2-2


「お前の店の経営は大丈夫なのか?」


「細かいことは知らん。つつましくやってるから大丈夫のような気がする」


「気がするってなんだよ」


 わだかまりがほどけて見えてきたのは、俺たちのつながりは秀美だったという事実である。俺は乗り越えていけそうになかった。いま初めて気づいた。秀美という友人の喪失は重い現実としてのしかかっていた。


 秀美との関係はまともな関係だったんだ。


 近しい友人も女も、他の人間関係は常に破綻してきた。竜也との関係の内実が限りなく曖昧なものに思えるいまとなってはしっかりと維持できていたのは彼女だけだったと言っていいだろう。俺は足元の地面が崩れていく感覚に襲われていた。


 俺は何を失ったんだ?


 あからさまに述べれば人の運命を司る神のような存在に、自分が生きていく上で不可欠な、決定的に重要なものを奪われたことに気づいたのだ。こうなるまで気がつかなかった。


 茂みにいる灰色の猫が視界の奥で身を起こし音もなく立ち去ってゆく。


 取り返しのつかないものを失ったんだ。


 しかし不思議なもので揺らぐ足場を強固な土台に建て直したのは他ならぬ竜也の言葉だった。


「鶴田天龍はどうだった?」


 昨日のメインエベントである。


「鶴龍言うてもタッグマッチ。鶴田・谷津対天龍・阿修羅原」


 その年に亡くなったレスラーの追悼試合として組まれたカードだった。


「それっていまの黄金カードだろ……? 俺も前田鶴田戦が組まれるんならいますぐプロレスファンに戻るんだがなあ」


「それは夢だろ」


「で、内容は?」


「熱い試合だったよ」


 再会の時間は短く、竜也は職場に戻っていく。彼は去り際に快活な様子で俺に手を振った。俺は右手をかるく上げて返した。俺と竜也はこんな風にして別れたのだ。


──いま、二○二○年の地点から振り返ると「熱い試合だった」はあまり正確とは言えないレビューだろう。

 テレビ放送で見ればクオリティの高い内容だったのは確かでも、俺が現場の体感を味わった場所は二階席である。リングサイドの観客たちは別世界の住人だった。そのことが衝撃だった。その領域の熱量が。脳や内臓にまで届き全身に響く熱。リングをコアとして周辺に発生する熱狂の渦とうねりを俺は上階から見下ろす形で体感していた。本物を見た、というのが率直な感想である。


 もちろんそこには観客側の〈自分たちが盛り上げよう。団体を支えていこう〉という意志、危機感があったことは記しておくべきで、当時の全日本プロレスが選手の大量離脱を受けてそれまで以上に“試合内容”に重点を置かざるを得なくなる、その過渡期にあったことは触れておかねばならない。

 天龍×鶴田(解説:厳密にはこの時点では天龍氏の方に選手としての大きなバリューがあったのです。鶴田氏は圧倒的な強さに定評があったとはいえこの時点ではまだ天龍氏によって“自身の凄味を引き出される”立場にありました)は歴史目線で言えばひとつのブランドにとどまらずその分野の中核を担っていたのだ。


 二階席からの視点で正直に言えば観客側は厳かなムードを維持したままに見終わった試合だった。誰もが時代の節目、転換点を感じていて、この先、変わっていかざるを得ないし、変化を受け入れざるを得ないと覚悟していた。

 そう。俺たちは覚悟しなきゃならない。この覚悟が当時の崩れかかる俺に太い柱を築き、俺なりの未来に向けた視点というものを与えてくれていた。このあと日本は激動の九○年代へと移行してゆく。竜也とはこの日を境に一度も会ってないし連絡もとってない。


 あれから三二年。俺は五七になり、やつも五七だ。鶴田さんを含め様々な人が逝き、天龍さんを含め様々な人が現役を退いた。


 俺の考える“もし”は究極に進化したAI──アーティフィシャル・インテリジェンスが世界を支配する未来。彼らはどこかの地点で《人間にしかできないこと》に価値を見いだし、判断基準をそこに設定するだろう。八○年代のプロレス、八○年代のプロ野球の熱狂は二度と起こり得ない現象だが、彼らなら新時代の覇者としての義務感から旧文明の粋が凝縮されたこの二つの分野に対して検証と再評価を行うのではないだろうか。俺はそう信じたい。そのとき人類はあらゆるしがらみから解き放たれる。

 あらゆる体験が脳内で可能となるその時には失われた時代さえ、創造できるのではないかと思うのだ。


 秀美が生きていた世界軸と同時にね。






   一九八八年のif   おわり

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一九八八年のif 北川エイジ @kitagawa333

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