君が愛したこの街で

なかoよしo

第1話 OUTSIDER(仮)

   一   




 誰も好んで寄りつくことのない裏路地の、今は誰も住んではいない廃屋の前で、一人の女性が座っていた。ちいさな階段、段数はみっつ。彼女はそこに腰掛けて、いつも誰かを待っていた。コンクリートの階段は冷たく、日毎、彼女の体温を吸っていた。彼女は自力では立ち上がることも不可能な身体の持ち主で、股間から左側面には、正常な人間ならば誰もが生まれながら持っている筈の部位を持ってはいなかった。だから松葉杖をつく。スカイブルーのチュニックドレスを着て、デニムのスキニーパンツをメタリックメッシュのベルトでとめて履き、靴もお洒落にウェーブメッシュのブーツで決めていても、彼女は身体的な障害を背負っていた。それでも彼女は自分を卑下したりはしなかった。それは彼女が、あまりにも美しすぎたからだと人々は言っていた。


 気品と風貌。


 明眸皓歯とは彼女のためにある言葉だと誰もが思い。

男なら誰もが彼女を自分のものにしたいと思っていた。

実際、彼女は何度もそういった連中に暴行をうけ、身を汚されてきたものだったが、彼女には泥の中にあっても汚れない、確固たる信念のようなものがあったから、彼女はそれを深くは考えなかった。

あらゆる不幸は彼女にとって、ありふれた日常として隣りあわせのものだったが、彼女はいつも笑っていられた。


何にも執着していなかったからだ。


 希望は過去に捨ててしまっていた。

 

それでも彼女は待っていたのだ。


 いつか誰かが現われて、自分を救ってくれる日が来る。

妄想に狂信していたのだろう。

 彼女は自分がなぜ、そう思っているのかさえも解ってはいなかったが、それは五年も前に遡る。

 それはまだ二人以上の人間が顔を見合わせて挨拶のかわりに話題にする犯罪者が世間に名前を広めていた頃のことである。


 彼女は、その日もこの場所で、おなじように座って待っていた。


 それは今、彼女が待っている者とは違う。


 幼い少女が恋に夢見て憧れる心地で待つような、甘く温い感情で、愛だと勘違いして待った男のことだった。

 初めての失恋に絶望し、自暴自棄になりクダラナイ相手に身を委ねてボロボロにされてみたかった彼女。したこともないような賭け事でお金をなくし、無一文で何もできなくなって、それでも相手のことが忘れられずに苦しんでいた夜。

 月明かりが闇夜をてらしていた。

 そんな彼女にお金を手渡した赤の他人は、自分をしっかり持って強く生きるのだと、力づけた。


その人は、彼女と同じ年頃の妹がいるのだとそう言った。


彼女は、その男の優しさに、とことん甘えてみたいと、錯覚の愛で、無闇にこんな言葉を囁いた。


「今日は帰りたくないの」

 と。

 

 それが精一杯の彼女の勇気だったからだ。




   二




「今日は帰りたくないの」

 夜はふかく淡い、だから俺もふかく淡く考えた。

 その彼女の言葉の意味するところを。

 ありきたりで退屈な、あたりまえの回答を何度か頭の中でシュミレーションをした後に、俺はまた、不器用に笑って。

「だからって石畳の上で寝るのは不衛生だし犯されても文句は言えないぜ」

 はぐらかした。

 それも不器用な態度だと自分の不器用さを自嘲したが、彼女の中にある決意だか覚悟のようなものが、それを許してはいないのだろう。

「でも、あなたは助けてくれたわ」

 悠然とした声。

 俺には身の毛もヨダツものだった。

 俺はまた不器用に。

「変わり者なのさ

それに、ただの金だけだぜ」

と笑う。

「いいえ、ちがうわ。

英雄なのよ」

 俺は苦笑。

「おだてるなって、笑いが止まらなくなるじゃないか。

 それより・・・なんだって」

「いいのよ、あたしなんて。

 彼に振られるあたしなんてもういいの。

 もう生きているのも時間の無駄だわ」

 自暴自棄な彼女に嫌気がさす。

「そりゃ幸せな奴の言い逃れだな」

 彼女のトーンにあわせて語を連ねる。

「あんたにあたしの何が解るの?」

「わからねぇよ。

 でも、どうしても死にたいというのなら、そいつも道連れにしてみないか」

 俺はそのとき、自分でバカなことを言っていることにさえ気がついてはいなかったんだ。

「どういうこと?」

「そいつを呼びだせよ。

 俺がそいつを殺してやる。

 依頼料は、あんたの命だ」

 彼女の、俺をみる目が一瞬で豹変。

 彼女は軽蔑の視線を俺に向け、軽蔑の言葉を吐き出していった。

「あんた、イカレてんの」

 と。

「さぁな」

 俺は自分でも解釈のつかない感情に押し流されて、そっと彼女から視線をはずすと呟くように、その気持ちを言葉にしていた。


 何も知らないでいられるということは幸せだが、もっと幸せなのは、何も知らないままに事が終わってしまうということだ。


「俺の言葉に意味などないのさ。

 さっきも言ったろ。

 単なる変わり者だというだけさ」


 それは悪魔の囁きで、もちろん俺は自分という固体への執着もなければ愛情もない。

 そのため、本来、発生するはずの人間らしさや情緒が不安定なのだろう。


 彼女に・・・


「おまえならきっと幸せになれるはずさ」


 なんて脈絡もないことを言ってしまう。


 本当は、彼女を邪魔にしか思っていないくせに。




 だけど、人は、時に思ってもいないことをする。


 理屈に合わないことだってする。




 トゥルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルル・・・ピーッ。




「・・・わたし、あなたに用があります。

 あなたに手を貸してほしいんです。

 でないと、あたし・・・連絡先は・・・

 あなたからの便り、お待ちしています」




 その女のことなどハッキリと覚えている訳などなかったし、俺は過去の自分とは決別し、運命なんて言葉に縛られる自分など腹立たしいだけで興味もない問題だったが、彼女の心は俺の心をひきよせる。

 無意識の中に引力を持っていたのだろう。


「運が良いな。

 俺は他人とは滅多にあったりしないんだ」


 彼女の体は肉体の一部が欠けていた。

 俺には、そんなことをする人間に心あたりがあったが、その男が既に、この世のものでもないことを知っていた。それはもう昨年の話で、俺の中では過去の事象と割り切っていた現実だが、彼女にとっては死ぬまで消えない現実だった。

 女の名前は思い出せない。

 この女が誰だったか。

 誰であろうと関係はない。

 俺は彼女を救ってやろうと決めていた。

 その理由なんて、なんと言うこともない。

 彼女がただ、俺の妹と同じ年頃の女だというだけで充分だと、俺は頭の中で解釈していたからだ。

「実は・・・

 殺してほしい相手がいるんです」

 彼女は、純粋なのだろう。

 ふりしぼるように言葉をはきだす。

 そんなことは俺にとってどうでもいい、朝おきて顔を洗うくらいに日常的な、他愛もない問題なのにだ。

「殺して欲しい相手はダーティージョーカーか?

 だとしたら、もう手遅れさ。

 彼ならとっくに黄泉の国だぜ」

 俺がジョークのように笑って言うと、彼女は訳が解らないという風体で、あわてて首をふって否定した。

「いいえ、もちろん違います。

 私が殺して欲しいのはミスリード。

 運命をも狂わせるという暗殺者です」

 と。

 冗談ではない、真剣な目をした彼女の刺すような瞳が俺の心を射ぬいていた。

「その男に、君はいったい何をされた?」

 心あたりを探ってみたが身に覚えなど一つもなく、いや、それは恨まれる覚えという意味ではないが、彼女の顔に心あたりがなかったのだ。

 彼女の瞳に視線をおく。

 彼女の表情が変わっていた。

 怪訝と、それ以外に形容のしようのない表情で、彼女はきいた。

「おとこ?

 あなたはミスリードが男だと思っているのですか」

 それが彼女に疑いの芽を飢えつけた言葉だったのだと解り咄嗟に。

「意味はないさ。

 女だという噂もきいていなかったから、そう思った。

 君は、なぜ俺にそんなことを聞きにきた」

「あなたが凄腕の殺し屋だと、ライト&シャドウのマスターが言っていたわ。

 この世界に、あなたを越える犯罪者は存在しないと・・・」

 それは、ライト&シャドウのマスターであるダラー・プラッチフォードが、俺のことを知っているから言っているのだ。

「だからどうしたいんだ?

 それだけの知識で俺を縋ってきたのか?

 無防備すぎるぞ。

 もしも、その気があるのなら俺は今すぐにでもオマエの頭を胴体から分断することだってできるのだ。

 そもそも、俺がオマエの望みを聞くとは限らない。

 どうだ。

 ちがうのか」

「ちがうわ」

 即答。

 彼女は真剣な目で、射るような瞳で。

「わたしには何の力もない。

 もしも、このまま何もしないで終わってしまうくらいなら、わたしはあなたに殺されたっていい。

 そう思ったから・・・

 他に手立てがなかったから・・・

 おねがいです。

 身勝手で独りよがりな事を言っているのかもしれません。

 でも・・・」

 俺に祈る連中はみんなこうだ。

 いつも切羽詰まっている。

 だから心が擽られてしまうのだろう。

俺は彼女の言葉に耳を貸していた。


「なぁ、いったいどうして、おまえはそいつを殺してやりたいんだ」




   三




ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ・・・




 雨が降っていた。

 鬱々とした気分がそうさせたのか、普段では決してとかない変装をやめて俺が街を歩いていたのは偶然だった。でも、

「○○くん」

 と呼びかける彼女の方は、どうだったのか解らない。

赤いパラソル・・・

「君は?」

 きくと彼女はおどけて、

「あ~れっ、記憶にない? けっこ~目立っていたつもりなのにな、ほらっ、わたし、よ~く顔を見てみてよ」

 俺は言われるままに彼女の顔を覗きこんだ。

 人目をひくには充分なほど綺麗な顔立ちだな。

切れ長の瞳にロングヘヤー、かすかにウェーブがかかっているな。スレンダーでスタイルもいい。パンツルックでも大人の色気をムンムンに全開させているような女だな。

「もしも間違っていたら、許してくれ」

「いやよ。

 ちゃんと当ててみせて」

「まいったな。 

 あんまり他人のことを覚えない性分なんだから」

「それは今に始まったことではないでしょ。

 だったら」

「月島ゆりか、か?」

「何故そう思うの?」

「ふるい俺を知っていて、俺の存在に気がついて、尚かつ声をかけてきそうなヤツをリストアップしたら」

「わたししかいない。

 解りきったことでもワザワザ推理でもしているよう、もってまわった言い方、わたしは嫌いじゃなかったわ」

「今は?」

「今もよ。

 すこし雨やどりしてみない」

「ちょうど昼飯を食いに行くところだった」

「外食?

 恋人はいないのね」

「いるさ。

 ちょっと遠いところで休んでいるというだけでね」




   四




 再会という名の喫茶店。

 五時以降はカクテルも用意されてあり、シックでシュール。

 玄関口のドアを開けると奏でる鐘は癒してくれるが、店内の雰囲気も上品で格調たかい。

 建物の造りには何の問題もないのだが、俺にはタイトな部分がまるでないと、そう思った。

 その理由は次の彼女の科白で物語る。

「ここの名物は女言葉で話すマスターなのよ」

「化粧をしているが」

「オカマともいえるわね。

 名物なのよ」

「あんまり関わりたくはないが」

「大丈夫、クチはかたいわ」

「失礼ね。

 アッチも硬いわよ」

中年男が案内をする過程で割っている。

が、俺は邪険に追い払った。

「わりぃが重要な話なんだ。

 クチを挟むのはやめてくれ」

「ふふふっ」

「なんだ?

 ヤな笑い方だな」

ゆりかは楽しそうに微笑しながら、俺の顔を覗きこんで見つめていた。

「あいかわらず人見知りが激しいのね」

「ベッドの上でも激しいぜ」

「いつも筋肉トレーニングでもしてるから」

「かもな」

「なんで雨にうたれていたの?」

「虫けらの俺には相応しいと思ったのさ」

「謙遜ね」

「んなことないさ」

「カウンターにいく?」

「勘弁してくれ」

「じゃ、あっちの席につきましょう」

そういう彼女に促されて、俺たちは窓際のテーブルに着席した。

「とりあえず何か頼みましょ?」

「おなじもので良い」

「わたし、コーヒー飲めないから紅茶になるわよ」

「かまわないさ」

「じゃ、マスター。

 モーニングセットをレモンティーで二つ、おねがいね」

「はい、ブラジャー」

 すごい時代錯誤なオヤジギャグだな。

「ムッとした顔してないで。

 わたしといるのが、そんなに不満?」

「不満は、あの男に感じているのさ」

「マスターは、いい人よ」

「しかし人として外れてないか」

「見せかけだけの格好つけしいの男よりは魅力的だと思うけど」

「かもな。

 じゃぁ俺の偏見だ」

「そうね」

「ひさしぶりだな。

 この街に住んでいるのか」

「あなたは違うの?」

「最近、越してきたんだ。

 ちょっと野暮用があるんでな」

「ビジネス?」

「他に考えられることがあるのか?」

「さぁ・・・

 今のあなたなんて、わからないもの」

「あいかわらず慎重な女だな」

「思いだしてきた?」

「すこしずつな」

「わたしを愛していたとか?」

「さぁな、でも」

「いい女でしょ?」

「自分でいうなよ。

 有り難みが薄れちまうぜ」

「でも、ふられちゃうわけだ」

「ふられたのか。

 もったいないな。

 俺だったら絶対にしないがな」

「なるほど忘れられているわけね」

「どういう・・・」

「責めてんじゃないわよ。

 自分に都合のいいことだけを覚えておくのが人間の生態じゃない。それをとやかくは言わないわ。今ではいい思い出よ」

「俺か?」

「あなたなんかより良い男は一杯いるわ」

「そりゃそうだ」

「あなたの科白よ」

「まるでスパムだな」

「思い起こすと、わたしをふったのはあなただけよ」

「正確には面白がって冷やかされるのが嫌だったんだろうな。

 たぶん相思相愛だったさ」

「たぶん?」

「もう昔のことだからな」

「のがした魚は大きいなんていうけれど」

「小者だっただろ」

「いいえ、その通りだったわよ。

 今も忘れることができていない。

 あなたのことはすぐに見つけられたし、此処にいるとすっごく優しい気持ちになる」

「お気に入りのマスターだもんな」

「ちがうわ。

 あなたが傍にいるからよ」

「そら褒めすぎだ」

「大切な者を大切だったと、それは後になってから気づくこと、いつもそうなの。

 そして、気づいたときは傷ついたとき、それはいつもそうなのよ」

「詩人だな」

「まだ私はあなたを愛しているかも知れないなんて幻想かしら」

「戯れ言だろ」

「冷たいのね」

「事実をいってるつもりだぜ」

「そうね、あなたはそういう人だもの」

「煙草いいか?」

「いいわよ。

 わたしも吸ってるもの」

「吸ってもいいぜ」

「あなたの前では絶対吸わないわ。

 嫌われたくはないんだもの」

「普通にしろよ」

「普通よ。

 ただ緊張してるだけ」

「ストイックだな。

 あいかわらず」

「長い時間が流れたと思うわ。

 今は今で、昔は昔、過去のデーターなんて塗り替えれば無くなるの。

 今の私は・・・ただの・・・」

「なんだか自虐的だな」

「そうでもないわ。

 これこそ、真理よ」

「理屈にすぎんさ。

 ブレーカーをおとしてリセットしたら何でも無くなるが、そうはできないのが感情というものだ。思い出や記憶を切りはなして生きることは決してできないさ。

 運命はどこまでもつきまとう」

「これが運命というのなら、私たちは運命に導かれて再会したというわけね」

「かもな」

「神様は、そういう事象がお好みなのね、きっと」

「ずっとこの街にいるのか?

 答えを聞いてなかったな」

「ビジネスで転々としてるわよ。

 此処で出会えたのは偶然に近いけど、たった一つの事由でそれが必然と塗り替えられてしまうかも」

「接点なら探せばあるさ。

 人類の起源をさぐればいずれ一点に集約されていくように」

「もっと現実的なのは、どうかしら?

 わたしはある人を捜してる。

 一流のエキスパートよ。

 そして、あなたもその人をってのはどうかしら?」

「人捜しなんかしちゃいないさ。

 人よりも情報が最優先かな」

「情報ならあるでしょ。

 おおきな都市だもの」

「ここだけの話、イリーガルでな」

「それは物騒ね」

「まっ、アウトローな方が俺らしい。

 窮屈な枠には捕らわれたくもないものさ」

「でも、この街にいる以上、しょせん囚人なのだと私は思うけど」

「その認識は解らないな。

 解釈は人それぞれだとは思っているが」

「しあわせなのね。

 自分と他人を切りはなして考えることができるなんて」

「いや不幸さ。

 世界中の人間の苦しみや悲しみを一心にその身ひとつで受けとめるような女を愛してしまったんだからな」

「それはあなただけの認識ね。

 現実の恋人はそれほどヘビーじゃないかもよ」

「だが、そんなことはどうでもいい。

 彼女がどう思おうと、俺はあいつの力になってやるのだと誓ったんだ」

「そっ。

 羨ましいわね。

 わたしはそこまで愛された試しがない」

「いずれ、ゆりかにも見つかるさ」

「真実の恋?

 それとも・・・」

「言葉にすると白々しいが」

「解っているわ。

 だけど、それが現実だって」




   五




 トゥルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルル・・・ピーッ。




「・・・わたし、あなたに用があります。

 あなたに手を貸してほしいんです。

 でないと、あたし・・・連絡先は・・・

 あなたからの便り、お待ちしています」




 彼女は心の底から真実だと信じていた愛があったと俺にいう。

 俺には贅沢すぎるその言葉を彼女は平然とクチにする。

「自分にできることって、それは俺に人を殺せと願うだけか。

 どんなクズにでも命はある。

 それを何の関係もないものが奪う。

 あんたはどうだか知らないが、俺にはその理由がないんだ。

 それは理解してくれるのか」

 彼女は美しい女性だったが、あまりに顔立ちが整いすぎているからだろう。

 まるで彫像や絵画などの美術品を鑑賞しているかのようで、まるでリアリティを感じない。俺にとっては無縁な存在。だから俺は見惚れていた。

 神々しいほどの優雅さで彼女は俺を見つめていた。

 互いに夢を見続けていられる瞬間、そんなものがあるとすれば永遠さえも超えられる。

 精神論なんてものじゃない。

 彼女は静かに頷いた。

 俺の中で、とまった時間が動き出すような錯覚。

 神々しい想い。

「やさしいんですね。

 いまさら命の大切さを、まさかあなたから聞くことになるとは思ってもいませんでした。

 だけど、それは不要の気遣いですよ。

 あなたは殺し屋・・・

 それ以上の理由がいるんですか。

 わたしがあなたに人を殺してなんて、冗談で言っていると思うのですか」

 刺すような瞳で・・・傷ましい。

 そんなに俺のことが・・・

「ミスリードはいったい君に何をしたんだ?

 君の大切な家族でも惨殺したのか。

 そんなに・・・彼のことが嫌いのか」

「いいえ。

・・・憎いんです」

「憎い?」

「あなたにはわからないかもしれません。

 あなたは力づくで欲しいものを手に入れたり難解な問題も切り抜けてきたのでしょうけれど、わたしはそうじゃありませんから・・・

 いつも他人に気を使って、へんなことを言っているんじゃないかとか、嫌われてしまったのじゃないかって、そういう目を気にして生きてきましたから」

 言い知れぬ不安。

 そこはかとない不安。

 それをクチにだすということは、言葉にするということは一種の確実性をもって俺の胸にひっかかった。

 そんなの決めつけないでくれと、それを出来るだけ彼女の心象を傷つけない言葉を選んでやりたかったが、言葉にならない憤りが、俺の理性を壊していたのだろう。

「言ってみろよ。

 俺だって同じだぜ。

 この世界で一人っきりになんてなれやしない。

 誰だって世間と共存してるんだ。

 おまえの気持ちが解らないなんて、そんな奴の方が珍しい。

 違うか?」

 彼女は戸惑っていた。

 それは俺を信用しきれないからだろう。

 俺からすれば当然の不安。

 それを取り除く必要なんてない。

 俺はカウンセラーではないのだから。

「さっきから質問ばかりなんですね。

 わたしの望みを叶えてはくれないんですか」

「あんたこそ、さっきから殺害したい動機を教えてくれないじゃないか。

 俺が普通の犯罪者じゃないということはライト&シャドウでは教えてもらえなかったのかい」

「なにも聞きはしませんでしたから。

 一番、腕のたつ人を紹介してくださいと。

 守秘義務という言葉を知っていましたから」

「此処では役に立たないな。

 信じられるのは金と、自分の腕だけだぜ。

 言葉なんてものは何の効力も持たないんだ」

「だったら動機なんて必要ないんじゃないですか。

 あなたは黙って彼を殺しにいけばいいんです」

「無理だな。

 あんたとは信頼関係がまるでなっちゃいない。

 こんな状況じゃ気分がのらない。

 自分のスタンスを崩す気はないし、あんたのためにミスをすれば、俺は後悔してもしたりない。

 そうは思ってくれないのか」

「・・・」

「それに、たぶん・・・


 あんたが殺したいのは俺なんだ。


 どうして俺が憎まれているのか、俺はどうしてもそれが知りたい」


 彼女は黙として俯くと、しばらくして意を決したかのように顔をあげて、こう言い放つ。


「うそつき。


 ・・・あなたは何様のつもりなんですか」


 と、


 それは熱く真剣な軽蔑の眼差しだったんだ。




   六




ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ・・・




「そっ。

 羨ましいわね。

 わたしはそこまで愛された試しがない」

「いずれ、ゆりかにも見つかるさ」

「真実の恋?

 それとも・・・」

「言葉にすると白々しいが」

「解っているわ。

 だけど、それが現実だって」

「それでも世の中ってのは辛いことばかりじゃないものさ。

 ゆりかにだって解るだろ?」

「そうね、もちろん。

 一応これでも大人の女なんだから」

 そういって交わした思いっきりのキスに違和感はなく、自然と、それは恋人同士の別れのキスを連想させるもので、わたしにとっては最高の感謝の気持ちだったんだ。

「ありがとう。

 本当に嫌なヤツを、この世界から消してくれて」

「そんな憶えは」

「ありがとう・・・」

 ・・・ミスリード。

 それは大切なわたしの想いを閉じこめた過去からの送りもの。

 唯一の心残りさえも払拭させる希望の光だったのかも。

「愛しているわ。

 たぶんもう、二度とクチにしない言葉なんでしょうけれど、本当よ」




   七




 トゥルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルル・・・ピーッ。




「・・・わたし、あなたに用があります。

 あなたに手を貸してほしいんです。

 でないと、あたし・・・連絡先は・・・

 あなたからの便り、お待ちしています」




 その電話をくれた女性とは、それっきり会ってはいない。

 それでも彼女の噂を聞くことがある。

 人のよりつかない路地裏の廃屋に毎日、誰かを待って座っているという彼女の話。

 彼女は、廃屋の前にある階段に座っているという。


 日差しのさす日もささぬ日も。

 雨の降る日も降らぬ日も。

 風の鳴く日も鳴かぬ日も。


「ミスリードは死んだんだ。

 五年以上も前のことだ。

 もう、俺が犯罪に手を染めることはない。

 それを贖罪の理由になんて考えてもいないんだがせめて、おまえの中にある憎しみの理由を知っておきたいと思ったんだ」

「それが、あなたの懺悔になるのなら、わたしからは何も言うつもりはありません。

 すこしでも苛んでみるといいんです。

 あなたが気にもとめなかったかもしれない事で、どれだけの人々が苦しんだのか、思い知れとはいいませんが、それはあなた自身が気がつかなければならないといけないことなのですから」

 と。

 芝居がかった科白を尼のように、彼女は俺を見つめている。

 こんな女となら恋に落ちても仕方がないと思えるような魂の暖かさと重みを感じたからこそ、俺は黙って彼女の言葉を聞いていたのかもしれない。


 それから又、半年は過ぎた頃だった。

 彼女の噂をきいて俺は、彼女のいる路地裏の廃屋によってみた。

 どういう理由だか解らない。

 彼女の名前くらいは聞いておけばよかったと後悔していたからだった。


「そこで彼女に出会ったさ。

 噂どおり其処にいた。


 日差しのさす日もささぬ日も。

 雨の降る日も降らぬ日も。

 風の鳴く日も鳴かぬ日も。


 彼女はずっと待っていたんだ。

 それがいったい何なのか、今となっては解らないが・・・


 そうだろ?


 彼女は飢えと空腹で死んでいた。

 よく見ると、ならず者たちに辱められ傷つけられた無数の痕が彼女の体には残っていた。死んだあと剥ぎとられたのか、それ以前のことだったのか知らないが、彼女は身ぐるみを奪われて、それは悲壮感のある姿で横たわっていた。


 その亡骸を目の当たりにして、供養の言葉も思い浮かばなかったよ。

 

 ただ、遣る瀬無くって。


 なさけなくって。


 なぁ、俺って死んだ方がいいのかな?


 すくなくとも彼女の中には、その決断ができていて。


 俺は存在しなければいい人間だったってことなんだろ?


 なぁ、俺はこれから、どうしたらいい?」




   八




ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ・・・




雨が降っていた。

 鬱々とした自分に嫌気がさし、怠惰は無気力・無機質・無愛想な性分が引きおこした吐き気を咥内に中毒させる。

「もう誰も愛せない」

それは彼女の言葉じゃなかったのだろうか?

 曖昧な記憶に疑問符をかさねつづけてみるが、答えは平行線な地平には見つからない。

 幸福はこの線路で生きてはいない。

 自堕落に深海で眠る多くの童女や肥満爺を封印しようと費やされた金塊は、いくつの夢を奪いつづけたことだろう。いくつもの命を食いつぶしてきたことだろう。

 水槽の中で飼いならされた味気ない魚介類は、かつての海を思い起こすことなどあるのだろうか。この世界、まさに息がつまって窒息寸前。

 道化じゃないのさ、人生は。

 だからこそ審判をせまられることもある。

 そんなの単なる自己防衛さ。

為せる術など数少ないが、それでも数多くの批判の渦の直中にある。

 雨音に、俺は気を紛らわせていたのかもしれない。

 彼女との馴れあいは単なる性的な欲望に触発されているだけで、抱く気になれないのはたぶん、俺が彼女を愛してはいないからじゃないだろうか。


「愛しているわ。

 たぶんもう、二度とクチにしない言葉なんでしょうけれど、本当よ」

「そうだな。

 あんまり人前でいうもんじゃないな、ゆりかの価値がさがっちまう」


 しょせん俺は虫けらなのさ。

 おまえなんかと釣りあうわけがねぇんだよ。

 




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