第3話キオトの中の街

 俺は自分の部屋のベッドに腰を下ろして、スマホを睨んでいた。

 精養軒から帰ってきて、早一時間。分かったことは、キオト・クルウルウはネット上に存在しない、と言うことだった。

 そのことに、俺は驚きと少しの失望を感じていた。

 いくら検索にかけても、「キオト・クルウルウ」では引っかからない。「キオト」単体では近い単語が出てきはするが、キオトのことではないようだ。逆に、「クルウルウ」で検索すると、クトゥルフの別の読み方、という情報が出てきたくらいだった。

 クトゥルフとはあのクトゥルフ神話、小説を元にした架空の神話のことだ。旧支配者とか、タコみたいな生物とか、そんなのが出てくる、あれだ。ゲームの題材やエッセンスになることが多いから、俺も無知ではない。そんなに詳しいわけでもないけど……。

 しかし、それ以上のことは分からずじまい。結局、「キオト・クルウルウ」その人については何も分からなかった。

 ……何か、分かれば……。

 そう思っていたのに。

 そう、何か分かれば、キオトのことをもっと理解してあげられると思った。それ以上に、キオトが物語の中でどんなだったか、そしてどのような死を迎えたか、その死の後物語はどうなったか、それすら簡単に分かると思っていた。

 ネットの中には何でもあると思っていた俺が浅はかだった……。キオトに何て言えばいい。

 しかし、一つ分かったことがあるとするならば。

 ネットの中にはない。

 つまり、キオトの物語は、世の中には発表されていない。

 その事実だ。

 作者のパソコンか何かの中に眠っているか、引き出しの中か。そんなところだろう。

 ……でもそんなことが分かったところで、どうすればいいというのか……。

 俺は枕にスマホを放って、ため息をついた。

 いきなり、手詰まりだ。

 そこで急にはっとして、俺は顔を上げた。そして慌ててスマホを手に取り、佳那汰さんにメールを書いた。

『佳那汰さん、今起きてる?』

 短く確認を取ると、返事はすぐに届いた。

『起きてるわよ』

『ねえ、ちょっと聞きたいことがあるんだ。いいかな』

『別にいいわよ』

 俺はそこで一瞬迷った。……キオトの作者を捜していることを、佳那汰さんに言うべきか。しかし俺は意を決して、指を運んだ。

『実は、キオトの作者を捜してる。それで、何か分かればと思って、キオトの名前で検索したんだ。でも何も出てこなかった。一緒に作者を捜すってキオトと約束したし、どうしても見つけたいんだ。どうしたら見つけられるかな』

 送信を押すのに凄く緊張した。でも、俺は息を止めながら送信を押した。

 待つ。

 佳那汰さんからの返事を。

 佳那汰さんからの返事は、少し時間がかかってから届いた。

『作者を捜して、どうするの?』

 それは至極当然の疑問だった。佳那汰さんの問いからは、どこか警戒心が感じられた。何に警戒しているのか。それはきっと、作者を捜し出したキオトが、一体どうするか、と言うことだろう。

 俺は息を吐いて呼吸を整えると、緊張した指先を動かして、正直なことを打ち明けた。

『キオトは、作者を捜し出して、殺したいって言ってる。でも架空の存在には作者のことは隠されてるらしくて、キオトは捜し出せないんだって言ってた。だから俺に、一緒に捜してほしいって』

『そう』

 佳那汰さんの返事は簡潔だった。

 佳那汰さんは何を思っただろうか。

 作者を殺したい。そんなキオトの願いに、共感するタイプではない。でも佳那汰さんは俺が思う以上に思慮深いタイプだと思うから、何かを慎重に感じ取ったに違いない。

 俺は少し待っても佳那汰さんがそれ以上何も言ってこないので、もう少し詳しく話すべきだと思い、考えに考えて文章を打った。

『キオトは、現実世界の人間を憎んでるんだ。その中でも、特に作者を憎んでる。ただでは殺してあげたくないくらい、って言ってた。俺はそこまで人を憎んだことがないから、正直よく分からないんだけど……、作者を殺した後、現実世界も滅ぼすんだって。作者を捜すのに協力してくれたら、俺を殺すのは一番最後にしてくれるらしい。でも、そんなことはどうでもいいんだ。俺はただ、作者と対面したとき、キオトがどうなるか、それが心配なんだ。それでも俺は、作者を捜して会わせてあげたいと思うんだ』

 長々と書いて、送信した。考えて考えて、時間をかけて書いた文章が、一瞬にして佳那汰さんの手元に届く。時間にしてみれば、送信時間なんて一瞬だ。でもその一瞬が重いんだ。俺にとっては、とても重いんだ。

 俺が送った文章に佳那汰さんは何を思ったのか、少し時間がかかってから返事が来た。

『言いたいことは分かったわ。あんたはとにかくキオトが心配なのね』

『うん』

『キオトは、作者を捜したいってことみたいだけど、作者を捜すのに他の理由は言ってた?』

『他の理由? たとえば?』

『あたしには分からないわ。あんたは聞かなかったの?』

 俺はハンバーガーショップでのキオトの言葉をつぶさに思い出した。

 ……いや、そんなことは、聞いていない。

『ううん。他には何も』

『そう』

『ちょっと……話は変わるんだけど、いいかな』

『いいわよ』

『佳那汰さんは、作者を捜したいって思ったこと、ある?』

『ないわ』

 即答で返信が送られてきた。そこに迷いのなさが現れている気がして、俺はちょっと怖じ気づいた。

『どうして?』

『そうね。作者に対して思うことは沢山あるわよ。どうしてあたしを殺したのかとか、どうしてあんな物語を書いたのかとか。でもそんなこと、作者の口から知りたくないのよ』

『どうして?』

『意味などなかったら』

 それだけが送られてきた。

 途中で送信を押してしまったのだろうと思って、俺は続きを待った。続きは、暫く経ってから送られてきた。

『死よりも絶望だからよ』

 送られてきたのは、その一言だった。

 でもその意味をどうとらえたらいいのか、俺には分からなかった。

 意味などなかったら死よりも絶望、なのか。

 意味などなかったらと別のことを言いかけて、やめて、作者の口から聞くことが死よりも絶望、なのか。

 どちらと取っていいのか分からずに、俺は戸惑いを感じた。

 だから俺は、少し迷って、自分の話をすることにした。

『俺だったら……だけど。俺だったら、どうして自分が死ぬのかとか、どうしてこんな世界を作ったのかとか、神さまに訊きたいと思う……。訊いて、納得したいと思う。死ねと思われたことは悲しくても、そこに意味があるなら納得できるから』

『そうね。あんたたち現実世界には神さまがいるから、もしかしたらそれも可能かもね。でもあたしたちが相手にしているのは人間なのよ。神と人間の違いが分かる?』

『分からない。なに?』

『人間は、死ぬのよ』

 その言葉には重みがあった。

 一度物語の中で死んだ存在からの、重みだ。

『人間は死ぬの。架空の存在のあたしたちと同じように、自分が死んでも世界は終わらず、ただずっと続いていく。あたしたちと違うのは、その死が世界に与える影響があまりにも些末なことよ。分かる?』

 分かる。

 考えたくない。

 けれど、分かる。

 物語の中では、登場人物の死はそれなりに大きなことだろう。名前を与えられていれば、余計にそうだ。主人公だったり、主人公と交流があったりすれば、もっと大きい。

 けれど。

 この現実世界に、はたして主人公がいるか?

 はっきりとした、主人公。

 その人物がいなければ、現実世界が成り立たなくなるような、そんな存在が。

 仮にいたとして、そんな存在と、関わりを持っているか?

 そんな人間がいるか?

 そんな価値の大きな人間が。

 いるか?

 人間はみんな平等で、その死は些末だ。名前を与えられていても、物語の登場人物とは違う。物語の中では、名前があることそれ自体が重大だ。でも現実世界では、名前が何だと言うだろう。そんなものは誰もが持っている。だから持っていないも同じこと。名前を持っていることに価値などない。

 だとするなら、その存在など。

 どれだけのものだと

 いうのだろう。

 そんな存在が、

 佳那汰さんたちの

 作者。

『あんたにはこんな話酷だったわね。ごめんなさい』

 佳那汰さんはそう謝ってから、俺の反応を待たずに立て続けにメールを送ってきた。

『作者というものは些末な存在よ。現実を生きるというのはそういうことだわ。あんたならもっとよく分かるでしょ』

『……うん』

『正直、そういう存在と、自分たち登場人物との関係を、はっきりさせたくないのよ。だからあたしは作者に会いたくない』

『関係をはっきりさせることが、死よりも絶望なの?』

『そうね』

『どうして?』

『例えばあんた、自分の親に、自分を生んだ理由を聞いたことある?』

『いや、ないけど……』

 聞けないし、聞く気になれないし。

『そうでしょ。あんたは特にね……。聞く気になれないって感じでしょ』

『そうだね』

『似たようなもんだと思ってちょうだい』

 そう言われて、俺は考え込んだ。

 例えば、俺だったら。

 俺を生みだした親から、お前は親の人生にこれ以上必要ないと思われたら。

 いや、親が実際どう思っているのか知らないけど、今でもどう思っているのか分からないのだから、もしかしたらそんなこともありうる。

 遠く離れている今、その気持ちを確かめることはできない。しかも親だって人間なのだから、いつかは死ぬ。もしかしたら、俺の知らない間に死んでいるかも知れない。しかもその死は世界にとって些末で。

 でも、俺にとっては大きなことで。

 些末なのに、大きい。この矛盾が、むなしさと悲しみを同時に感じさせた。

 些末なのに大きな存在。それが親。

 そんな存在が、俺のことをどう思っているのか。

 思えば、知りたくない。

 知るのが怖い。

 佳那汰さんたちの場合は、些末で大きな存在に、死んでくれと思われた。

 その理由を、

 知るのは……。

 自分の死後、物語が破滅の道を歩んだかも知れないのに、それを知るのは……。

 ……絶望、かも知れない。

 俺はようやく、千代崎さんの言葉や、佳那汰さんの言葉を、理解できた気がした。ただの気のせいかも知れなくても、俺の中では、気持ちが一歩進んだような感覚がした。

 それは、俺と佳那汰さんたちとの隔たりを、いっそうはっきりさせたから。

『……分かった』

『そう』

『でも、それじゃあ、キオトはどうなんだろう? 自分から、作者に会いたいって言うなんて』

『そうね。勇気があると思うわよ』

『その理由は、作者を殺したいからだけど……』

『作者を憎んでいるのよね?』

『そう言ってた』

『ちょっと考える必要があるわね』

『うん……』

『作者を憎む気持ちに偽りがないとしてよ、実際に殺すことができるのか、あたしには分からないわ』

『え? どういうこと?』

『灰音から聞いたことがあるのよ。架空の存在には作者のことが分からない。同時に、作者には架空の存在のことが分からない。お互いに、隠されているって』

『え? え? つまり、どういうこと?』

『お互いを目の前にしても、相手のことが分からないっていうことよ』

 相手のことが分からない?

 それは、つまり、どういうことだ?

『分からないって……どういうふうに分からないんだ?』

『言葉通りよ。分からないのよ。何一つ』

『何一つ……』

 俺は少し考え込んで、それから考えを佳那汰さんにぶつけた。

『じゃあ、見ることも、聞くこともできないっていうこと?』

『多分ね。それも、お互いにね』

『え、それじゃあ……』

『存在することも分からないのよ。実在すら認識できない存在を、はたして殺すことができるのかしらね』

『じゃあ……キオトは、作者に……会えない?』

『多分ね』

 その言葉に、俺は何も言うことができなかった。

 キオトを作者に会わせたいと思った。

 その動機は何であれ。

 でも。

 キオトは決して……作者に、会えない。

 どうしてだ?

 どうしてそうなっている?

『どうして……どうして、お互いに会えないようになっているんだ?』

『分からないわ。何か理由があるとは思うけど』

『佳那汰さんは、どう思う?』

『どうって?』

『どうしてそんなふうになっていると思う?』

『そうね……』

 佳那汰さんはそう言って、少し考え込んでいる感じだった。暫く返事がなかった。

『今、思ったことなんだけど、いいかしら』

『うん、いいよ』

『あたしたちには、異空間が起こるわね。本来死んでいるはずの存在が生きているから、その矛盾から、死に戻そうとする現象が起こる。あたしたちはこれを、世界の意思だと思ってた。でも違ったら?』

『違う?』

『世界の意思ではなく、物語の意思だったら?』

『物語の意思?』

 思いも寄らない話だった。

 物語の意思だって?

 物語が、意思を持つのか?

『物語が意思を持つの?』

『分からないわ。そもそも、世界の意思だと思ってたのだって、はっきりとした理由があったわけじゃないわ。ただ、世界には意思があるかも知れない、という漠然とした感覚から来てたものよ。本当は世界には意思なんてないかも知れないのに』

『確かに……』

『でも、物語の登場人物に心が宿ることがあるように、物語自体にも何らかの意思が宿ることもあるのかも知れない』

『確かに、否定はできないけど……』

『否定できないなら、可能性は全て考えるべきね。もしそうであるとするならよ、物語にとって、作者と登場人物との邂逅は、何か都合が悪いのかも知れないわ』

『例えば?』

『物語の根幹に関わる、何かが起こる可能性がある……とかね。例えば、物語の書き変えだわ』

『物語の書き変え?』

『作者が登場人物に出会ったとするでしょ。そしてそれが、物語の中で死んだ人物だったとする。作者がそれを見て、やはりこの人物は殺さないことにしようと決めたとしたら?』

『話が随分変わっちゃうね』

『そうでしょう。そうなった場合、現実世界へ逃れてきた登場人物も、書き変えられた物語も、どうなるか分からないわ。一度書かれた物語がそのまま保存され、新しい物語が併存することになるのかも知れない。もしかしたら、作者が元の物語を完全に削除して、新たな物語として再創造するのかも知れない。どちらにしろ、物語にとっては世界の変革だわ』

『世界の変革って言うか……どっちかって言うと、生まれ変わりっぽいね』

『そうなるわね。もし物語に意思があるなら、物語の生まれ変わりが非常に都合が悪いことって言う話になるんだわ。多分ね』

『だから、物語が、作者と登場人物を会わせないようにしてる?』

『可能性の一例よ。確実じゃないわ』

『ううん、でも……あり得るかも』

 一度創造された物語。

 その世界が、変わる。

 それは物語にとって、どんな意味を持つのだろう?

 ……滅び、か?

 分からないけど、物語の否定には他ならないだろう。否定された物語。それは……。

 それは、

 死ねと言われた、佳那汰さんたちに似ている。

 そうであるなら、物語の書き変えが、新たな扉を開くこともあるかも知れない。それが物語にとってどんなことなのか、分からない。けれど、物語はそれをあってはならないこととしているんだ。

 物語の書き変えなど、あってはならないと。

 でも。

 そうであるなら、それを……キオトにどう説明したらいい。

 決して会えないと。

 殺すことはできないと。

 言って納得してもらえるか?

 ……難しいだろう。

 キオトは何ともしても作者を殺したいのだ。物語の意思など関係なく、それを望んでいるんだ。その原動力となっている憎しみを止めない限り、キオトにこのことを説明して、納得してもらうことは……きっと難しい。

『キオトにこのことを説明するのは……難しいね』

『そうね。それにただの憶測だし』

 俺は黙り込んで考えた。

 そしてその時、はっと千代崎さんの言葉を思い出した。

 千代崎さんは、

 キオトの作者のことを知っている!

『佳那汰さん! 千代崎さんは、キオトの作者のことを何か知ってるみたいだった!』

『そうなの? 何か言ってた?』

『何も教えてくれなかったけど……』

『そ。まあそうでしょうね』

 佳那汰さんの反応はあっさりしたものだった。

『でも、受け入れるのに耐えがたいものであったとき、俺がどうするか……とは、言ってた』

『それで、あんたの優しさが吉と出るか凶と出るか、みたいなことを言った?』

『何で分かったの?』

『灰音が言ってたことだからよ。あんたの人格を考えたとき、それがどう転ぶか見定めたい、みたいなことをね』

『そうなんだ……』

 佳那汰さんは一体、どれくらいのことを聞いているのだろう。

 と言うか、千代崎さんはどこまでのことを分かっているのだろうか。

 キオトのことを、

 キオトの作者のことを、

 ……物語の真実を。

 どこまでのことを知っていて、分かっているんだろう。

 そしてどうして、それを教えてくれないのだろう。

 千代崎さんのその態度には、あくまで傍観者であろうとするような、そんな感じを受けた。

 でも自分でもできることはする、みたいなことを言っていたし、どこまでも傍観者でいようとはしていないと思う。そうなら、全力で協力してもらいたいところだが、なぜかそうはしてくれない。

 一体何を考えているのか。

『……ねえ、佳那汰さん』

『何かしら』

『千代崎さんは、作者捜し、協力していいって言ってた』

『そうなのね』

『でも……キオトは作者には会えないんだよね?』

『そうね』

『それに、受け入れるのに耐えがたいものなんだよね』

『そうみたいね』

『俺……このまま協力してあげて、いいのかな。キオトにとって、いいことになるのかな』

『分からないわ。灰音は何か言ってた?』

『俺の優しさは、吉と出るって……それだけ』

『なら、協力して捜しなさいな。灰音の言うことは、確かよ』

 佳那汰さんは背中を押すように、そう言った。

『ねえ、でもさ……俺、本当に優しくないんだよ』

『驕(おご)らないのはいいことよ。聖書にも、自分を低くするものは高く上げられると書いてあるでしょ』

『別にそんなんじゃないよ』

『ま、そういうことにしておいてあげるわ。がんばりなさい。協力できることはするわ』

『うん。ありがとう』

『それじゃ、あたし勉強があるから』

『あ、うん。付き合ってくれてありがと』

『じゃあね。早く寝るのよ』

『はーい』

 そこで、やりとりは終わった。

 俺は天井を見上げて、深く息を吐いた。

 その時、部屋の中に風が吹き込んできた。

 窓を見ると、そこにはキオトが腰掛けていた。

 キオトは何も言わず、何の表情もなく、ただじっと俺の顔を見つめていた。その表情に期待はなかった。

 俺が作者について何も情報を得られていないことを、俺を見て、察しているんだ。

 俺は何も言えずにキオトを見つめ返した。キオトは、そんな俺を暫く見つめてから、フフッと笑った。

「作者は見つかった?」

「……いや……。……ごめん」

「いいのよ! うふふ!」

 キオトは軽快に笑うと、窓の縁に手をかけた。

「ワタシ、いいことを思い付いたの! これで絶対に作者を捜せるわ!」

「え? いいこと? 何を思い付いたんだ?」

「秘密よ! じゃあ、明日ね!」

 そう言うとキオトはふっと窓から姿を消した。空気に溶けるみたいに、香りがなくなるように、いなくなった。

 でもその後には、あの蠱惑的な香りが漂っていた。


 翌朝。

 いや、まだ目を開いていないし、布団の中にいるのだから、朝かどうか正確なことは分からない。ただ、体の感覚と、どこか凜とした肌寒い空気感が朝だということを告げていた。

 そして漂う、蠱惑的な香り。

 ……この香りは。

 ――キオト。

 俺ははっとして目を開け、はねるように体を起こした。

 すると布団だと思っていたものは花と花びらで、ベッドは草が複雑に絡み合ってできており、壁も、花咲く植物が絡んで構成されていた。窓は植物から垂れる水滴でできていて、その流れが壁を伝って外へと出て行っていた。

 肌寒いと思ったのは、他でもない、植物の間から外気が流れ込み、植物自体からも水蒸気が立ちこめて気温を下げていたからだった。

「何だ……なんだこれ」

 俺は寝間着のまま、混乱して体を覆っていた花びらをすくった。花びらは砂のようにサラサラと崩れ、美しく消えていった。

 そしてそこら中から漂うキオトの香り。

「これ……キオトの仕業なのか?」

 俺の部屋だけ? それとも街中? どこまでこうなっている?

 俺は植物が絡んでできている床に、おそるおそる足を下ろした。ふんわりと心許ない感触と、凍てつくようなひんやりした温度が伝わってきた。

 これ……立って大丈夫なのか?

 不安になったが、意を決して立ち上がった。ぎゅっという音がしてやや植物が沈んだが、切れることも折れることもなく、力強く俺を支えているのが分かった。

 ここから見える限り、廊下も、そこにあるキッチンも、全部植物となってしまったようだった。植物から立ちこめる水蒸気で空気がぼんやりし、よく見えない。俺はそろそろと廊下だった場所を渡り、玄関のドアまでたどり着いた。玄関ドアも植物になってしまっていて、そこにあるのはやっと通れるような隙間だけだった。

 俺はその隙間を通って外に出た。

 外は霧が立ちこめていてよく分からない。けれど、全体的に緑っぽく、植物の香りがすることだけは分かった。外もやはり、キオトの香りが満ちていた。

「羊太郎」

 声がして、そちらの方を見ると、そこには制服姿のサチが立っていた。

「サチ……これ、一体どうなってるんだ?」

「分かりません。ただ、街中からキオトの力を感じます」

「やっぱり……キオトがやったのかな」

「そうだと思います」

「そうなのか……」

 俺は植物が絡み合う手すりだったものに手を乗せて、遠くを見ようとした。でも、霧に阻まれて無理だった。

「どこまでこんな状態なんだろう……キオト、どうしてこんなこと……」

 と言いかけて、俺ははっとした。

「キオトが言ってた作者を捜すいい方法って、これなのかっ?」

「作者を捜す?」

 サチはきょろんとした目で俺を見た。

「そうなんだ。キオトは作者を捜そうとしてる。作者を捜し出して、殺そうとしてるんだ」

「作者を捜し出して、殺す……」

 サチは全くの無表情で、俺の言葉を繰り返した。俺の言葉と言うより、キオトの言葉を。その瞳からは感情が読み取れなかったが、どこか不思議がっているような感じがした。

「キオトは、作者を殺してどうするのですか」

 俺は首を振った。

「分からない。ただ……憎くて仕方がないから、殺したいって、それだけ……」

「作者が憎い、ですか」

 サチはそれだけを言って、黙り込んだ。何を思っただろうか。

「とにかく、……キオトを捜さないと」

「そうですね。街を元に戻してもらわないといけません」

「元に戻せるのかな……これ」

「分かりません。人に危害が加わっていないことを祈るばかりですが」

「そっか……そうだよな。よし、キオトを捜そう!」

「学校の方から強い力を感じます。もしかしたらキオトかも知れません」

「よし、行こう!」

「はい」

 サチは相変わらず表情のない顔をして、きょろんとした目で頷いた。

 植物でできた階段を下りると、そこは植物でできた地面だった。土もアスファルトもない。ただただ、植物、花、若枝。美しいが、美しすぎて空恐ろしい感じがした。

 霧に紛れて見える四角い大きなシルエットは、多分建物が植物化したものだろう。電柱も植物と化し、電線も細い蔓に姿を変えていた。

 街の中は植物からの水分で霧が立ちこめ、非常に視界が悪い。朝日が照って乱反射し、光ってほとんど何も見えないくらいだ。

 そんな街の中に、ふと、ぽつんぽつんとランダムに人型の植物があるのを見つけた。微動だにしないそれを見たとき、俺はぞっとした。

「お……おい、サチ、あれ」

「人かも知れません」

 サチはさすがに物怖じせず、人型のそれの一つに歩み寄っていった。そして顔の部分をそっと触り、一歩身を引いた。

「……これは」

「何なんだ、サチ」

 俺も覚悟を決めて、サチの方へ走り寄った。そしてサチが見た、植物の顔の部分に手を当てて、それをどけてみた。

「う、うわあっ」

 俺は思わず飛び上がって、尻餅をついた。

「大丈夫ですか、羊太郎」

 サチがしゃがんで、俺に手を添えてくれる。

「あ……ああ、あれは……」

 俺が開いた部分、そこから覗くのは、苦悶の表情のまま植物に取り込まれ、植物と一体化した人のおぞましい姿だった。その肌の毛穴からは若芽が芽吹き、鼻や口からは花が咲き、両目には枝が通っていた。

 人とは思えない、とても。

 けれど人だった痕跡が残っているせいで、余計にグロテスクで、とても見るに堪えられたものではなかった。

 強烈に残されたその表情からは、この異常から逃れようとしていたことがはっきりと見て取れた。しかし逃れることができず、植物に飲み込まれる苦しみにもだえている状態で固まっているのだった。

 ……絶命、しているのか。それとも、まだ生きているのか。それすら分からない。

「生きて……生きているのか……?」

「分かりません。キオトの生命力があまりにも強すぎて、取り込まれた人の生命力まで飲み込まれています」

「死んでる……? それとも……植物と一緒に生きてる……とか」

「何とも言えません。今、この街全体が巨大な生命体となっているようなものですから」

 俺は何も言えなかった。

 取り込まれた人の、あまりの表情。人間のものとも思えない苦悶の表情に、強い吐き気を覚えた。

 俺はサチに支えられて立ち上がった。

「……街中の人が、こんなことに……?」

「そうかも知れません。あるいは、無事な人もいるかも知れませんが」

 サチはそう言うが、無事な人を捜す気にはとてもなれなかった。とにかく、キオトを捜し出して、こんなことはやめさせなければ。ただ、それだけを思った。

「……学校に行こう」

「はい」

 俺たちは連れだって歩き出した。

 見知ったはずの上野の街は、どこまで歩いても植物、植物、植物で、霧に包まれた植物の、巨大な一つの塊の中にいるようだった。

 その霧の中を濃密に漂う、キオトの香り。蠱惑的なにおい。

 俺はそれを吸い込んではいけないような気がして、呼吸浅く歩いた。

 キオトは作者を捜そうとして、こんなことをしている。

 こんな方法の、どこに作者を捜し出せる秘策があるのか分からないが、とにかく作者に会いたい一心なのだ。

 作者に……会いたい。

 その動機は何であれ。

「……なあ、サチ」

「はい」

「サチは……作者に会いたい、って思うか?」

 俺の唐突な問いに、サチはぱちぱちと瞬きした。

「なぜですか?」

「いや……キオトは、憎くて殺したいから、会いたいって言う。でも千代崎さんや佳那汰さんは、会いたくないって言う。じゃあ……サチは、どうなのかなって」

「そうですか」

 サチは淡泊にそう言ってから、小さく頷いた。

「興味はあります」

「え? あ、会いたいってこと?」

「いいえ」

「え?」

「作者という人物に興味はありますが、会いたくはありません。会えば、物語の話を聞くことになるでしょう。私はそれを聞きたくありません」

 その言葉に、俺は暫く何も言えなかった。

 千代崎さんや、佳那汰さんの話を、思い出した。

 作者に会えば、自分の死後を、知ることになる。

 どうして自分を作り出し、殺したのかを、知ることになる。

「サチも……」

 サチも、そうなのか?

 物語を愛し、登場人物たちを愛したのか?

 だから、自分の死後、物語が破滅へ進んだかも知れないということを考えたくないのか?

「サチもさ……自分の物語、好きか?」

 静かに問うと、サチは暫く何も言わなかった。考え込んでいるんだ。

「いいえ。何とも言えません」

「何とも言えない?」

「自分の物語を愛していたかと問われれば、私は何と答えて良いのか分かりません。ただ一つ言えることは、物語に対して、望みをかけていたということです」

「物語に……望みをかけた?」

「はい」

「それ……どういうことなんだ?」

「私は自分が物語に登場したとき、自分の物語に望みを抱いていました。こうなればいいと。でもそれは叶いませんでした。もしかしたら、その望みの分だけ、自分の物語に期待し、愛情を注いでいたと言えるのかも知れませんが」

 サチが淡々と語ったその気持ちは、俺にも分かるものだった。

 俺も、

 俺の物語に……

 俺の人生に、期待をかけていた。

 でも、それは叶わなかった。

 いくら望んでも。渇望しても。

 どんなに強く、非日常よ、来いと叫んでも。

 でも俺の場合……それは、叶った。サチの登場によって。

 でもサチは。

 ……叶わなかった、と言った。

 サチの、願いは……。

 何だったんだろう。

「サチは……物語に、何を望んでいたんだ?」

「安らかな幸せを望んでいました」

 その言葉に、俺はサチと初めて出会ったときのことを思い出した。

 和服のような、そうではないような、不思議な服についていた、土、草。内戦は起こっているかという問い。この現実世界へ来たという事実。

 サチの望みは……。

 ……叶わなかったんだ。

「……じゃあ、サチは、作者を……憎んでるか?」

「何と言えば正確に翻訳されるか分かりません。少し複雑な感情です」

「……作者には、会いたくないんだな」

「そうですね」

「もし……もしさ。こんな話、残酷かも知れないけど……」

「はい」

「もし、作者に会えたら、今度こそ、望みを……叶えてもらいたいと思うか?」

「いいえ……私は、今のままで充分ですから」

 サチはどこかささやかな気持ちを裏に忍ばせて、そう言った。

 その気持ちの本当のところを、俺が知ることは出来ないのだろう。俺はサチではない。作者に殺された存在ではない。自分の死に、絶望したことのない人間だ。気持ちを察することなどできないし、安易に察したら、それは多分嘘だろう。

 そんなことを話しながら歩く街だった場所には、やはり点々と人型の植物が存在していた。俺はできるだけそれを注視しないようにした。見たところで救えないし、どうしようもないからだ。全ては、キオトの手の中。キオトに会わないことには、どうしようもない。

 そうしていると、学校……だった植物の塊が見えてきた。学校の周りにはこれまでよりも多く人型の植物が乱立していて、俺は胸がざわざわした。

「皆戸くん! 篠目さん!」

 不意に、空から声が聞こえた。そちらの方を見上げると、霧の中から青白い光が見え、徐々に黒い制服を着た黒髪の少女が現れてきた。

 箒木は脚に機械の翼を生やして、空から俺たちの元へ降り立った。

「箒木!」

「よかった……ふたりとも、無事だったんだね」

 箒木はほっとしたように胸をなで下ろす仕草をした。

「箒木こそ! 大丈夫だったのか?」

「うん……わたしはだいじょうぶ」

「空から街を見てきたのか? どこまでこんな状態なんだ?」

「上野は……全部植物に覆われてる。霧がすごくてよく見えないけど、上野全体が一つの植物になってしまったみたい。それに……出られないの」

「出られない?」

「上へ抜けようとしても、どこまでも霧で、雲の上へ出ないの。横に抜けようとしても、やっぱりどこまでも霧で……」

「そうなのか……」

 俺は植物になってしまった学校を見上げた。霧の中に包まれて、てっぺんは見えない。

「キオトは、この中にいるのか?」

「いる……と思う」

「そうか……。……よし」

 俺は意を決した。

 しかしその瞬間、俺の足下から一本の植物が伸びてきて、俺の顔の前に大輪の花を咲かせた。俺たちはそれに驚いて、思わず足を止めて花を見つめた。

 本当に大きな花だった。少し百合に似ている。

 そして百合はふるふると震えると、クスクス、と笑い声を漏らした。

 キオトの声だった。

「キオトっ?」

 俺は思わず声を上げた。

 すると百合は俺の顔を覗き込むようにして、またクスクス笑った。

「いらっしゃい、ワタシの中へ」

 確かに、キオトの声だ。

「キオト……今、学校の中にいるのか?」

「ええ、そうよ」

「キオト、頼む、こんなことはやめてくれ」

「こんなこと? こんなことってなあに?」

 キオトはクスクスと笑って、まるで子どものような訊き方をした。

「上野の街をこんなことにして……人間だって、巻き込んで。これでどうやって作者を捜すって言うんだよ、頼むから、他の人を巻き込むのはやめてくれ」

「あら、でもそうでもしないと、作者は見つからないわ」

「でもこんなの……。何考えてるんだ?」

「物語の中の出来事を再現したの」

 と言って、キオトはもう一度笑った。

「街を一つ壊滅させるのよ。こんなことが起こったら、作者は自分の物語の中のことが現実に起こったものだから、驚くでしょう? そうしたら、情報の海の中に、作者が何かを投げかけると思うのよ。どう? 名案でしょう?」

「名案って……」

 俺は言葉がなかった。

 確かに、賢い。

 こんなことが起こればニュースにもなる。作者の目にも触れるだろう。そうなれば、作者がネットに何らかの書き込みか呟きをするかも知れない。確かにそうだ。

 何も行動を起こさなかった俺より、キオトは遙かに現実的な行動を取ったんだ。でも。

「作者を捜すためだけに、街を一つ巻き込んだのですか」

 サチは冷静に問いかけた。

「ええ、そうよ」

「他の方法もあったはずです。巻き込まれた人々は、生きているのですか」

「ええ、生きてるわよ。植物に巻き込まれた苦痛と苦悶を感じながら、絶望の中でね」

「彼らを解放してください。関係のない人々です」

「あら、だめよ。そんなことをしたら、物語通りじゃなくなっちゃう」

「物語通りとは?」

 サチの問いに、キオトは実に楽しそうに答えた。

「今は水と霧が満ちているでしょう? これからね、巻き込んだ人間たちをひねり潰して血と体液で満たしてあげるの! とってもいいにおいになるのよ!」

「そ……そんなのだめ……!」

 両手を握って、箒木が身を乗り出した。

「おねがい……そんなのやめて……!」

「あら、でもそうしないと、物語通りじゃないわ」

「どうして、どうして物語通りにこだわるの……?」

「作者にも絶望を味わってもらわなくちゃ」

「え……?」

「自分が物語でそんなことをしたから、現実世界でも同じことが起こっているんだもの。作者の責任だわ。その責任に苦しめば良いのよ!」

 キオトはころころと笑った。鈴を転がすような、まさに植物の精霊のような、そんな笑い声だった。

「そんな……! どうして、作者にそこまでのことをするの?」

「恨んでいるからよ。憎いからよ! アハハッ! 苦しむ作者を想像するってとっても楽しい!」

 キオトは興奮でたまらないような声で笑った。本当に、作者の苦しみを想像して楽しんでいるんだ。

「これからね、血と体液に満たされた街は、赤く染まるの! 血の錆びたにおい! 体液の甘い香り! 植物がそれを吸って赤く染まって滴って、誰も救われないの! 助けようとしたその時に、主人公たちの目の前で皆死ぬのよ! ああ楽しい! 作者も、早く街の皆を助けに来れば良いんだわ! そうしたらもっともっと絶望させてあげるのに!」

「キオト……」

 キオトの名を呼んだまま、俺は何も言えなくなった。

 キオトは、本気なんだ。

 どうすればいい。

 作者を捜し出し、キオトを止めるには、一体どうしたらいい。

 俺はあまりの現実に呆然とした頭をひねって、ひねって、何とか言葉を絞り出した。

「……キオト。上野の街に、作者がいたとしたら、どうするんだ?」

「上野の街に?」

 キオトはきょとんとした声を出した。

「そうだよ。もし、植物に巻き込まれている人の中に作者がいたら、どうするんだ? キオトが与えたがってる絶望なんて、与えられないじゃないか」

「あら! おかしい! 心配してくれてるの?」

「いや、心配とかじゃなくて……」

「うふふっ。それは心配いらないのよ!」

「心配いらない?」

 どういうことだ?

「どういうこと?」

「ワタシ、分かってるの。久坂佳那汰と皆戸羊太郎が何を話し合ったか。ワタシが作者を殺したがってるってことを話し合ったのでしょう?」

 その通りだった。

 しかし、どうしてキオトは俺と佳那汰さんがメールでそのことを話し合ったのか、知っているんだろう?

 と思うと、キオトはクスクスと笑った。

「今、あなたたちはワタシの中に入ってるの。ワタシの中に入った人間の考えていることを知るなんて、未来を知るより簡単だわ。だって、ワタシの中にはワタシの香りが満ちているでしょう? ワタシの香りはワタシの一部。嗅いだ者の中に入り込んで、その思考も、心も、ワタシに教えてくれるの」

「……え?」

「だから分かるわよ。ワタシは作者に影響を与えられない。お互い上野の街にいようとも。久坂佳那汰にいわせると、ワタシが作者に会えないことも」

「え……」

 俺は呆然とした。

「それじゃあ……どうして……」

 どうして、こんな無駄なことをしている?

 上野の街を巻き込んで。

 上野の人々まで巻き込んで。

 会えない。

 知覚できない。

 それを分かっている。

 それなのに。

 どうして?

「でもね、ワタシ、久坂佳那汰の話で一つ分かったことがあるのよ!」

「……なに?」

「物語に意思があるのなら、物語の望む通りにしてあげれば良いのよ!」

「……え?」

「物語に従えば、作者に会えるの! だってそうでしょう? 物語は自身の改編を恐れてる。そうなら、作者に改編させなければ良いんだわ。改編させない方法はね、物語を現実世界に再現することなのよ! 完全に! この現実世界を物語そのものにするの!」

 キオトの言っていることが、一瞬理解できなかった。

 でもすぐに分かった。

 作者は物語を作った。

 現実世界は作者を作った。

 その現実世界に物語を再現し、作者を巻き込めば。

 ――作者を、物語の登場人物にできる。

 それはつまり、作者の物語る力を奪うこと。

 キオトは。

 キオトは、

 物語の力を使って、作者を自分と同等の存在にしようとしているんだ。

 物語の登場人物になってしまえば、作者は既に作者ではない。現実の物語に巻き込まれた、まさに、作られた者。

 登場人物同士なら、……会える。

 キオトは、そう考えているんだ。

 何と言う考えなのか、と思った。

 人間を超えた思考だと思った。

 ……神話生物。

 そうなのか、と思った。

 キオトは、本当に、人間を超えた存在なんだ。

 そんな存在が、一人の人間を捜し出すために、現実世界を巻き込んだ。

 これで……これで見つからなければ。

 キオトは更に、これを上回る手段を使って現実世界に物語を侵食させるだろう。

 そうして物語に侵食された現実世界は……。

 きっと、やがて滅ぶ。

 神話生物。

 この世の厄災。

「キオト……作者を、本当に、……」

「物語の改編の可能性がないなら、会えるの! だからワタシはこの世界を物語そのものにする! 作者の外側を物語にしてあげるの! そうなれば作者はもう作者じゃないわ、ワタシとおんなじ、物語の中の存在よ!」

 アハハッ、とキオトは笑った。

 その幼い笑い声も、人間を超えた者のように思えた。

 サチも、箒木も、言葉を失っている。

 想像もしていなかった、キオトの思考。

「さあ作者、来るといいのよ! 絶望を知るといいの!」

 キオトはもう一度笑った。

 作者。

 現れるのか?

 本当に?

 物語が現実になるとき。

 作者は

 どうする?

「――あんたたち!」

 植物の上を走ってくる湿っぽい足音と共に、佳那汰さんの声が聞こえた。

 振り返ると、佳那汰さんがスマホを片手にこちらへ走ってくるところだった。

 佳那汰さんは俺たちの元へたどり着くと、ふうと息を吐いた。

「……佳那汰さん」

「やっぱりね。灰音が言ってた通りだわ」

「佳那汰さん、キオトは……」

「分かってるわ。作者を物語に巻き込むために上野をこんな姿にしたんでしょう。キオトはどこ?」

「ワタシは、ココよ」

 大輪の百合の花が佳那汰さんの方を向いた。

 佳那汰さんはその百合の花を見つめて、それから首を振った。

「あんたの一部に用はないわ。本体が出てきなさい」

「あら!」

 百合の花は喜びに震えるようにふるふると揺れると、高い笑い声を発した。

「いいお話を持ってきてくれたのね!」

 そう言うと、百合の花は植物の地面に戻っていった。するとそこから、木の枝が生え出てきた。木の枝は徐々に人の形をとり、頭ができ、腕ができ、脚ができた。

 長い長い緑の瑞々しい髪。そこにはキオトがいた。

 キオトは両手で頬を覆って、恍惚としたような表情を浮かべた。

「とっても素敵! ねえ超能力者さん、そのいい話を聞かせてちょうだい!」

「いいわよ」

 と言うと、佳那汰さんはスマホの画面を見せた。

「ツイッターで話題になってるわ。上野の街が霧に包まれて、植物に変わったって」

「そう! 情報の海に、ワタシの物語が流れたのね!」

「そういうことね」

「さあ、さあ、その先を教えてちょうだい!」

「……分かったわ」

 と言うと、佳那汰さんはスマホをいじってそこに書かれている文面を読み上げた。

「……『こんなことってあるのか? 作った話が現実になった』」

「それは!」

 俺は思わず声を上げた。

 その言い方は。

 ――作者!

 キオトは両手で包んだ頬を上気させた。

「素敵ね! とっても素敵!」

「ついさっきの呟きだわ。ツイッター上の作者の名前は、」

 名前は、

 名前は?

 心臓が大きく脈打つのを感じる。

 キオトの作者。

 決して会えないと思っていた存在。

 それが実在し、こうして存在を確かめられるという事実。

 そのことに心臓が耐えられないほど、脈打った。

 名前は。

 作者の名前は。

「ナリミヤキオト」

 ……、

 ……え?

「……キオト?」

 俺は呆然と声を漏らした。

 キオトと、

 同じ名前?

 どういうことだ?

 キオトを見ると、キオトも全くの無表情になって、佳那汰さんを見つめていた。

「ナリミヤ、キオト」

 そして、佳那汰さんの言った名前を繰り返した。

「それが、ワタシの作者の名前なの?」

「少なくとも、ツイートをした人間の名前ではあるわね」

「どこにいるの?」

「位置情報が書いてあるわ」

 佳那汰さんはそう言って画面をキオトに向けた。

 キオトは頬を包み込んだまま、その画面を覗き込んだ。

「……東京大学」

「そういうことね」

 佳那汰さんは冷静に、キオトの呟きに応えた。

「東京大学までは、駅前から直通のバスが出てるわ。すぐに街を元に戻して、バスで会いに行くのね」

 そう言われても、キオトは暫く佳那汰さんのスマホを見つめ続けていた。何かを吟味するように。

 何を思っているんだろう。

 会えないはずの作者。

 それでも会いたかった作者。

 それが、現実になる。

 殺したい。

 その動機は何であれ。

 キオトは作者に会えるんだ。

 キオトはじっとスマホを見つめた後、ぽうっと頬を赤くして、恍惚とした笑みを浮かべた。

「素敵! 素敵素敵! とっても素敵! ええいいわ! 今すぐ街を元に戻してあげる!」

 と言うが早いか、視界が霧に包まれた。その霧が風を受けて晴れていくと、そこにはいつもの学校、いつもの街があった。

 植物に巻き込まれていた人々は、まるで何もなかったかのように街を歩いている。そんな中、俺一人だけがパジャマ姿だった。

 箒木は街が元に戻ったのにほっとしたような顔をして、体に青い光を走らせ、機械の翼をしまった。

「ねえ皆戸羊太郎! 一緒に行きましょう!」

 キオトはぱっと両腕を広げてそう言った。

「え……でも俺、」

「その服装が気になるの? いいわ、服を作ってあげる!」

「え?」

 俺が何か言うよりも早く、俺の足下から植物が生え出てきて、俺の体に絡みついた。

「う、うわ!」

 俺はあっという間に植物に飲み込まれた。サチと箒木が俺の名前を呼ぶのが一瞬聞こえたが、その一瞬後、視界が開けた。

 すると俺はいつもの制服を着ていて、パジャマ姿ではなくなっていた。

「え……あ、あれ」

「羊太郎」

 サチが呼ぶのが聞こえる。サチは若干ほっとしたような口元をしていた。目は相変わらず、きょろんとしていて表情が読み取れない。

「皆戸くん……! よかった……」

 箒木は明らかにほっとしたように、胸をなで下ろす仕草をした。

 俺は戸惑ってサチと箒木を見た後、キオトの方を向いた。

「こ、これ……」

「服を作ってあげたわ。さあ、一緒に行きましょう!」

「待ってください」

 キオトが俺の手を引こうと腕を伸ばした瞬間、サチが待ったをかけた。

「私も一緒に行きます」

「わ……わたしも!」

 箒木も大きく頷いた。

 その二人を見て、キオトはフフッと笑った。

「ええいいわ! 一緒に作者の絶望を見に行きましょう? 超能力者さん、あなたはいいの?」

「あたしも行くわ。あんたたちの交通費、出さないといけないしね」

「あら、そんなの、別にいいのに。勝手に乗ってしまえばいいのよ」

「そういうわけにいかないでしょ。まだこの世界にはこの世界のルールってもんがあるのよ」

「ふうん。まあいいわ!」

 と言うと、キオトは佳那汰さんの両手を握って飛び跳ねた。

「さあ、超能力者さん、案内してちょうだい!」

「……こっちよ」

 佳那汰さんが歩き出す。

 俺たちはそれについていった。キオトは実に嬉しそうに。

 そしてたどり着いたのは、駅前の、ハンバーガーショップの近くのバス停だった。俺は思わず、キオトとハンバーガーを食べたときのことを思い出していた。バス停からは、キオトと座った二階の席がかろうじて見えていた。

「え? ここなのか?」

「そうよ」

 と言って、佳那汰さんはひっそりとしたバス停の横に立った。バス停には他に、学生のような顔をした人が数人いた。

「やあ。来たね」

 声がして、そちらの方を見ると、バス停に背を預けている人がいた。

 千代崎さんだった。

 千代崎さんは俺たちと目が合うと、体を起こしてぽいと手を振った。

「千代崎さん……」

「来る頃だと思ってたんだ。作者に会いに行くんだろう」

 その千代崎さんの言葉に真っ先に反応したのはキオトだった。

「ええ、そうよ! 狐さん、あなたも行く?」

「そうだな。僕も同行しようか」

「そう!」

 キオトはくるりと回った。

「みんなで行くの、楽しい! みんなで作者の絶望を見ましょう? うふふ!」

「ああ。そうだね」

 千代崎さんはふっと微笑んで、キオトの隣に並んだ。

「キオト」

「なあに?」

 千代崎さんに呼びかけられて、キオトは実に楽しそうに返事をした。これから作者に会い、絶望を味わわせ、殺すことがどんなに楽しいか、そのことを想像してたまらないという顔だった。

「羊太郎と佳那汰の会話を覗いたわけだね」

「ええ、そう!」

「そして、物語の改編の可能性がないなら、作者に会えると考えた」

「そうよ!」

「なるほど、キオト、君の考えは正しい。作者による物語の改編の可能性が一つもないなら、確かに物語の登場人物は、作者に会える」

「そうでしょう! うふふ!」

「おめでとう、キオト。君は作者に会えるよ」

「ありがとう!」

 キオトは実に嬉しそうに頬を覆った。その頬は赤くバラのように花咲いていて、これ以上の喜びはないんだと語っているようだった。

 俺はその千代崎さんとキオトの会話を、複雑な思いで聞いていた。何か。何か嫌な感じ。そんな感じがする。そしてふとちらりと佳那汰さんの顔を見ると、俺よりももっと複雑そうな顔をしていた。

 え?

 佳那汰さんが、どうしてそんな顔をする?

 まるで、

 キオトの願いなど、

 叶わないと分かっているような。

 そんな顔だった。

「佳那汰さん……?」

「え? なあに?」

 呼びかけると、佳那汰さんはすぐに表情を改めて、きょとんとしたような顔をして俺を見た。

「どうしたんだよ?」

「どうしたって、何よ? あたしなんかしたかしら?」

「え、だって……」

「何よ? 変なやつね」

 そう言う佳那汰さんは普通だった。ごく普通。

 隠しているんだ。

 何か、知っているんだ。

 でもそれを、表に出さないようにしているんだ。

 佳那汰さんは千代崎さんから、何か聞いているんじゃないか。

 そしてそのことは、キオトに何か都合の悪い事実なんじゃないだろうか、

 そんな気がして。

 俺は胸がざわざわした。

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