第3話傷の理由

 翌日。

 俺はスマホのアラームで目を覚ました。

 ぼんやりとした頭で起き上がり、テーブルの方を見る。

 そこには、サチはいなかった。

 そのことが、何だかものすごくさびしい。

 サチは本当に、隣の部屋に行ってしまったのだ。

 サチもサチなりに、俺にこれ以上の迷惑をかけないようにと気を遣ったのかも知れない。本当に無表情だし、サチ語だし、その実際の本心はうかがい知れないけれども。

 サチのいない朝。

 ……もしかして、昨日までサチがいたのはやっぱり俺の妄想か夢か何かで、サチは本当は存在しないんじゃないだろうか……。

 そんなえもいわれぬ不安が俺の中にわき上がってくる。

 そうして不安になると、急にサチのいない家の中がさびしいものに思えて、何だか耐えられないような気がした。

 どうしてだろう。ほんの数日しか、一緒に過ごしてはいないのに。

 俺は顔を洗って着替えると、朝食を取った。昨日まではサチにも用意してあげていたものだ。

 サチは今どうしているだろう。サチのことだから目を覚ましていて、とっくに制服姿だろうけど。

 ……いや、そのサチの姿さえ、俺の夢だったかも知れないのだ。

 俺は無性にさびしくなり、これ以上一人で家にいられなくなった。だからいつもより早く家を出ることにした。誰かの姿を見れば気も紛れるだろうし、何より、サチの顔も見られるかも知れない。……俺の夢じゃなければ。

 俺はサチが夢だったんじゃないかという不安に胸をざわつかせながら、家の玄関を開けた。

 すると、隣の部屋の玄関も静かに開いた。

 303号室だ。

 俺は思わずそちらの方を見た。出てきたのがサチではなく、見たこともないサラリーマンとかだったらどうしようと思いながら。

 しかし俺の不安はすぐに払拭された。

 隣から出てきたのは、黒いセーラー服姿のサチだった。通学鞄も持っているし、細い首にタリスマンもかけている。

 サチは俺の方を向くと、いつものきょろんとした目で俺を見た。

「おはようございます」

「……あ、ああ、おはよう……」

 サチが現実だったという安堵で、俺は思わずしゅううとした声を出してしまった。

「どうかしましたか」

 その俺の様子を敏感に感じ取って、サチはそう訊いてきた。

「いいや、何でも」

「そうですか」

「じゃ、行くか」

「はい」

 そうして、俺たちは階段を下りて通学路を歩き始めた。

「……いや、実はさ」

「はい」

「朝起きても今までみたいにサチが家の中にいないからさ、サチが実は俺の夢か妄想か何かで、本当は実在しなかったらな……嫌だな……とか、思っちゃってさ」

「なぜそんなことを思ったのですか?」

「だって、姿が見えないとそれだけで不安になっちゃってさ」

「そういうものですか」

「そういうもんなの」

 だって、魔法で異世界から現れるとか現実的に考えたらあり得ないことだぞ。夢か妄想でしたと言われても納得するしかないくらいだ。

「ですが、そのように思われると困ります」

「困るって? 何で?」

「私の存在を疑われると、非常に困ります」

「何が困るんだ?」

 俺がサチの実在の真偽を不安に思ったところで、サチに影響があるようには思えないが。

「存在が消えてしまうんじゃないかと思って、非常に不安になります」

「おいおい」

 何だか随分可愛いことを言うなという気がした。俺は微笑ましくなって思わず笑った。

「大丈夫だよ」

「私にとっては大事なことです」

「何だか深刻だな」

「羊太郎」

「なに?」

 サチはじっと俺を見た。

「私の存在を疑わないでくれますか?」

 その言い方はすごく真剣だった。

 俺はその真剣さに、一瞬言葉を失ってしまった。

 何だろう?

 俺が存在を疑ったくらいで、サチの存在が消えてしまうとか、サチは本気でそう思っているのだろうか?

 サチが本気でそう思っていたとしても、そんなこと、あるわけがないと思うけど……。

 でもサチは人造人間だし、その体がどうやって出来ているのか俺は知らない。だから、俺の気持ち次第でどうにかなってしまうような、そんな脆いものであるかも知れない。

 俺は俺なりにそうまじめに考えた後、サチに向かって頷いた。

「分かった」

 俺がそう言うと、サチは少しほっとしたようだった。ほう、と小さな吐息がその口から漏れる。

「ありがとうございます」

「疑ったりしないよ。たださ」

 ただ、サチの姿が見えなくてさびしかっただけだから。

 思わず本心を言おうとしてしまったが、俺は慌てて踏みとどまった。

 それを言うのは、いくら何でも恥ずかしすぎる!

「ただ、何ですか?」

「いいい、いや、何でもない」

「私に関係のあることですか?」

「いやいやいや、大丈夫、俺個人のことだから」

「そうですか」

 そう言って、サチはあっさりと引き下がってくれた。

 危なかった……。

「ところで、昨日はあれからどう過ごしてたんだ?」

「あれからとは?」

「部屋の前で別れた後。一人で何してたんだ?」

「そうですね」

 そう言った瞬間、サチのタリスマンが、一瞬だけ黒く歪んだ。

 ん? 気のせいか?

 一瞬だったので、はっきり見えなかった。光の加減か何かでそう見えただけかも知れない。

「世界の歪みが発生したので、対処していました」

「えええっ!」

 サチがけろりと言ったことに、俺は思わず大声を上げた。

 世界の歪みがって、それ、大変じゃないか!

 隣の部屋でそんなことが起こっていたなんて全然気付かなかったぞ!

 薄い壁一枚隔てているだけなのに、何の異変も感じられないなんて……。

 いつか俺も巻き込まれた世界の歪みでは、かなり広範囲にわたって世界が歪んでいるように思えた。でも、もしかしたら、世界の歪みというのは次元のずれた発生の仕方をするのかも知れない。だったら、壁一枚しか隔てるものがなかったとしても、ごくごく近所の隣の部屋でそんなものが発生していたとしても、俺には分からないわけだ。

 俺はけろりとしているサチの横顔を覗き込む。

「だ、大丈夫だったのか?」

「はい。問題ありません」

 とサチが言った瞬間、やはりタリスマンが一瞬だけ黒く歪んだ。ように見えた。

 ……なんだ? 気のせいか?

 と思った瞬間、もう一瞬だけタリスマンが黒く歪んだ。

 や、やっぱり気のせいじゃない!

「……なあ、サチ!」

「はい」

「タリスマン、なんか変じゃないか?」

「変とは?」

「何て言うか……一瞬、黒く歪んだように見えたんだけど」

「黒く?」

 サチは白い指先で首に掛かっているタリスマンを触って、探るようにした。タリスマンを通しているひもが短いので、持ち上げて目の前に持っていくということができないためだ。これくらいひもが短いと、ネックレスと言うよりチョーカーと言った方が正確かも知れない。そんなことを今更に思う。

 サチは数秒タリスマンを触ると、すっと指先を放した。

「特に変な感じはしません。大丈夫だと思います」

「本当に大丈夫なのか? 昨日の世界の歪みも、そのタリスマンに吸収させたんだろ?」

「はい」

「そのせいじゃないか? 黒く歪むの」

「そうですね」

 そうですねって……。

 他人事っぽく言わないでほしい。

 あ、考えるのにワンクッション入れるためのつぶやきだったのかも知れない。

 そう思って、俺はサチの次の言葉を待った。

 が、サチはいつまで経っても何も言わない。

 無言で並んで歩くこと、約十歩。

 俺はついにしびれを切らした。

「おいっ」

「はい」

「いや、はいじゃなくて」

 タリスマンに異常が起こっているっぽいのに、サチは何も気にならないのだろうか? 俺は気になって仕方がないのに。

「世界の歪みなんかを吸収するから、タリスマンに悪い影響が出てるんじゃないのか?」

「悪い影響とは?」

「いや、俺には分からないけどさ……」

 俺に訊かないでほしい。だってそれはサチの持ち物じゃないか。

「でも、黒く歪んでるのは間違いないぞ。サチは肌身離さないからそんなの見えないかも知れないけど、絶対何かおかしいって」

「黒く歪む、ですか」

「これ以上歪みを吸収させていったら、まずいんじゃないのか?」

「ですが他に対処のしようがありません」

 うーん。

 そう言われると、俺も弱い。

 俺にだってどうしたらいいのか分からない。正直、サチ以上に分からないのだ。

 サチから発生してしまう、世界の歪み。サチがこの世界に見せている悪夢。サチによると、サチ自身がこの世界にとって夢のようなものなのだという。サチ語である以上どこまで正確な説明になっているのか分からないが、サチが異世界から来たことは確かだ。だから、この世界にとってサチが想定外の存在であることは間違いない。

 その想定外の存在によって、世界に無理が生じて歪みが発生している……ということだとするなら、何となく納得できるような気もするのだが。無理が生じているというか、何だかうまい表現が思いつかないが。

 とにかく、サチによると世界の歪みは世界に見せている悪夢なのだ。その悪夢を、タリスマンに吸収させ続けることがいいことであるはずがないと思う。タリスマンの正体は、俺にはよく分からないけど。

 サチ語による説明では、タリスマンはサチのかけらであるらしい。サチのかけら……。つまり、サチの一部、言ってみればサチ自身とも言えるのではないだろうか。

 そのサチ自身に、悪夢を吸収させ続ける。

 ……いいことになるわけがない!

 それはタリスマンも黒く歪みもするだろう。いや、一体どんな理由で歪んでいるのか正確には分からないけれども、でも、歪みの吸収が全くの無関係だとも思えない。

 これは早急に、タリスマンに頼る以外の方法を見つける必要がある。

「なあ、サチ」

「はい」

「タリスマンに吸収させるには、吸収できるサイズまで世界の歪みを削らなくちゃいけないんだよな?」

「どの程度のサイズなら吸収しきれるのか分からないので削っているだけですが、そうです」

「それ、吸収できるサイズまで削るんじゃなくて、歪みそのものがなくなるまで削り続けるっていうことは、出来ないのか? そうすればタリスマンに吸収させなくて済むぞ」

「それが出来ればそうしたいのですが、おそらく途中で魔力が尽きてしまいます」

「ああ、そっか……」

 戦い続けるのには限界がある、ということか。それでは俺の案は使えない。

 魔力が尽きるとどうなるのか分からないが、魔法が一切使えない状態になるのは間違いない。そうすると、サチはただの女の子と同じになってしまうということか。

 とすると、魔力が尽きるくらいだったら、タリスマンに吸収させる方を選んだ方が、確かに賢明かも知れない。

 でも、それをし続ければタリスマンの黒い歪みも酷くなるかも分からない。

 本当に、一体どうしたらいいんだか……。

 そうこうしているうちに学校に着いてしまった。ああ、良い案なんてそうそう浮かんでこないものだな。

 教室に入ると、既に箒木が席に着いていた。

 俺たちはいつものように、箒木の後ろの席に隣り合って座る。

 俺たちが座ったのに気付いて、箒木が振り返った。ほんのりと微笑む。

「……おはよう」

「おはよう」

「おはようございます」

 今日は箒木は右目に眼帯をしていた。左目の下には、泣きぼくろ。

 あれ?

 箒木は右目の下にも泣きぼくろがあったような。今は眼帯に隠れて見えないが、確かそうだったはず。

 と言うことは、箒木は両目の下に泣きぼくろがあるのか。完璧なシンメトリーだ。

 箒木が眼帯を外すことは滅多にないので、両方の泣きぼくろを同時に見る機会なんてほとんどないだろうけど。

 更に今日の箒木は、鼻には絆創膏、左頬にガーゼが貼ってあった。今日はやたらと顔の怪我が多いようだ。

「大丈夫か? 箒木」

「え……? どうして?」

「だって、顔怪我だらけだから。昨日何かあったのか?」

「……ううん。いつも通りだったよ」

 いつも通りだったと言われても。俺は箒木の「いつも」を知らないので、そう言われたところでどう安心していいのか分からない。

 よく見てみると、両方の手の甲にも包帯が巻いてある。俺の位置からでは脚は見えないが、この分だと脚にもかなり包帯が巻いてあるのではないだろうか。

 これだけ怪我だらけで、いつも通り……?

 箒木の「いつも」というのは、一体どんな「いつも」なんだ。

 不思議がっていると担任がやってきて、いつもの点呼が始まった。

 その日は至って平穏で、昨日までと同じように時間が過ぎた。

 事件が起こったのは、放課後になってから。箒木が図書室に行くと言うので、みんなで図書室に行ってからだった。



 帰りのホームルームが終わり、放課になった教室内。

 かなりざわついていて、賑やかだ。部活に行く人間は部活に行き、何にも所属していない人間はまっすぐ帰路についたり遊びに行ったりする。

 ちなみに俺は部活にも委員会にも所属していない。サチもそうだし、箒木もそうだ。確か佳那汰さんも何のサークルにも入っていなかったはず。俺の周りには課外活動に精を出すという人間がいないのだなあ、と何となく思う。

 鞄を持って、前の席に座っていた箒木が立ち上がる。

「……わたし、図書室に行くね。じゃあ、また明日ね」

「待ってください」

 箒木を引き留めたのはサチだった。

「私も行きます。一緒に行ってもいいですか」

 サチがそう言うと、箒木は嬉しそうに微笑んだ。その顔は朝から変わらず、眼帯やら絆創膏やらガーゼやらで大変なことになっている。

「……うん。いいよ」

「ありがとうございます」

 サチはきょろんとした目で俺を見る。

「羊太郎も一緒にどうですか」

「え? 俺?」

 俺は正直、図書室には用はない。元々ゲームや漫画やアニメが好きなので、文字しかないようなものとは縁が薄いのだ。

 でもまあ、サチが箒木に変なことを言わないかどうかはすこぶる気になるところだし、それに、世界の歪みのこともある。タリスマンの黒い歪みも気になるし、出来ればサチと一緒にいたいという気持ちはあった。

「そうだな。俺も行こうかな」

「……じゃあ、みんなで行こう?」

 俺も行くことになって、箒木はどこか嬉しそうだった。綺麗な顔で微笑むので、つい見惚れてしまいそうになる。

 本当に、綺麗な顔なんだよなあ。その綺麗な顔に怪我ばかりしているのが、何だかすごくもったいない。

 俺たちは連れだって十四階の図書室へ向かった。図書室には、利用者は俺たち以外にいないようだった。

 俺たちは広々と……と言うよりは閑散とした図書室のテーブルに、それぞれの荷物を置いた。

 本当に人がいない。実に静かだ。

 図書室は佳那汰さんもよく利用しているが、今はその姿は見えなかった。今日は帰ってしまったのだろうか。そう言えば昼休みにも学食では見かけなかった。思い返せば今日は一度も佳那汰さんの姿を見ていない気がする。まあ、そんな日もあるか。

「……わたし、本返してくるね」

 そう言うと自分の鞄から本を取り出して、箒木はカウンターへと歩いて行った。

 その間に、サチは立ち並んだ書架の向こうに消えてしまう。

 俺は特に本に用はなかったので、箒木かサチのどちらかを追うか、テーブルで二人を待つか、いずれかしかない。

 それで迷って、結局サチの後を追うことにした。

 図書室は広い。でも静かなので、どこかに人がいれば衣擦れの音や本を出し入れする音が聞こえてくる。俺はその音を頼りにサチを捜した。

 サチは随分遠くの方にある書架の陰にいた。位置的には図書室の最奥だ。そこで、本を手にとっては開き、と思ったらしまい、他の本を手に取り、ということを繰り返していた。

「何の本探してるんだ?」

 近付いて、声をかける。

「本を探しているのではありません」

「じゃあ何してるんだよ」

「来栖を待っています」

 だったら、テーブルにいればいいのに。

「なんでテーブルで待たないんだ?」

「来栖は以前この棚から本を借りていきました。またここの棚の本を借りるはずです。ここで待っていれば来てくれます」

「いや、そうとは限らないだろ」

「来栖は図書室の本を端から順に読んでいると言っていましたから。きっとここに来ると思います」

 なるほど。……なぜテーブルで待たないのかという問いへの回答には全然なっていないが、とりあえずここにいる理由は分かった。

 しかし、端から読んでいるとは。在学中に図書室の本を全て読破する目標でも立てているのだろうか。

 その棚に並んでいる本を見てみると、随分と古い小説ばかりが並んでいるようだった。純文学だろう。ますます、俺には縁がない。

「なんで箒木を待ってるんだ?」

「世界の歪みのことです」

「え」

「そのことを相談したいと思いました」

 ……箒木にそんなことを相談してどうする。

「サチ……。まだ箒木が異世界人だと思ってるのか?」

「はい」

「あのなあ……」

「羊太郎は、世界の歪みをタリスマンに吸収させ続けるのは、よくないことだと考えているのでしょう」

「まあ、そうだけど」

「私も他の方法があるのなら興味があります。来栖なら何か他の方法を持っているかも知れません」

「そんなわけないだろ……。箒木はこの世界の人間だぞ?」

 どこまで固く信じているんだ。

 そんな話をしながらサチと二人で本を眺めていたら、すぐに箒木がやってきた。

 サチの言ったとおりだ。まっすぐにこの棚の方に来たということは、本当に端から本を読んでいるのだろう。

「……ふたりとも、ここにいたの」

「はい」

「テーブルに誰もいないから、どこに行ったのかと思っちゃった……」

 俺たちの姿を見つけて、箒木はほっとしたようだった。そんなことを言った。

 本を返してきて箒木は手ぶらだった。俺たちのいる棚に視線を滑らせて、次に読む本を探している。俺は邪魔にならないようにどいたが、サチはそこに立ったまま、じっと箒木を見つめている。

 ……まさか、本当に箒木に世界の歪みのことを訊くんじゃないだろうな。

「来栖」

「……なあに?」

 本に手を伸ばしかけていたのをやめて、箒木はサチを見る。

「来栖は世界の歪みにはどう対処していますか?」

 やっぱりか!

 だから、訊くなよ、そんなことを!

 その質問に箒木はきょとんとしたようだった。目を瞬かせて、サチを見る。

「サチっ」

「羊太郎も、タリスマンに吸収させる以外の方法を知りたいのでしょう」

 そうだけど、今はやめろよその話!

 箒木はまたもぱちぱちと瞬きをして、首を傾げた。

「……何の話……?」

 そりゃあ、箒木には何も分からないだろう。

 俺は慌てて首と手をぶんぶん振った。

「いや、何でもないんだよ、何でも」

「……世界の歪みって、なあに?」

「いやほんと、何でもないんだよ」

「来栖はこの世界の人間ではないのでしょう。必ず世界の歪みが発生しているはずです。それにはどう対処しているのですか?」

「サチーっ!」

 俺は思わずサチの両肩を掴んで箒木から遠ざけた。こそこそした声で、必死に訴える。

「サチ、だから、箒木は本当に異世界人じゃないんだって! 箒木にそんな話したって通じるわけないって!」

「いいえ、来栖はあちらの世界の人間です。間違いありません」

「目を覚ましてくれー! 頼むからー!」

「……どうしたの? ふたりとも」

 俺たちの様子がおかしいので、箒木は反対側に首を傾げて不思議そうにした。

 俺はばっと振り返って手を振る。

「いや、ごめん、本当に何でもないんだ!」

「……ほんとうにどうしたの? 世界の歪みが何とかって……」

「何でもないんだよ、サチってすんごく変わってるって言うか、時々変なこと言うんだ!」

「……うーん……世界の歪み……?」

 箒木は明後日の方向を見て考え込む。

 忘れてくれ、頼むから。箒木には関係のない話なんだ、本当に。

 箒木は暫く考え込むと、ああ……、と呟いてほんのりと微笑んだ。何の微笑みだ?

 このとき俺はまだ気付いていなかった。だって立ち並ぶ書架に遮られて、カウンターも何も見えない状態だったからだ。

 そう、このとき、既に俺たちの周りから人が消えていたのだ。

 世界の歪みの前兆。

 その前兆が起こっている中、箒木は綺麗な顔で微笑んでいた。

「……わかった」

 な、何が分かった?

「スクランブルのことなの……」

 え?

 俺が何か理解する間もなく、箒木がそう言ったその瞬間だった。

 箒木の足下が歪んで、その歪みが図書室をなめるように広がったのだ。

 図書室の天井と壁は消え、灰色の荒涼とした大地が広がっていた。その中を、歪んだ書架と本が漂っている。空に雲はない。抜けるような爽やかな青空が、どこまでもどこまでも続いている。

「こ……これは……!」

 俺は驚愕のあまり声を漏らした。

 世界の歪み……!

 どこから発生した?

 箒木の……、

 足下、から……。

 箒木から発生した?

 世界の歪みが?

 つまり、と言うことはつまり、箒木は……。

「……わたしと呼び方が違うから、わからなかった。これのことでしょ……?」

 箒木は歪みの世界の中で微笑んでいる。

 その箒木の後ろの方から、何かぶうぅーんという音が聞こえてきた。

 空の向こうからだ。

 俺は音のする方を見た。

 何か飛んでくる。

 それは飛行機に似た何かだった。

 翼があり、胴がある。ただし窓はなく、人が乗っているようには見えない。その飛行機のようなものには、長い銃身を持つ機関銃のようなものがついていた。

 それは明らかに戦闘機だった。戦闘機は十数機ある。

 その戦闘機の真下に、巨大なものが浮遊していた。人型の巨大な何か。機械で出来ているようにも見えるし、もっと有機的なもので出来ているようにも見える。あれは何だ?!

 その人型の巨大なものが、口らしきものを開けて大きなうなり声を上げた。オオォーン……という声が、こちらまで響いてくる。

「……ごめんね。巻き込んじゃった」

 そう言う箒木の微笑みはどこか申し訳なさそうだった。

「いや、その、箒木、これは……」

「……これは、わたしのスクランブル。篠目さんの言い方だと、世界の歪み」

「スクラン、ブル……」

「だいじょうぶ。そこにいて。……わたしが戦うから」

「戦うって!」

 どうやって?!

 こうして会話している間にも、戦闘機と人型はこちらに向かってくる。

「だいじょうぶ。慣れてるから……」

 そう言うと、箒木はくるりと人型の方へ体を向けた。

 箒木の背中に光の波が走る。その後には機械で出来た翼があった。箒木の細い背中に対してあまりにも大きく見える。次いで光の波が走ったのは箒木の両脚。細い腿にも、機械で出来た小さな翼が現れる。

 ……魔法じゃない。サチとは違う力だ。

 機械の翼を纏った箒木が、こちらへ振り返る。その綺麗な顔は微笑んでいた。

「……だいじょうぶ。守るからね」

 言うと、箒木はとんと地面を蹴った。そのまま、ふわりと飛び立つ。

 と、飛んだ!

 翼からは青白い粒子が噴射されている。箒木はその推進力で人型と同じ高さまで飛ぶと、セーラー服に片手を入れた。そこから、箒木の身長ほどはあろうかという巨大な銃を取り出した。箒木はその銃を構え、戦闘機に向けて発砲する。撃ち出した一発が正確に一機の戦闘機に命中した。それに反応して、戦闘機が左右に展開する。すると、箒木の背中の翼から、小さなミサイル六発が撃ち出された。そのミサイルは戦闘機を追跡し、三機を墜とす。

 破壊された戦闘機が落下していく間に、残された戦闘機も機関銃から次々に掃射を開始する。箒木はそれを飛翔しながらうまく回避していく。回避しながら、背中の翼から再びミサイルを発射する。戦闘機に対してはそれで対処し、箒木は人型に向けて銃を構えた。発砲。それは見事に人型の額に命中した。

 人型はそれまで静かにしていたが、それをきっかけに大声を上げながら腕を振り上げた。そして腕を地面に振り下ろす。衝撃を受けた地面は揺れ、俺たちの方にまでその振動が伝わってきた。人型に殴られた地面にはぼわんと黒い影が広がり、その影が箒木に向かって鋭く突出した。その先端が箒木に届く、と思った瞬間、箒木の前方に青い光のシールドのようなものが現れて影の先端を遮った。

 影の先端が地面に戻っていくと、それを見送ることもなく、箒木の両の二の腕に光の波が走った。そこに現れたのは小ぶりの銃が一挺ずつ。その銃口から、大量の銃弾が射出されていく。その銃弾がほとんど人型に着弾。人型は苦しそうにうめき、箒木を掴もうと両手を伸ばした。

 箒木はそれを回避すると、持っている巨大な銃を再度人型に向けて構えた。その銃口に青い光が集まっていく。何かをチャージしているようにも見える。銃口に光が集まる毎に、銃身も青白く輝く。その輝きがまばゆいまでになると、箒木はトリガーを引いた。

 射出されたのは銃弾ではなかった。青白い光の槍が、銃口から伸びる。そのエネルギーの塊のようなものが人型の額に入り、背中を通り、地面まで貫いた。

 光に貫かれた人型は低く叫び声を上げると、開いた穴からぐずぐずと崩れていった。人型が崩れ始めると、箒木は残った戦闘機にも丁寧に一発ずつ銃弾を撃ち込んでいく。

 しかし、遠くの方からまだ戦闘機が湧いてきていた。これではきりがない。箒木はその湧いてきている戦闘機には見向きもせず、崩れゆく人型に向かってもう一度銃口を向けた。背中からもミサイルを発射し、二挺の銃からも銃弾を発射しつつ、巨大な銃を構える。再度、銃口に光を集める。もう一度人型を貫くと、人型はぱあんと弾けた。

 それを見届けると、箒木はこちらに戻ってきた。地面に降り立つと、箒木に向かって世界が歪む。箒木に向かってと言うより、箒木の背中の翼に向かってだ。

 歪みは機械の翼に吸い込まれていく。その歪みの端から、元の図書室の姿が現れ始めた。

 歪みが全て翼に吸収されてしまうと、箒木の体に光の波が走った。その後には、翼も銃も消えていた。

 あとには、静寂の図書室に、俺たち三人が立っているだけ。

 俺は呆然と箒木を見つめた。

「……箒木、いったい、……」

 箒木に対して何を訊きたいのか、自分でも分からない。

 すると、箒木は俺が何か言葉を探しているのを察したのか、儚げに微笑んでちょっと顔を傾けた。

「……篠目さんは、わたしはこの世界の人間じゃないって、言ったよね」

「……サチはそう言ったけど、でも……」

「……うん。そう。わたしは、この世界の人間じゃない」

 そう言う箒木の顔は怪我だらけだ。首にも、手の甲にも、脚にも、包帯を巻いている。まるで戦場で出来た傷であるかのように、今は見える。

「……わたしは、少女兵器なの」

「……少女、兵器……?」

「あの大きな人型の化け物。あれと戦うために作られた、少女兵器。……でもわたしは、その世界での自分の運命を知ってしまった……。だから、この世界に逃げてきたの。自分の存在が、消えてしまう前に」

 存在が、消える……?

 その世界での自分の運命って、何だ?

 少女兵器、箒木来栖。

 魔法使い、篠目サチ。

 この世界の人間じゃない。

 サチはこの世界に来た理由を、闇に飲まれそうになったから、それから逃げるためだったと言った。

 箒木は、運命を知ってしまったから、存在が消えてしまう前に逃げてきたと言った。

 闇って何だ? 運命って何だ?

 そしてサチによると、二人は同じ異世界からやってきた……。

 どういうことだ?

 二人の持っている世界観は、あまりにも違うじゃないか。

 二人の言っていることは、両方とも事実なのか?

 俺の混乱は頂点に達した。

「……あら? びっくりした」

 背後から声がした。

 俺は驚いてはっと振り返る。

 そこには佳那汰さんがいた。

「か……佳那汰さん」

「何よ? 変な顔して」

 佳那汰さんは本を開いていた。それを読みながら歩いているときに、偶然俺たちを見つけたようだった。そのたまたま通りかかったのだというような日常的な雰囲気が、今の俺には不思議でならなかった。

 佳那汰さん。

 久坂佳那汰。

 サチによると、佳那汰さんもこの世界の人間ではない。

 本当に?

 それは本当にそうなのか?

 俺にはもう何が何だか分からなかった。

「佳那汰さんも……なのか?」

「あたしもって、何よ?」

 佳那汰さんは奇妙なことでも訊かれたかのような顔で、首を傾げる。

「佳那汰さんも……」

「あたしも? 何?」

「この世界の人間じゃないのか……?」

 俺はサチのようなことを訊いていた。

 この世界の人間なのか。そうじゃないのか。

 もしそうじゃないとするなら、佳那汰さんは一体どこから来たのか。

 俺は佳那汰さんのことを、昔から知っている。そう思っていた。でも今はそれすらもよく分からない。

 訊ねられると、佳那汰さんはじっと俺の顔を見た。

 そして、俺がそれ以上何も言えないのを感じて、ふふっと苦笑いした。

「……あら。どうして?」

「……サチが、言ったんだ。佳那汰さんは、この世界の人間じゃないって。……本当なのか? 佳那汰さん……」

 再度問われると、佳那汰さんは目を閉じた。そして、本も閉じる。

 何を考えている?

 何と答えが返ってくる?

 俺は佳那汰さんからの答えを待った。その時間はあまりにも長く感じられた。

 そして、佳那汰さんはゆっくりと頷いた。

「ええ。そうね」

「佳那汰さん……!」

 本当に、

 本当にそうなのか!

 本当に異世界人?

 サチの言うように?

 サチも、箒木も、佳那汰さんも、同じ世界から来た異世界人なのか?

「嘘だろ、佳那汰さん、だって佳那汰さんと俺は昔からの知り合いで……!」

「ええ。そうね」

「だったら、この世界の人間のはずだろ? だって……!」

「そうね。ごめんなさい、羊太郎」

 佳那汰さんはなぜか謝った。

「……本当に、異世界から……?」

「その異世界って言い方、サチの?」

 と言うと、佳那汰さんはくすりと笑った。

「なるほどね。間違ってないわ。言い得て妙じゃないの」

「……佳那汰さん……本当に、本当なんだ……」

「本当よ。あたしはこの世界の人間じゃない」

「じゃあ……佳那汰さんは……」

 サチは魔法使い。

 箒木は少女兵器。

 だったら、佳那汰さんは何者なんだ?

「いったい……何者……?」

「サチと来栖は、自分たちのことを何だって言ったの?」

「魔法使いと、少女兵器だって……」

「そう。やっぱり色々ね」

 おかしそうに笑うと、佳那汰さんは本から手を放した。

 本は、落ちない。

 落ちずに空中にとどまっている。

「あたしは超能力者よ」

 俺は呆然と空中の本を見つめた。

 超能力者。

 超能力者……!

 俺が呆然としている間に、佳那汰さんは再び本を手に取った。

 そして何事もなかったかのような普通の調子で、佳那汰さんは俺に笑いかけてきた。

「詳しい話は、あたしの家でしましょ。その方が人目を気にしないで色々話せるわよ。じゃ、これ借りてくるわね」

 そう言って本を振ると、佳那汰さんはカウンターの方へ消えてしまった。

 俺は何も言えないまま、その場に立ち尽くす。

 魔法使い。

 少女兵器。

 超能力者。

 全員、

 全員全く違うじゃないか。

 本当にサチの言うように、同じ異世界からやってきたのか?

 そうだとするなら、それは一体どんな世界なんだ?

 俺が何も言えないまま、俺たちは佳那汰さんの家へ向かうことになった。

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