんだ」


 頼む……とオレイグが懇願する。


 「生き延びて、この悲惨さを世に伝えるんだ」

 「オレイグ……」


 その時、寝室のドアが開いた。寝ぼけまなこのヤコブが出てきた。


 「パパ、お客さん?」


 エマがかけよって「大事な話をしてるから寝なさい」と寝室へ戻るよう促す。


 「うん、おやすみ。ママ」


 ぱたんとドアが閉まり、部屋は静寂に包まれた。


 「オレイグ、決めたよ。あの子にはこんな所にはいてはいけない」


 すっくと立ちあがると、棚のところまで歩くと、棚全体をずらしはじめた。するとその壁に小さな穴が空いており、アダムが手を突っ込んで布地でくるまれたものを取り出す。


 「いつか、必要になるかもしれないと思って作らせたものだが……」


 テーブル上に出されたそれは人数分のパスポートだった。表向きはポーランド人としてだが……。


 「決行はいつなんだ?」

 「明後日だ。あんたらを絶対に逃がしてみせるよ」



③に続く。

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