後日談 緋奈
後日談 前
夜がだいぶ深くなってきた頃、ボクは教会地区へと戻ってきた。
静まり返った街の中でしとしとと雨が降る音だけが聞こえる。明かりは外灯が点々としているだけで他には見当たらない。建物はぼやぁっと映し出された一角しか見えはしない。
教会地区は天使教団のテリトリーだ。中心に高々と作られた大教会。それを円を描くように街が囲む。各所に教会と孤児院があり、裁定者たちが取り仕切り、子供たちを育てては教えを説いている。ボクは生まれてこの方この地区で育ち、ここ以外を知らなかった。
整然と立ち並ぶ建造物の影でも、犯罪は少ない。教会地区の大人の住民のほとんどが教団に属しており、規律を守っている結果と言えるだろう。良いことではあるが、ここの外を見て知った。不自然なくらいに犯罪が少ない。
「だからまぁ、こんな夜遅くに出歩く人がそもそもいないわけだけど」
ずぶ濡れになった服が肌に張り付いて気持ち悪い。結局ここに戻ってくるまでずっと雨に晒され続けてしまった。早くシャワーを浴びたい。そして本当ならそのままベッドに飛び込んで泥のように眠りたい。
「はは、まぁそんなことはしないけど」
ズキっと頭が痛む。風邪をひいたわけではなく、天使の力を使った反動だ。それはごくたまにボクを苛み、悩ましい。
最近では睡眠時間が減った。活動できる時間が伸びてきている。眠くはなるが、寝なくても動ける時間が長い。きっとアレの影響だ。考えたくはないけれど。
「さてと、さっさと帰りますか」
長い間離れていたわけでもないのに街並みを見て感傷に浸ってしまっていた。このままでは本当に風邪をひいてしまう。
ボクは大教会へと足を向ける。
天使の子と呼ばれるボクらの住居はそこにあった。六人兄弟全員が、大教会に自室をあてがわれ、そこで日々を過ごしている。
夜道は街の別の一面を見ている気分になる。耳は良くても目は人並みだから、細かい部分が見えすぎなくてちょうどいい。大教会へと近づくにつれ、豪華な様相の建物が視界を覆い尽くしていく。
静寂。自分の心臓の音が一番大きく聞こえてくる中で、大教会の門を開く。
ギギィ、と錆びた鉄が擦れる音がして、空気が大きく震えながらその大きな扉が道を開けていく。
「ただいま」
真っ暗な空間がボクの声を抵抗なく建物の中へ響かせる。無論返ってくる言葉もなく、またボクの声も戻っては来なかった。
頭上を覆うステンドグラスは、光がなくとも微かに光を放つように不気味に浮かび上がっていた。
描かれるのは聖書に謳われた天使たち。ボクらが知る天使とは似ても似つかない幻想の神造生物。神でも、古の聖女でもなく、天使。ボクらが信仰する神に等しいもの。
彼らは神よりも人間に近しい存在であり、彼らであれば我らを祝福し救うであろう、というのが我らの表向きの教義だ。
「暗くて一人だと色々考えてしまってダメだなぁ」
今はとにかく温かいシャワーを浴びなければ。
門から入って右手の扉を抜け、廊下を突き当たると三つの部屋がある。左から、ボク、弟、そして妹の部屋と並んでいる。
ボクは自室へと入ると服を脱いだ。びしょ濡れになった服がズシリと重たい。ポタポタと垂れる滴が床を濡らしている。続けて下着まで脱ぐと、肌に纏わり付いたベタベタとした感触がなくなって少し清々しくなった。
「冷たっ」
シャワールームに入り蛇口を捻る。冷たい水を頭からかぶって、思わず声が出た。よほど疲れているらしい。
溜息を吐き出しながら冷水を浴びていると、それはゆっくりとお湯へと変わっていった。
「はぁー……気持ちいい」
冷え切った四肢が温まっていく。
血流が全身に温かい体温を運んでいくごとに、脳が働き始める。
思い出すのは作戦の顛末、各企業の情報、そして華雪の言葉だった。
ああ、悩ましい。
ザーッという音で耳を覆い尽くしながら、滴り落ちる無数の水滴を目で追っていた。
シャワーで纏わり付いた黒い水を洗い流してさっぱりした後、私服に着替えて大教会の祈り場へと戻る。
誰もいない。息遣いすら聞こえない。
自然と音を探す自分だけがいた。とめどなく聞こえてくる音を選別して聴きたい音を探す。それはもう癖のようになっていた。だがここはあまりにも音が少ない。
祭壇の奥には現在と寸分違わぬクライス・ハルモニアの像がある。聖人と言われた彼が祀られるようになったのはそう遠い昔ではないらしい。だが、ボクが生まれた頃にはこの像は既にあったらしい。そしてその像の裏手に、隠された聖域への通路がある。檻へと続く場所だ。
クライス大司教はボクの父親だ。聖人たる彼が別々の女性六人に産ませた子供たち。その一人がボク。それぞれが役割を持つらしいがボクはそれを知らない。兄たちのようになれば、わかるのだろうか。
「おかえり、緋奈」
身体がびくりと跳ねる。
突然気配が湧いたように、像の後ろからそれと全く変わらない見目の男が顔を出した。
「……ただいま。父さん」
クライスが闇から這い出るように祭壇へと歩いてくる。カツン、カツンと靴が大理石を叩く音が教会の壁を蹴ってボクの耳へとたくさん届く。
「ご苦労様だったね。大変だったろう、ジュディスと二人で出向くのは」
「……ん。大丈夫だよ。ついてきてくれたみんなが優秀だったから」
「そうか。それは何よりだ」
人の情の起伏を感じさせない声のトーンで彼は話す。だから彼は、父親というのとは少し違うのだとボクは思っている。
「魔導AIの件、これで貸し借りなしという形に、表向きはしたみたいだね」
「ええ。私からすればあの程度のことは些事なのだが。ふふふ、むしろアレが地上に出てしまえばよかったと思うよ」
この人はさりげなく恐ろしいことを平然という。
「まあ、アレの未来は元より閉ざされていたから、よいのだが」
「父さん」
「うん?」
この人の目は金色だ。妹であるジュディスと同じ。とても綺麗だが、全てを見透かされている感覚がして不気味だった。
「父さんの進めてる計画、本気なの?」
「もちろんさ。約束の日も、いずれは訪れる。……だが、ジュディスと君は、自ら選んだ道を行くといい。どうかその身が呑まれる前に」
ふっと口元を緩めて聖人は語りかけてくる。何もかもわかったような口ぶり、ボクとジュディスがやろうとしていることを彼は知っているのだろう。だが、止める気はないらしい。
「ん……わかった。好きにさせてもらう」
うん、と彼は頷く。
「あぁそうだ。緋奈、君はもう少し気をつけたほうがいい」
「え?」
「このままだと、約束の日を迎える前に、君は呑まれてしまうかもしれない。無理をしないように」
「……なんでもお見通しか。さすがは聖人様」
などと皮肉を混ぜてみても表情を露とも変えない。
「ふふ。私にも自らの子たちの先は見通せない。これは本当だよ。……特に君たち二人は可能性だ。その芽が潰えるのは私も悲しい」
言葉には慈しみが滲み出る。
本当のことなのだろう。この人は、ボクらの前では嘘をつかない。
「ひとまずはゆっくり休むといい。やりたいこと、成したいことがたくさんあるのだろう? 人であるうちでなければ、新しいことはできない。ゆめゆめ、忘れぬように」
ズキ、と脳が軋む音がする。
ふらり、と意識がぐらついて父親へと倒れ込む。それを抱きとめてくれる優しい腕。
「大切な我が娘。今はゆっくり休みなさい、為すべきことを為すために」
微睡へと落ちていく。ボクの目が最後に捉えたのは。
優しく微笑む、父親の顔だった。
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