第4話異世界出身の彼女の事情

 佳那汰さんの家に来るのは入学式の日以来だった。

 佳那汰さんの家は相変わらずこざっぱりと片付いていて、俺たちが全員入っても余裕があるくらい広々としていた。

 佳那汰さんは俺たちにクッションを勧めると、自分は台所に行って飲み物を用意してきた。配られたのは焙じ茶だった。

 佳那汰さんもテーブルに着く。

 テーブルの周りには、俺と、佳那汰さんと、サチと、箒木。

 この中で、異世界出身じゃないのは俺だけだ。

 でもその異世界というのも、俺にはよく分からない。だって、魔法使いに少女兵器に超能力者なんて、全然違いすぎるじゃないか。同じ異世界から来たと言われても、俺には理解も納得も出来なかった。

 飲み物を目の前にしたまま、暫く四人で黙り込む。

「さて」

 話を切り出したのは佳那汰さんだった。

「どこから話をすれば良いかしらね?」

 そう言って佳那汰さんがうかがうように俺の目を覗き込むので、俺はうつむき気味に口を開いた。

「まず……これを最初に訊きたいんだけど」

「なにかしら」

「佳那汰さん達が異世界の人間だっていうのは、本当なのか?」

「ええ、本当よ」

「じゃあ、異世界って、どこにあって、どんなところなんだ?」

 問われると、佳那汰さんは少しの間考え込んだ。

「そうね。まず、その異世界っていう言葉なんだけど。表現としては良いけど、正確じゃないわね」

「じゃあ、正確には何?」

「この世界とは違う世界であることは間違いないわ。正確に言えば、空想の世界よ」

「は」

 空想の、世界?

 意味が分からなかった。俺は一瞬頭が真っ白になって、口をぱくぱくと動かした。

 空想? 空想って何だ?

 異世界じゃなくて、空想の世界?

「く……空想の世界って?」

「空想の世界は空想の世界よ。あなたたち現実世界に存在している人間が、あれこれと想像力を働かせて思い描いた世界だわ」

「え? それが、異世界? 空想の世界が異世界って、じゃ、じゃあ、異世界があるのって……どこ?」

「あんたたちの頭の中よ」

 佳那汰さんはあっさりと言った。

 人の頭の中こそが、異世界?

 サチも箒木も佳那汰さんも、そこからやってきた?

 つまり、何だ? どういうことだ?

 現実の人間が想像力を働かせて生みだした世界。そここそが異世界? 三人はそこにいた? そこにいたということはつまり、この三人も、その……想像の産物ということなのか? そういうことなのか? どういうことなんだ?

「え……? みんな、架空の存在……? ……ってこと……?」

「そうなるわね」

 混乱する俺に反して、佳那汰さんは随分あっさりしていた。

 そうなるって?

 どうなるんだ?

 つまり、どういうことだ?

 サチの言う異世界は、俺が思っていたようなものではない?

 異世界、それは人間の頭の中?

「異世界は……俺たちの頭の中……?」

「ええ。そうよ」

「え……? え……ちょっと待って」

 俺は頭を抱えて悩んだ。

 異世界から来たというサチの言葉をあっさりと信じた割に、俺は佳那汰さんの話を全く理解できなかった。

 空想の世界からやってきた?

 どうして?

 どうやって?

 俺は思わずサチを見た。

 異世界からやってきたと言った、魔法使いのサチ。

 サチはきょろんとした目で俺を見つめ返してくる。

 架空の存在。

 本当に?

 こんなに現実感があるのに?

 俺は改めて佳那汰さんの方を見た。

 佳那汰さんも俺を見つめ返してくる。その視線の現実感は、どうしても架空のものとは思えなかった。

「……本当に、架空の存在……? 何だか……そうは思えないんだけど」

「間違いなく、空想の世界から来た架空の存在よ」

「で、でも俺は……ずっと佳那汰さんのことを知っていて」

 そうなのだ。俺は佳那汰さんを小さい頃から知っている。だからいまだに、佳那汰さんが空想の世界からやってきた架空の存在だなんて、実感できなかった。

 佳那汰さんは頷きながら手のひらを向けた。

「それはそうよ」

「そうって?」

 もう、何が何だか。

「実際、あたしとあんたは付き合い長いわよ。ただ、あんたの記憶にあるほどは長くはないっていうだけで」

「で、でも」

「でもが多いわねえ」

 仕方ないじゃないか。俺は今大混乱の最中なんだから。

「でも、俺は小さい頃から……」

「……あんたはそう思ってるでしょうね」

 佳那汰さんは少し申し訳なさそうな顔をしてそう言った。

 そう思ってる。

 つまり、事実はそうではない。

 まさか。

 いや、でも、そうとしか……。

 俺は半ば呆然と口を開いた。

「……俺の記憶を、操作したのか……?」

「……ええ」

 佳那汰さんは頷いた。

 そうだろう。

 それしか考えられない。

 サチだってやっていたことじゃないか。

 学校中の人間、クラスの誰だって、担任すらも、突然現れたサチの存在を全く疑問視しなかった。いて当然のように振る舞っていた。

 人の記憶を操ることは、サチだけの魔法じゃなかった。佳那汰さんにも出来たのだ。

 異世界から来た人間には、当たり前に出来ることなのか?

 俺は小さな頃から、それこそいつからなのか分からないくらい昔から、佳那汰さんと一緒にいたと思っていた。でもそれは作られた記憶なのだとしたら、俺が今まで信じてきた佳那汰さんは、いつから存在していたんだ?

「……いつから……?」

「……ごめんなさいね」

 俺の質問には答えず、佳那汰さんは謝った。

「だましてたみたいで、本当にごめんなさい」

 俺はそれにふるふると首を振った。だってそれ以外に何が出来る。

 俺は何も言えなくなった。それを見て、佳那汰さんは俺の顔を覗き込んできた。

「羊太郎……」

「なに……?」

「……怒ってる?」

 何とも言えず不安そうな顔だった。佳那汰さんにしては珍しい表情だと思った。

 怒っているか。

 怒りはなかった。ただ戸惑ってはいた。

「怒ってないよ」

「……そう?」

「ただ、ちょっとびっくりして」

 俺は正直にそう言った。

 本当にびっくりして、戸惑っているだけだった。怒るなんてあるわけない。何を怒ればいいのかも分からないし、俺にとっては怒るようなことでもなかった。

 だけど言いたいこともあった。俺はやっとの思いで少し苦笑いして、佳那汰さんを見た。

「でも、言ってくれればよかったのに……。この世界の人間じゃないって、超能力者だって」

 本当に、どうして言ってくれなかったのだろう。言ってくれていたら、俺は世界は退屈だなんて絶望したりしなかったのに。

 この世界には、異世界から来た、人の頭の中から来た人間が存在している。それは日常のすぐそばにいた。それさえ分かっていれば、俺はもう少し早くこの世界のことを好きになれたはずだった。

 だから、言っていてほしかった。言ってくれれば、信じたのに。

 俺が言ったことの何がおかしかったのか、佳那汰さんはくすりと笑った。

「そんなの、いきなり言ったりしないわよ。そもそも言う機会がないじゃないの。今回たまたま話す機会が出来たっていうだけで」

 それもそうか。言われてみればそうかも知れない。

「……そっか。そうだよな」

「あんたってほんと、いいやつね」

 どうしてか佳那汰さんはいきなりそう言った。何でそう言われたのか分からず、俺は一瞬きょとんとなった。

 佳那汰さんは少し苦笑いしていた。それも理由の分からない表情だった。佳那汰さんの中で何か感情が渦巻いているのだろうか。

 佳那汰さんが俺の何を見て何を感じたのかは分からなかったが、分からないなりに俺も真剣になって、改めて佳那汰さんを見た。

「佳那汰さん」

「何かしら」

「佳那汰さん達が、空想の世界から来たっていうのは、分かった。架空の存在だっていうのも、信じる」

「よく信じたわね」

「そりゃ信じるよ」

 だってそれ以外に何がある。

 俺はそういうのを望んでいたんだから。それがせっかく目の前に現れたのにそれを拒絶するのは、言葉は悪いがもったいない。それに目の前で魔法やら戦闘やら超能力やらを見せられたら、信じないという方が無理がある。

 その上、俺はサチにはさんざん不思議なものを見せられてきたのだ。サチの不思議な説明も沢山聞いてきた。だから信じる土台はきちんとあるのだ。

 もちろん、驚いた。サチが異世界と言っていたものが空想の世界だなんて思いも寄らなかったし、小さい頃から知っていると思っていた佳那汰さんが、実はそうではなかったなんてなおさら思わなかった。

 だから信じていたものが壊れた驚きはあった。でも、それに対して怒ったり悲しくなったりとかは不思議となかった。だって、佳那汰さんがそう言ったのだから、俺は、新しいこの事実を、信じる。

「要するに、佳那汰さん達は、物語の中の登場人物……なんだな」

「そうね。あたし達は誰かが考えた、どこかのストーリーのキャラクターだわ。それぞれに作者が違うから、背負っている世界観も違うし、設定もそれぞれなのよ」

「でも、どうして現実の世界に来たんだ? サチは逃げるためだって言ってたけど……。闇に飲まれるのから逃げるためだって」

「闇? 何よ闇って」

「サチはそう言ったんだよ」

「……サチの表現って、何だか変わってるわね」

 佳那汰さんは少し呆れたような顔をした。

 ……俺もそう思う。

 でも佳那汰さんはサチが言った闇という言葉の本当の意味を理解できたようだった。特に戸惑いもせずに、頷いて言った。

「逃げるためっていうのは事実よ。ただし闇じゃないわ」

「じゃあ何?」

「自分に定められた、死の運命よ」

「自分に定められた……死の運命?」

「そう。あたし達はそれぞれ別の人間に作り出されて、それぞれの世界の中で生きていたわ。物語の中で息をして、動いていた。でもね」

「でも?」

「色々な理由でその世界に使えなくなってしまったり、物語の進行の仕方次第で、作者がこのキャラクターを殺そうと決めることがあるのよ」

「え……殺す……って?」

 一瞬理解が追いつかなかった。

 殺す?

 キャラクターを?

 つまり……サチや、箒木や、佳那汰さんを?

「殺すと決められたキャラクター。それが、あたし達よ」

 佳那汰さんは理解できていない俺に言い聞かせるように、丁寧に言った。

「作者によって定められた死の運命。それをサチは、闇と言ったのね。つまりサチの言う闇っていうのは、物語の中で死ぬように定めた、作者の意思のことなのよ」

「作者の意思……?」

「作者の決定にはあたし達はあらがえない。作者は絶対的な神みたいなものなのよ。作者が殺すと決めたら、あたし達は死ぬしかない」

「そ、そんな」

「どうしてこの世界に来たのかって、あんた訊いたわね」

 問われて、俺は頷いた。

「あたしは自分に死が定められたと知った時、絶望を感じた。その時、物語の中で扉が開く音がしたような気がした。それが自分の世界と現実世界を繋ぐものだっていうのは、どうしてか直感できたのよ。ここを通れば、抜け出せる。死ぬ運命から、抜け出してしまえる。それが分かった時、あたしは迷わなかった」

 佳那汰さんは一度話を切って、俺の顔を覗き込んだ。きちんと俺が話を理解できているのか、それを探るような目だった。

「だから、あたしは物語の中から現実世界に抜け出すことにしたのよ。あんた達の頭の中と、外の世界とは繋がってる。空想の世界と現実世界とは境目が曖昧で、どこかで接し合ってるっていうことなのかも知れない。普段はあんた達はそんなこと思ってもみないでしょうけどね」

 確かにそんなこと、考えたこともなかった。

 現実世界と境目の曖昧な、作られたストーリー。

 佳那汰さん達はその世界にいて、そこで生き、呼吸していた。物語の中で動き、登場人物として存在していた。

 言わば作られた世界で、作者が物語を進ませるとおりに生きていたのだ。

 それがどんな感覚なのか、俺には分からなかった。想像を絶している。物語の登場人物として、作者の思うとおりに生きていくなんて、どんな感覚なんだろうか。そもそも、キャラクターというのは、自分が物語の中の存在だと気付いているものなのだろうか。もしかしたら、気付かずにいることもあるかも知れない。

 佳那汰さん達はそんな存在だった。

 でも。

 でも、ある日、作者がキャラクターの死を決定する。

 死を。

 死ぬ?

 佳那汰さん達が、死ぬ運命?

 作者が、そう決めたから?

 キャラクターがどうやってそれを知るのか、俺には分からない。何か特別な感覚が働くのかも知れない。

 そして、作者のその意思を知った時、絶望が現実世界への扉を開けた。佳那汰さん達はそれを通って、現実世界へやってきた。

 俺はようやくそこまで飲み込んだ。佳那汰さん達が死の運命を定められ、それを背負っているという衝撃は、まだ残っていたけれど。

「じゃあ……佳那汰さん達は、作者の意思から逃れるために、ここに来たんだ」

「そうね」

「死ぬと決まったキャラクター……は、みんな自分の世界からこっちの世界に抜け出してくるのか?」

「いいえ、全員じゃないわね。世界から抜け出すには、条件があるみたいなのよ。まず、自分が物語の中の人間だと気付いていること。そして、自分が死に定められている、つまり物語から見捨てられていると気付いていること。自我が生まれていることと言えるかも知れないけど、それ以上はあたしは詳しく知らないわ」

「でも……でもそんな、作者の都合で殺すなんて」

 俺の言ったことに、佳那汰さんは同意しなかった。ただ、さっぱりした顔でふるふると首を振った。

「そんなこと、普通よ。あんただって色々な物語で見てきたでしょ。だから分かるはずよ、キャラクターは簡単に死ぬって。作者には物語とキャラクターを自由にする力がある。それは絶対的なもので、あたし達にはどうしようもないことよ。それでもあたし達は作者を信頼して身をゆだねるしかないんだわ」

 俺には何も言えなくなった。それでつい、下を向いてしまった。

 死ぬ運命なんて。佳那汰さん達が……死ぬ運命なんて。

「でも……死ぬなんて……」

「そうね。それはあたし達にとっても恐ろしいことだわ。物語の中で死ぬっていうことは、多分現実世界での死とは違うものよ。だって一度作られた物語は永遠に残り続けるからね。そんな永遠の世界の中で、物語の中で死んだら本当はどうなってしまうのか、あたし達にも分からない。キャラクターの死がどういうものなのかなんて。もしかしたら永遠に死の事実の中に閉じ込められるのかも知れない。それはあたし達にとって恐ろしいことなのよ」

 佳那汰さんは静かにそう言った。

「だからあたし達は、逃げたのよ」

 どこかはっきりした声でそう言ってから、佳那汰さんは苦笑いのような表情をした。

「死ぬ運命に気付いたときの絶望っていうのは、結構すごいものよ。もうその世界に使わないって思われるのは本当に厳しい話だしね。とにかくあたしは死にたくないって思った。サチや来栖だって、そう思ったからこの世界に来たんじゃないのかしら」

 佳那汰さんの言葉を受けて、サチはきょろんとした目で俺を見て頷き、箒木は儚げに微笑んだ。

 ……そうか。

 箒木の言葉が甦る。

 その世界での運命に気付いてしまった。

 だから、消えてしまう前に、この世界に逃げてきた。

 ……そういうことだったのか。

 死ぬ運命に定められてしまう。

 闇に飲み込まれる。

 その二つはつまり、同じことなのだ。サチが言っていたのは、いわば永遠の死の闇ということだったのか。

 サチ語だったから分からなかった。だけどサチはきちんと俺に説明していたのだ。そうなのだろう。自分の事情を、自分の言葉で。俺は言葉通りに受け取ったから、サチの本当の事情なんて分からなかったんだ。

「……サチ……。そうだったんだな。だから、この世界に逃げてきたんだな」

「はい」

 サチは無表情に頷いた。

 無情な運命にあったことなど感じさせないような顔だけれど、その奥には本当は苦悩があるはずだった。

 自分が作られた存在だと気付いた時。自分が死ぬ運命にあると気付いた時。そういう作者の意思に気付いた時……サチは、どう思っただろう。

 そこまではサチは言わなかった。俺にも想像できない。だけれど、苦しかったに違いなかった。

「……苦しかったんだな、サチ」

 俺の呟くようなその言葉に、サチは何か表情のようなものを見せた。本当に無表情で、どんな感情がにじみ出てきたものだか俺には分からなかったけれど、確かに表情が動いた気がした。

 そしてサチは下を向いて、小さく口を開いた。

「……本当に私は、運が良かったのですね」

 どうしてそんなことを言っているのだか、俺には分からなかった。でも、サチは心の底からそう呟いたようだった。

 サチは前にも言っていたな、私は運が良かったと。

 そのサチの言葉は、まるで俺を特別なものだと評価してくれているように思えて、俺も心の底から何かの感情がわき上がってくるのを感じた。

 サチ……。

 俺は切なくなるような、苦しくなるような感情を覚えて、サチを見た。その時だった。

 サチのタリスマンが黒く歪んだのだ。

 その黒い歪みを再び目にして、俺はぎょっとした。

「サチ!」

「はい」

「ま、またタリスマンが……!」

 その言葉に反応したのは佳那汰さんだった。

「タリスマン?」

「ほら、これだよ。サチが身につけてる、この宝石! これが何か変なんだ!」

「変?」

 俺は指さして説明した。世界の歪みという現象が発生すること、サチはそれをタリスマン――サチのかけらに吸収させることで対処していること。でもそれをしている影響か、タリスマンが黒く歪むこと。

 俺が説明し終えると同時、再びタリスマンが黒く歪んだ。

「ほら、また!」

「うーん」

 一瞬考えるようにそう言って、佳那汰さんはタリスマンに指を伸ばした。

「サチ、ちょっとそれ触っていいかしら?」

「はい」

 佳那汰さんの長い指が、サチのタリスマンに触れる。触れた瞬間、タリスマンの中に黒いものが揺らめいた。本当に、この黒いものは一体何なのだろう。

 少しの間触れた後、佳那汰さんは手を引いて座り直した。何か考え込むように、あごに手を当てている。

「佳那汰さん、何か分かった?」

「……そうねえ」

 佳那汰さんはまだ答えが出ていないような返事をした。

「佳那汰さん」

「何かしら」

「そもそも、どうして世界の歪みみたいな現象が起こるんだ? サチは、サチ自身がこの世界に見せている悪夢みたいなものだって言ってた。それって本当?」

「そうね。あたしは異空間って呼んでるけど、世界に見せてる悪夢と言えばそうかも知れないわね」

「佳那汰さんにも起こるんだ」

「それは起こるわよ。あたしはこの世界の人間じゃないのよ」

 佳那汰さんはおかしそうに笑った。

「異空間はね、あたし達が背負っている死の運命そのものなのよ。死の運命なんて、悪夢そのものみたいじゃない?」

 確かに、そうかも知れない。俺は小さく頷いた。

「あたし達は物語の中から現実世界へ逃れてきたけれど、キャラクターは物語からは完全には逃げられないのよ。本来死ぬ運命だっていう作者の意思は、絶対だからね。逃げても逃げても追いかけてくる。だからそれが現れる度に、あたし達は戦わなくちゃいけない」

「戦うって、せっかく、逃げてきたのに? どうして、そんなこと……」

「仕方ないわよ。だってあたし達、本来は物語の中で死んでいるんだもの。あたし達が現実世界に逃れてきた時点で、物語の中で死んでいる自分と、現実世界で生き延びている自分との二つが同時に存在することになるのよ。そんなの矛盾でしょ。だから本来の死に引き戻そうと、死の運命が現れてくるのよ」

「そんな……」

「仕方ないのよ」

 佳那汰さんはもう一度、仕方ない、と言った。

 ……仕方ない。

 逃げられない。

 だってそれが、本来の物語だったから。

 物語に反逆して逃れても、〝本来〟は追いかけてくる。それが作者の意思だから……。

 何て残酷なんだろうか。あまりにも、つらすぎる。

 逃れる方法は、本当にないのか?

「世界の歪みから、逃げるっていうことは、できないのか? 本当に?」

「無理だと思うわね。戦わないと飲み込まれるし、戦って負けても、飲み込まれる。どっちにしろそうなるなら、戦うわよ」

「そんな……じゃあ、どうしたらいいんだ?」

「戦うしかないわ」

「放ってはおけないのか?」

「放っておいたことはないけど、放っておいたらこの世界が危険なのは間違いないと思うわね。死に定める意思そのものだもの。この世界にそんなものがはびこったら、ここはいっぺんに死の世界になっちゃうわよ」

「でも……」

「それにあたし達にとってもいいことじゃないわよ。言ったでしょ、戦わないと飲み込まれるって」

「でもさ、佳那汰さん……」

「あんた、なかなか納得しないわねえ」

 佳那汰さんは呆れたようだった。それも仕方ないかも知れない。

 俺は悩んだ。死ぬ運命、作者の意思からは絶対に逃げられないなんて、それと戦い続けるしかないなんて、あまりにもつらすぎるから。

 それと戦って、戦って、抗って……。そんなことを繰り返す。

 それが仕方ないことなら、それからは決して逃れられないなら、じゃあどうしたらいいんだろう。

「じゃあ……どうしたらいいんだろう」

「あんたって本当にいいやつね」

「いや……俺のことは、いいんだけど……」

「そうね、普通、戦って勝てば、死の運命はあたし達の元へ戻ってくるわ」

「え? も、戻ってくる?」

 せっかく戦って勝ったのに、そんなものが戻ってきていいものなのだろうか。俺は混乱した。

「戻ってくるって? なんで?」

「本来あたし達が背負っているものだもの。あたし達の一部と言ってもいいかもしれないわね。だから戻ってくるのよ」

「え……そんなの、大丈夫なのか?」

「自分の物語だし、運命よ。切り離せないから、そうなっているだけだわ」

「切り離せない……」

 そう言えば、箒木が戦った時、世界の歪み……箒木の言うスクランブルは、確かに箒木の元へ吸い込まれていった。あれは自分の元に自分の運命が帰ってきたということだったのだろうか。

 自分に死の運命が戻ってきて、それで死なないのは何とも不思議に思える。俺は首を傾げた。

「死の運命が戻ってきて、どうして死なないんだ?」

「言ったじゃないの、この世界に逃れてきた時点で、物語で死んでいる自分と、ここで生きている自分の二つが存在するって。死の運命と戦って勝つと、その運命はあたし達が背負っている物語の中に戻っていくのよ。本来の死んだという事実の中に、一時的におさまっていくと言ったらいいかしらね」

「つまり……いったんは本来の死んでいる自分の元へ戻っていくから、生きてる佳那汰さん達はとりあえず無事になる……って、こと?」

「そういうことね」

「な……なるほど」

 何やら難しいが、一応は納得する。

 だから、箒木がスクランブルを吸収しても何ともなかったのか。

 でもそうすると、どうしてサチのタリスマンにだけ異常が起こっている?

 俺は思ったことをそのまま訊いた。

「じゃあ何でサチのタリスマンにだけ変なことが起こってるんだ?」

「それなんだけど……」

 佳那汰さんは何か分かったようだった。

「多分、異空間を吸収しているからじゃないわ」

「え?」

「タリスマンて、サチのかけらなんでしょう?」

「そうらしいけど……」

 でもサチ語だしな。

 佳那汰さんはサチの方を向いた。

「サチ、そのタリスマン、どういう設定のものなの?」

「これは、私と一緒に生まれたものです。私と運命を共にする、私の命の一部です」

「命の一部ね」

「私の世界では、魔法使いはこのタリスマンと共に生まれます。厳密には、タリスマンに包まれて生まれてきます。タリスマンは魔法使いを包む揺りかごであり、命の源です」

「なるほど」

 そう呟くと、佳那汰さんは一瞬考え込んで、それから小さく頷いた。

「……こういうことかも知れないわ」

「ど、どういうことなんだ?」

「タリスマンはサチの命の一部だわ。設定から言えば命そのものよ。それに黒い影が出てるっていうことは、サチが消えかかってるっていうことよ」

「消え……?!」

 いきなり衝撃的な話だった。

 消えるって、サチが?

「そんな、サチはまだこの世界に来たばっかりなのに!」

「見たことがあるのよ、この世界に来たキャラクターが消えるところを。黒い影も、歪むところも、そっくりだわ」

「間違いないのか?」

「多分……間違いないわ」

 佳那汰さんも悩むような顔をしてサチのタリスマンを見た。

 サチは相変わらず無表情で、一体何を考えているのか分からない。この話を、自分が消えてしまうというその可能性を、一体どう感じているのだろうか。

「消えたら……どうなっちゃうんだ……?」

「分からないわ。作者の意思に抗って現実世界にやってきたキャラクターが、消えたらどこに行くのかなんて。でもあたしが見た限りで言うなら、現実世界からは完全に消えてしまうわ。そして、現実世界の人間からは完全に忘れ去られる。本来いるはずのない人間が存在しないという事実に戻るからなのか、完璧に忘却の中に消えるのよ」

 佳那汰さんはあくまで冷静に答えたが、俺の受けた衝撃は言葉に出来るものではなかった。

「消える……? 忘却の中に消える……?」

 サチが消える。

 俺の記憶から、全て……?

 消えた後、どうなってしまう? 分からない。それは虚無だった。

「篠目さん……消えちゃうの?」

 箒木も黙っていられなくなったようにサチを見た。

 俺もサチの顔を見ていてたまらなくなった。

「サチ……」

「はい」

 いや、そんな普通に返事をしないでくれ。大変な話をしているんだから。

「佳那汰さん、何か方法はないのか?」

 運命から逃れるために、この世界に来たのに。

 それなのに、消えてしまうなんて。

「そうね……」

「佳那汰さん……!」

「今考えてるわよ」

「ご、ごめん」

 佳那汰さんは暫くそうして考え込んでいた。

 消える。サチが消える。

 そんなの、俺には耐えられない。俺を退屈な日常から救ってくれたサチが消えてしまうなんて。それにサチは本当にこの世界に来たばかりなのだ。ほんの数日しか、この世界で過ごしていない。それなのに!

 やがて、佳那汰さんは頷いた。

「……うん。これかもしれないわ」

「佳那汰さん、何か分かったのか?」

「推測よ」

「それでもいいよ!」

「多分……多分だけど、異空間を吸収しきれていないのよ」

「吸収しきれていない?」

 どういうことなんだ?

「異空間はあたし達の一部みたいなものよ。それを吸収しきれていないから、どんどんサチの情報が足りなくなってきているんだわ」

「情報?」

「あたし達は人間の想像力で出来てるの。いわば情報の塊よ。その情報が足りなくなってしまったら、間違いなく消えてしまうわね」

「なるほど……!」

 そうかも知れない。

 世界の歪みを吸収しきれていない。つまり、自分自身を取り戻しきれていないということだ。そうなのか!

 サチはタリスマンに収まる範囲まで削り取って吸収すると言っていた。では、その削るという行為がよくなかったのか。

「サチ、世界の歪みを削って吸収するって言ったよな」

「はい」

「つまり、それがよくなかったんじゃないか? 削っちゃいけなかったんだよ!」

「そうなのかも知れませんね」

 サチは頷いた。何だか他人事みたいだな……。もっと深刻そうにしてほしい。

 でも、じゃあ、どうすればいいって言うんだろう。足りなくなった情報を、どうすれば取り戻せるのか。

 俺は佳那汰さんに向かって身を乗り出した。

「佳那汰さん、じゃあどうしたらいいんだ?」

「そうね、あたし達にはどうしようもないわ」

「そんな!」

「あたし達には、よ。多分あんたには出来るわ」

「お、俺?」

 俺に?

 突然の発言に、俺は目を丸くした。

「現実の存在であるあんたにしか出来ないわ。あんたがサチの情報を補うのよ」

「どうやって?」

「あんたの想像力で、サチを助けてやって……としか、あたしには言えないわね」

「そんなのどうすれば……」

 曖昧模糊としている。本当に分からない。

 途方に暮れる俺の目の前で、またサチのタリスマンが黒く歪んだ。

 消えてしまう。このままだと、サチが。

「でもこれくらいはっきりと影が出てしまっているとなると、もうそんなに猶予はないわ。次に異空間が現れたとき、また吸収しきれなかったらアウトよ」

「そんな……!」

「でもその時がチャンスでもあるかも知れないわ。異空間を吸収するとき、あんたがサチに足りなくなった情報を流し込んでやるのよ」

「足りなくなった情報って何?」

「そんなのあたしには分からないわよ」

「た、確かに……」

 俺はサチに向き直った。

「サチ、何か心当たりないか? 自分に何が足りなくなったのか」

 問われて、サチは考え込んだ。

「……よく分かりません」

「サチ、よく思い出してくれよ!」

「もう一度世界の歪みが発生してくれれば、もしかしたら何が足りなくなったのか分かるかも知れません。ですが、今はよく分かりません」

「何でもう一度発生してくれれば分かるんだ?」

「佳那汰の話では、世界の歪みは私の一部なのでしょう。私自身を反映していることは間違いないのだと思います。ですから、足りないものも現れると思います」

「なるほど! 確かに!」

 確かにそうだ!

 箒木も感心したように両手を合わせた。

「篠目さん……頭良いね」

「……でもどうやってもう一度発生させるんだ?」

 問題はそこだ。

 サチはふるふると首を振った。

「待つしかありません」

「そうね。発生は完全にランダムだもの」

 佳那汰さんも頷く。

「そうか……」

 希望が見えたかも知れないのに、今すぐにどうにか出来ないのはもどかしい。

「だけどこうなったら、あんた達は離れちゃだめよ。異空間が発生したときにあんたが一緒にいないと、サチが危険だわ」

「うん」

 俺は力強く頷いた。

「サチ」

「はい」

「出来るだけ一緒にいよう。自分の部屋に帰らないで、俺の家にいるんだ」

「はい」

 とは言え……。

 昨日は壁一枚隔てていただけなのに、俺は世界の歪みには巻き込まれなかったのだ。つまり俺も世界の歪みに入るためには、本当に離れずにずっと一緒にいないといけないのか。それもなかなか難しい話だった。

 難しい話だが、それしか方法がない。

 サチを救えるのは、俺だけなんだ。

 サチに足りなくなってしまったもの。それが一体何なのか、俺には分からない。

 でも、俺がやるんだ。

「……よし、俺、やるよ」

「……がんばって、皆戸くん」

 箒木に言われて、俺はもう一度力強く頷いた。

 サチ。

 絶対に、消えさせたりしないからな。


 そしてそれは、俺の決意から二日後に起こった。

 俺たちにとって運命の日。サチが消えるかどうか、それが決まってしまう日。

 その時、俺たちは学校にいた。



 二日が経った。

 佳那汰さんの家で話をしてから、まだサチからは世界の歪みが発生していなかった。

 俺は世界の歪みを待っていたので、なかなか現れない歪みに対してかなりもどかしく感じていた。俺は出来るだけサチから離れないようにして、どこに行くにも一緒にいるようにしていた。それがクラスメイトにどんなふうにうつっていたのかを考えると恥ずかしくなるが、そんなことは言っていられない。

 学校にいるときは箒木も近くにいてくれたし、佳那汰さんも心配してよく様子を見に来てくれていた。

 でも待っていると、なかなか世界の歪みは発生してくれない。

 早く発生してくれないと、サチが消えてしまうことの方が先になってしまうような気がして、俺は焦っていた。

 佳那汰さんは「焦らないのよ」と言っているが、それは難しいというものだろう。

 そして昼休み。

 俺たち四人は、学食にいた。

 俺はなかなか現れない世界の歪みに対して文句を言うように、ぐでーっとテーブルに身を投げ出した。俺たちはもう食器を全て片付け終わっていたので、テーブルの上はこざっぱりしたものだ。

「あー、まだなのかーっ」

「やめなさいよ、羊太郎」

 佳那汰さんは少し呆れたようにそう言った。

 昼時の学食はざわついている。高校生も大学生も、先生達も利用するためだ。色々な人が広い学食の中にいるのはなかなか賑やかでいいのだけれど、俺はその賑やかさを楽しむという心境には全くなれなかった。

「だってさあ……」

「仕方ないじゃないの。発生はコントロール出来ないんだから」

「……そうだけど」

 そう言って俺は身を起こした。

「佳那汰さんや箒木は、どうなんだ? 発生したのか?」

「……ううん。わたしは、二日前以来スクランブルは、ないよ」

「佳那汰さんは?」

「あたしもないわねえ。平和なものよ」

「そう言えば、佳那汰さんのそれって俺見たことないなあ」

「……別に見るようなものじゃないわよ?」

 確かにそうだけど。

「それにあたしは人を巻き込まないようにやってるからね」

「どうやって?」

「そんな方法聞いてどうするのよ。あんたはサチの異空間に一緒に入らないといけないのよ?」

「気になるよ」

「あんたって変わってるわね」

 好奇心旺盛と言ってほしい。

 俺はふうとため息をつくと、周囲を見回した。

 辺りには、まだ人が大勢いる。世界の歪みが発生する前兆は、周囲から人が消えることだ。でも人が消える気配はない。

 サチは全くの無表情なので、世界の歪みを待っているのかそうでもないのか、それすら分からない。相変わらずきょろんとした目で、俺を見ているだけだ。

 それにしても。

 何だか不思議な感じだ。今俺の目の前には、魔法使いと、少女兵器と、超能力者がいる。そしてこの三人は、人の想像力という異世界から来た架空の存在なのだ。

 一体誰がそんなことを思うだろう。

 本来はこの三人は存在していないだなんて。

 そう思うとすごく不思議だ。

 不思議がっていると昼休み終了のチャイムが鳴ってしまった。佳那汰さんとはここでいったんお別れだ。

 佳那汰さんは席を立つ。

「じゃあ、あたし大学の方に戻るわ」

「うん」

「いい、気を付けんのよ」

「分かってるよ」

 俺の返事に頷いて、佳那汰さんは歩いて行った。

 それを目で追ってから、箒木が俺たちの顔を交互に見た。

「……じゃあ、わたしたちも、戻ろっか」

「そうだな」

「はい」

 三人で七階の教室に戻ると、もうだいぶ人が戻ってきていた。

 俺たちもお互い近い席に着く。自由席なので、昼休み前とは違う席だ。

 そうして待っていると、教室に先生が入ってきた。

 その瞬間だった。

 がたりと音を立てて、急にサチが立ち上がったのだ。

 先生が驚いてサチを見る。俺と箒木も、思わずサチを見上げた。

「サチ?」

 しかし、俺の呼びかけにサチは何も言わない。

「……おい、サチ、どうした?」

「羊太郎」

「なに?」

「来てください」

 その一言で俺は察しがついた。

 世界の歪みだ! サチはそれを感じたのだ。

「篠目さん、座ってください」

 先生は当然サチの事情を知るはずもないので、サチにそう声をかける。

 しかしサチはそれに反応せず、教室のドアに向かって駆けていった。

「篠目さん!」

 声を張り上げる先生。

 俺も慌てて立ち上がる。

「箒木」

「……うん」

「待っててくれ。必ず、サチと戻ってくるから」

「……うん!」

 そうしているうちに、サチは教室のドアを開けて出て行ってしまった。

 俺も早く追わなくては!

 俺もサチを追っていくので、先生は今度は俺に向かって声をかけた。

「皆戸さん、篠目さんを連れて戻ってください」

「はい!」

 言われなくても!

 サチを連れて、世界の歪みから戻ってくるんだ、必ず!

 廊下に出ると、サチはすぐそこで立ち止まっていた。

「羊太郎」

「サチ!」

 教室のドアを閉め忘れたまま、サチに歩み寄る。

「世界の歪みです」

 サチが教室の中を見つめて言う。

 俺も思わずサチの視線を追った。

 教室内は、無人だった。箒木の姿もそこにはない。

 学校中から音が消えている。

 一瞬の出来事だった。

 世界の歪みの前兆が起こっていた。

「よく気付いたな」

「はい」

 そう言うサチのタリスマンが、黒く歪む。

 ……これを、俺が何とかするんだ。

「来ます」

「……ああ!」

 俺が頷いた瞬間、サチの足下から世界がぐにゃりと歪んだ。

 その歪みがあっという間に学校中を覆う。

 一瞬後、歪んだ世界がそこにはあった。

 実感があるようなないような地面、その向こうからやってくる兵士。漂う風船のような何か。同じだ。あの時と同じ。

 でも一つだけ違うところがあった。

 空に、穴が開いている。大小の穴だ。その穴の中から闇が覗いていて、そこから闇が滴っている。

 それを見て、俺はサチが光の槍で空に穴を開けたところを思い出した。その時も穴から闇が滴り落ちてきていた。

 削られた部分。それは間違いなくあれだろう。

 空。

 でもそれだけで、サチの何が足りなくなっているのか、俺には全く分からない。

「サチ」

「はい」

「何が自分に欠けてしまったのか、分かるか?」

 問われて、サチは空を見上げた。穴が開き、闇が滴り落ちてくる。俺たちが話している間にも、向こうから兵士達が迫ってくる。欠けているものを知らなければいけないのに、悠長にしてはいられない。

 サチは何か思い出そうと黙り込んでいた。

 やがて、やっとかと思うほど時間がかかってから、口を開いた。

「……空が」

「空?」

「異世界にいた頃の、空の記憶がありません」

「空の記憶!」

 それだ!

 それが欠けてしまったものだ。空の記憶!

「分かった。俺はサチに空の記憶を何とかして渡すから。サチは戦うのに集中してくれ」

「ありがとうございます」

 そう言うと、サチは兵士に向かって体を向けた。

 兵士の中でも中列辺りにいた連中が、背中に影の翼を生やして空中に飛び上がった。

 それをきっかけにして、最前列の兵士が弓矢を構える。

 サチもとんと一歩踏み出すと、勢いをつけて体を回した。するとサチの体の周辺に、氷の矢が大量に形成された。サチが片手を振る。その矢が兵士が放った矢を全て打ち落とす。

 サチは次に両手を前方に向けて払った。閃光が幾筋も走り、空中に飛び立った兵士達を貫く。閃光に貫かれた兵士達は、黒い霧になって消えた。

 そうしてサチが戦っている間、俺はサチのいた世界にどんな空があったのか、自分の想像力を総動員して思い描いた。

 サチのいた世界。

 それは一体どんな世界だったのだろう。

 そしてその世界の空とは、一体どんなものだったのだろう。

 出会ったとき、サチは俺に訊いた。この国に内戦はあるのかと。戦争をしているのかと。平和なのかと。そんな質問が出たということはつまり、サチのいた異世界は、そういう争いの起こっている世界だったのだろうか。

 こんなことは推測だ。詳しいことは何も分からない。

 俺はサチから詳しい話を何も聞いていない。どうしてサチがその世界で死ななければならなくなってしまったのか、いわばサチに対する作者の気持ちも、聞いていない。サチに訊いても、どうして自分が死ななくてはならなくなったのかは、多分分からないだろう。サチが死ななければならなくなった理由は、サチを作り出した作者本人にしか分からないはずだ。

 俺には分からなかった。サチは、死ななければならなくなるような存在なのだろうか?

 こんなに可愛くて、強くて、個性的で、魅力があるのに。

 理由は全然分からない。

 サチのいた世界とは相容れなくなってしまったのか。それともサチに代わるキャラクターを思いついたのか。サチの死によって物語を発展させるためなのか。……分からない。分からないけど、サチがこの世界に逃げてこなくてはいけなくなるくらい、サチを作った人間はサチのことを殺そうと決めていたのだ。

 だけどサチは来てくれた。

 退屈していた俺の所に。

 だから俺は、どうしてもサチを助けたい。

 サチの空の記憶を、俺の想像で補ってやりたい。

 サチの空。

 空。

 争いが起こっていたのだろうか、サチのいた世界では?

 でもそんなのは悲しすぎた。

 そんな空の記憶は、俺はサチには渡したくなかった。

 俺は想像する。

 サチの見ていた空を。俺がサチに見せたい空を。

 それはきっと、青く澄んで、綺麗なんだ。

 穏やかで、綺麗で、ずっと見つめていたくなるようなそんな空なんだ。

 サチが兵士達に向けて両手を構える。そして振り上げる。地面から発生した炎の柱が、大勢の兵士を巻き込んで燃え上がった。

 夕焼けはきっと赤く燃えるようで、サチの薄麦色の髪の毛は、きっとその光を受けて赤く染まるんだろう。

 俺たちがそうしているうちにも、空からは闇が滴り落ちてきていて、地面に暗い闇を作っている。

 夜空は……そうだな、きっと星空がすごいに違いない。沢山の星が暗い天井を覆うように輝いて、きらきらと瞬いているのだ。その中に大きな月が明るく輝いているだろう。

 そうして朝になって、薄青い光が空気を満たし始める。夜が明けると、太陽がまた顔を出して、鳥が鳴き始める。

 そんな空には、他に何があるだろう。

 魔法のある世界なのだ。とびきり不思議な光景にしたい。

 きっと、空には島が浮かんでいるだろう。それも街の作られた島だ。その島には、たくさんの人が魔法を使って生活しているに違いない。

 俺がめいっぱい考えて想像したのは、ありきたりなファンタジーの世界の空だった。でも現実には存在しない空だ。

 それが、失われる前のサチの記憶と同じものであるかは分からない。きっと違うものなんだろうとも思う。

 でも、俺はそんな空を想像した。

 島の浮く空。綺麗な空。人の住む空。赤い夕焼け。満天の星空。星の中に、空の島からの街明かりが混じる。そんな空。

 ……サチ。

 サチはまだ戦っていた。でもだいぶ兵士の数は減っている。

 サチは水の銃弾を残っている兵士に叩き込むと、こちらに駆け戻ってきた。

「そろそろタリスマンに吸収します」

「分かった!」

「羊太郎」

「なに?」

「羊太郎が考えた空を、私にください」

「もちろん!」

 頷いて、そんな場合でもないのに俺は少し照れくさくなった。

「……気に入ってくれると、いいけどな」

「よろしくお願いします」

「よし!」

 サチに向かって、世界が歪む。

「羊太郎、タリスマンを」

「握ればいいのか?」

「そうしてください」

 俺はサチに手を伸ばして、タリスマンを握った。サチの細い首が、すぐ近くにある。

 世界は俺が握っているタリスマンに向かって、急激に吸い込まれていった。その歪んだ世界の端から、学校の風景が見えてくる。

 ――頼む!

 俺の空、サチに届いてくれ!

 サチを助けてくれ!

 サチに消えてほしくない。

 俺を救ってくれたサチに、消えてほしくない!

 世界はタリスマンに吸収されていき、学校の風景が戻ってくる。

 そしてすぐに、それは終わった。

 しん、とする。

 何も見えない。

 俺はいつの間にかぎゅっと目を閉じてしまっていたのだ。

 俺はそっと目を開けた。

 目の前には、サチ。

 俺の手の中にはタリスマンの確かな感触。

 俺はおそるおそる、タリスマンから手を放した。

 タリスマンは淡く輝いていた。淡く、月色に。

 その中には黒い影はない。歪んだりもしない。

 それでも俺は慎重にタリスマンを見つめた。

 でもいくら見つめていても、タリスマンが黒くなったり、歪んだりはしなかった。

 影がない。

 歪みもない。

 ……助かった。

 助かったんだ!

「サチ……!」

 俺は感激のあまり、思わずサチに抱きついた。

 助かった!

 サチは消えなかったんだ!

 サチは暫く何も言わなかった。そして二人で一瞬沈黙して、俺はサチに抱きついているのに今更気がついた。慌てて離れる。

「あ、あああの、その、ごめん」

「何がですか?」

 サチは全く気にしなかったらしく、きょろんとした目で俺を見つめ返してきた。その全く気にされなかったということに少しがっかりしたのはなぜだろう……。

 サチはそのまま俺のことを見つめていたが、やがて口を開いた。

「羊太郎」

「あ、ああ、なに?」

 サチは少しうつむいて沈黙してから、改めて俺を見た。

「……素敵な空を、ありがとう」

 ……届いた。

 サチの記憶に、俺の空が。

「サチ、もう、消えないよな?」

「はい。もう大丈夫です」

 サチははっきりと頷いた。

「よかった! 本当に! よかった!」

「ありがとう、羊太郎」

「じゃあ、サチ、教室に戻ろう。箒木も待ってるし、授業も受けなくちゃな」

「はい」

 俺は教室の方を見た。

 開けっ放しになっていたドアからは、クラスメイト達の姿が見える。その中には箒木の姿も。

 箒木は俺と目が合って、嬉しそうに微笑んだ。

 俺はそれに手を振って応えた。

「じゃ、戻るか」

「はい」

 俺たちが教室に戻ると、先生は目を丸くして席に着く俺たちを見ていた。

「随分早かったですね。何をしていたんですか?」

「いや、その、何か廊下に落としてきちゃったものがあったみたいで、それを拾いに」

 サチが自分で言い訳をするわけがなかったので、俺がしどろもどろと説明した。

 でも俺の怪しい説明でも先生は納得したようだった。なるほど、と言うように頷いて、授業に戻った。

 随分早かった、と先生は言った。

 そう言ったということは、つまり、世界の歪みと現実世界とは時間の流れ方が違うか、別々の時間が流れているのだろう。新しい発見だ。

「篠目さん……!」

 先生がホワイトボードに向かっている隙に、箒木はサチの首に腕を回した。

「よかった……!」

「ご心配をおかけしました」

「……ううん」

 首を振って、サチを放す。

「ふたりとも、無事でよかった……」

 そう言う箒木の顔は、本当に綺麗だった。相変わらず眼帯を付け絆創膏を貼っていたけれど、それでも綺麗な顔だった。

 先生がくるりと体を回してこちらを向く前に、箒木は前を向いた。でもちらりとこちらを向いて、もう一度嬉しそうに微笑んだ。

 授業をする先生の声。

 俺の隣にはサチの姿。

 日常の中にいる、異世界からやってきた女の子。

 その子が消えずに、俺の隣に今もいる。

 その奇跡を、俺はかみしめていた。

 俺は授業中、こっそり佳那汰さんにメールを打った。

『無事に終わったよ』

 返事はすぐに来た。

『おめでとう。本当によかった』

 佳那汰さんも授業中だろうに、こんなに早く返事をくれるなんて。俺に焦るなと言いながら、やっぱり相当に気にしていたのだろう。

 放課後になったら、佳那汰さんと会おう。俺はそう思った。



 放課後。

 俺たちは、入学式の日に佳那汰さんと待ち合わせたロビーに行った。もちろん俺とサチと箒木、三人でだ。

 ロビーのテーブルには既に佳那汰さんがいた。

 佳那汰さんは俺たちの姿を見て、すぐに手を振った。

 俺も手を振って、佳那汰さんに駆け寄る。

「佳那汰さん!」

 佳那汰さんは椅子から立ち上がると、歩み寄ってきたサチの頭をぽんぽんとなでた。

「よかった。本当によかったわ」

「羊太郎に助けられました」

「よくやったわね、羊太郎」

 俺は思わず後頭部をかいた。自分がやったことが誇らしいような気もしたし、ほめられて気恥ずかしいような気もした。

 俺がそうするのを見て、佳那汰さんはおかしそうにクスクス笑った。

「二人が頑張ってサチが助かったんだから、何かお祝いしないとね」

「本当っ?」

「本当よ。みんなでお祝いしましょ」

「じゃあ、俺佳那汰さんの家に行きたいんだけど」

「何よ、またあたしの家なの?」

「ピザが食べたいんだよ」

「あんたピザ好きねえ……」

 みんなでお祝いするという話になったので、箒木がもじもじした。

「……わたし、なにもしてないよ……?」

「あら、いいじゃないの。一緒に来なさいよ」

「……でも……」

「いいよ、行こうよ箒木」

「そうよ。遠慮するもんじゃないわよ」

 サチもきょろんとした目で箒木を見る。

「来栖」

「……なあに?」

「来栖も来てください」

 サチに言われて、箒木は少し照れたように微笑んだ。

「……うん。ありがとう」

「じゃ、今日はお祝いね! あたしが奢ってあげるわよ」

 佳那汰さんは入学式のあった日にそうしたように、ぱんと両手を合わせてそう言った。

 俺はみんなの顔を順に見回す。

 魔法使いの篠目サチ。

 少女兵器の箒木来栖。

 超能力者の久坂佳那汰。

 言葉に出来ない幸福感が俺を満たしていた。

 サチたちが存在してくれている、そのあふれるような幸福感。

 そうだ、サチたちを想像してくれた人達のおかげで、俺の心は救われた。その人達に、俺は心からこの幸福感を伝えたかった。その人達の想像力が、俺にこんな気持ちをもたらしてくれたのだから。サチたちを作ってくれて、本当に嬉しい。たとえサチたちを殺すと決めたとしても、その事実がどんなに悲しいものでも、サチたちはこうして俺のところに来てくれたのだ。

 こんなめちゃくちゃなメンバーで、これから一体どんな学校生活が待っているのだろうか。俺は人間の想像力が生き生きと息づくこの世界の中で、これからの未来というものに、どきどきしながら思いをはせていた。

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異世界出身の彼女の事情 兎丸エコウ @tademaru_echow

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