第14話 一か月 その1



 傍らで眠る愛しい女の寝顔を見ながら、ルーチェスクは深呼吸した。そろそろ、椎名が魔界に来ておおよそ1カ月近い歳月が流れている。

 もっとも、魔界の一日は人間界の一日と違って長い。時間の流れが違うから、当然1カ月という概念も違う。


 魔界には、月が4つある。魔王城に立ち、セナ山脈を北としたとき、東西南北に月が存在する。120日をサイクルに、北、東、南、西の順番でそれぞれ月が昇ることから魔界は40日をもってして1カ月としている。北の月の1月、2月、3月と数え、次は東の月の3カ月となり、再び北の月になれば一年経過したことになる。時間の流れが違うので、当然ながら人間界の歳月とはかなり違う、と椎名は言っていた。


 生活様式のあれこれが違うことは歴代の花嫁たちがのちの花嫁のためにと、書き記した日記帳を与えたからだ。しかも、それは純然たる日本語で書かれてあるそうで、魔族には理解不能の言語だった。

 それを渡したとき、椎名はおいおいと泣いた。もう「帰れない」という現実の厳しさに泣いたのか、それとも嬉しかったのか、とにかくひとしきり泣いた後、貪るように読んでいた。


 一晩、泣きながらその日記帳を読み進めている姿を見て、ああ、だから藤間の花嫁なのだ、と思った。


 椎名の家では「生きろ」という家訓がある。歴代の花嫁たちも「生きろ」と書きのこしてある。

 過酷な選択だったのかもしれないが、「生きる」選択をしたのは正しいのだと、どの花嫁の日記帳も、一番最初に書いてあったのはそのことだ、と椎名は笑った。


 長い長い日記帳を、しかも複数の花嫁が書いていることもあって全部読むには時間がかかる。だから椎名は少しづつ読み進めていくことにして、まず自分の周りの人間から関わることにした。


 花嫁のための「お妃教育チーム」はおばばを中心にした数名がチームを組んで椎名を教育している。まずは、魔界で暮らすために一番必要なのは何かあったときの対処法だ。毎日誰かがチームを組んで、魔王城の中を散歩し、その地図を頭に描くことだ。歩き回れば体力もつく、疑問はその場で解消することで魔界の知識も増える、良い事尽くしだった。


 懸念だった異界召喚のために消費された魔力は召喚者と被召喚者が負うことになるが、これについてはほぼ問題なくなった。

 椎名の魔力袋は時間と共に成長し、人間界で退魔士として働いていた部分は魔界では異色の「上級魔石士」として力を発揮した。おばばは「浄化師」だというが、数少ない現役浄化師は旅の途中で魔王城にはいないので、判定師の判断だけでは手に余ったのだ。


 魔石士の力は比較的誰もに現れる力である。

 一般に魔界に暮らす魔族は、生活道具の中に組み込まれた魔石に自分の魔力を込めて動かす。

 魔石士は埋め込まれた小さな魔石に術式を書き込み、行使できるようにしたり修理を行う。道端に転がっているただの石を魔石にすることもできるが、魔力を失ってしまえばただの石に戻る。生成された魔石に術式を書き込むことで使用できるのだ。

 上級魔石士は、この魔石を自分で生成することができる。つまり、自分の魔力を「何かの形」にすることができるのだ。例えば、石そのものの形と硬度を保たせたり、わざと小さな結晶にして食べ物としての魔石にしてしまうこともできる。

 魔王城で出されるスイーツのカラフルな金平糖はこの魔石の金平糖である。カラフルなのは純度が低いから色がつくものなのだ。透明なものは、純度が高く、黒いものが一番悪感情を抱えた魔石となる。


 それは椎名にとっては面白い作業だったらしく、暇を見つけては練習して自分で作っては壊し、作っては壊し、としている。

 逆を言えば、練度を高める練習にもなるし、魔力を扱う練習にもなるとおばばはそんな椎名に付き合っている。


 ただ、日が沈んでからはルーチェスクとの時間だった。



 昼間、政務に忙殺されるルーチェスクと王妃教育で忙しい椎名は朝食後は顔を合わせないことが多い。ルーチェスクは執務室にこもって政務をこなすこともあれば、練兵場に行って身体を鍛えることもあれば視察に行くこともあると目まぐるしく活動している。その代わり、日が沈んでからは基本仕事をしないルーチェスクは椎名にべったりとくっついている。

 一方、椎名は魔界の時間サイクルに慣れていないから魔族よりも睡眠時間を必要とする。体力的に必要なことだとわかってはいるが、一つ終わるごとにお茶の時間を取ったり、お昼寝の時間を取ったり、と何事にもマイペースすぎると自分でも思っている。しかし、無理をしたくともおばばやアルマが怖い顔で速攻却下してくるので仕方なく大人しくしている。

 今日などは魔王城の中の散歩に行ったあとはお昼寝の時間だった。大丈夫だと思ってはいるのだが、体はそれ以上に疲れていて、アルマは無理は禁物と夕飯前の公務をキャンセルしたくらいだ。



「はぁ」

 夕食を食べてお風呂に浸かったら、今まで以上に何故か疲れている。

 今日はルーチェスクは地方に視察に行っていて、まだ帰っていないので夕食は共にしなかった。それもあって、椎名は早々にベッドにもぐりこむ。眠い感覚がある。


「そうか、さっきのお茶なのか」


 人間は、魔族よりも睡眠時間を必要とするのに、魔界に来てからは椎名は眠れていない。それだけ気が休まっていないのだろうというセルジュの助言もあって、寝る前には気分を鎮静化させて催眠作用のある、人間には無害なお茶を飲んでから寝させようと、おばばが処方したお茶をアルマは毎晩用意しておいた。


 それでも、椎名の眠りは浅い。

 それに反して、城内での椎名の評判は恐ろしく良い。

 教育係のおばばと大司教からはお墨付きをもらっているし、魔族の作法についても、生活についても順応するのが早いとセルジュが舌を巻くばかりだ。

 けれど、何かを悩んでいることは確かで。

 だが椎名はそれをだれにも相談しないし、その素振りをも見せなかった。確かに、召喚されて一日目や二日目はルーチェスクは簡単に椎名が考えていることを読み取ることができたが、今はきっちりガードされて無理だ。武道の心得があるから、心も鍛えていると本人が言うだけになかなかガードは高かった。



 地方公務を終えたルーチェスクは浴室で体の汚れを落とし、ガウンを羽織ると足音を忍ばせて夫婦の寝室に入った。

 ふんわりと、椎名のにおいがする。

 もうそれだけで安心できた。


 椎名を抱いた後、毎晩抱き寄せてキスをして、ちょっとずつ魔力を交わしている。一度の接触で沢山魔力を交換するほうが効率が良いが、それでは椎名の体力が尽きてしまう。

 だから寝ているときは抱き寄せてじんわり魔力を混ぜ合わせることにしている。じんわり魔力を混ぜ合わせれば、時間はかかるが椎名への負担は少ない。

 体力的にぎりぎりで頑張っている彼女に無理はさせたくはなかった。

 まぁ、時には暴走して抱きつぶすこともあるけれど。

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