第37話 発情 1

 いつものように執務室で仕事をしているルーチェスクに、ジャルダンは書類を差し出し、今朝ほどアルマとエミリーが思いつめた表情で自分の執務室にやってきたことを思い返していた。


 聞けば、もう10日余りもきちんと椎名の世話をしていないらしい。

 実際は、椎名の世話一切をルーチェスクがやっているという。


 着替えも食事も、ルーチェスクの指示に従ってルーチェスクのプライベートエリア付きの侍従に持たせている。その侍従によると、姿は見ることはできないが食事もきちんと食べているし、着替えもしているらしい。蜜月を楽しんでいるようだから意のままに、とだけ言われたという。

 時折、日中、部屋に帰ってくることもあるが、世話を焼く暇もなく、椎名は疲れ果てていてベッドで眠っているという。


 だが、さすがに10日は無理がある。体力の限界もあるのだ。

 最初はフェデリック公爵に二人は相談したらしいが、まだ三日目とあって大丈夫だと即答されたらしい。けれども、その後フェデリック公爵はラルクと一緒に公務で地方に出かけてしまった。だからこそジャルダンにと言うわけだ。


「今朝ほど、王妃様付きの侍女たちが私の部屋にやってきました」

「ん?何か不都合があったのか?」

「もう10日余りも満足に王妃様の世話をさせてもらっていない、との訴えでした。聞けば、陛下の部屋に閉じ込めたままで毎日着替えを届けるだけで、しかもそれは陛下の世話付き侍従に手渡すだけだとか。王妃様は無事なんですか?」

「ああ、元気だよ?日中は自分の部屋に帰ることもあるし」

 とは言っているが、あまり身の入った返事ではない。日中、椎名が自分の部屋に戻ることをあまりよく思っていないのだ。

 発情期特有の症状で、ルーチェスクに対して特別心配する必要はないが、花嫁である椎名には対応が必要だ、とジャルダンは判断する。一方のルーチェスクは何か問題があるわけではない。感情的、いや本能的なものなのだ、と反芻していた。


「陛下、真面目にお答えください」

「自分でも異常だと思っているんだが。他の誰にも見せたくないし、他の誰にもさらわせたくないんだ。嫉妬に狂いそうになる。発情期特有の症状だ…」

「王妃様は何とおっしゃっていますか?納得されていることですか?」

「セルジュと直接連絡を取れるし、おばばとも毎日接触しているからこういう状態に不自由はないと言っているよ」

「ばばさまが?」

「叱られたよ。妻を迎えて初めての発情期にこんな体たらくでは情けない、だと。セルジュも呆れていたよ。何より、俺が一番驚いている」

 ルーチェスクはそう言って書類に目を落としているが、実はいつもより政務が煩わしいと感じている。

 一分一秒でも長く椎名のそばにいたくて、猛スピードで仕事をしていると言っても過言ではない。


「侍女が何かあったのかと…セルジュ殿からは大丈夫だと聞いていたようですが、期間が余りにも長いので」

「ああ、そうだな」

 そう言いながら決裁書類に目を通し、分別してゆく。


 これでも、10日前よりはマシになった方だと一人ゴチながら。

 正直、感情のコントロールが追い付かない時があったのだから。


「最近は椎名が良く眠るようになったんだ。それも一因だな」

「良く眠る、とは?」

「人間は魔族よりも長い睡眠時間を必要とするのに、こっちに来てから神経が休まる暇がなかったのか、ロクに休んでいなかったんじゃないのか?それが…落ち着いてきたのか、睡眠時間が長くなった」

「そうだったんですか?」

「ああ、あれは、周囲に傅かれる生活に慣れていないし、今はそんな余裕ないしな」

「つまり、毎日抱き潰しているということですか」

「そうしておいてくれ」

 ジャルダンは盛大にため息をついた。


「いつか王妃様に逃げられますよ」

「俺もそう思う」

「仲がよろしいのは結構ですが。その…魂の交接の方は?大司教もばばさまも最初の時のことしか話されませんし。順調なら問題ないと思いますが、こればっかりは王妃様の気持ち次第ですので」

「そこは本当にゆっくりだな。生活や慣習にこれだけ順応できているからそろそろとは思うんだが。だがな、ゆっくりで良いと思っているよ。あれもこれも望むのは良くない。それに、嫌いで遅くなっているわけじゃないしな」

「どういうことですか?」

「椎名は、人間界では恋愛をしたことがない。色恋事には全くのまっさらだったんだ。だから自分の気持ちに慎重になっているんだろうな。ただ、椎名が自覚している以上に魂は共鳴しているから悪くはない話だ」

 ルーチェスクはそう言ってお茶に口を付けた。

「そうですか、安心しました」

「で、そっちは?」

「順調に、でしょうか」

 何か含みがあるようにジャルダンは口元を緩めた。


 魔王であるルーチェスクが人間の妻を迎えたところで魔界は大きく揺れていた。

 何も特別なことではなく、毎回花嫁を迎えるたびに魔界はざわつくのだ。


 魔王が藤間の花嫁を迎えたところで、すぐにすぐ、藤間の花嫁が魔界に順応するわけではないし、魔王に愛され、魔王を愛するわけではない。

 だからこそ、花嫁が迎えられてから王妃教育がなされ、魔族の一員として迎えられるまでに数々の儀式をより行い、花嫁の心の準備をするのだ。それらが終わって初めて、魔族の一員として正式に王妃に迎えられるのだ。


 したがって、花嫁を迎えた後、正式に王妃になるまでの期間は魔界は揺れ動く。

 魔界に迎えた後、万一にも何かがあって、王妃就任前に魔王よりも好きな相手ができた場合。

 花嫁は形式上は魔王の花嫁として迎えられるが、王妃になる前に「下賜」という形でその好きな相手に嫁ぐことができるという。

 たとえ下賜されても、相手は魔界のあらゆることを変化させてゆく人間である。そのことだけでもステータスなので有力魔族は勢力を一気に伸ばすことも念頭に置いて、地方で小競り合いをしてみたり、王宮では腹の探り合いをしてみたりと忙しい。

 この際、一気に統治を進めたいと思っているのはジャルダンたちの腹の中のことだ。だからその意を汲んだアーノルドは地方視察と言ってあちこち顔を出している。実際は、粛清を含むことで魔王の覇権を盤石にするためのものだ。

 

 外側からこうして固めていくと同時に、内側からも固めて行かないといけない、というのは誰もがわかりきっている。

 魔王の魔力を安定させ、魔界の隅々まで魔王の力を示し、魔界を安定させるためには「魂の交接」が関係あるからだ。

 人間が、魔界において魂の交接を起こすことが魔界の安定につながる。

 基本的に、お互いが信頼し、愛し合うことで魂の交接が深くなる。深くなれば深くなるほど魔界は安定するし、万一、花嫁が魔界を拒否したりすればそれは魔界の崩壊につながる。

 だからこそ、何代にもわたり藤間の人間だけを魔界に招いたのだ。


「本当はもっとゆっくりできたらよろしいのですが」

「そんなことは望んでいないよ。椎名もそれは承知している」」

「なるほど。でも、いろいろとこちらの都合もありますので時々は侍女とコンタクトを取らせてくださいませ」

「制限しているつもりはないが」

「王妃様は聡明な方です。陛下が考えているよりもそう言ったところはお気遣いする方ですよ」

 そう言って諌めた。


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