第17話 ある老人の物語①
『ひとつの命を救うものが、世界を救う』
タルムード(ユダヤ教の聖典)より
その日は雨だった。
ひとりの老人が傘を差しながら杖をついて歩く。老人はかなりの高齢らしく、歩くのも一苦労で顔には苦労という名の皺が刻まれていた。
ふぅとひと息ついて前方を見る。目的地の教会まではもう少しだ。
あと少し……あとすこしで……。
そう老人は自分を奮い立たせるように、ふたたび歩き出す。
聖ミカエル教会の礼拝堂の窓からフランチェスカは溜息をつきながら、ガラスに滴る雨水を眺めていた。
この分じゃやみそうにないわね……。
また溜息をひとつ。雨の日は参拝に訪れる人は少ない。それはつまり寄付金が少ないことも意味していた。
「あーあ。どうせヒマだし、撮りだめしたアニメでも見ようかな」
礼拝堂から住居スペースへ通じるドアのノブに手をかけようとした時だ。
扉が開かれ、そこから老人が入ってきたのだ。傘を畳んで申し訳なさそうに頭を下げる。
老人の顔は彫りが深く、ヨーロッパ系のように見えた。ドイツ人だろうか?
フランチェスカが訪問者の近くまで来る。と言っても、それでどこの人かを推しはかれるわけではないが。
「Guten tag. Was wollen Sie von mir? (こんにちは。何かご用でしょうか?)」
流暢なドイツ語でフランチェスカが尋ねたので、目の前の老人はびっくりしたようだ。
「ああ……英語は話せますか? 出来ればそれでお願いしたいのですが……ドイツ語は好きではないので」
老人にそう問われたフランチェスカがうなずくと英語で応対する。
「初めまして、フランチェスカです。なにかお困りでしょうか?」
「突然の訪問で失礼します。私はヤコブと言います。ポーランド系ユダヤ人です」
ヤコブという名の老人はぺこりと頭を下げた。
ああ、道理で……とドイツ語が嫌いな理由もそれで納得した。ユダヤ人と言えば第二次大戦時にナチスドイツから迫害されてきたのだから……。
「ときに、こちらは聖ミカエル教会の本部で間違いありませんでしょうか?」
老人があたりを見回す。
「確かにここは聖ミカエル教会ですが、本部じゃありません。本部はここからだいぶ離れています」
「ああ、そうでしたか……」とヤコブがしゅんとなる。
「ありがとうございます。お邪魔しました」
そう言うとヤコブはくるりと背中を向け、教会を出ようとする。その背中は弱々しげに見えた。
「あの、お待ちを」フランチェスカが呼び止める。
「雨が降っていますし、やむまで雨宿りをされては?」
ヤコブが振り向き、フランチェスカがどうぞと長椅子に座るよう促す。
「ありがとうございます」にこりと微笑み、腰かけてひと息つく。まるで我が家に帰ってきたかのように。
「助かりました。ちなみに、お嬢さんはドイツ人ですか?」
「スペイン人です」
「そうでしたか」
ヤコブが頷き、杖を傍らに置く。
「本部になにかご用があるのですか?」
「ええ、実はどうしてもお会いしたい方がおりまして……その方は私の命の恩人なのです」
ですから、と続ける。
「会って、お礼が言いたいのです。私が子どものときに、命を救われたのです。やっと探し当てたんです……」
「もし、よろしければお話を聞かせてもらえませんか?」とフランチェスカが興味津々で聞く。
「こんな老人の昔話でよければ……」
フランチェスカがヤコブのそばにすとんと腰を下ろす。
「私がまだ子どもの頃です……」
ユダヤ人の老人は目を閉じて遠い昔の、決して忘れえぬ記憶を思いだして話し始めた。
それはユダヤ人の家族と、出会ったあるひとりのシスターの物語であった……。
②に続く。
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