異世界出身の彼女の事情2

兎丸エコウ

第1話転入おめでとう!

 窓とカーテンを開けて、ささやかな夜風を感じながら、ベッドに寝転がって携帯ゲームをする。至福の時間だ。

 高校進学を機に始まった一人暮らし。実家から遠く離れ、上野という土地での一人の生活。最初は本物の都会というものにドキドキし、何かを期待し、待ち焦がれた。しかしすぐに、それが期待外れであることを実感した。だから、いや、だからというよりそれでも、俺は願ったんだ。退屈な日常に手を差し伸べてくれる存在、俺を助けてくれるものを。

 その願いは、俺にとってとんでもないものをもたらした。

 俺の願いを叶えるもの。

 日常への、非日常の侵入。

 いや、本当は、日常と非日常なんて隣り合わせだったんだ。

 今までは気付いていなかった。でも、それは俺たちのすぐそばにあるということに気付いたのだ。

 本当は、そうだ。人間の想像力は、世界にあふれているんだ。そう思わせる事件が、俺に起こったのだ。

 そうして知り合った非日常の住人たちも、今こうして、それぞれに都会の夜を楽しんでいるに違いない。

 俺はと言えば、そういった非日常の住人と共に過ごす日常に興奮冷めやらぬ訳で、こうしてゲームをしているときもふとその興奮が甦り、

「うはあ!」

 とか言いながら、唐突に枕に顔をうずめることがよくある。

 そうして枕にフウフウと息を吹き込みながら、暫く興奮が冷めるのを待つ。が、到底簡単に冷めるものでもない。

 だって!

 だってそうだろう!

 望んでいたんだ! 非日常よ、来いと!

「ふぅぅー……」

 俺は枕から顔を上げると、ゲーム画面を見た。

 ポーズ画面にし忘れていたので、キャラクターが立ち止まり、所在なさげに自分の髪をいじっている。

 何気ない仕草。そうして想像上の人物を眺めていると、ふうっと冷静になる自分もいる。

 このキャラクターも、こちらの世界へ来ることがあるのだろうか……。

 不意に、そんなことを考えるのだ。

 しかし、それは同時に悲しいことなのだということも、思い出す。

 この主人公が、このキャラクターがこの世界に来るとしたら、それはこのキャラクターが死ぬとき。

 ……死への絶望が、現実世界への扉を開けるとき。

 一体、それはどのくらいの絶望なのだろう。まだ死というものを実感したことのない俺にとっては、全く想像を絶する感情だった。

 このキャラクターは、作者によって生み出された。望まれて。この物語に必要な存在だと思いを託されて。しかし死ぬとき。望まれて生み出されたはずなのに、作者によって命を奪われると分かったその時、どんな気持ちが襲ってくるのだろう。

 ……どんな、気持ちになるのだろう。

 そう思うと悲しかった。人間の想像によって生み出された、二次元の、ただの人形にも、気持ちや、感情がある。それを思うと、死を突きつけられたと気付いたとき、どんな気持ちになるのかと思って、悲しくなった。

 俺はセーブをして、ゲームの電源を切った。

 視線を上げて窓から都会の夜空を見上げる。それは星のない真っ黒な空だった。

 非日常の存在。

 その存在は俺に、望んでいた非日常を運んできた。

 けれどそれは本当は、悲しいこと。

 生み出された存在が、心を持つとき。

 そしてその心が、死ねと言われたときに思うこと。

 それはとても悲しいことなんだ……。

 俺はさっきの興奮とは違う気持ちで、再び枕に顔をうずめた。

 非日常に興奮した後は、こんなふうに非日常の人達のことを考えて、悲しくなることがある。

 けれど、その悲しみの後には、また明るい気持ちがやってくる。

 だって、その人達は今、こうして現実世界にいるから。

 死に定められた運命に抗って、現実世界への扉を開け、こうして俺と生きているから。

 それは何て素晴らしいことだろう。

 ああ、なんて、素晴らしいんだろう!

「んはあ!」

 俺はまた変な声を上げて、こみ上げてきた興奮に身を任せた。

 季節はまだ五月にならない頃。

 高校生になったばかりの俺は、こんな風に、情緒不安定な夜を過ごすことが多かった。



「サチって、いっつもカレーだよな」

 サチがカレーを頬張るのを見て、俺は思わずそう口にしていた。

 俺に指摘されて、サチは手を止めて俺を見た。

 今は昼時。三階の学食は多くの高校生と大学生であふれていて、時々教職員の姿も目にする。全体的に賑やかで、ざわついている。俺はそんな学食の空気感が嫌いじゃなかった。

 俺の目の前にいるのは、篠目(ささめ)サチ、と言う少女。淡い麦色のボブカット、その瞳は琥珀色。抜けるように白い肌。目はきょろんと大きいが、鼻と口は小さい。このサチという少女は非常に無表情で、あまり、と言うかほとんど、と言うか、ほぼ全く表情の変化がない。そしてその首に掛かっているのは、小さな小さな卵形をした、月色に輝くタリスマン。サチのかけらだ。

 そんなサチと俺の間にいるのは、箒木(ほうきぎ)来栖(くるす)という少女。顔の輪郭を包む短い黒髪、長いまつげに縁取られた黒い瞳。常に眠そうに半分まぶたが下りていて、儚げな美少女という雰囲気だ。左目には眼帯、右目の下にほくろ。箒木は両目の下にほくろがある。そして常に、怪我だらけ。今も首に包帯が巻かれ、スカートから覗く太ももにも包帯が見えている。

 箒木も俺が妙なことを言うものだから、おにぎりを食べている手を止めて、俺の方を見た。

 別に、俺の問いはそんなに深い意味のあるものではない。ただ単に、ほんのちょっと気になっただけなのだ。

 サチは学食で食べるとき、必ず、本当に必ずカレーなのだ。

 今日もカレー。昨日もカレー。先週も毎日カレー。そして多分、明日もカレー。飽きないのか。

 サチはきょろんとした目で俺を見つめて、瞬きをした。

「来栖もいつもおにぎりです」

「あ、いや、そうだけどさ」

 ちらりと目が箒木の手元に向く。確かに、箒木は基本的に購買のおにぎりしか食べない。

「でもさ、おにぎりは具が変えられるし」

「……わたし、いつも同じ具だよ?」

「……えーっと……」

 よく見ると、箒木の手にある食べかけのおにぎりから、小さく梅干しが覗いている。そしてもう一つのおにぎりは、シーチキン。

 そう言えば、箒木もいつも同じおにぎりばかり食べている気がする……。

 いや、でも、どうしてだろう。毎日おにぎりでも気にならないのに、毎日カレーだと気になるのは。

 箒木はちょっときょとんとしたような顔をしてから、首を傾けてくすりと笑った。

「……篠目さんが毎日カレーなの、そんなに気になる?」

「あー……」

 俺は改めてサチの手元のカレーを見た。サチは手を止めたまま、俺を見ている。

「うん。気になる」

「……どうして?」

「だって、飽きて嫌いになったら食べられなくなるじゃんか」

「……ふふ。優しい」

「そ、そんなんじゃなくてさ」

「……でも、カレーなら、スパイス変えたり、お野菜もお肉も工夫できるし……栄養もたっぷり。色々すればいつまでも美味しいし、いいんじゃないかな」

「そうだけどさあ……」

「……ふふ」

「な、なに?」

「ううん」

 そう言うと、箒木はおにぎりを頬張った。その一口は、とても小さい。

 何を笑われたのか分からなかったので、俺は何かからかわれたような気分になり、居心地悪く後頭部を掻いた。

「羊太郎(ようたろう)」

「え? あ、なに?」

 サチに呼ばれて、慌ててそちらを向く。

「私が毎日カレーを食べていると、何か問題ですか」

「え、いや、問題は……ないけど」

「では、何が気になるのですか」

「いや、その……何て言うか、飽きないのかなって」

「飽きる?」

「そう。いつも同じもの食べてて、飽きないのかなって思ってさ」

 そう言われて、サチはじっと俺の顔を見た。

「飽きません」

「そうなのか? 何で? 好きなのか、カレー?」

「好き……」

 サチは手元のカレーを見ると、暫く考え込んで、それから頷いた。

「はい。美味しいと感じますし、何より……」

「何より?」

「元気のある味がして、好きです」

「元気のある味?」

 その表現が新鮮で、おかしみを感じた。俺はつい吹き出して、笑い声を上げた。

「元気のある味って、そんな表現初めて聞いた」

「すみません。おかしな翻訳がなされたようです」

「いやいや、いいよ。そうかあ、元気のある味かあ。確かになあ」

 元気のある味。確かに、そうかも知れない。俺も落ち込んだり元気がなくなったりしたときは、決まってカレーだ。

 俺の納得している様子に首を傾げて、サチはカレーを食べた。

 サチは今、翻訳、と言った。そう。こんな他愛のない会話をしているが、サチはこの世界の人間ではない。

 異世界から来た、異世界人。魔法使いなのだ。

 サチだけではない。箒木来栖も、そうだ。

 少女兵器。その物騒な名前が、箒木の背負っているもの。

 この二人はサチの言葉で言うところの異世界人なのだが、来た世界はそれぞれ違う。この二人の本当の正体は、そう。

 物語の登場人物。

 空想上の存在ということだ。

 その二人は、物語の中で死んだが、その死への絶望が、この現実世界への扉を開けた。だから二人は、ここにいる。

 しかし、物語の中で死んでいるという事実は変わらない。この世には、死んでいる二人と、生きている二人、同時に存在してはいけない二人が存在している。だからその代償として、二人には世界の歪みやスクランブルといった、二人を本来の死んだ状態に戻そうとする現象が起こる。しかしそれは同時に、二人の背負っている世界そのものだ。完全に消滅させてもいけないし、放っておいてもいけない。

 その現象でサチは消えかかってしまったが、何とかその危機を脱し、今はこうしてカレーを食べている、という感じだ。

 それ以来、二人には人知れず世界の歪みやスクランブルが起こっているが、俺を巻き込まないようにしてくれているらしく、俺はいつ二人にそういうことが起こっているのか、知らない。

 それを少し寂しく思うこともある。でも、俺が巻き込まれても何もできないのだから、二人の判断は正解なんだろう。

 サチのタリスマンが、きらりと光る。その美しさの中に、俺はつい先日の騒動を思い出していた。

「……あら」

 その時、声をかけてくる人がいた。聞き慣れたこの声は、俺の昔なじみのもの。

 顔を上げると、そこにはお馴染みの顔があった。その隣に、知らない人。

 このお馴染みの人は久坂(くさか)佳那汰(かなた)と言って、この人も異世界人だ。詳しいことは聞いていないが、超能力者。そうらしい。大学二年生の十九歳で、すらりと背が高く、髪を明るく染めている。女性的な柔らかさを持つ顔立ちで、非常にハンサム。

 そんな佳那汰さんの隣にいる人は、着物に袴をはいた瀟洒(しょうしゃ)な出で立ちの青年で、ちょっと見覚えがなかった。俺もこの学校に入って間がないし、佳那汰さんの交友関係もちゃんと把握していないから、初めて見る人がいても不思議ではない。

 不思議ではないが、不思議と思えるのは、これだけ目立つ格好をしている人の見覚えがないことだった。何しろ、着物は紅色の地に赤い彼岸花、袴は灰白色、それに白のストールをまいていて、めでたい色彩というか、目立つことこの上ない。髪は銀髪でこの世のものとは思えないし、目は金色でこれもこの世のものとは思えない。こんな目立つ人間を、今まで見落としていたなんて、そんなことがあるのだろうか。

 その人は大人っぽく見え、二十歳くらいに思えた。顔立ちはすっとした美人という感じで、切れ長の目が何となくミステリアスだった。

「相変わらず仲良いわねえ」

 と言って、佳那汰さんはくすりと笑った。

「ご一緒していいかしら?」

「ああ、いいよ」

 佳那汰さんなら歓迎だ。俺が快諾すると、佳那汰さんは近くのテーブルから椅子を二脚引っ張ってきて、俺とサチの間にその椅子を置いた。

「ごめんなさいね、突然来て」

「いいよ」

 佳那汰さんは俺の隣に腰掛けると、着物の人を見上げて手招いた。

「ほら、座りなさいよ」

「そうかい? それじゃあ、遠慮なく」

 と言って、その人は腰を下ろした。

 俺はまじまじとその所作のいちいちを見つめてしまい、その間ぽかんと口が開いていた。それを見ていたのか、佳那汰さんは吹き出して笑った。

「ちょっと羊太郎、あんた何よその顔」

「え?」

「間抜けな顔しちゃって」

「間抜けって……」

 俺は一瞬むっとしたが、そんなに間抜けな顔をしていたかと思うと恥ずかしい。俺は恥ずかしがっていることを顔色に出さないように必死になって、逆に顔が熱くなった。

 その俺の顔色を見てか、佳那汰さんはクスクス笑った。

「そうだわ。紹介するわね。同じ学年で、文学部の千代崎(ちよざき)灰音(かいね)よ」

「どうも。よろしく」

 千代崎さんは軽く手を上げて挨拶した。

 すると何を思ったか、佳那汰さんは耳打ちするようにこしょこしょと俺に向かって囁いた。

「……灰音もサチの言う、異世界人よ」

「ええっ?!」

 俺は思わずでかい声を上げた。

 その瞬間学食がしんとして、一切の声と物音が消えた。

 この静寂の原因が俺のせいであるのは明確なので、俺はかーっと顔を熱くして、小さくなった。

 しかし次の瞬間には誰かの笑い声が聞こえ、学食はすぐにざわめきを取り戻した。

 俺は少しもじもじしてから、周りにざわめきが戻ったことを再確認して、改めて佳那汰さんの方を見た。

「……異世界人って、それ、本当?」

 俺はこそこそと佳那汰さんに問うた。

 すると、それに反応したのは千代崎さんだった。

「異世界人か。言い得て妙じゃないか。サチというのは、こちらのお嬢さんかな?」

「はい」

 サチはさすがに、物怖じしない。

「わあ……。わたしも、そうなんですよ」

 箒木は両手を合わせて嬉しそうにしている。箒木も、大概肝が据わっている。

 千代崎さんはふっと微笑んだ。ミステリアスな目元が細められて、どこか妖艶な雰囲気を醸し出す。

「どうやらそうらしいね。この中で異世界人じゃないのは、そこの彼だけか」

「そうなのよねー」

 佳那汰さんはクスクスとおかしそうに笑った。何がおかしいのか。

「自己紹介をしようか。僕は千代崎灰音。今はこんな所で学生なんてやっているが、物語の中では大正初期の人間さ。君達とは時代や世界が違うが、まあ、よろしく頼むよ」

「私は篠目サチ。魔法使いです」

「わたしは、箒木来栖……。少女兵器なの。よろしくお願いしますね」

 それぞれが名乗りあい、視線がいっせいに俺に向く。

 俺は、この中では唯一普通の人間であるという引け目と恥ずかしさを覚えながら、思わず口を尖らせて名乗った。

「……皆戸(みなと)羊太郎」

「ちょっと夢見がちな普通人よ」

「佳那汰さんっ!」

 佳那汰さんが余計な注釈をしたので、俺は思わず声を張り上げた。その通りなんだけど!

 千代崎さんはそのやりとりを見てくすりと笑った。

「いやあ、仲がいいねえ」

「そりゃあそうよ。あたしと羊太郎は付き合い長いもの」

「いいねえ」

 と言うと、千代崎さんは唇を触った。その所作が、どことなく色っぽい。

「あのう……」身を乗り出して、箒木。「千代崎さんは、どんな設定の人なんですか?」

「うん、僕かい。僕は物書きでね、死因は自殺だ」

 突然の重い発言に、この場がしんとする。そんな中で、全く動じずに呆れたような声を上げられたのは、佳那汰さんだけだった。

「そんなことまで言わなくていいのよ」

「そうかい。これは失敬」

「そんな感じでね、灰音はちょっと変わってるのよ。空想の存在でありながら、作者なの」

「空想の存在でありながら、作者?」俺は思わず首を傾げる。

「そ」

 佳那汰さんはくすりと笑った。

 どう不思議なのか一瞬分からず思わず考え込んだが、考えてみれば、不思議か。確かに変わっている。

 佳那汰さんをはじめ、サチや箒木は、作者によって生み出されて物語の中に存在していた。そしてその作者によって死に定められて……ここに来た。

 千代崎さんは、想像によって生み出された存在でありながら、同時に、作者という生み出す側の存在でもあるということだ。思えば不思議な存在だ。

 佳那汰さんは頬杖をついて、呆れたようにため息をついた。

「ちょっとこのところ体調悪くてね。最近学校に来てなかったんだけど、今日はやっと体調も回復したから何とか連れてきたのよ」

「体調……。ああ、それでか……」

「何を納得してるのよ、羊太郎」

「いや、目立つ格好してるのに、見覚えがないなんて変だな、って思ってたんだ」

「なるほどね」

 佳那汰さんが納得すると、千代崎さんはゴホゴホと咳をした。空咳だった。着物の袖で口を押さえて咳をする姿は、やはりどこか色っぽい。

「ゴホ……、失礼」

「……大丈夫ですか……?」

 箒木が心配すると、千代崎さんはふっと笑った。

「なに、心配はいらない。うつらないよ」

「……そうじゃないんです……。あの、体が弱いんですか……?」

「労咳(ろうがい)でね。僕があちらから唯一持ってこられたものと言ったら、これくらいのものでね」

 あちらから、というのは、自分の物語から、と言うことだろう。

 しかし、労咳? 聞いたことがない。

 サチはカレーを食べる手を止めて、少し瞬きをすると、千代崎さんの方を見た。

「すみません。うまく翻訳がされませんでした。ろうがい、とは何ですか?」

「ああ、これは失敬。結核の古い言い方のことさ。診てくれていた医者が老医だったものでね。感染性の肺の病気と言えば、もっと簡単かな」

「なるほど。理解できました」

「でも、これは僕に付けられた設定だからね。君達にうつるということはないから安心してくれ」

 それを聞くと、佳那汰さんは再び呆れたような顔をして手のひらを見せた。

「この子たちが心配してるのはそう言うことじゃないのよ。あんたの体は大丈夫なのか、ってことよ」

「アハハ、なるほど。なかなか懇篤(こんとく)な少年少女じゃないか」

「感心してる場合じゃないでしょ。灰音はね、入学式の前から熱が下がらなくて。最近ようやく微熱くらいに下がってきたって感じなのよ。今日はたまたま平熱だって言うから、たまには外の空気を吸わせようと思って連れてきたってわけ」

「じゃあ、結構悪いんじゃないか。大丈夫なのか?」

「本人は大丈夫だと言うのよね」

 その時千代崎さんは再びゴホゴホと咳をして、クスクス笑った。

「実際大丈夫さ。これでは死なない。何しろ、僕の死因は自殺だからねえ」

「だから、そんなことを気軽に言うんじゃないわよ」

「アハハ」

「あははじゃないわよ」

「心配は無用さ。自殺と言ったって、それが嫌だと思ったからこうしてここにいるわけだからね。こちらへ来たからには、生にしがみついてみせるさ」

「そうしてよ、全く。あんたはどこか危なっかしいのよ」

「危なっかしいことがあるものかい。僕ほど安定している人間もそういないさ。……ゴホゴホ」

「ほら、また咳するんだから。待っててちょうだい、お茶持ってきてあげるわ」

「すまないね」

 佳那汰さんは席を立って、給湯器のお茶を汲みに行った。その後ろ姿を見送って、俺は自分の定食をちらりと見て、それから気付いて千代崎さんを見た。

「千代崎さん」

「何だい?」

「あの、昼飯食べないんですか」

「食べてきたのさ。大学の方にはラウンジがあるからね。僕は基本的に弁当を持参するから、学食にはあまり来ないね」

「ああ、そうなんですね」

「もちろん、佳那汰も中飯(ちゅうはん)は済ませてある。なるほど、君はなかなか奇特な優しさを備えていると見える」

「いや、別に優しいとかじゃなくて……」

「謙遜かい。いいねえ」

「いや、謙遜とか……」

「羊太郎は優しいです」

 突然、サチが口を挟んできた。

「サっ、サチっ?」

「羊太郎は優しいです」

「何だよいきなり、優しいとか……そんなことあるわけないだろ」

 俺はかーっと顔が熱くなった。サチは表情がない分だけ、言い方がストレートだ。だから恥ずかしいことでも何でも、思ったら思ったままのことを言う。

「……うん。皆戸くんは、やさしい」

 箒木までそんなことを言い出した。

 その時佳那汰さんが戻ってきて、千代崎さんの前にお茶を置いた。

「そうよ、羊太郎はいいやつよ」

「佳那汰さんまで……」

「ふふ、仲がいいねえ。お茶をどうも」

「どういたしまして」

 と言うと、佳那汰さんは俺たちの顔を見回した。

「あんたたち、食べる手が止まってるわよ」

「えっ」

 俺はそこではっとして、慌てて定食を口に運んだ。急がなくてはいけないわけじゃないが、冷めてしまっては美味しくない。

 そうして昼食を食べ終えると、俺とサチは食器を片付けた。席に戻ると、千代崎さんはお茶を飲み終えていて、箒木が薬を飲んでいるところだった。相変わらず、何の薬なんだろう。思えば、訊いてみたことはあっても、はっきりと答えてもらったことはない気がする。

「ゴホゴホ……」

 千代崎さんが咳をする。それを見て、箒木がどこか申し訳なさそうな顔をした。

「だいじょうぶですか……? ごめんなさい、わたし……自分の薬しか持ってなくて」

「なに、心配いらないさ」

「でも……」

「心配をするなら、これからのことを心配した方がいいね」

「……え……?」

「おっと、余計なことを言ったかな」

 千代崎さんは肩をすくめると、また咳をした。

「これからのことって……何ですか?」

 箒木が少し気になったふうに問う。確かに、気になる。

「なに、知らずにいてもいずれ訪れることさ。気にしなくても構わない」

「そう言われると……気になります……」

「これは申し訳ないことをしたね」

 はっきりと答えてもらえないので、箒木は困ったような顔をした。その様子を見て、佳那汰さんが千代崎さんの肩を小突いた。

「不安にさせるようなこと言わないのよ」

「いや、申し訳ないね」

「まったく」

 佳那汰さんは呆れたようにため息をつくと、俺たちの顔を見回した。

「ごめんなさいね、灰音ってこういうところがあるのよ」

「こういうところ?」首を傾げて、俺。

「そ。不穏なことを言うのが好きなのよ」

 それは困った性分だ。俺は思わず千代崎さんの顔を見た。千代崎さんは視線に気付いてちらりと俺を見ると、こほんと小さく咳をした。その表情は、どこかしたり顔のように見える。

 千代崎さんはもう一度咳をすると、佳那汰さんの肩に手を置いた。

「佳那汰、そろそろ暇乞いをしよう。図書室に行こうか」

「そうね」

 千代崎さんと席を立つと、佳那汰さんはウインクをした。

「じゃ、またね」

「ああ、うん」

「灰音の言ったことは気にしないのよ」

「えっと……分かった」

「じゃね」

 佳那汰さんたちは、実にあっさりと学食を後にした。

 残された俺たちはお互い目を見合わせ、それぞれに身を乗り出した。最初に口を開いたのは箒木だった。

「……千代崎さんが言った、これからのことって、何かな……」

「うーん、分からん」

「灰音は、予知の力でもあるのでしょうか」

「予知ねえ」

 千代崎さんは物書きだと名乗ったが、それ以外の設定についてはよく分からない。佳那汰さんのように超能力のようなものがあって、未来を予見できたとしても不思議ではない。

 これからのこと。佳那汰さんは気にするなと言ったが。

 もし、何か起こったら。その時は……?

 箒木は自分の胸に手を当てて、少し頬を赤くした。

「……ドキドキする……」

「そうだな、なんか緊張する」

「もし何か起こっても、私が羊太郎たちを守ります」

「そういうことが、起こらないのが一番だけどな」

 一番だけど。

 一番、なんだけど。

 何かが起こる。

 これから。

 それはつまり。

 ――非日常!

 俺は二人に悟られないように、非日常が起こるということに興奮していた。

 だって望んでいるんだ、俺は、そういうことを!

 ああ、非日常!

 それを思うと胸が高鳴り、わくわくする。


 でも、俺はまだ気付いていなかったんだ。

 非日常は、確かに起こった。

 けれど、それは危険を背負っているんだって。


 翌日。

 俺は制服に着替えて朝食を食べると、鞄を掴んだ。さあ、今日も一日が始まる。

 家を出ると、ちょうど隣の部屋のドアが開いたところだった。そこから出てきたのは、サチ。

「あ、サチ。おはよう」

「おはようございます」

 サチは相変わらず恐ろしいほどの無表情で挨拶した。でもこれがサチの標準で、別に変なわけではない。

「じゃ、行くか」

「はい」

 俺たちはそろって階段を下り、通学路を歩き出した。サチが半ば勝手に俺の隣室に住み始めてから、俺たちはそろって登校するのが習慣になっている。隣同士に住んでいるのにばらばらに登校するのは何だか変な気がするし、それに何より、こうして朝顔を合わせると朝が始まったという気がして何だかいいのだ。

 俺は歩きながら隣のサチを見て、鞄を持ち直した。

「なあ」

「はい」

「世界の歪みって、まだ、その……起こってるんだよな」

「はい」

「何か、異変はないか? 何と言うか、いつもの歪みと違うとか」

「いいえ」

 否定すると、サチはきょろんとした目でこちらを見た。

「なぜですか?」

「いや、ほら……千代崎さんが言ったこと。俺考えたんだ。これからのことを心配した方がいいってさ、もし起こるとしたら、歪みの異変とか、そんなんじゃないかって。ほら、最近もあったばっかりだろ。サチもそれで消えかかったし……」

 そう言われて、サチはきょろんとした目を瞬かせた。

「確かにそうですね」

「だろ?」

「私の方は特に異変はありません。ですが、これから何が起こるか分かりません。灰音が一体どんな能力を持った存在なのか分からないので何とも言えませんが、注意する必要はあるかも知れません」

「そうだよな……。……あ、でもさ、こうとも考えたんだ」

「はい」

「世界の歪みは、サチたち全員に起こるだろ?」

「はい」

「もちろん、佳那汰さんにも起こるわけだ。佳那汰さんの言い方だと、異空間だけど……。とにかく、全員だ」

「そうですね」

「ということは、千代崎さんにも、起こるだろ?」

「そうなります」

「でもさ、千代崎さんの言い方は、なんか……俺たちに言ってる感じだったんだよな」

「俺たちと言うと?」

「佳那汰さんや千代崎さんじゃなく、俺と、サチと、箒木に言ってる感じだったんだよ」

「言われてみれば、そうかも知れませんね」

「だろ?」

「それを踏まえて、羊太郎はどう考えたのですか」

「うん」

 俺は頷くと、拳を握った。

「つまりだ、千代崎さんの言うこれからっていうのは、俺たちに起こることなんじゃないかって!」

「なるほど」

 サチは頷きもせずにそう言った。非常に薄い反応だが、これでもサチなりに何か感じているに違いない。

「では、私か、来栖か、どちらかの世界の歪みに異変が起こる可能性がある、ということですね」

「そう!」

「なるほど」

 サチは今度は頷いて、それからきょろんとした目で改めて俺を見た。

「そうすると、来栖にも異変がなかったか確認する必要があります」

「そうだな」

 千代崎さんも不吉なことを言ってくれたものだが、しかしこれは言ってみれば警告だ。これから何か起こるから注意しろと、そう言ってくれている訳なのだ。だから俺たちはそれを頼りに、十分に注意することが必要だ。

 俺たちは学校に着くと、まっすぐに教室に向かった。

 教室には既に箒木が来ていて、教室に入ってきた俺たちを見て小さく手を振った。

「おはよう……」

「おはよう、箒木」

「おはようございます」

 俺たちはそれぞれ近い席に座ると、俺は早速身を乗り出してこそこそと声を発した。

「なあ、箒木」

「……うん。なあに?」

「何か、スクランブルに異変はなかったか?」

「え……? ううん、ないよ?」

「そうか……」

 俺は少しほっとした。

「どうして……?」

「いやさ、千代崎さんが言ってただろ、これからのことを心配した方がいいって。それって、サチや箒木に起こってる世界の歪みやスクランブルのことだと思ったんだ。だから、何か異変がなかったか心配でさ」

 そう言われて、箒木は嬉しそうにくすりと笑った。

「……ありがとう」

「え? あ、いや……」

「皆戸くんは、やっぱり優しいね」

 俺は照れくさくなり、ちょっと顔を熱くしながら後頭部を掻いた。

 ――その時だった。

「転校生だってー!」

 そう言って駆け込んでくる生徒がいた。

 次々に生徒が登校してきて、ややざわついていた教室が、その一声で一瞬にして静寂に包まれる。

 しん、とした教室内に、その生徒はもう一度声を張り上げた。

「転校生だってさ、転校生! しかも女子!」

 その情報がもたらされるや、教室の中は一気に騒然となった。

「転校生? 入学直後に?」

「女子だって!」

「女の子?」

「どんな子だろ!」

「かわいい?」

 疑問や興奮が、情報を持ってきた生徒に次々ぶつけられる。情報を持ってきた生徒は、パンパンパンと手を叩いてもう一度教室内を静かにさせると、自慢げな顔をして大々的に発表した。

「か、な、り、かわいい! 俺はちらりと見た!」

 一気に教室の中が興奮に包まれた。みんなわっと声を上げ、それぞれに勝手な推測や疑問を口にし始めた。

「かわいいだって!」

「芸能人で言うと誰?」

「めがね? 裸眼?」

「絶対ロングヘア!」

「いいやショートだね、これは譲らない!」

 俺たち三人はそんな教室のざわめきの中、お互いきょとんと顔を見合わせた。

「……転校生……?」

「こんなタイミングでか?」

「この世界では、この時期に学校を変わることは普通ではないのですか?」

「ああ、いや、あり得ないことじゃないけどさ。でも普通は入学に合わせるから、ちょっと変かな。だってまだ四月だし。夏頃に入ってくるならともかく」

「そういうものなのですか」

「うーん、うまく説明できないけど、まあ、変だよな」

 と言って、俺は箒木を見た。

「そうだね……」

 ちょっと不思議そうな顔をして、箒木。

 そう。ちょっと変だ。

 変。

 違和感を感じ取って、俺たちは三人同時にはっとした。

 千代崎さんが言っていたことって、これか?!

 そう俺が言おうとしたその時。

 先生が入ってきて、教壇に立った。

「静かに。席について」

 その一声で、教室内が静かになる。生徒たちは互いに顔を見合わせながら席に着いた。しかし、まだクラスメイトたちの興奮は収まっていないようで、そこここで感情の高まっている息づかいが聞こえた。

 先生は教室内がとりあえず静かになったのを確認すると、生徒が興奮しないように注意深く、静かに声を発した。

「まず、今日は一つお知らせがあります」

「転校生!」

 まだ中学生のようなのりの生徒が、声を上げる。

 それを注意することもなく、先生はただ咳払いをしただけで、小さく頷いた。

「そうです。紹介しましょう。入ってください」

 先生が廊下に向けて呼びかける。その瞬間、教室中の視線がドアに向かった。

 一瞬の間。みんなが固唾をのむ中、がらりとドアが開いた。

 入ってきたのは、一人の少女。

 青く新鮮な若葉を思わせる緑の髪。それはとても長くて、膝の裏程まである。瞳の色はオリーブのような深い緑。つり目で、ちょっとクールな印象のある顔立ち。可愛いと言うよりは、かなり美人系なタイプに思える。

 その少女は先生の隣に立つと、まっすぐに教室の中を見て、微笑んだ。

 そうする間に、先生はホワイトボードに少女の名前を書いていた。少女の名を書き終わると、先生は少女の方を向いて自己紹介を促した。

「それでは、自己紹介をしてください」

 その先生の一言で、教室内が一気に緊張する。少女はどんな声か。どんな口調か。クラスメイトたちの好奇の視線を一身に受けて、しかし少女は動じなかった。

「キオト・クルウルウです。キオトが名、クルウルウが姓。よろしく」

 少女、キオトは、凜とした声でそう言った。

 ホワイトボードにも、キオト・クルウルウと書かれている。一体どこの言葉なのだろう?

 明らかに日本人ではない名前に、教室の中が少しだけ動揺に包まれるのが分かった。外国人なんだ。それだけで、ある種異質なものを見るような視線がキオトに集まるのが分かる。

「クルウルウさんは親御さんの急な転勤で、こちらに引っ越してきました。飛行機の都合でこのタイミングでの転入になったそうです。生まれ育ちは海外ですが、日本語が分かりますので、皆さん、仲良くしてくださいね。クルウルウさん、席は自由なので、好きな席に座ってください」

「はい」

 キオトが頷くと、お調子者の男子が数人、隣へ、ここへ、と声を上げた。しかしキオトはそれを無視して、教室の中を突っ切り、後ろの方の席へ歩いた。そして立ち止まったのは、俺たちの隣。

 俺は思わずキオトを見上げていた。

 すらりと高い背。スタイルのいい体つき。高校一年生と言うには大人びた美貌。

 キオトは俺と目が合って微笑んだ。

「よろしくね」

「え? あ、ああ……」

 キオトは俺とサチの前、箒木の隣に腰を下ろした。その瞬間、誰かが「あーあ!」と嘆息したのが聞こえた。

 キオトが座った瞬間香ってきたのは、どこか蠱惑的な香り。花、だろうか。

 良い香りだった。思わず夢中になって嗅いでしまいそうになっていると、不意にキオトが振り向いた。

 微笑んだその横顔にどきりとして、俺はつい反射的に視線をそらした。それにくすりと笑って、キオトは隣の箒木に声をかけていた。

「よろしくね」

「……うん。よろしくね」

 箒木はさすがに冷静だ。

 キオトは次にサチを見ると、また挨拶した。

「あなたも、よろしくね」

「よろしくお願いします」

 キオトが挨拶したのは俺たちに対してだけだった。他の生徒にはそれ以上挨拶せず、ごく普通の様子で姿勢を正す。

「では、出席を確認します」

 先生は出席簿を開きながらそう言った。しかし、それでも教室内は日常の空気に戻ることはなく、どこか浮ついたままだった。


 授業はつつがなく進んだ。そして昼休みになった途端、キオトの周りに人だかりができた。わっと集まってきた生徒たちは、キオトに向かって、どこから来たのか、どこに住んでいるのか、と次々に質問を投げかけた。その喧噪の中に巻き込まれている俺たち三人は、非常に居心地が悪い。

「……な、学食、行くか」

 俺はそっとサチと箒木に声をかけた。

「……うん。そうだね」

「はい」

 サチと箒木が同意したので、俺たちは人だかりをむぎゅむぎゅになりながら抜けて、学食へと向かった。

 学食はいつもの様子だ。適度にざわついている。

 俺たちはそれぞれにメニューを注文して、三人一緒のテーブルに着いた。俺はラーメン、サチは相変わらずカレー、箒木も購買のおにぎりだ。

「はあー」

 席に座ると、俺は思わずため息をついていた。

「どうしたのですか」

「いやあ、凄い人だったなと思って」

「そうだね……」

 箒木も頷いて、おにぎりの袋を開ける。

「変なタイミングの転校生かあ……」

 俺はラーメンをすすりながら呟いた。

 入学直後の、奇妙なタイミングのでの転入。飛行機の都合でと言われてしまえば、そうなのかも知れないとも思えるが、どうしても気になるのは、千代崎さんの言葉だ。

 そう。それがなければ、ここまで気にはならない。

 何しろ、心配した方がいい、と言ったのだ。何か起こるにしても、奇妙な転校生にしても、いいことではないぞという警告だ。気にもする。

 俺はラーメンをもう一度すすると、サチの方を見た。

「なあ、サチ」

「はい」

「キオト……何だっけ」

「キオト・クルウルウ」

「そう、それ。なあ、キオトのこと、サチはどう思う?」

「どう思う、とは?」

「何か、悪い感じがするか?」

 問われて、サチは考え込むように黙り込んだ。箒木もサチを見る。

 サチは暫く考え込んで、それからきょろんとした目を俺に向けた。

「悪い感じかどうかは分かりませんが」

「お、おう」

 やや緊張する。

「キオトは、異世界人であると思います」

「異世界人っ?」

 俺は驚いて素っ頓狂な声を上げた。

 異世界人。

 つまり、

 つまりそれは、

 キオト・クルウルウは物語の登場人物であると言うこと!

 俺はつい興奮して鼻息が荒くなった。

「そ、それ、間違いないのか?」

「はい。間違いないと思います」

「箒木も、そう思うか?」

「……うん。わたしも、そんな感じがする……」

 二人がそう言うなら、ほぼ間違いない!

 キオト・クルウルウは、異世界人なんだ!

 俺の身近に、もう一人、異世界人が!

 俺はふんふんと興奮しそうになる鼻息を何とか抑えて、冷静になるためにラーメンをすすった。

 そうだ。冷静になれ。冷静に……。

 ラーメンを飲み込んで一息つくと、俺はふうと深呼吸して、それから改めて二人を見た。

「でもさ、千代崎さんが言っていたことって、キオトのことなのかな?」

「分かりません」

「だよなあ」

 箒木はおにぎりを食べる手を止めて、うーんと小さく声を漏らした。

「……でも……クルウルウさんのことだとして、どうして、心配しなくちゃいけないのかな……?」

「問題は、そこだよな」

「うん……」

 そこまで話して、俺たちはそれぞれ食べ物を口に運んだ。

「千代崎さんがもう一度来て、何か詳しいことを教えてくれればなあ」

 俺がそう言ったその時だった。

「僕がどうかしたかい」

 すぐそばで、声がした。

 びっくりして俺たちが声の方を向くと、千代崎さんがすぐそばに立っていた。相変わらず派手な服装で、目立つことこの上ない。でも顔立ちのせいか、どこか上品なのも確かなのだ。

「ち、千代崎さん」

「やあ、お三方」

「き、今日は佳那汰さんは一緒じゃないんですか?」

「佳那汰はラウンジで勉強中さ。勤勉で、結構、結構」

「へ、へえ……」

 千代崎さんは袖で口を覆うと、ゴホゴホと咳をした。

「ところで、僕の噂をしていたようだが」

「あ、ええと、……すみません」

 俺が謝ると、千代崎さんは笑い声を上げた。

「アハハ、なに、気にすることじゃない。それで、僕に何か用かな?」

「ああ、はい。昨日、千代崎さんが言っていたことなんですけど」

「ふむ」

「これからのことを心配した方がいい、って言ったじゃないですか」

「ああ、言ったね」

「それって、どういうことなのかなって」

「ふむ」

 と言うと、千代崎さんは目を細めて妖艶な笑みを見せた。

「来てしまったな。この世の厄災」

「厄災?」

「とにかく気を付けたまえ。このままだと現実世界が滅びかねん」

「え? えっと、それって、どういうことなんですか?」

「僕もできるだけのことはするが、君達の方が厄災と深く接することができるだろう。まあ、気を付けたまえ」

 それだけを言うと、千代崎さんはゴホゴホと咳をしながら行ってしまった。

 俺たちはそれぞれにそれぞれらしい表情をして千代崎さんを見送ると、改めてお互いの顔を見た。

「……何だったんだ、今の」

「……わかんないね」

「謎が深まりました」

 謎が深まった。サチの言う通りだ。

「来てしまったって、やっぱり、キオトのことかな?」

「分かりません」

「だよなあ……」

「……でも、来たのはクルウルウさん……だよ?」

「じゃあ、キオトがこの世の厄災だって?」

「分かりません。キオトがどのような世界を背負い、どのような存在であるのか、それが分からないので何とも言えません」

「うーん……だよなあ……」

 俺は困りながらラーメンをすすった。

 その時、すらりとした人影が、こちらに向かって歩いてくるのを見つけた。

 新緑の長い髪。黒いセーラー服から覗く長い脚。

 キオトだった。

 キオトは俺と目が合うと、ふっと微笑んだ。その微笑みに俺はどきりとして、つい手が止まった。

 キオトはすたすたと俺たちのテーブルまで歩いてくると、少し離れた場所で立ち止まって俺たちを見た。

「こんにちは」

 凜と通る、美しい声。

 高校一年生には見えない、大人びた美貌。

 けれど、あどけなさも感じる笑顔。

 キオトは目を細めて微笑むと、ぱっと両腕を広げた。

「素敵! あなたの周りには、作者に殺された人達が集まっているのね」

 あなた、と言われて俺は一瞬どきりとした。秘密がばれたような、そんな嫌な心臓の鼓動。あなたとは間違いなく俺のことだ。そしてキオトにも、サチと箒木がこの世界の人間ではないことが分かっている。

 俺たちは緊張しながらキオトのことを見ていた。キオトがこれから何を言うか。その口から発せられる言葉が何をもたらすか。

 この世の厄災。

 千代崎さんはそう言って去って行った。

 この世の厄災とは、何なのか。

 それはキオトのことなのか。

 現実世界が滅びるとは、本当なのか。

 緊張、する。

「仲良くしましょう、うふふっ」

 キオトが首を傾ける。それに合わせて長い髪の毛がさらりと揺れる。すると、あの蠱惑的な香りが再び漂ってきた。花のような、香り。

 キオトは俺たちが何も言わないので、くすりと笑って腕を下ろした。

「どうしたの? 仲良くしましょう」

「あ……ああ」

 俺は緊張しながら頷いた。

 仲良くしましょうというその言葉の奥に、何か、言葉通りではないものを感じる。何か、……何か。分からない何か。

「キオト」

 その時、声を発したのはサチだった。

「あなたは、この世の厄災ですか」

「サ、サチっ!」

 俺はぎょっとしてサチの顔を見た。サチはいつも通りの無表情で、キオトのことを見ている。

「この世の厄災が来たと聞きました。それは、あなたのことですか」

 サチは相変わらずストレートだった。俺みたいに、様子をうかがったりしない。相手の機嫌を取って、それから真実を確かめようだなんて、そんな気なんてないのだ。

 サチのこの性質は、勇敢とも、無謀ともとれた。だってキオトが本当にこの世の厄災であるなら、この問いによって、何がもたらされるか、予測不能なのだから。

 俺はおそるおそるキオトの顔を見た。

 キオトは普通の顔で、微笑んだままサチを見ていた。

「……この世の厄災」

 そう呟くと、キオトはクスクスと笑い、もう一度腕を広げた。

「そう。ワタシはこの世の厄災。世界に破滅をもたらすもの。神話生物、クルウルウ」

 歌うように、告げるように、言った。

 ――神話生物。

 それが何なのか、俺には分からない。しかし、キオトははっきりと言ったのだ。

 この世の厄災、と。

 しかしサチも箒木も動じた様子はなかった。特にサチは、この世の終わりと何度も対峙してきたかのような凜とした態度で、再びキオトに問うた。

「この現実世界を、滅ぼすのですか」

「うふふっ」

 キオトの声は軽やかだった。

「そう、ワタシはこの世界を滅ぼしたい! 人間一人一人が絶望する顔を眺めながら、この世界を壊したい! そのために来たの、だってワタシはこの世の厄災! 世界を憎むクルウルウ!」

 誰もが聞き惚れるような美しい声で、キオトは言った。

 そのキオトの様子を、何事かと見つめる視線がある。学食内の学生や教師たちだ。確かに、キオトの言っていることは、正常ではない。しかし言っていることが正しいとするなら。

 キオトは、

 世界を壊す。

 キオトは俺の顔を見た。


「まずはあなたの絶望する顔を見せてちょうだい」


 世界からその言葉だけが切り取られたように聞こえた。

「……え?」

 俺がその言葉を理解する間も与えず、キオトは両手で頬を包み、興奮でたまらないような、赤い顔で微笑んだ。

 その瞬間だった。

 サチの胸から、赤黒い液体が飛び散った。

 木の根のような、枝のようなものがサチの胸を貫いていて、サチの体が椅子から離れた。貫かれた衝撃で浮き上がり、そのまま空中に固定される。

「篠目さんっ!」

 声を上げることができたのは箒木だった。

 木の枝に赤黒い液体が流れる。

 俺は、

 声を失って

 サチの胸から、口から血が流れるのを見ていた。

「キャアーッ!」

 学食のどこからともなく、次々と悲鳴が上がる。その声すら、俺の耳には届いていなかった。

 何が、

 何が起こった?

 突然空間に枝が現れて、

 背中からサチの胸を貫いた。

 サチは気絶したように動かない。

 しかし、その首のタリスマンは月色に強く輝いていた。

「あら? その首のそれ、なあに? それのせいで、死んでないみたい」

 キオトの声がする。

 遠く、

 遠くの方で響いているみたいだ。

「サ……チ」

 何だ?

 なんだこれは?

 サチ。

 ……サチ。

 サチ?

 嘘だよな?

 死んでないよな?

「その綺麗なもの、壊さないと」

 キオトが言って、それに反応して箒木が立ち上がった。その勢いで、椅子が倒れる。

「くっ……!」

 箒木の体に青白い光が走る。脚には機械の翼が現れ、箒木はセーラー服に手を突っ込むと、そこから長い銃身の銃を取り出した。

「させないっ」

 箒木が発砲する。しかし、その銃弾はキオトには届かなかった。銃弾はキオトの目の前で止まると種子のような色に変化し、そこから花が咲いた。花となった銃弾は床に落ち、ぽふりと音なき音を立てた。

 銃弾が効かないと理解すると、箒木はもう一度セーラー服に手を入れ、今度は青く輝く剣を取り出した。そして脚の機械の翼でテーブルを飛び越え、キオトに斬りかかった。

 するとキオトの目の前に枝の塊が現れ、箒木の剣を阻んだ。箒木の光の剣はじわじわと草のような色に姿を変え、植物になり、花を咲かせながら箒木の手に巻き付いた。

 箒木はさっとそれを払って距離を取ると、今度は背中からライフルを取り出した。それをキオトに向け、銃口に光を集める。

 何が、

 何が起こっている。

 俺は箒木が戦っている姿を見ながら、まだ現実を受け止めきれていなかった。

 ……サチ。

 生きて……いるよな?

 箒木、どうして戦ってる?

 キオトは何をしている?

 キオトは、笑っている。

 この世の厄災、神話生物は、笑っている。

 どうして笑っている?

 どうして……、

 どうして、

 ……サチ。

「――あんたたち、やめなさい!」

 箒木のライフルがチャージを終えようとした瞬間だった。悲鳴と恐怖で満たされた学食内に、よく通る声が響いた。

 佳那汰さんだった。

 キオトは佳那汰さんをちらりと見た。

「来たか。超能力者」

 佳那汰さんはサチを見ると、眉を寄せて顔を歪めた。

「サチ……!」

「こんにちは、超能力者さん。一緒に遊んでくれる?」

 キオトがそう言うと、佳那汰さんの周りに枝が大量に現れた。しかし佳那汰さんは動じず、ただ瞳に力を込めた。すると枝は佳那汰さんからそれて、床や天井、壁を貫いた。学食内はいっそう恐怖に包まれて、逃げ出そうとしている人達がわっと学食の扉に集まった。

 佳那汰さんは枝から身をかわすと、今度はキオトを見た。するとキオトはぐんと一瞬体を反らした。

「く……うふふ、やっぱり手強い。ワタシに干渉できるなんて、素敵じゃない?」

 キオトはくすりと笑うと、すうっと空間に溶けるように姿を消した。すると一瞬後、佳那汰さんに襲いかかった枝や、サチを貫いている枝が元の場所へと戻るように空間に吸い込まれていった。

 サチは空中で一瞬ふうっと息を吐くと、床に倒れ込んだ。

「あんたたち、大丈夫?!」

 逃げ出そうとする人々の流れに逆らって、佳那汰さんがこちらへ走り寄ってくる。佳那汰さんはサチのそばに膝を折ると、サチを抱え上げた。

「サチ! しっかりしなさい!」

 声をかけられると、サチはゆっくりと瞬きをして、口をぱくぱくと動かした。何か言おうとしているようだが、胸に大きな穴が開き、声が出ないらしい。

「いいのよ、喋るんじゃないわ。羊太郎、来栖、保健室へ行くわよ」

「……はい」

 箒木は頷くと床に下りてきた。青白い光が箒木の体を走り、機械の翼や色々な武器が消える。

 学食の中は相変わらず混乱の中だ。それを見て、佳那汰さんは目を閉じた。

「ちょっと待って。学食を元に戻すわ」

 佳那汰さんがそう言うと、学食の天井や床に開いた穴がふさがり、混乱の中で倒れたり吹き飛んだりした椅子やテーブルが元の場所に戻った。すると、すうっと学食内が静寂に包まれた。逃げようとしていた人達は無表情になり、それぞれ歩いて自分たちの席や元いた場所に戻ると、その瞬間笑い合ったり喋り合ったりし始めた。

 元の学食に戻ったのだ。

 血塗れのサチ以外は。

 佳那汰さんは目を開けた。

「これで大丈夫よ。サチは保健室で治療するわ。……羊太郎、あんたも酷い顔ね」

「……え?」

「とにかく来て」

 サチを抱えたまま、佳那汰さんが立ち上がる。それを見て箒木が足を踏み出したが、俺は動くことができなかった。

「羊太郎」

「あ……ああ」

 佳那汰さんに声をかけられて、ようやく俺も立ち上がった。現実感がなかった。サチを抱えた佳那汰さんについて、学食を出る。多くの人とすれ違ったが、その人達には俺たちが見えていないみたいだった。見えていないと言うより、血塗れのサチに異常を感じていない顔。何事もないかのように、通り過ぎていく人達。

 日常と非日常が混在していた。

 保健室は学食と同じ三階にある。そこに着くと、佳那汰さんは脚で扉を開け、中に入った。

「あんたたちも入って」

「……はい」

 返事をしたのは箒木だけだった。俺は何も言うことができず、ただみんなと一緒になって保健室に入り、無言で扉を閉めただけだった。

 保健室の中には誰もいなかった。保健の先生の姿も見えない。

「今昼休みで誰もいないのよ。今のうちにサチを治すわよ」

 佳那汰さんはそう言うと、ベッドの一つにサチを横たえさせた。そしてサチの胸の穴に手をかざし、ぐっと集中した。

 すると、サチの体から流れていた血はサチの体に集まりはじめ、胸の穴もふさがった。胸の穴が完全にふさがると、サチのタリスマンの強い輝きもおさまった。

 佳那汰さんはふうと息を吐くと、両手を下ろした。

「制服はあなたが魔法で作ったのね。ごめんなさい、服までは直せないわ」

「いいえ。ありがとうございます」

 サチははっきりした声でそう言った。そうして体を起こすと、ほとんど露わになりそうな胸に手を当てた。そこからセーラー服の布が修復されはじめ、数秒後には元に戻っていた。

 サチは制服が直ったのを確認すると、ベッドの上から俺を見上げた。

「羊太郎」

「……え?」

「どうしたのですか」

「え……どうしたって……」

 問われて、俺はようやくがくがくと脚が震え始めた。今まで死んでいた感情が、ようやく息をし始めたみたいだった。

 俺はばっとサチに駆け寄ると、サチの両肩を掴んだ。

「サチ! サチ!」

「はい」

「サチ、大丈夫なのか?!」

「はい。自分で傷を癒やすこともできたのですが、佳那汰に治してもらいました。もう大丈夫です」

「でっ、でもっ、サチ、胸が……!」

「問題ありません。タリスマンがある限りは」

「でも!」

 俺がなおもサチに詰め寄ろうとすると、佳那汰さんが俺の肩に手を置いた。

「落ち着きなさい、羊太郎。……あんたも酷い顔してるわ」

「え……?」

 佳那汰さんは服のポケットからハンカチを取り出した。そしてそれで、優しい手つきで俺の頬をぬぐった。

 俺の頬を撫でたハンカチには、赤黒い血がべったりと染みこんでいた。

 俺はサチの血が俺の顔に降りかかっていたことにも気付かず、ただずっとぼうっとしていたのだ。

 俺はふうっと気が抜けたような、でも何か失ったような気分になり、サチの肩を放した。佳那汰さんはハンカチをしまうと、俺の頬を優しく撫でた。

「……もう大丈夫よ」

「佳那汰さん……サチが……俺……」

「大丈夫。終わったわ。……来栖も、大変な思いしたわね」

 箒木はゆるゆると首を振った。

「……いいえ。でも……わたしの攻撃、何一つ、通じませんでした」

「仕方ないわよ。そういう相手だっているわ」

「……ごめんなさい」

「何謝ってんのよ」

 佳那汰さんはふっと笑った。

「佳那汰」

 サチはきょろんとした目で佳那汰さんのことを見た。

「あれは、何なのですか? この世の厄災、神話生物、と名乗っていましたが」

 問われると、佳那汰さんはふっと考え込むように目を細めてサチを見て、それからサチの横に腰を下ろした。

「……だから言ったのよ。気にするんじゃないわって」

「どういうことですか?」

「目を付けられるからよ」

「佳那汰は、キオトについて何か知っているのですね」

「知ってる……。そうね。でもあえて言わなかったわ」

「それはなぜですか?」

「言ったでしょ。目を付けられるからよ……」

 佳那汰さんはそう言うと、サチの頭を撫でた。

「あたしが知ってるのは灰音から聞いたことだけよ。この世の厄災が来る、それは現実世界の人間に絶望をもたらすと。そして厄災は、幸福を甘受する現実世界の人間と、それと戯れる空想の者とをまずは滅ぼすって言ったのよ。……それって、あんたたちのことよ」

「灰音は、どうしてそれを知っていたのですか?」

「灰音はね、狐憑きなのよ」

「狐憑き? 狐憑きとは、何ですか?」

「灰音の設定上は、人ならざる者に憑依され、予知や霊視をする人間のことね」

「妖怪とは違いますか?」

「違うわね。妖怪でもないし、妖怪が取り憑くのでもないわ。神に近いものが取り憑くのよ」

「神に近いもの、ですか。なるほど。理解しました」

 サチは冷静に頷いた。

「神に近いものが告げる情報を得ることができるから、灰音はこの世の厄災が来ることも、それがどのようなものなのかも分かったのですね」

「そういうことね」

「そのことを聞いていたから、私達がこの世の厄災に巻き込まれないように、佳那汰は気にするなと言ったのですね」

「そうよ」

「ですが、灰音は私達に警告しました。これからのことを心配しろと」

「ええ」

「そうすれば私達が警戒し、あえて危険を冒すことも分かったはずです。実際私はキオトに殺されかけました。それでも灰音が私達に警告した意味は何ですか?」

「それは……」

 言おうとして、しかし佳那汰さんは言わなかった。ふるふると首を振って、申し訳なさそうにサチを見た。

「……あんたたちには酷ね。言わないでおくわ」

「そうですか」

 サチは実にあっさりと引き下がった。食い下がっても、佳那汰さん相手なら意味がないことを分かっているんだろう。

 俺は手をぎゅっと握って、唇を噛んだ。

「でも……何でサチが。俺だったら……」

「あんただったら一発で死んでたわよ」

 佳那汰さんは優しく、でも慰めるようにではなく、俺の思いを諦めさせるように微笑んだ。

「バカ言ってんじゃないわ」

 俺はその佳那汰さんの表情を見て、ああ……俺は本当に無力なんだと思った。

 サチのように魔法は使えない。箒木のように戦えない。佳那汰さんのように不思議な力を持たない。千代崎さんのように未来も分からない。……キオトのように、滅ぼす力もない。

 俺は日常の存在で、力なんて、ないんだ。

 サチが貫かれたとき、俺はどうしていた?

 ただ呆然としていただけだ。

 箒木のように戦ったか?

 ……いや。

 佳那汰さんのように助けに入ったか?

 ……いや。

 俺は、何も、しなかったんだ。

「今回のことは灰音も分かってると思うわ。……分かってた、と言った方が正確ね。とにかく灰音とよく話し合っておくわ」

 そう言うと佳那汰さんは立ち上がった。

 それを見て、箒木は身を乗り出した。

「あのっ」

「なあに?」

「あの、わたしに……何か、できることはないでしょうか……!」

「できることね。できるだけ、平穏にしておくことかしらね」

「でも、そんなの……わたし、何かしたいんです! わたし……」

 箒木はぐっと拳を握って、体を丸めた。

「わたしは……物語の中で、いつも戦っていました。人類の脅威と。だから、わたし、わたし……何かするべきだと思うんです」

「……人類の脅威ね」

 佳那汰さんはふっと微笑んで、箒木の頭を撫でた。

「世界の敵と戦っていたのはあたしも一緒よ。だから安心なさい。あたしがついてるし、できることがあったら、ちゃんと伝えるわ」

「でも……」

「大丈夫、戦うことに関してはあたしたちはプロでしょ。深刻にならないのよ」

 そう言われて、箒木は少し落ち着きを取り戻したようだった。小さくふうふうと息を吐いて、それから体を起こした。

「……はい」

「いい子ね。じゃ、あたしは灰音のところに行くわ。あんたたちは、学食に戻って食事の続きでもしなさいな。もう冷めちゃってるかも知れないけどね」

 佳那汰さんは俺たちの顔をそれぞれ見回すと、保健室を出て行った。

 がらりと保健室の扉が閉まり、佳那汰さんの背中が見えなくなる瞬間、俺は叫びたくなった。でもぐっと我慢した。

 ……だって俺は無力なのに、できることなんてあるはずないのに、声を上げる権利なんて、あるはずないんだ。

 サチはベッドから下りると、何でもないような顔をして俺たちの顔を見た。

「行きましょう」

「……そうだな」

「羊太郎」

「なに?」

「ありがとうございました」

「……え?」

「羊太郎のおかげで、生き延びました」

「え? それ……どういうこと?」

「来栖もありがとうございました」

 箒木は悲しそうな顔をして微笑んだ。

「……ううん」

 その箒木の右手は、左腕をぎゅっと握りしめていた。

 かみしめているんだ。箒木も。自分の無力さを。

 だって箒木の攻撃はほとんど効果がなかった。箒木はキオトに傷一つつけられなかったんだ。

「……いこう?」

 そう言った箒木の微笑みは痛ましかった。箒木はふいと踵を返すと、保健室の扉を開けた。

 保健室の外は、昼休みのいつもの学内だった。学食へ向かう人間、学食から出てくる人間。それぞれが自分たちの日常を生きている。俺たちはそんな中を通って、学食に戻った。

 俺たちが座っていた席は、直前までごく普通に食事が続けられていたかのような、平穏な様子だった。

 キオトの姿もない。

 あれだけの混乱があった跡もどこにもない。

 俺たちはそれぞれに席に着くと、冷めきったものをくちに運んだ。

 俺は食べ物が喉を通らない感じに、いや、サチが貫かれたとき俺が何もしなかったという事実に、窒息しそうになっていた。

 俺は何もしなかった。ただ座っていた。

 ここに。

 それでもサチは、俺に礼を言った。

 俺のおかげで生き延びたと。

 意味はよく分からなかったが、ひょっとしてサチなりに気を遣っただけなのではないかという気がして、その真意を聞くのが怖かった。

 俺たちは静かに食事を終え、箒木が薬を飲むのを待ってから、教室に戻った。

 教室には、キオトの姿はなかった。

 キオト。

 キオト・クルウルウ。

 神話生物。この世の厄災。クルウルウ。

 俺は席について、キオトのことについて考えた。

 キオト。

 キオトだって、空想の世界から、現実世界へとやってきた存在なのだ。

 つまり、物語の中で突きつけられた自身の死というものへの絶望が、現実世界への扉を開けた存在なのだ。

 だったら、なぜ。

 なぜ、世界を滅ぼそうとする?

 世界を滅ぼせば、それは結果として自分の死をももたらすのではないか。だって、死から逃れてきた現実世界が消えるのだ。それでは、逃れてきた意味がないのではないか。

 では、なぜだ。

 分からなかった。

 考えても。

 絶望のもとに、世界を滅ぼすもの。

 神話生物。キオト・クルウルウ。

 考えても、分からない。

 俺たちはそれぞれに教科書とノートを準備した。他のクラスメイトたちも次々に教室に戻ってきて、授業の準備を始める。

 そうするうちに先生もやってきて、授業が始まった。

 いつもの授業風景だった。何もないみたいに。

 キオトは、現れなかった。

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