2 ステイホームする!【莉緒】

「会うのは控えよう」


 付き合って五ヶ月になる三つ歳上の彼、こーくんにそう告げられたのは、一週間程前の夜のこと。

 一瞬、息抜きしたくて、ふらりと出た総合病院の中庭。私、野波のなみ莉緒りおが、医療事務として働いてる場所。


 ウッドデッキの乾いた音も、冷たい風も、星の見えない紺の夜空も、いつもと変わらない三月の終わりに見える。なのに、ざわざわと揺れる緑が、背中からそっと不穏な気配を忍ばせて来る。


 いつか、ここへもきっと。


 ふいに振動したスマホに、身体がビクリと反応した。


 怖かった。

 私を心配してくれる言葉も、自分の体調を尋ねる問いも、未だ楽観的な遊びの誘いも。スマホを開く度に数を増す未読の分だけ、私の不安に加算されてく。


 まして、対面する発熱患者さんには、どうしたって緊張感が拭えなかった。抗議や問い合わせの声と、容赦なくぶつけられる感情と。カウンター一つ挟んで、ピリピリとした空気が伝わらないよう。平常心で。


 軽く見過ぎず、かと言って、怯え過ぎず。

 自分自身にも、言い聞かせてること。

 感染予防策なら、それが日常になるほど徹底してきた。

 はず。


 世界に蔓延する未知のウィルスに、誰もが振り回され始めた頃。


 だからこの時の彼からの着信には、一瞬でいろんな想定が駆け巡った。


「もしもし、こーくんっ? 仕事終わったの? お疲れさまー! 私もねー、これから帰るとこなんだー!」


 早口になってたかもしれない。月末はレセプト業務が忙しくて残業中だったのに、なんか、仕事帰りって嘘付いちゃった。


 元気なこーくんの声に安心する。

 でも、こーくんがもっと安心した毎日を送れる方法を、私は知ってる。


 ずっと言い出せないだけで。

 こんな理由で別れるなんて、私自身が避けたいだけで。

 先延ばしにできたら……。


「おれ、ほんまに莉緒のこと好きやから!」


 ハッキリと否定してくれた後の、こーくんの言葉。力強いのに、こーくんの関西弁が柔らかく染みて。


 何よりも、心強かった。


 ***


 そして今日、こーくんと三回目になる、寝る前の雑談タイム。

 まさか、パソコン越しで会う日が来ようとは。こんなすごい技術を開発してくれた人たちに、感謝しかない!


 この瞬間だけは、お互いに一人暮らしで良かったかもと思う。家族に彼氏との会話聞かれるとか、絶対無理だし。特にお父さん。


 さて、帰宅時間を一時間程偽った今夜。私史上、最高のメイクアップを済ませた。

 だって今日、後輩に「先輩の彼氏さんって、アプリで盛りに盛った超絶美人に、簡単に騙されそうですよね」なんて、脅されたんだもーん!

 偽美人に、こーくんが‼︎

 あってはならない‼︎‼︎


 おかげで時間ギリギリになっちゃったけど。


「莉緒、お疲れさま」


「こーくんっ! ただいまぁ」


 見て見てっ!

 今日の私、過去最高に可愛い……。


「あっ! 待って、こーくん! こっち見ないで‼︎」


「えっ? ど、どうした? カメラオフにしようか?」


 何で? どうしてっ?

 一番気を抜いちゃダメなやつぅーーー!


「……部屋着のままだったぁぁぁ」


 膝を抱き、涙声の私に、こーくんが小さく笑った気がする。ひどいよぉって、抗議すると。


「大丈夫だよ、莉緒。そのままでも可愛いから」


「へっ?」


「その……ブタさん? かな」


 ブタって、この胸にある、Tシャツの柄のことか。


「猫だけど」


「あ、猫? ごめん、よく見えなくて」


「猫だけど」


「う、うん。ごめん……」


 しかも、よく見えないって。


「こーくん、私は?」


「え? 莉緒は……、いつもどおりだよ」


「いつもどおりっ?」


「う、うん。いつもと一緒で、っていうか、あの、その……」


 何をためらってるんだろう。変な気の遣い方は、余計に気になるんですが?


 もしかして、パソコンって太って見えるのかな? 店員さんに勧められるがまま選んだ、スペック? スペックのせいとか? 高い方が痩せて見えるとかっ?


「……莉緒? おーい、莉緒ー?」


 けど……。

 こんなにこーくんにじっと見つめてもらえるのは、付き合ってから初めてかもしれない。

 当たり前が次々に失われてく日々に、変わりはない。でも、今の時代に生まれて、こーくんと出会えて、本当に良かった。なんて、心の中で思うくらい、いいよね。


 よし! 絶対に痩せて、次は私が可愛いって言わせたい!

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