第2話街で遊ぼう!

 その日の夜。

 俺は自分の部屋で、ベッドにうつぶせになっていた。

 枕に顎を預けて、ただじっとしている。

 シャワーも浴びたし、夕飯も食べた。宿題はする気が起きない。

 カーテンを開けた窓からは、都会の真っ黒い空が見えている。その窓には部屋の明かりと風景が反射していて、まるで別世界がそこにあるように見えていた。

 考えているのは、サチのこと。箒木のこと。佳那汰さんのこと。千代崎さんのこと。

 キオトのこと。

 サチは、佳那汰さんに治療してもらってから、全く普通に戻ったようだった。あんな大けがなんてしなかったかのように、ごく普通の様子でいた。授業も普通に受けていたし、帰るときも、俺の隣の部屋に入っていくときも、いつも通りの様子を見せていた。

 貫かれたとき。

 サチは、何を思ったのだろう。

 一方箒木も、サチと同じように普通のように振る舞っていた。放課後、図書室に用があるというので俺たちは別れたが、別れ際も特に変わった様子はなかった。強いて言えば、少し元気がなかっただけ。

 サチが貫かれたとき、箒木は戦った。

 攻撃が効かないと分かっても、立ち向かったんだ。

 佳那汰さんや千代崎さんとは、会わなかった。佳那汰さんも千代崎さんと話し合うと言っていたし、大学のラウンジかどこかで話し合いでもしていたのだろう。一体どんな話が交わされたのか、そしてどんな結論が出たのか、俺には分からない。

 教えて欲しかった。

 もし何か結論が出たのだったら、教えて欲しかった。

 俺に何かできることがあるのか。

 ないなら、邪魔にならないようにするから。

 だから、教えて欲しかった。

 キオトは、結局、学食での一件以来教室にも姿を見せなかったし、どこにもいなかった。クラスメイトたちはキオトの姿が見えないことに残念そうにしたり色々だったが、キオトが学食で何をしたのかも、キオトが本当は人間ではないことも、何も知らない様子だった。

 あの学食にいたクラスメイトも、いたはずなのに。

 キオトは俺に、絶望が見たいと言った。俺の絶望が見たいと。

 ……絶望。

 俺は……。

 俺はそこで息を吐いて、枕に顔をうずめた。

 どうしようもない倦怠感だった。

 ――コンコン。

 不意に窓から風が入ってきて、何かノックのような音がした。

 俺はその音に顔を上げた。

 開け放たれた窓に、少女が腰掛けて、こちらを見ていた。

 キオトだった。

 俺は不思議と驚かなかった。

「こんばんは」

 キオトが言う。その微笑みは美しかった。

「ああ……」

 俺は息を吐くように返事をした。

「どうしたの? 仲良くしましょう」

 キオトはまたそんなことを言った。

 仲良く……。

 俺は体も起こさず、ただ枕を見つめた。

「あなたの絶望した顔、なかなか良かったわ。ねえ、もっと見せて欲しいの」

「……なあ、キオト」

「なあに?」

 俺はキオトの言葉を無視して、暫く考え込んだ。

「……あのさ」

「なあに?」

「……俺、考えてたんだ。キオトのこと」

「そう!」

 キオトは両手を合わせて、嬉しそうに頬を上気させた。

「考えていたの、ワタシのことを! 酷いやつだって? 最悪だって? 死んじゃえばいいって?」

「そんなんじゃないよ」

「あら? じゃあ、殺したいって? 憎い憎いって? それとも、うーん、この世の厄災なら取り除かないとって?」

「そんなこと考えてないよ」

 俺が二度も否定すると、キオトはもっと嬉しそうにして手を叩いた。

「そう! じゃ、もっと凄いことね! 聞かせて、その考えを?」

「……うん……」

 俺は曖昧に返事をして、それから体を起こすと、まだ枕を見つめたまま暫く黙り込んだ。キオトはわくわくした表情で俺の言葉を待っている。

 暫くして、俺はようやくキオトを見た。

「キオト」

「うん!」

「仲良くなろう」

 それを聞いたキオトの表情を、何と言っていいのか、俺は知らない。物書きと名乗った千代崎さんなら、形容の仕方を知っているかも知れない。でも俺には、それが何と言う表情なのか分からなかった。

 一つ形容する言葉があるとすれば、

 きっと、

 枯れることを悟った花のようだった。

 そんなふうだろう。

 キオトはそんな顔をして俺を見た。

「……仲良くなろう、キオト。俺はキオトのこと、よく知らないし。キオトのこと、もっと知りたいんだ」

 キオトは形容できない表情を一瞬でやめて、何か聞いたことのない言葉を聞いたかのような顔で、くい、くい、と二回首を傾げた。

「キオトも言っただろ。仲良くしましょうって。俺、そうしたいんだ」

 キオトは首を傾げたまま、明後日の方向に視線を向けていた。何を考えているのだろう。

 暫くそうしていると、キオトはぱっと笑って俺を見た。

「あなたが考えていたことって、そんなこと?」

「……うん」

「あなたって、忘れっぽいの? ワタシがしたことを忘れたの? ねえ? 篠目サチを殺そうとしたことを忘れたの? ねえ、ねえ」

「忘れてないよ」

「それなら、どうして仲良くしようなんて言うの? 狂っているの?」

「狂ってないよ。ただ……考えたんだ」

 キオトは笑顔のまま首を傾げた。

「どうしてだろうって。考えたんだ。キオトは物語の中で死んで……それでここに来たはずなんだ。それなのに、現実世界の人間を絶望させたいとか、世界を壊したいとか、どうして言うんだろうって考えた。考えて……分からなかった」

「あら? 分からないなんていうことがあるの? だってワタシはクルウルウ! この世の厄災、世界を滅ぼす存在!」

「……ああ。そうだな。キオトはそう言ったし」

「分かっているじゃない? だからワタシは世界を絶望させ、壊さずにはいられない! ねえ、分かっているのに、何が分からないの?」

「この世界がなくなったら、キオトも消えるだろ?」

「ええ、そうよ!」

「それって、キオトはいいの?」

「ええ、もちろん!」

「せっかく、現実世界に来たのに?」

「物語の中で果たせなかったことを果たしに来ただけだもの!」

「……そっか」

「ねえ? 何が分からないの? 教えてちょうだい!」

「……うん」

 俺は小さく深呼吸すると、改めてキオトを見た。

「キオトの本当の気持ちが、分からない」

「ワタシの本当の気持ち?」

 キオトは吹き出した。愚かなことを聞いた、とその顔が言っていた。

「ワタシの本当の気持ち! そんなもの、ワタシの言葉のままなのに? 本当を探したいなんて!」

「……そうだよ、本当を探したい」

「どうして? どうして?」

「キオトは、仲良くしましょう、って言った。でも、絶望も見たい、って言った。どっちが本当なんだろうって」

「どっちも本当!」

「……そっか」

「仲良くしましょう? 絶望を見せてちょうだい!」

「うん。分かった」

 俺ははっきりと頷いた。

「仲良くしよう」

「仲良くしましょう!」

 キオトは輝くような笑顔を見せると、窓から飛び降り、俺のそばに駆け寄ってきた。そして俺の両手を取って俺を引っ張った。その力強さに俺は思わず立ち上がり、ベッドから下りた。

 キオトのその顔は、本当に仲良くしようとしている顔だった。でも本心のうかがえない顔だった。

 本当に仲良くしたいと思っているのか。

 それとも別の気持ちがあるのか。

 俺には想像もできない思いが、その中にあるのかも知れない。

 キオトはダンスに誘うように陽気に、声を張り上げた。

「遊びに行きましょう! 楽しくすごすの!」

 そう言ってキオトは俺の手を引き、窓に飛び乗った。

「行きましょう!」

「え? 行くって、どこへ?」

「街へ!」

 と言うが早いか、キオトは俺の手を引いたまま窓から飛び出した。その時、不思議な力で俺の体が浮き上がり、キオトに手を引かれたまま窓の外へ出た。落ちる、と思った。

 が、落ちなかった。

 俺とキオトは窓の外、空中に、立っていた。

 ふわふわと、風が俺たちの髪や服を撫でていく。キオトの長い髪は風に揺れて、花のような蠱惑的な香りを漂わせた。

 俺は不思議な気持ちがしていた。

 高いところにいる。それに恐怖を感じて当然のはずなのに、不思議と怖くなかった。下を見下ろして、誰も通らない住宅街や、近くのコンビニの明るい光を見ていた。

 キオトは楽しそうに笑って、俺の片手をくんと引っ張った。

「さあ! 行くの! 上へ! もっと上へ!」

 階段を上るように、キオトは軽やかに夜の街の空を駆けた。それに引かれて、俺も夜の空を走った。

 不思議だった。

 これも、キオトの力なのか。

 神話生物。

 この世の厄災。

 しかし今は、俺の手を引く無邪気な少女。

 俺たちは夜の街の真上を、ゆっくり走った。遠くに上野駅が見える。行き交う電車、そのそばの道路を走る車。上野恩賜公園は、ぽつりぽつりと明かりが見えるくらいで、真っ暗だ。

 俺たちの足下にあるのは、日常の光景だ。でも俺たちの視点は、非日常のものだった。

 俺たちはぐんぐん空を上った。風は感じるが寒くない。妙な温かさがあって、何かに包まれているみたいに感じた。

 実際、包まれているのかも知れない。キオトから漂う、この香りに。

 俺たちは高い高いところに来ると、やっと立ち止まった。

 キオトはくるりと俺を見て、にっこりと笑った。

「ねえ、この世界の、美味しいものが食べたい!」

「え? 美味しいもの?」

 唐突な要求に、俺はちょっと目を丸くした。

「何が美味しいの?」

「え? うーん……今の時間も開いてるところだと……駅前のハンバーガーショップとか……」

「じゃあ、そこ!」

「あ、でも今、俺お金持ってなくて……」

「だいじょうぶ! 今度はあなたが手を引いて!」

「え?」

 俺は戸惑った。

 俺が手を引く。

 キオトの力を借りて、空を駆ける。

 できるのか?

 俺に?

「さあ、はやく!」

 キオトが踊るように飛び跳ねながら急かす。それで俺は意を決した。

 上野駅に向かって、足を踏み出す。下りよう、と思いながら進むと、階段を下りるように下りて行けた。

 近付いてくる日常。

 いつもの駅前。

 それがこんなにもきらきらして見えるなんて。

 行き交う人々は、俺たちの姿なんて見えていないように、ごく普通の様子で通り過ぎていく。

 駅前のハンバーガーショップはまだ開いていた。遠目にもそれが分かる。俺はそこを目指した。後ろではキオトが、俺に手を引かれながら楽しそうに笑い声を上げている。

 仲良くしましょうと。

 絶望を見せてと。

 そう言うこの世の厄災が。

 今はただ、遊ぶ少女のように笑っている。

 俺たちはハンバーガーショップの前に降り立った。降り立つ瞬間、ふわりとした風と心地よい重力を感じた。

 キオトは店構えをきょろきょろと観察して、それから中を覗き込むように身を乗り出した。

「ここなの?」

「うん、そう」

「入りましょう!」

「あ、待って!」

 キオトは俺の手を放して店の中に入っていった。手が離れた瞬間、一瞬寂しさを感じたのはなぜだろう。

 サチを殺そうとした相手なのに。

 この現実世界を滅ぼすかも知れないのに。

 でも今は、遊ぶ少女のようだから。

 だから、俺はキオトの後を追った。

 キオトはカウンターの前でメニューを見ていた。メニューの見方なんて、分かるのだろうか?

「ねえ、ワタシ分からないわ。美味しいものをお願い!」

 案の定、分からないらしい。

 俺は後頭部を掻くと、適当にセットを二つ頼んだ。俺自身は夕飯を済ませているけれど、これくらいなら全然食べられる。

 お金はどうするんだろうと思ったが、店員はお金を要求してこなかった。明らかにキオトの力だ。いや、空想の存在の力と言うべきなのか。いいのだろうか、こんなことをして……と思ったが、申し訳ないと思いつつ、この場はしょうがない許してもらおうと思った。

 一方キオトは、店員の動きやトレイに重ねられていくメニューを、つぶさに観察していた。おもしろいのか、非常に興味深そうだ。

「お待たせしました」

 そう言われて差し出されたトレイを、キオトは嬉しそうに受け取った。

「わあ!」

「じゃ、二階、行くか?」

「そうね!」

 俺たちは二階に上がった。二階には学生らしい人や若い人はあまり見られず、社会人ふうの人達が、仕事をしながらハンバーガーを食べていた。

 俺たちは窓際の、それも隅の席に腰を下ろして、それぞれ向かい合った。

「わあ! いいにおいね!」

「そうだな」

「ワタシ、人間の食べ物を食べるのは初めてよ」

「そうなのか?」

「どうやって食べるの? 手本を見せて?」

「いいよ」

 俺はまずハンバーガーを手にとって、包装を開いた。そしていつものようにそれにかぶりつくと、もぐもぐと食べて見せた。

 口を動かしながらキオトの顔を上目遣いに見ると、キオトは包まれたままのハンバーガーを手に持って、目を丸くしていた。

「不思議ね。本当に人間ってものを食べるのね!」

「え? そこから?」

「どうして人間はものを食べるの?」

「そうしないと死んじゃうからだよ」

「死んじゃう? 食べないだけで?」

 キオトはころころと笑った。

「おかしい!」

「でもこれが人間の普通なんだよ」

「ねえ、じゃあ、作者もそう?」

「え?」

 作者?

「作者も人間でしょ? 作者も食べないと死ぬの?」

「作者って……キオトを作った作者?」

「ええそうよ。ワタシの物語を作った作者!」

 どうしてここで急に作者の話が出てくるのか分からなかった。でも俺は考えてみた。

 作者。

 それは、現実世界の人間。

 いくら空想の物語を紡げても、生身の人間には違いないのだ。だったら、食べないと死ぬだろう。

「そりゃ、食べないと死ぬと思うよ」

「あら、大変!」

 キオトはおどけたような顔で笑った。

「じゃあ、食べてもらわないと!」

「そうだね」

「食べて、生きていてもらわないと、殺せないわ!」

「え?」

 俺はジュースに手を伸ばそうとして、それをやめた。キオトは無邪気な顔をしている。

 殺せない?

 今そう言ったか?

 キオトは、殺したいのか?

 現実世界の人間たちだけではなく、作者のことも?

 思えば、空想の存在が作者をどう思っているのか、俺は聞いたことがない気がする。サチも箒木も佳那汰さんも千代崎さんも、作者については何も言わない。俺も作者のことをどう思っているのか、聞いたことがなかった。

 だから、今初めて、空想の存在が作者について発言するのを聞いた。作者に対してどうしたいのかを。

 そのことに驚いて、俺は一瞬固まっていた。

 そして一瞬たってから、やっとキオトの言葉をもう一度反芻した。殺せない。殺せない?

 キオトは、殺したいのだろうか?

 しかし、それはなぜ?

「キオト、作者を殺したいのか?」

「ええ、殺したいわ!」

「どうして? 現実世界の人間だから?」

「一番憎んでいるから!」

「……憎んでる?」

「ええそうよ! 憎くて憎くて、ただでは殺してあげたくないくらい!」

 と言うと、キオトは身を乗り出してきた。

「そうだわ、いいことを思い付いた!」

「え? な、なに?」

「ワタシ、作者を捜したいの。でも作者のことは空想の存在には隠されてるみたいで、全然捜せないの。ワタシの力では見つからないわ。ねえ、だから、皆戸羊太郎。ワタシと一緒に作者を捜して?」

「え?」

 どきりとした。

 作者を捜す。

 キオトを作り、キオトの物語を紡いだ作者を。

 それは、日常と非日常の邂逅のように、俺には思えた。だからどきりとした。

 作者を捜したい。

 でもその言葉は、ごく自然な行動のようにも思えた。確かに、空想の存在であるならば、作者の存在が気になっても不思議ではないはず。キオトは殺したいようなことを言うが、動機はどうであれ、空想の存在にとって、作者とは特別なもののはずだ。だったら、捜し出して会いたいと思うのも違和感がない。

 しかし不思議だと思わせるのは、さっきも考えたように、サチも、箒木も、佳那汰さんも千代崎さんも、作者には言及したことがないことだ。

 俺は初めて、空想の存在から、作者に会いたいと言われたような気がした。

 その動機はどうであれ。

「一緒に捜して、羊太郎! そうしたら、あなたを殺すのは一番最後にしてあげる」

 キオトは無邪気な顔をしてこちらを見ている。俺が断っても断らなくても、きっとその無邪気な顔が崩れることはないのだろうけど。

 俺を殺すのは一番最後と言ったが、俺にとってはそれは大きなことではなかった。どちらかと言えば、キオトが一緒に捜して欲しいと言ったことの方が重要だった。

 作者に会いたい。

 それは憎いから。

 殺したいから。

 その動機はどうであれ、

 キオトは作者に会いたいんだ……。

 それは切ない思いのような気もした。

 作者に会いたい。

 多分、作者を捜し出すことができたとしたら、俺もキオトと共にその場にいるだろう。

 作者は一体どんな人物なのだろう。

 キオトを作り、物語を紡ぎ、キオトを死に定めた人間とは、一体、どんな人間なのか。

 どきどき、した。

 そして同時に、俺も会ってみたい、と思った。

 だから俺は、頷いた。

「……分かった」

「素敵!」

「でも、どうやって捜すんだ? スマホで検索してみるとか?」

「すまほ? けんさく?」

 知らないらしく、キオトは首をくい、くい、と二回傾げた。

「スマホって言う便利な道具があるんだ。それで捜せば一発かも知れない」

「そうなのね!」

「でも、今持ってない……。なあ、キオト、作者の名前は分からないのか?」

「分からないわ。言ったでしょう? 作者の存在は隠されているの」

「そうなのか……。うーん……」

 俺は考え込んで、はたと思い付いた。

「あ、じゃあ、キオトの名前で検索してみよう。キオト・クルウルウって言う名前、ネットのどこかにあるはずだろ?」

「ねっと?」

「あー……うーんと、情報の海みたいなところ」

「そんな海があるのね! 現実世界って不思議だわ! 情報の海なら、ワタシのこともきっと漂ってるわ!」

「そうだよな。うん。じゃあ、そうしよう」

「ねえ、情報の海、見てみたいわ!」

「目に見えるものじゃないんだよ」

「そうなのね! ワタシの世界にも、目に見えないものは沢山あったわ」

「へえ」

 目に見えないもの。それはキオトの世界の話だ。もしかしたら作者を捜す手がかりになるかも知れない。俺は詳しく聞いてみることにした。

「たとえば?」

「たとえば、原初の命!」

「原初の命?」

「そうよ。人間も植物も動物も、全て原初の命から生まれてくるの。その原初の命も、神話生物の一つ」

「目に見えない生き物がいるのかあ」

「そうよ! 現実世界には、いないの?」

「え? うーん……。いる……とすれば、幽霊とかかなあ」

「幽霊ね!」

「でも、現実世界では、いるとかいないとか、人によって意見が違うんだよ。本当にいるかも知れないし、実はいないかも知れないし……」

「そんなものよ。神話生物だって、人間たちはいないと思ってた。目に見えない神話生物も多かったし、人間には自分たち以外の高等生物がいると分からなかったのね。でもワタシが現れて、いるって分かった。それで世界が滅ぶと知って、ワタシを殺した」

「キオト……」

 キオトは頬を包み込んで、恍惚とした表情をした。

「ワタシは人間を許さない! 作者のことも許さない! 作者を一番許さない! だから作者を一番殺したい!」

 殺すことこそ最上の喜びであるかのように、キオトは言った。事実キオトにとって、殺し、滅ぼすことは喜びなのかも知れない。

 キオトは特に作者を憎んでいる。自分を生みだした存在を。自分を生みだし、死に定めた存在を。それが一体どんな気持ちなのか、俺は考えた。

 たとえば……たとえばこの世界に神さまがいて、俺たちを形作って生みだしたとする。しかしその神さまが、どういう理由か分からないが、俺たちを殺すことに決めたとする。そのことを知ったら、俺は……。

 ……俺は、神さまに対して、どう思うだろう。

 どうせ殺すつもりなら、なぜ生みだしたのかと。

 そう思うかも知れない。

 そして殺す理由を告げられもせず、死んでいくとき、

 ……神さまの実在を悲しむ気がする。

 俺の感情と、キオトの感情は、全く違うものだろう。キオトは悲しんではいない。ただ憎んでいる。でも、作者に対して、キオトにとっての神さまに対して、大きな感情を抱いていることは間違いない気がした。

 その大きな感情がキオトを突き動かし、作者と対面したとき、何が起こるのか。まだ分からない。

 キオトは作者を殺そうとしている。作者を捜すと言うことは、つまり、俺もそれに手を貸すと言うこと。

 それは、いいことなのだろうか。

 キオトにとって。

 作者にとって。

 この……世界にとって。

 千代崎さんは、下手をすれば世界が滅びると言った。

 もしかしたらそうかも知れない。

 俺は、自分にできることがあるならそれをしたいと思ったし、できることが何もないなら邪魔をしないと思った。でも今、俺は、もしかしたらみんなの邪魔になることをしているのかも知れない。

 本当に世界が滅んだらどうしよう。

 言葉ではそう思ったが、世界が滅ぶと言うことに実感はなかった。この世界が、この平凡な世界が、そんなに簡単に滅ぶとは思えない。俺を退屈させ続けたこの世界が、退屈を簡単に手放すなんて……。

 いや、でも、もしかしたら、手放すときがあるのかも知れない。

 昼間の学食のように。

 キオトは両手でテーブルに頬杖をつき、俺の顔を覗き込んだ。

「ねえ、羊太郎」

「うん?」

「羊太郎は、どうして篠目サチや箒木来栖と仲良くしているの?」

「どうしてって? 何で?」

「だって、相手は空想の存在でしょ。生きていてはいけない存在。だから死に戻そうと世界が殺そうとしてくる。それに巻き込まれて自分が殺されるとは、思わないの?」

「ああ……うん。そうだな……」

 俺は考え込んだ。

「……そうかもしれない。そうなるかも知れないけど、俺にとって、大切な友達なんだ。特にサチは……俺を救ってくれたし」

「救ってくれた?」

「俺、現実に退屈してたんだ。窒息しそうになってた。だから非日常を望んでて、だから家を離れてこんな場所まで来た。でもそれでも、何も起こらなくて……だけど、サチが来てくれた。それで、俺の日常は変わったんだ」

「日常に窒息? どうして?」

「退屈だったんだよ」

「退屈? どう退屈だったの?」

「何も起こらない。ただ、毎日毎日、おんなじことが繰り返されてて。今日も昨日とおんなじだった。明日もきっとおんなじだろう。それが分かるんだ。このまま何も起こらずに、俺は何も経験せずに、死んでいくんだ。そう思ったら、焦ってきて」

「焦っているのに、退屈なの?」

「退屈することに焦っていたんだよ」

「ふうん。変なの!」

 キオトはころんと笑った。

「退屈なのはあなたが傷付かないからよ」

「え?」

「ワタシを殺そうと躍起になっていた人達は、ワタシがあんまり傷付けるから、退屈なんてしてなかったわ。ワタシの存在をいつも意識して、張り詰めて、仇を討つぞ、殺さないと世界が滅ぶぞって必死だったわ」

「でもそれは……」

「平穏じゃないわ。つらいことだわ。とっても最高! 殺し合うっていいことよ!」

「どういいんだよ」

「退屈しないわ」

「でも殺し合いなんて……」

「あら? 退屈しないのがいいんじゃないの? どうしてそんな顔をするの? おかしな人間!」

「退屈しなきゃいいってもんじゃないよ」

「じゃあ、どうすればいいの?」

「冒険したかったんだ。世界を救うような」

「そうなのね! だったら、羊太郎とワタシは敵同士なんだわ! ねえ羊太郎、殺し合いましょう?」

「え? い、いやだよ」

「うふふっ、そうよね! 作者を捜すのが先だもの! 羊太郎を殺すのは一番最後だわ!」

 キオトは実に楽しそうにしている。こんな会話も他愛ないものだと思っているような、その顔は、見た目の年齢よりも幼いものだった。

 話している内容は実に不穏なのに、キオトにとっては楽しいもののようだ。それも、世界を滅ぼす存在としての性質なのだろうか。

 キオトはにこにこと俺を見つめると、やっとハンバーガーを食べ始めた。両手で持って、慎重にかぶりつく。もぐもぐと口を動かす様子は、少し不慣れな感じにも見えた。本当に、口に物を入れて食べてみたことがないのだ。

 暫く黙って口を動かしていると、キオトは不意にもぐもぐと喋り始めた。

「くちのなかからたべものがなくならないわ」

「え?」

 一瞬何と言ったのか分からなくて、俺はきょとんとした。それから、口の中から食べ物がなくならない、と言ったのだと分かって、ちょっと戸惑いを覚えた。

 飲み込み方が分からないのか?

「飲み込むんだよ」

「のみこむ?」

「こう、ごくんって、喉の方に飲み込むんだ」

「わからないわ」

 と言うと、キオトは口を動かすのをやめた。

 すると、次の瞬間、キオトの顔面にひびが入った。木の皮のような質感に変質すると、キオトの顔は枝分かれした木になった。花が咲き、若葉が茂った、美しい樹木。その枝分かれした樹木の真ん中に、吸い込まれそうな暗黒が口を開けていた。

 樹木の枝は残りのハンバーガーを包装紙ごとその暗黒に放り込み、ジュースも、ポテトも同じようにした。

 そうすると、樹木はくるりととぐろを巻くように丸まって、人の頭の大きさになった。やがて木の質感はなめらかな肌へと変わり、すぐにキオトの元の顔に戻った。

 その様子を、俺は呆気にとられて見つめていた。

 キオトは俺のぽかんとした顔を見て、にっこりと笑った。

「はじめからこうしていれば良かったわ」

 それに対して俺は何と言っていいのか分からなかった。

「え……あ、ああ、うん、そうだな……」

「どうしたの? 変な顔!」

「……いや、だってびっくりして……」

「そう!」

 今のキオトの変身を見ていた人はいないようだった。視界に入っても、そんなものなどないかのように、知覚できなくなっているに違いない。そうでも考えないと、この店内の静寂と平穏をどう解釈していいのか分からない。

「あの……その」

「なあに?」

「うまかった……か?」

 俺はおそるおそる訊いた。

「おいしい? 人間はこれを美味しいと思うの?」

「キオトは思わなかったのか?」

「ワタシ、分からないわ」

「そ、そっか」

 俺はちょっと引きつりながら笑って、自分の分を食べた。

 その間、キオトはにこにこして俺を見つめていた。ものを食べるという、人間のごく普通の行動について、何か楽しみを見出しているかのようだった。

 そして俺が食べ終えると、くいと首を傾げて、楽しそうにクスクス笑った。

「ああ、作者に会ったらどうしてやろう! どうやって殺してやろうかしら? ねえ羊太郎、一緒に考えて!」

「え? や、やだよ」

「そうね! 作者を殺したいのはワタシだもの。ワタシが考えつく、とっておきの殺し方をしてあげなくっちゃ!」

「なあ……キオト」

「なあに?」

「本当に、作者を殺すのか?」

「ええ、殺すわ!」

「殺して……どうするんだ?」

「現実世界を滅ぼすわ!」

 俺が聞きたいのは、そういうことではなかった。でも、訊き直さなかった。

 本当は、作者を殺した後、どういう気持ちになるのか考えているのか、と言いたかった。そしてその答えを聞きたかった。

 でもキオトはきっと、俺のそんな質問など笑うだろう。なんて愚かなんだろうと。キオトはそんな存在なんだ。

 キオトはにこにこ笑うと、クスッと声を漏らした。

「今ここにいる人達なんて、簡単に殺せるけど、今は作者を捜すのが一番! ね、羊太郎、私も捜しておくから、羊太郎も捜しておいてね」

「うん、分かった」

「お願いね! 仲良くしましょう?」

「うん」

「うふふっ」

 と言うと、キオトは空気の中に溶けて消えてしまった。

 仲良くしましょう。

 その言葉の本当の気持ちを、俺に悟らせることなく。

 俺は深呼吸した。キオトの残り香が口の中に漂って、出て行った。この世のものとは思えない、蠱惑的な花の香り。実際、キオトはこの世のものではない。物語の中でさえ、そうだっただろう。

 そんなキオトを生みだした作者を、捜す。

 スマホで検索すれば簡単だろうと思ったが、そんなに簡単にいくだろうか。俺は作者のことを何も知らないのに。

 ……でも、できることから始めないと。

 俺はトレイを片付けると、ハンバーガーショップを出た。

「やあ、少年」

「わあっ」

 作者を捜す気で店を出たのに、出入り口で突然声をかけられて、俺は驚いて声を上げた。

 そして声の方を向くと、出入り口に寄りかかってこちらを見ている、千代崎さんがいた。

 千代崎さんはゴホンと咳をして、にやっと笑った。

「ち、千代崎さん」

「この世の厄災と話をしたみたいだね」

「あ……」

 どうしてそれを、と思ったが、すぐに思い出した。

 千代崎さんは、狐憑きなのだ。神に近い存在から、何でも教えてもらえる。

「……はい」

「なかなかいいね。どれ、今度は僕に付き合ってもらえないか」

「え?」

「まだ寝る時間じゃないだろう。……ゴホゴホ……。どうだい?」

 咳をしながらいわれると、千代崎さんこそ寝るべきなのではないかと思ったが、言わないでおいた。ここは、千代崎さんからの申し出を断らない方がいい。

 なぜなら、千代崎さんから聞きたいことが、俺にもあるから。

「分かりました」

「いい返事だ。では行こうじゃないか」

「あの、どこに行くんですか?」

「上野と言えば精養軒と決まっている」

「精養軒?」

 聞いたことがなかった。飲食店なのだろうか。

 千代崎さんは背を起こすと、すたすたと歩き始めた。俺はそれについていくしかない。

 千代崎さんが向かったのは上野恩賜公園だった。そこの上野文化会館に入る。上野文化会館にはぽつりぽつりと人がおり、奥まったところに階段があった。千代崎さんはその階段を上った。

 その先にあったのは、こうこうと明かりの点いたレストランだった。しかしレストランの中には客はおらず、従業員がぽつんといるだけだった。

 文化会館自体にも初めて入った俺は、こんな場所にこんなレストランがあると知らなかった。

「ここが……精養軒?」

「そうだよ」

 と言うと、千代崎さんはにっと笑った。

「もう閉まってるんじゃ……」

 客の姿が見えないので、俺はそう言った。

「なに、問題ないさ」

「でも、お客さんいないし」

「問題ないよ。おうい、案内を頼むよ」

 千代崎さんは右手を挙げて店員を呼んだ。店員はすぐに来て、俺たちを店の真ん中の席に案内した。店員が椅子を引いてくれたのにどぎまぎして、俺はぎこちなく椅子に腰を下ろした。

 対して千代崎さんは落ち着いたものだ。すっと上品に座ると、頬杖をついてにこにこと俺を見た。

「食事はもう済ませてあるかい」

「ああ……はい」

 自分の家でも食べたし、キオトとも食べた。キオトのあれは……食べたと言えるのか分からないが。正直お腹がいっぱいだ。

「なるほど。じゃあお茶にしよう」

「あ……え、でも」

「遠慮をするんじゃない。給仕さん、紅茶を二つ頼むよ」

 そう言いながら、千代崎さんは袖から小袋を取り出した。それが財布だと分かったのは、千代崎さんがそこから一万円札を五枚まとめて取り出したときだった。俺はそのお金を見てぎょっとした。

 給仕さんと呼ばれた店員は、かしこまりましたと返して、五万円を持っていってしまった。

 俺は思わず身を乗り出した。

「ちょ、ちょっと、ここってそんなに高いんですか!」

「そんな値段じゃないよ。ただの迷惑料さ。本来閉まっている時間に開けてもらっているんだからね」

「迷惑料って……」

「ここは九時まで。今は僕らの貸し切りだ。このくらいのお金は出してあげなくては、残業させられている彼らの境遇に合わないさ」

「は、はあ……」

 俺は言葉を失って、上目遣いに千代崎さんを見た。

 暫くすると、先程の店員がトレイに紅茶を載せて運んできた。テーブルに紅茶が並べられると、店員は出入り口の近くに待機しに行った。

 千代崎さんはポットからカップにお茶を注ぐと、それをくいっと飲んだ。

「さて。これで心置きなく話ができるな」

「はあ……」

「人払いはしてある。給仕さんたちにも僕達の会話は耳に入らないよ。そういうふうにしてある」

「それは……狐憑きの力で?」

「え? アハハ、いやいや」

 千代崎さんはふるふると首を振ると、カップを置いた。

「空想の存在にはそういう力があるのさ。現実世界に干渉し、自分がどこにいようとも違和感がないように操作する力がね。そうしなければ、どうやって自分の居場所を作ると言うんだい? サチも来栖も同じようにして自分の居場所を作っているだろう。それに、佳那汰だってね」

「それは……」

「狐憑きのことを佳那汰から聞いたんだね」

 千代崎さんはまた紅茶を飲んだ。

「まあそれはいいさ。ともかく、君も上野に住むんだから、こういうところを知っておいた方がいい。精養軒は昔からあってね、かつての文豪たちからも愛されたものさ。大正初期を舞台にした僕の物語にも登場するくらいでね」

「はあ……」

「飲まないのかい? 渋くなるよ」

「紅茶って、あんまり飲んだことなくて」

「なんだ、そうか」

 千代崎さんはからからと笑うと、俺の前のポットを持ち上げ、俺のカップに紅茶を注いだ。

「飲んでみるといい。これも一つの冒険だよ」

「は……はあ」

 俺は言われるままに紅茶を口に含んだ。何とも言えないが、やや渋い味がした。

「美味しくないという顔だね」

「うう」

「いいよ、無理をして飲まなくても。君にはココアの方が良かったかな」

「いやでも……五万円の紅茶だし」

「アハハ。君はおもしろい」

「おもしろいって……」

「実におもしろいよ」

 そう言うと、千代崎さんは袖で口を覆って激しく咳をした。そしていっそう激しく咳をした瞬間、テーブルクロスにぱたたっと赤い血が飛び散った。

「ちっ、千代崎さん! 血が……!」

「ゴホゴホ……。……ふぅ。すまないね。夜は特に酷い」

 千代崎さんはいったん息をついて落ち着くと、赤い血のついたテーブルクロスに袖を滑らせた。その後には、テーブルクロスの血はどこにもなかった。

 俺が心臓をドキドキさせながら千代崎さんを見ていると、千代崎さんはクスッと笑って上目遣いに俺を見た。

「空想の存在とは、ただの情報の塊のようなものだ。だから、自分から発生した情報……たとえば、吐き出した血を自分で消すことくらいは造作もない。ただ、昼間の食堂のように、あそこまで派手に壊れた現実世界を修復するようなことは、佳那汰にしかできないね。佳那汰は、そういう超能力者だから」

 俺はそれどころではなかった。千代崎さんの吐いた血が、サチの血と重なって、本当にそれどころではなかった。

 サチの血。

 俺の顔についた血。

 ……サチの命。

 千代崎さんの、命。

 その俺の思いを知ってか知らずか、千代崎さんは目を細めて笑って、肩をすくめた。

「そんなに心配することでもない。気持ちを切り替えて、本題といこうじゃないか」

「いや……でも」

「ふう。君は少し優しすぎるきらいがあるようだ」

「俺は別に優しくないよ。でも……」

「でも?」

「優しくないなりに、心配になるよ」

 俺にそう言われると、千代崎さんはちょっと目を丸くした。そして紅茶を口に含んで、穏やかに微笑んだ。

「なるほど」

「なるほど?」

「僕には侘助(わびすけ)という弟がいたんだが」

「は、はあ」

「常々、自分は優しくないと思っている、優しい人間だった。思うに、優しさを知らずに育った人間は、優しさが分からないから、自分の優しさすら知らないのではないだろうか。逆に、優しくされて育った人間は、自分のことを優しいと自称するもののような気がするね」

「いや、俺、そんなに深刻じゃないよ」

「そうかい」

 千代崎さんは俺の言葉を否定せず、ただ紅茶を飲んだ。

「まあ君の言う、俺は優しくないという言葉は、もっと上の優しさがあるはずだと思っているといったところなのだろうね」

「それは……そうかも知れないけど」

「ともかくだ、その優しさが、吉と出るか凶と出るか、だね」

 俺はその言葉にどきりとして、千代崎さんを見据えた。

「それは、キオトのこと?」

 千代崎さんはカップを置くと、腕を組み、右手でそっと唇を撫でた。

「僕は吉と出る、に賭ける」

「どういうこと? 千代崎さん、何をどこまで知ってるんだ?」

「僕が知っていることは全てじゃない。ただ、キオト・クルウルウが作者を捜し出して殺そうと思っていることは知っている」

 俺は小さく頷いた。

「……そうなんだ。俺も……作者を捜すことに協力しようと思ってる。でもそれが、いいことなのか……」

「良いか悪いかは作者を見つけてからの話さ。難しいことを考えず、協力してやるといい」

「千代崎さんは、キオトの作者のこと、何か知らないか?」

「知っている」

「知ってるんだ!」

 俺はがたんと机を揺らして身を乗り出した。

 しかし、千代崎さんは涼しい顔をして紅茶を飲んだ。

「教えないよ」

「どうして!」

「君達が向き合うべき問題さ。それがどんなに酷なものでもね」

「酷……?」

「羊太郎」

「う、うん」

「どんな現実でも、受け止める覚悟はあるかい」

「え……?」

「たとえばだ、それが受け入れるのに耐えがたいものだったとする。僕達の場合、それは自分の死だったわけだが、受け入れがたい現実が、新たな扉を開くことがあるのさ。そんなとき、君はその扉を開けるか、閉めるか」

 難しい話を、

 されている気がした。

 理解できないという意味の難しさではない。選択することが難しい話をされているような、そんな気がした。

 受け入れがたい現実が目の前に現れたとき、扉が開く。

 その時、

 扉を開けるのか。

 閉めるのか。

 どちらが最善か、選ぶことができるのか。

 受け入れがたい現実とは、どんなことだろうか。

 千代崎さんは、たとえば、それは自分の死だったと言った。

 キオトにとっても、それは同じだったはずだ。

 死への絶望が、現実世界への扉を開けたのだから。

 しかし……。

 それに匹敵するようなことが起こるとしたら。

 それは何?

 俺は千代崎さんの言葉に答えることができないまま、千代崎さんの顔をじっと見つめていた。千代崎さんはどこか関係がないような涼しい顔をして、ただ紅茶を飲んでいる。

 ……この人は知っているんだ。

 事実を。

「……千代崎さん」

「ああ」

「千代崎さんは……作者を、恨んでいますか」

 問われると、千代崎さんはカップを置いた。

「いいや」

「それは、どうしてですか?」

「自分が作った登場人物が心を持つなど、作者には分からないだろう。もちろん登場人物同士も心を持っているかどうかは、お互いに分からない。登場人物本人にしか、心の有無は分からないのだ。誰かに確認することもできない。登場人物同士、お互いの口は作者にゆだねられていて、自由意思は閉ざされているからね。つまり、登場人物が心を持つかどうかは作者には責任がない。だから、僕は作者を恨まない」

「よく……分からないんですけど」

「僕の心の責任を、作者に押しつけるつもりはない、ということさ。僕が心を持ち、作者のことをどう思おうと、作者には関係のない話だからね」

「じゃあ、感謝もしていない、っていうこと?」

「君は賢いな」

 千代崎さんはくすりと笑った。それは肯定だった。

「恨むとか感謝するとか言うより、あきらめの気持ちの方が強い気がするね」

「諦め……」

「ただし、『死んでくれ』と思われたことに対して、思うところはある」

 俺は何とも言えない気持ちで千代崎さんを見た。

「……作者に会いたい、と思う?」

「いいや」

「どうして?」

「作者に会ったら、自分の死後、物語がどうなったか知ることになるからね」

 それは不思議な言葉だった。

 俺の感覚からすると、自分が死んだ後、世界がどうなっていくのかに興味がある。自分の死後にみんながどう過ごしていくのか、世界がどう変わっていくのか。それを絶対に見られないという現実が、死というものの中にある。その事実が、死というものの絶望感に繋がっている気もする。

 しかし、作者に会えばそれを知ることが出来るのに、それを知りたくないというような物言い。俺にとっては少し不思議だった。

「自分の死後を知りたくない? どうして?」

「僕は自分の物語に命を賭した。しかし、その後の結果が悲劇だったらどうする? とても耐えられたものじゃないね」

 千代崎さんはそう言うと、紅茶を飲み干した。

「正直、僕達は怖いのさ。物語から切り離されることに絶望するほど、自分の物語を、他の登場人物を愛していた。それなのに、自分の死など全く意味もなく、ただその先に破滅が用意されていたと知ることが」

 千代崎さんはそこでクスッと笑った。

「考えてみればおかしな話さ。僕達が知ろうと知らなかろうと、物語の結末は変わらないのにね。でも、自分の死を超える絶望がそこに用意されていたらと考えると、ちょっと腰が引けるね」

 俺は何も言えずに千代崎さんを見ていた。

 ……自分の死を超える絶望。

 物語に命を賭した。物語から切り離されることに絶望するほど、物語と登場人物たちを愛した。

 俺は……。

 俺には、決して到達できない次元の話だという気がした。

 だってそうだろう。

 自分の死に絶望する。それは分かる。理解できる。でも、それを超える絶望なんて。

 自分が愛した物語の、登場人物たちの、破滅の結末が、自分の死を超える。

 その痛みを、痛みという言葉すらも足りないと思えるほどの感情を、現実世界の人間がどう理解したらいい。

 ……結末を知ることの、恐怖を。

 どう理解したらいい。

 俺は千代崎さんに、自分の物語の結末はどんなふうだか想像できるかなどと、訊くことはできなかった。だってそんなの酷だろう。

 俺が黙り込んでいると、千代崎さんは空になったカップの縁に指先を滑らせ、クスッと笑った。

「なに、そんなに深刻になるものではないよ」

「……そうかな」

「そうとも」

「でも……」

「うん」

「キオトは……どうなのかな」

 俺は不意に自分の口をついて出た名前に一瞬どきりとしながらも、そうだ、キオトは、と思った。

 キオトは人間を憎んでいる。作者を憎んでいる。

 現実世界を滅ぼしたいと、願っている。

 そんなキオトも、現実世界に来たと言うことは、物語から切り離されることに絶望したからに他ならないのではないか。だとするなら、キオトも、自分の物語を、他の登場人物たちを、愛していたのか?

 ――仲良くしましょう?

 仲良く、

 しましょう……。

 千代崎さんは俺の呟きを聞いて、ふと目を伏せて微笑んだ。

「やはり、君は奇特な優しさを備えていると見える」

「いや……そうじゃないけど……」

「まあいいさ。君と話せて確信に変わったよ」

「え?」

「君の優しさは吉と出る」

 その言葉に、俺は戸惑えばいいのか、不安になればいいのか、分からなかった。

 不当に高い評価に戸惑うべきか。

 責任がかかっていることに不安になるべきか。

 ただ一つ言えるとするなら、俺は優しいわけではないと言うことだ。だから、それは違うという感覚があった。

「俺は優しくないよ」

「そうだね。優しさの度合いを人から学ぶ機会を奪われたのだから、理解できないのも無理はない」

「だから、俺はそんなに深刻なんじゃないってば」

「アハハ、そういうことにしておこう」

 千代崎さんは軽快に笑った。

 そうして今度はフフッと笑うと、ゆったりと席を立った。

「君と話ができて良かった。これなら安心できそうだ」

「え?」

 俺は戸惑いながら千代崎さんを見上げた。

 千代崎さんはその俺の視線を受けて、にやっと笑った。妖艶な、その上何か企んでいるような笑みだった。

「さあ、今日はもう帰って寝るといい。話に付き合ってもらって悪かったね。――明日はもっと大変だよ」

「大変? 大変って?」

 俺は腰を浮かせて問いかけた。しかし千代崎さんはそれに答えることなく、裾を揺らしながら精養軒を出て行った。

「千代崎さん!」

 呼び止めようとしたけれど、千代崎さんは姿が見えなくなる寸前にぽいぽいと手を振っただけで、こちらを見返りすらしなかった。

 千代崎さんが階段を下りていく足音を聞きながら、俺は、ふううと息を漏らしながらもう一度椅子に座った。

 テーブルには、まだ飲み終えていない紅茶がきらりと光っていた。

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