二章 深淵に生るる幼き叡智

第14話

 漂う。揺蕩う。

 音はなく。何もこの世界を震わすことはないのだと思わせる。

 目を開ける。世界が広がっていく。

 翡翠が溶けたような水面が眼下に浮かび上がる。頭上には紺碧が広がり、それ以外は暗闇が包み込んでいた。

 ここはどこだろう。

 眼球しか動かすことはできず、見える範囲ではそれが精一杯認識できるものだった。

 肌の感覚が戻ってきて何も着ていないことに気がついた。ここには誰もいない。恥ずかしくもない。

 ふわりと空間が歪む。

 静かに、静かに現れたそれは、見たことがある姿をしていた。

 すらりと伸びた肢体。ほどよく育った乳房。それほど大きくはない臀部。間にあるくっきりとしたくびれ。

 それは自分だった。

 鏡を見ればいつもそこにいる自分が眼前に漂っている。瞬きをしてもそれは変わらず、そこにある。

 声を出そうとしたが、出ない。触れようと手を伸ばすが、届かない。離れてはいないのに、届くことはない。

 どうして、ここにいるのだろう。

 問いかけに応えるものはなく、またその疑問すら己の中で反芻することができない。思考が働きを放棄しているらしい。

 揺れる。歪む。

 目の前の己に、緋色の翼が生えた。身体と直接接触してはいないものの、それは間違いなくその艶やかな肌と繋がっている。

 直感だ。ただただ、直感だ。

 六枚の翼。それを見た記憶がどこかにあるはずなのに、思い出せない。しかもそれは、自分と同じ姿をした何かから生えている。

 眼前に漂うそれは口を開く。

『迂闊だったな。同胞よ』

 自分と同じ顔で、同じ声で、自分とは違う言葉を放つのはとても違和感があった。そんな威厳のある話し方などしたことがない。

 翼をはためかせ、近づいてくる。

 初めて、空気が震わす音が耳に届く。

『今暫く』

 その細い腕で、きめ細かな肌で抱きしめられる。柔らかく温かな感触に包まれた。

 蕩けるように、身体の感覚が混ざっていく。なにが自分なのか分からなくなっていくことが怖い。

 ああ。自我を失うとはこういうことなのだろうか。

 溶けて蕩けてとろとろに。

『身体を借りる』

 とぷん、と翡翠色に沈んでいく途中で、意識が途絶えてしまった。



 意識が身体に同化していくこそばゆさを感じながらゆっくりと目を開く。

 青白い光を纏う鳥が天井の下をくるくると円を描くように飛んでいる。鱗粉のように落ちてくる光の粉が煩わしい。

 徐に身体を起こすと、その鳥は肩へと止まった。まるで自分の居場所はここだと言わんばかりに。

 あの時の鳥か。とかすかに残る記憶を引っ張り出して納得する。そういえば、仲睦まじい姿を見たかもしれない。

『記憶情報へアクセス。『  』の脳へと共鳴』

 膨大な記憶情報が流れ込んでくる。その中から必要な項目を見つけ出した。つい最近の記憶だ。

「おはよう。アイオーン」

 ピュイ、と返事をして頬擦りをしてくる彼に微笑みを返し、部屋を見渡した。

 記憶にある部屋とは違い、整然と片付いている。誰かの手が入っているのだろう。

 ここは自室だ。そしてここは大教会と呼ばれる天使を祀る教団の中枢らしい。

「ふむ……『  』のことを彼らは天使と呼んでいるのか。……ならばこれより我らのことを天使と定義しよう」

 立ち上がり部屋の出口にあたる扉を開けようとして、気がつく。

 服を着ていない。それになんだ、この耳障りな声は。少し聞き覚えもある気配だが。

 記憶と相談し、下着を履き、パーカーを着、ショートパンツを身につけた。

 鏡を見ても違和感はない。

「ふむ」

 扉に触れ、耳を澄ます。

 やはり、この者の力とは相性がいいらしい。耳、翼、そして脳か。それにこの者、もう半分以上……。

「道理で、記憶にある年齢よりはるかに若作りなわけだ」

 ふふ、と微かに笑い。音を選別する。

 どうやらミサが行われているらしい。参加者は、百人を超えるようだ。それ以上の数を数える意味はない。そして、遠くに違和感を感じた。そうだ、これを確かめるために『私』は。

 だが、この部屋から出たとしてもどうしても礼拝堂を通る。あれだけの数をどうにかするには、この娘に負担を強いるだろう。

「恨むも、喜ぶも好きにするがいい。私の勝手にやる」

 空気が震える音を頼りに礼拝堂へと至る扉へと辿り着く。先ほどよりもずっと声が大きく聞こえた。

 これは人魚の声か。いつ聴いても心を惑わす罪深き声音だ。……聖母? 聖人なものか。あれは人心を惑わす魔女に他ならない。

「だが、ここでの私にはそんなことは関係がない」

 扉を開くと、鉄錆が擦れる音がしてミサに集まっていたものの声が一様に止まり、視線がブワッと集まった。

 我ら天使を崇め奉る信者どもが固まる。

「緋奈様、快復なされたのですか」

 一人が私に近づこうと声をかける。それにつられて他の者たちも同じように近づき私を囲もうと連なった。

 煩わしい。

 慣れた動作で服から飴玉を取り出し口へと放る。味が舌を駆け巡り体内へと染み込むにつれ、身体が私に馴染んでくる。

 思うより先に翼が姿を現す。はためく羽の一枚一枚が空気を叩き、私の身体を上へと押し上げ、礼拝堂の天井ーーステンドグラスの直前へと運ぶ。

 ひしめく人間の成れの果てたちが手を合わせ、祈りの声たちを吐き出す。

「ああ……天使様」「ついにあの方も、昇華なされたのか」「これで我らの道は拓かれる」「天使様、どうか我らに祝福を」「あれほど人間らしかったお方が」「救いよあれ」

「歯車となることを望まなかったお方が」「我らの祈りが届いたのだ!」

 五月蝿い。うるさい。ウルサイ。

 揺れる。頭が痛い。煩わしい。愚か者どもめ。

 バサリ。翼の音が他の騒音を遮断した。

『今暫く眠れ。この声が聞こうるならば。ーー我は貴様たちの覚醒を否定する』

 脳の機能を解放。チャンネルは自然と合う。当然だ。我らは言葉を届けるために本来想うだけでよいのだから。彼らの脳に直接働きかけ睡眠を誘発させる。私がしたのはただそれだけだ。

 一人、また一人と抗えぬ睡魔に耐えきれず意識を泥に沈めていく中、青い髪をした修道服の女は瞬き一つせずこちらを見上げていた。

 その女は周囲の者が倒れていくのを一瞥もせず、タバコに火をつけそれを口に咥えた。

 その動作、その顔、その雰囲気に懐かしさを覚えている。それは私のものか、あるいはこの娘のものか。わからない。が、脳裏に浮かんだ言葉が全身へと伝播し、鼓動がのたうち回るように早くなる。

 ーー『危険』だ。

「私は、緋奈。君が昇華するとは思っていない。それに……その緋い翼。……真意を、問わせてもらうぞ」

 煙を燻らせ、ふうと吐き出したその女ーー乃亜は仮面を外し、その奥の赤い瞳で私を見た。

 刹那、彼女は天へと手を振りかざし、その腕からは無数の赤色の滴が飛び散り礼拝堂を舞う。

『我が落とし子よ。彼の者を貫き、喰らいつけ』

 じわりと滴の色が灰色へと変色し、それは針のような姿へと変貌した。その無数の針たちは迷いなく私へと向かってくる。

 空気を吸い込み、吐く。

 翼は身体の一部のように閃き、咄嗟の回避に成功。そのまま礼拝堂の入り口の右側へと降り立った。反応速度では負けていない。

「そら、その程度で安堵している場合か?」

 女はもう一度腕を振る。一手前より女との距離が近い。おそらく回避は間に合わない。系譜に連なるとはいえ、やはり人の身体は重過ぎる。

「待ってください! 乃亜様」

 赤い髪の女が叫び声と共に私の前に飛び込んできて、両手を広げる。

 ゾクっと背筋が凍る。飛んでくる針が空を切って女ーー妹へと向かう。

 ーー家族は守る、何があっても。

「あぁ、いいだろう」

 危機を感じ、一秒をさらに引き伸ばした時間の中で彼女が私へと語りかけてきた。

 意識の覚醒が思っていたよりも早い。ならばその強き意志には従おう。

 呟くと同時にジュディスの左肩を掴むように右手で押し除け突き飛ばす。

「姉さーー」

 ふっと口元に笑みを浮かべて真横に降る雨をまともに喰らい、空を舞う。翼は砕け散るように霧散し、身体は紙切れのように背後の壁へと貼り付けられた。そこへ。

「っ……」

 一閃、身体の中心へと突き刺さる大槍。衝撃と共に壁がくり抜かれ、砕け散って私は後ろへ吹っ飛ばされる。

「か……は……」

 背中に衝撃を感じたと同時に腹部を貫く槍が深々と背後にある何かにめり込み、磔になってしまった。

 もちろん、身体の持ち主とは感覚を共有している。

 貫通した身体の中心部には鋭い痛みが駆け巡り、背中には鈍い痛みが残響のように響き渡る。意識がぐちゃぐちゃになるほどの痛みが襲ってくる。

「姉さん!」

 駆け寄ってくる右目が金色の女は、悲痛な表情をしていた。まるで、助からないものでも見ているような。

「乃亜様、さすがにやりすぎかと」

「あれほどの力を持つ者に逃げられるわけにはいかないだろう。たとえそれが身内であっても」

 パシャリ、パシャリと音を立ててタバコを咥えた修道女が歩いてくる。その足元には白い花々が咲き誇っていた。あれは、鎮魂の花……か。

「ここは数々の魂を鎮める場所です。あまり大きな音は。それに緋奈様の血が……」

「あー、わかっているよ。宵月、そこまで言わなくてもいい」

 私の意識ははっきりとしていたが、耳に届く声は遠い。この娘の身体が危険な状態にあるのは明白だ。

「おいお前。何が目的だ。……あの時いた天使だろう」

 怒気を孕んだ声で乃亜はこちらへ問いかける。その声とは裏腹に焦りは感じられない、彼女は実に冷静だ。

「私は、『ボク』は……確かめなければならないことが……ある」

「それは?」

「ーー特S区画D13」

 すらすらと口が動く。どうやら緋奈と呼ばれるこの女も気付いているらしい。この違和感に。

「………………いいだろう」

 その目にどんな色も宿さぬまま、ギリっと歯軋りをして乃亜は槍を血液へと戻した。その血液をそのまま活性化させ腹部の傷を綺麗に塞ぎ、元の状態へと再生させた。

 むず痒い感覚ののち、平常へと戻る。

「お前たち二人は我らに一番近い」

「……あぁ、わかっているさ」

 この件は内密に処理しておく、と言い残して青い修道女は礼拝堂へと立ち去っていった。

 私は泣きじゃくる女の髪をひと撫でして、柔らかく微笑んだ。

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