第13話

「随分と殊勝になったものだ」

 風を切る複数の鋭い音が、聞き覚えのある声とともに落ちてくる。

 驚きに目を見開く。霞む視界が少しはっきりとして、状況を捉えていこうと働き出した。

 数歩先に複数の槍が降ってきて、ボクの眼前に迫った死は後方へと退避する。その槍は歪な形をし、まるで生物のようにうねり、次の瞬間にはドパァと心地の悪い音を立てて破裂した。後に残ったのは灰色の水たまりだけ。

 直後、パシャっと軽く水を踏み鳴らす音。黒い外套を羽織った人影がふわりと爪先から舞い降りた。

「聖女が言った通りだな。……無事で何よりだ、緋奈」

 振り返るその目元には仮面がある。右目の位置に大きな赤い瞳が描かれた、忘れるはずもない異形の仮面。その赤を際立たせる深い青のショートヘア。そして口に咥えられたタバコ型グノーシス。

「乃亜……様?」

 灰色の水たまりが、彼女の足元から吸い込まれるように消えていく。まるで大樹がその根で水を吸い上げるように。

「久方ぶりの土産話を聞きたいところだが、まずはこっちからだな」

 白い煙を吐き出して、我らの特別な信徒は正面へと視線を戻し、襲撃者二人を睨め付ける。

「どうやら簡単には逃してくれないらしい」

 おもむろに彼女は頭上を仰ぐ。つられて見上げるとそこには恐ろしい光景が広がっていた。

「なに……?」

 突如視界が開けていく。ボクの脳髄がそいつを認識したいと騒ぎ立てる。

 耳が、その翼の羽音の一つ一つまでを聞き分ける。揺れるたびに震える風の声をも拾い続ける。そして、常人では捉えられないその音を捉えた。

 ーー同胞よ。

 弾かれるように体がびくりと跳ねた。身体に走る痛みがボクを正気に引き戻す。

 天を覆うほどの緋色に煌く巨大な六枚の翼。その中心に揺蕩う一糸纏わぬ女性。目を瞑り、口を開くことはなく、人間の命の鼓動が聞こえない。あれは地上の人間によく似てはいるが、明らかにこちら側の存在なのだろう。サイズを見ても巨人と言わざるを得ない。

「あの二人は、アレに操られているようだ。目を閉じてはいるが、アレは緋奈、お前をずっと見ていたらしい」

 眼球を動かして視線だけを乃亜様へと戻す。その先に佇む二人はすでに動き出していた。

 一人は鱗のようにその肌を硬質化させ、矢のように飛ばす。無尽蔵に作られるその攻勢は止まることを知らない。

 一人は自身の身体をバネのように使い、その右腕を槍のように変化させてその圧倒的なスピードを用いて眼前の敵を刺し貫く。

 そのどちらもがボクらの仲間だった。だが今は既に精神の限界を超え、その力は止めどなく無尽蔵に使用される。彼らはもう、手遅れで、化け物で。天の女に使役されるだけの傀儡となってしまった。

「倒すか?」

 乃亜様は左手の前で槍を回転させて矢を防ぎながら、右腕に握ったもう一振りの槍でとめどなく襲い来る飛び槍をいなしている。相変わらず凄まじい腕前だ。

 ボクは逡巡し、ある記憶に行きついて、彼女に首を振った。

「……いいえ。彼らはおそらく不死を殺す方法をアレによって得ています。……万が一のことを考え迅速な撤退を」

「……了解。もう少しだけ時間を稼ぐ」

 小さく舌打ちが聞こえた気がする。

 天の女は、こちらを覗いているだけでそいつ自身ではなにもしてこない。だが、操っているということはもしかしたら。

「ーーっ!?」

 思考を遮る突風が吹いて、傍らに気配が飛び込んできた。

「ご無事ですか? 緋奈様」

 侍るように女が出現する。アッシュピンクの髪が目を引く、フードを被った女性。

 乃亜様の従者、宵月だ。彼女はボクの風体を見て焦りを露わにする。

「っとと。無事じゃないですね。……少し失礼します」

 ボクの顎をくいっと持ち上げ口にキャンディを放り込む。檸檬の味が口の中で広がっていく。

 ニューアークの摂取量を増やすことで身体の治癒のサイクルを一時的に加速する、再生能力を持たない者への応急処置。ボクは元々回復は早い方だが、腕がまだ動かなかったから正直助かった。

 じんわりと身体の各部位が熱を持っていく。痛みとは別の、くすぐったいような感覚が脳を痺れさせる。

「ん……」

 完治には時間がもう少しかかるが、動くだけなら問題ないくらいには回復したようだ。身体に力が入る。

「宵月……緋奈を連れて先に撤退を。わたしはこいつらを撒いてから合流する」

「了解です。乃亜様、お気をつけて」

 ああ、と振り返ることもなく乃亜様は牽制に移り始めた。左手の槍を投擲し、鱗男を飛び退かせ、突っ込んでいった。

 この二人の信頼関係の強固さは教団でもかなり有名だ。言葉にせずとも繋がっている何かがあるのだろう。

「たびたび失礼いたします」

 ひょいっとお姫様抱っこをされる。女の子にしてはかなりの力持ちだ。

 動けるとはいえ、全力で走ることは到底できそうにない。どうあがいても今のボクは足手まといだ。

「ごめんね、宵月」

「いえ、お気になさらず。私たちは貴女を助けに来たんですから。当然の判断です」

 彼女は空を見上げる。青い光を放つ鳥が安全を確認したのか降りてきた。

「ここまで連れてきてくれてありがとう。帰りもお願いします」

 宵月は青い鳥に声をかけ、会釈をする。ピュイ、と返事をしてアイオーンがボクらを先導して飛び始め、青い光線がごとく道標を残していった。

 天に揺蕩う女には見られている気がするが、それ自体は何かをする気配はない。

 アレはおそらく、意志ある生命体だ。仲間であった信徒を操っているとというのが本当ならば、だが。

 ならーー。

 抱き抱えられながら、風を突っ切っていく。エメラルドの森はいつの間にか赤く染まっていた。

 目を閉じて、意識を集中する。先ほどまでの恐怖は乃亜様と宵月のおかげで吹き飛んで、精神が安定してきていた。

 チャンネルを開くと、ボクを助けにきた彼らによく似た波長があの天の女から発せられているのがわかった。これならボクの声が届くかもしれないーー。

『聞こえるか、天におわします天使よ。我らはこの地より離脱いたします。今すぐ攻撃の手をーー』

 ズキン、と脳に激痛が走る。これは、なんだ。

 ーー同胞よ。

 脳が何者かと繋がった感触がした。自身の脳が何か別の存在の思考を勝手にしている感覚が気持ち悪い。

「うぁ……」

「緋奈様?」

 逆流してきた。嵐のように思考と言葉がなだれ込んでくる。どれもが重なり合って意味を為さないがこれはおそらく、ボクの脳の処理が間に合っていないだけ。聞こえたのはほんの一部だけだ。

 ーー同胞よ。貴様に免じて此度は退こう。

 捉えられた言葉を機に脳の中で騒ぎ立てていたノイズが止む。安堵の溜息をつくと同時にボクの意識が闇へと沈んでいくのがわかった。

 脳が休息を欲している。抗うことはできそうにない。

「大丈夫だよ……そのまま、戻って……」

 まぶたが開かない。思考ができない。

 どんな音も、声も今は耳に届かない。

 静寂の眠りへとボクは落ちていった。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る