第2話世界に見せる悪夢
「タリスマン?」
昼休み。
俺とサチは学食にいた。
話題はサチが身につけているネックレスについて。肌身離さず身につけているようなので、訊いてみたのだ。
するとサチがタリスマンだと答えたので俺もその単語を繰り返したのだが、それを聞いたサチはきょろんとした目で俺を見つめ返してきた。
「タリスマン? タリスマンと翻訳されていますか?」
「ああ、うん。タリスマンって聞こえる」
サチはあごに手を当てて考え込んだ。そうすること数秒、改めて俺を見る。
「正確にはお守り(タリスマン)ではありませんが、他に翻訳されないのであれば仕方ありません」
「じゃ、具体的にはどういうものなんだ? それ」
「これは私があちらの世界から唯一持ちだしてこられたものです。もう少し正確に翻訳されるように、言葉を選びます。少し待ってください」
言うと、サチはしばらくの間考え込んでいた。そして言葉が見つかったのか、ようやく口を開く。
「私のかけらです」
「サチのかけら?」
「はい」
「……サチのかけらって?」
何のイメージも浮かばない。
「これ以上うまく説明が出来ません。すみません」
「は、はあ……」
どうして「サチのかけら」と説明されるものが「タリスマン」と翻訳されてくるのだろう。それもよく分からない。
「まあ、とにかくよく分からないけど、とりあえず、タリスマンなんだな?」
「そうなります」
うーん。具体的に何なのか、全くイメージできない。
俺がもじもじと困っていると、後ろから声がかかった。
「あら、羊太郎」
そこにいたのは佳那汰さんだった。友達と一緒だ。
「友達?」サチを見て、俺に問う。
「あ、ああ、うん。そう」
「あら、よかったじゃない」
佳那汰さんは本当に嬉しそうに笑った。そして、サチの顔を覗き込む。サチは例のきょろんとした目で佳那汰さんを見つめ返した。
「あたし、久坂佳那汰。羊太郎の友達よ。この校舎の上の方で大学生やってるわ」
「篠目サチです」
「サチね。羊太郎のこと、よろしくね。頼りない感じするかも知れないけど、いいやつだから見捨てないであげてね」
なぜだか知らないけど酷い言いようだ。見捨てるって……。
サチはそれには無反応だった。はいとかそのくらいは返事してほしい。
でも佳那汰さんは特に何も気にならなかったようだった。
「じゃ、あたしあっちに行くわ。仲良くね」
佳那汰さんはにっこり笑って、友達と一緒に離れていってしまった。
佳那汰さんが行ってしまうと、サチはきょろんとした目で俺を見た。
「羊太郎」
「なに?」
「この世界の学校の仕組みを教えてください」
「学校の仕組み?」
「先ほど、佳那汰は大学生だと言いました。では私達は何になるのですか?」
佳那汰はって……。年上を、しかも初対面の人をいきなり呼び捨てか。
「俺たちは高校生だよ」
「高校生?」
「一般的には、まず最初は幼稚園とか保育園に行って、そのあと小学校に行くんだ」
六歳から十二歳までが小学校で、その後は三年間中学校に通い、ここまでが義務教育で、その後三年間任意で高校に行く。その後に行く大学は基本的に四年間か二年間で、この学校の大学は四年制。佳那汰さんは大学二年生で、俺たちは高校一年生だと説明した。
「なるほど。よく分かりました」
「ところで、サチって何歳なんだ?」
気になったので、訊いた。
「分かりません」
「分からない?」
「それに私は……」
「私は?」
「いえ、何でもありません」
サチは首を振った。そんな言い方をされると気になるな。
「羊太郎」
「ん?」
「どこか、本が読めるところはありませんか」
「本? 図書室があるけど」
「そこは私も利用できますか?」
「この学校の生徒なら自由に利用できるよ。何で?」
まあ、サチがこの学校の生徒かどうかは厳密には微妙なところだけれど。
「私はこの世界に来たばかりで、何も知りません。勉強する必要があります」
確かにそうか。図書室でどれくらい知識を深められるかは未知だけど、サチにとっては必要なことなのに違いない。
俺たちは食器を片付けると、早速十四階の図書室に向かった。
俺も初めて入ったが、図書室にはほとんど人がいなかった。活字離れが進んでいる世の中だと言うから、本を求める人なんてそんなにいないんだろう。
でもそんな人の少ない図書室に、一人だけ人がいた。
箒木来栖だ。
自分以外に誰もいないテーブルに座って、包帯を巻いた指で頁をめくっている。
図書室に入った瞬間から、サチは箒木来栖をじっと見ていた。
なぜ? と思ったが答えは簡単だろう。平和な国だと聞いているのに、怪我だらけの人間がいるのが奇妙なのだ。そしてその怪我をした人間に、Cクラスの人間は誰も話しかけていない。もしかしたらそれをずっと妙に思っていたかも知れない。
この世界の人間は、怪我をしている人間のことを簡単に無視する。サチにそう勘違いされては大変だ。俺はどきどきしながら、箒木来栖に近寄っていった。
「な……なあ」
話しかけられて、箒木は顔を上げた。
綺麗な顔。
その左目には眼帯。首筋にも包帯。本当に、一体どうしてこんなに怪我だらけなのだか。
「その……大丈夫か?」
問いかけられて、箒木は首を傾げた。何も言わず、俺のことを見つめ返してくる。
「あの……」
俺は早速話しかけたことを後悔していた。これから、何て言っていいのか分からない。
「だ、だからさ……その、怪我、酷いだろ。どうしたのかなと思っててさ、気になってたんだ。その……」
ぎこちなくそう言うと、箒木はぱちぱちと瞬きをした。そして、微笑んだ。
え?
わ、笑った!
「……ありがとう」
箒木の声は、鈴のようにか弱く、でも透き通ったものだった。
「……でも、大丈夫」
「何か、あったのか?」
「……ううん、何も。この怪我はね……」そう言って、自分の両手をさする。「……全部、自分のせいだから。大丈夫なの」
「大丈夫って、そんなに怪我だらけで?」
「……うん。大丈夫」
「……本当か? 何かあったら、言えよ?」
「ありがとう」
箒木はもう一度微笑んだ。俺は何だかすごく照れくさくなった。
「……あー、えっと、俺は皆戸羊太郎。こっちは、篠目サチ。俺たち、同じクラスなんだけど……」
「……うん。同じクラスなのは、知ってたよ。わたしは、箒木来栖。でも……篠目さん? 篠目さんは、何だか見覚えがないの。ごめんなさい」
それは当然だろう。今日になって急に出現したクラスメイトなんだから。
「……心配してくれて、ありがとう」
でもわたしのことは放っておいて、と言いそうな雰囲気の顔立ちなのに、箒木はそんなことは言わなかった。再度、微笑んでくる。
大人しい。確かに大人しいけれど、箒木は思ったより明るい人間なのかも知れない。……じゃあどうしてそんな明るい人間が怪我だらけなのか全然分からないけど。
「来栖」
と、箒木に呼びかけたのはサチだ。いきなり呼び捨てたのに、俺の方がぎくっとした。
「……なあに?」
しかし、箒木の方は気にならなかったようだ。
「この国の歴史が分かる本がどこにあるか、知りませんか」
「……日本史の本? それなら、こっち」
箒木は席を立つと、サチを連れてどこかの書架に歩いて行ってしまった。俺は一人、取り残された形になる。仕方がないので、箒木がいたテーブルに腰掛けて、二人が帰ってくるのを待つ。
待つことしばし。二人は何か言葉を交わし合いながら戻ってきた。さっそく打ち解けたのだろうか。早い。さすが女子同士といったところか。
「来栖、ありがとうございました」
「……いいの」
二人は隣同士に腰掛けて、仲良く一緒に本を読み始めた。ところで、サチはこの世界の文字が読めるのだろうか? ……まあ、そこはそれ、やっぱり魔法の力で翻訳して読んでいるのだろう。魔法、便利だな……。
そうこうしているうちに昼休みが終わった。俺たちは連れだって教室に戻り、そのままの流れでお互い近い席に座って仲良く授業を受けた。
そして放課後、箒木は鞄を掴むと、こちらに儚げな笑顔を向けた。
「……今日は、ありがとう。楽しかった。また明日ね」
「こちらこそ、ありがとうございました」
「またな、箒木」
「……うん」
箒木は嬉しそうに微笑むと、教室を出て行った。サチは教室を出て行く箒木の後ろ姿をずーっと目で追っていた。やはり、怪我だらけなのは相当気になるようだ。
「じゃ、俺たちも行くか」
声をかけると、サチはやっとこちらを向いた。
「はい」
学校から俺の家までは徒歩で十五分。その道のりのほとんどは住宅街の中だ。
俺たちは家に向かう道すがら、ほとんど無言だった。
異世界から来たサチと何を話していいのか、俺も全く分からなかったし、サチの方からも特に話しかけてこなかったからだ。
そのまままっすぐ自分の家へ向かっていたが、俺は何だかおかしな感覚がするのに気付いた。
……ここは本当に上野だよな?
ふと、そんな感覚に襲われる。
どうしてそう思ったのか自分でも一瞬分からなかったが、すぐに分かった。
……住宅街にひとけが、ない。
今はまだ日の沈んでいない時間帯だ。ここまでひとけがないのはおかしい。
俺は自分の家まであと五分以内という所になってようやくそのことに気付いて、思わず足を止めた。
人がいない。それどころか、音がしない。
隣を見ると、サチも立ち止まって黙り込んでいた。
何かおかしい? ……いや、でも、気のせいかな?
「すみません」
唐突に、サチはそう言った。
「え?」
「私のせいです」
「え? 何が?」
俺がそう訊いた、その時だった。
ぐにゃりと、風景が歪んだ。しかも、サチの足下を中心に、ぐわっと世界が歪曲したのだ。
歪曲した世界は、建物も、道らしい道も、何もない世界に変わり果てていた。そこにあるのはただ、ふわふわと足下のおぼつかない地面のようなものと、空中に漂う風船のような何か。その空間をおかしな色の空が覆っている。
それ以上何もない場所だと思ったが、いや、それ以外にも何かいる。しかも大量にいる。
骸骨のような顔をした、棒人間みたいな何か。まだ遠くにいるようだが、いずれも剣や弓矢で武装している。歪曲したおどろおどろしい世界では、その集団がものすごく物々しくて、異様に見える。
「な、なんだこれ?!」
俺は思わず大声を上げた。
「世界の歪みです」
「世界の歪みっ?」
「私の影響を受けて、この世界に歪みが生じたのです」
「そんな、そんなことって、」
「この歪みは私に由来しています。何とかこの歪みを削り取って、タリスマンに吸収します」
「吸収するって?! 俺はどうしたらいいんだ?」
「そこにしゃがんでいてください。大丈夫です。私が守ります」
こんな会話をしている間にも、棒人間みたいな兵士達は、距離を縮めてくる。その中の最前列の数人が、こちらに弓矢を構え、それを放った。
サチは片手を前方に振る。すると、弓矢は見えない何かに切り刻まれて地面に落ちた。
俺は思わず顔を覆っていた。でもサチは果敢にも、さらなる弓矢の猛攻を同じようにして迎撃している。
サチは片腕を前方に向けて払った。すると瞬時に形成された氷の槍が、迫り来る兵士の一人を貫いた。サチは次いで氷の槍を無数に形成すると、それを最前列の兵士達に次々に放っていった。兵士達は氷の槍に体を貫かれ、黒い煙となって消えていく。
最前列にいた弓兵が全て煙となって消えてしまうと、次の列にいた兵士が剣を構えて猛然と駆けだした。サチはその兵士達に向かって、下から上へと片手をないだ。すると地面が針のように尖り、突撃してくる兵士数人を貫く。その地面の針から逃れた兵士達は、次にサチが形成した水の弾丸の迎撃を受け、黒い煙となって消えた。
兵士は全員いなくなった、と思ったが、遠くの方にゆらゆらと新しい兵士達が立ち上がっているのが見えた。サチはそれを見ると、そちらの方にばっと両手を構えた。すると兵士達の頭上に、岩で出来た塊がいくつも現れた。その塊は充分な大きさになると、兵士達の頭上に降り注ぎ、次々に兵士達を踏みつぶしていく。
しかしそうしていても兵士達は次々に立ち上がってくる。サチは兵士達を今まで通りに攻撃しながら、今度はこの空間の空に向かって片手を振り上げた。光の槍が地面からぶわっと立ち上り、空を次々に貫いていく。穴が開く空。その空の穴からは、吸い込まれそうな闇が覗いていた。そこからぽたりぽたりと闇が滴り落ちてくる。サチはその滴り落ちてきた闇を両手で操って、ふわふわと浮いている風船のようなものに次々にぶつけていった。風船は闇に浸食されてあっという間に潰れて消える。風船にぶつからなかった闇は、地面に滴ってゆらりとそこに闇色の虚空を作り出した。言うなれば水たまりだが見た目がえぐすぎる。
「そろそろタリスマンに吸収します」
「え? そんなことして、大丈夫なのか?!」
「それ以外に方法はありません。大丈夫です」
そこは大丈夫ですとだけ言ってほしかった。それ以外に方法がないと言われると、何だか不安になる。
「私につかまってください」
「え?」
「早く」
促され、俺はほとんど頭が真っ白なままサチの両肩につかまった。
サチがタリスマンに両手をかざす。すると、空間がぐにゃりと更に歪んで、サチの方向に向かって強く歪曲した。サチに向かってじゃない。タリスマンに向かっているのだ。
歪曲した空間は、強烈な勢いでタリスマンに吸収されていく。その吸収された空間の端っこから、元の住宅街の風景が見え始める。
そしてあっという間に歪曲した空間はタリスマンに吸い込まれていき、後には、静寂の住宅街が存在しているのみだった。
タリスマンは淡く光っていたが、その中に黒いよどみが一瞬だけ揺らめいた。歪みを吸収したために、何らかの影響が出ているのだろうか。
サチはタリスマンに歪みを吸収させ終わると、両手をふらりと下ろした。
「すみませんでした」
「……え?」
「怪我はありませんか?」
「ないよ、全然ない」
「ですが危険な目に遭わせてしまいました」
「全然危険なんて! サチ、すごく、何て言うか、強かったし……」
サチはそれには応えなかった。
「私のせいです」
それはさっきも聞いた気がする。
その時、後ろからすたすたという足音が聞こえてきた。俺たちを、スーツ姿のおじさんが追い越して歩いて行く。向こう側からも私服姿の女性が歩いてきて、俺たちとすれ違う。人通りが戻ってきていた。
「……私のせいです」
サチはもう一度同じことを呟いた。妙に深刻だった。
「おい……落ち着けよサチ。な? 家に帰ろう。そうすれば、少しは冷静になれるよ」
サチはそれには何も言わなかった。何か考え込んでいるように、黙り込んでしまう。
どうしよう。
でも今の現象は、俺にはどうにも対処のしようがないものだった。サチを起点に発生したところを考えると、確かにサチが原因なのかも知れないとは思うけど。
サチはその場に固まったまま動かない。
俺は仕方なく、サチの袖を掴んで、家に引っ張っていった。その間、やはりお互いに無言。俺も何か言うべきだったが、何を言うべきか言葉が見つからなかった。サチはもとより何を考えているのか分からなかった。そのガラス玉のような瞳に象徴される無表情が、サチの心の中を隠していた。
家についてもサチは何も言わなかった。その様子を、俺はただ見下ろしているだけ。
どうしよう。どうすればいい。世界が歪む? それに対して俺はどうすればいいのか。サチにはどうすればいいのか方法が分かっているのか? それでもなお黙っているということは、難しい事態なのか?
……確かに、難しい事態だろう。世界が歪むのだ。普通に言って、世界の危機だ。
世界の危機。
ゲームやアニメではお約束の事態だ。お約束の事態なのに、ゲームやアニメみたいに、それを解決するためのヒントは現実では提示されなかった。
「……あ、あのさ」
お互い何も言わない時間が続いた後、俺は口を開いた。
「腹、減らないか」
「いいえ」
「あの、でもさ、何か食べないとさ。もうそんな時間だし」
サチは床にぺたんと座り込んだまま何も言わず、じっと黙り込んだ。きょろんとした大きな目で無表情がごまかされているけれど、しかもその無表情に本心が覆い隠されているけれど、きっと深く落ち込んでいるのに違いなかった。
その様子を見ていては、俺も何かしないではいられない。でも何をすればいいのか分からない。とりあえず、俺は、落ち込んでいるサチのために何かしないといけなかった。
「じゃ、俺、作ってくるから、晩ご飯。な、待っててくれよ。すぐ作るからさ」
サチはそれにも何も言わなかった。
俺はキッチンに行くと、三十分かけて料理を作った。それを二人分皿に盛りつけて、テーブルまで運ぶ。サチのはカレー皿で、俺のはパスタ皿というちぐはぐな器だったけど。
サチは目の前に運ばれてきた料理を、目を丸くして見ていた。初めて見る食べ物なのだ。そうなるのも当然だろう。
皿から立ち上るスパイスの香り。炊きたての白米の甘い香り。俺が作ったのは、カレーだった。
「これな、カレーって言うんだ」
「カレー?」
「詳しく説明できないけど、とにかくうまいんだ。落ち込んだときには、うまいもの! これ、俺の鉄則なんだ」
サチは何も言わずにカレーを見下ろしていた。
「さ、食おうぜ」
「ですが、こんな時に悠長に食事なんて」
「いいから。な、サチ」
「私は浮かれていました。自分が平和な国にたどり着けたそのことに。自分がこの世界に現れることで生じる影響については、目をつぶっていました。羊太郎にも事前に危険があることを説明しているべきでした」
「サチ……」
「私のせいです」
「サチ、いいから」
俺はスプーンを取った。そこにカレーをすくって、サチに差し出す。
「ほら。食ってみろよ」
サチはスプーンを見つめる。
「ほら。あーん」
サチはなお少しだけ迷うようにした後、素直にスプーンを口に含んだ。そしてその味に一瞬固まると、すぐにもぐもぐと口を動かし始めた。
「どうだ?」
「……美味しいです」
「な、うまいだろ」
俺はサチの答えに満足した。
「ほら、食ってくれよ。悩むならその後からでも出来るからさ。うまいものは目の前にあるうちに食べちゃわないと、まずくなっちゃうんだぞ。食ったらさ、俺だって話聞くし。何でも言ってくれよ」
「羊太郎……」
サチは俺の顔をじっと見た。
う、何だか、見つめられると非常に照れる。
「……ありがとう」
サチは俺からスプーンを受け取ると、もぐもぐカレーを食べ始めた。俺もそれを見て、自分の分を食べ始める。食べている間サチは無言だったが、嫌な感じの沈黙ではなかった。
カレーを食べ終えると、俺は二人の食器を下げ、昨日のリンゴジュースを出した。俺のは相変わらず計量カップだったけど。
リンゴジュースを出した後、二人ともそれには手を出さずに、黙り込んでいた。何だかサチも考え込んでいるようだったし、俺もサチの言葉を待ちたかった。
やがて、たっぷり時間をかけた後、サチは口を開いた。
「あれは、私がこの世界に見せている悪夢のようなものなのです」
「あれ?」
あれと言われても一瞬分からなかったが、どうやら世界の歪みのことらしい。
「私の存在がこの世界に干渉して、歪んだ夢を見せているのです」
「悪夢……」
悪夢、か。そう言われてみれば、確かに夢の中にいるかのような、そんな感じだったような気もする。見た目の感じも、悪夢と呼ぶのにばっちりだ。しかし夢と違うのは、現実に起こった現象だったという点だろう。
「じゃあ言い換えれば、さっきのあれはサチが見ている悪夢そのものだった、っていうことか?」
「いいえ。もっと正確に言うなら、私自身がこの世界にとっての悪夢なのです」
「どういうこと?」
「私の存在自体、夢のようなものですから」
「でも、サチは現実の存在だろ?」
「今は……そうです」
サチは妙に含みがあるような言い方をした。今は? では以前は? ……という疑問が浮かんでくる。
でもそれをまっすぐに訊いていいのだろうか。俺にはなぜか少しためらわれた。
「そうか……」
結局、それだけを言う。
「じゃあその、歪みって言うか、悪夢って言うか、それを放置したらどうなるんだ?」
「私にもどうなるかは分かりません。でも、この世界が無事である保証はないと思います」
……確かに。
「とりあえず、タリスマンに吸収させることで対処するしかありません」
「そんなことし続けてタリスマンは大丈夫なのか?」
「分かりません。世界の歪みに対して具体的にどうすればいいのか、私にも分からないのです」
サチはそう言って首を振った。分からないだらけだな。
「……サチ」
「はい」
「俺、何か出来ないかな」
「何か、ですか?」
「サチから発生? する、世界の歪みってやつか、それ、俺にもどうにか出来ないかな?」
俺は身を乗り出す。俺なりに真剣だった。
「俺は、確かに歪みの世界では戦えないかも知れない。でも何か、俺に出来ることはないかな?」
「羊太郎……」
「二人で解決しよう、サチ。大きな問題は、小さく刻んで解決してった方がいいんだよ、きっとそうだと思う! 俺、力になるからさ」
「……羊太郎」
サチはじっと俺の顔を見た。何を考えているのか、数秒そのまま俺の顔を見つめると、やっと口を開いた。
「……羊太郎」
「どうした?」
「羊太郎。私は、迷惑をかけているのですよ。突然現れて、居座って、世界に歪みをもたらしているのですよ」
「お、おう」
確かに突然現れて、居座っているが。
「そんなに優しくしてもらうような資格はないと思うのです」
「資格なら充分あるよ」
「なぜですか?」
「だって、俺が資格あるって思うから」
「羊太郎……」
「それにさ、俺……救われたよ。サチが来てくれて」
俺が何を言っているのか分からないのだろう、サチは首を傾げた。俺はサチが首を傾げるところを初めて見た気がした。それは小憎らしいくらい可愛かった。
「俺、何にもない平凡な日常に、飽き飽きしてたんだ。飽き飽きって言うか、窒息しそうになってた。そこに魔法使いのサチが来てくれて、俺、本当に嬉しかったんだ。だからさ、何かサチにお返ししたいんだよ。俺を退屈から救ってくれたから、俺もサチを救いたい」
「私が、救った? 羊太郎を?」
「うん」
「私は何もしていません」
「でも俺はサチが来てくれて嬉しかった」
俺は照れるのをぐっとこらえて、サチをまっすぐに見据えた。
「嬉しかったんだ、サチ」
サチはじっと俺を見ていた。驚いているのかも知れない。
「……ほんとにさ、その……ありがとな、サチ」
「……羊太郎……」
……顔が。
あっつい!
顔が熱い。俺の顔は今まさに真っ赤なのではないか。その顔色をまっすぐサチに見られていると思うと余計に恥ずかしい。
俺はおどおどと身を引いて、挙動不審っぽく体を揺らしながら、色々な方向をきょろきょろした。
「そのさ、だからさ、あの……。方法はあるよ! 絶対ある!」
「……羊太郎」
「今すぐには思いつかないかも知れないけどさ、そんなに打開策がないってことはないと思うんだ、俺。何か問題が起こったときは、きっと解決策だって用意されてるはずなんだ。……いや、分かんないけど、いやでもきっとそうだ! だからさ、大丈夫だよ、サチ」
曖昧にも程があるが、俺はサチにそう言った。
とは言え、曖昧なままではだめだろう。俺は腕を組んでうなった。
「羊太郎」
「え? な、なに?」
うなっているときに急に呼びかけられたので、俺はびっくりしておどおどと反応した。非常に格好悪い。
「羊太郎は、とても落ち着いていますね」
サチはきょろんとした目でそう言った。
「え? 俺、落ち着いてるかな?」今きょどったばかりだが。
「とても落ち着いています。魔法使いを見たこともなかったのに、すぐに私を受け入れてくれました。しかも世界の歪みに対しても、とても冷静です」
「冷静? か、かな?」
「冷静です。自分の生活に異物が入り込んだのですよ。しかも世界の危機なのですよ。どうしてそんなに冷静でいられるのですか?」
「そ、そりゃあ……」
そんなの、ゲームやアニメじゃ普通だし。
「……ゲームで慣れてるしな」
思わず、心の声が漏れる。
「ゲーム?」
「あ、いや」
慌てて口をふさぐ。ゲームで見慣れているからと言って、サチにとっては落ち着いている理由にはならないだろう。
しかし実際の所、俺はゲームの中でなら何度となく世界を救ってきたのだ。架空の世界では数え切れないほどの修羅場をくぐってきたという自負もある。非常事態にも何度遭遇したことか。出会いや別れもかなり経験した。裏切られたりしたこともあるし、仲間がパーティから外れるときには、装備品を事前に外しておかなかったことを一体何度後悔したことか……ってそれはどうでもいい。
だからって現実の世界で同じことが起こって、どうして落ち着いているのかという説明にはならない。どう説明したものか。
……説明できない。
俺は自分の失言を隠すように、にっと笑った。
「いいじゃん、魔法使い。俺、そういうやつに出会うのをずっと待ってたんだ」
「ですが、この世界には魔法使いはいないはずなのではないですか? どうしてそれが現れるのを待っていたのですか?」
「え、えっと、」
魔法使いなんてゲームでは定番だし……なんて言って、サチに通じるわけがない。
何と言えばいいのか。失言を隠したつもりが、逆に墓穴を掘っている。
俺はよろよろと視線を泳がせた後、四苦八苦と言葉を継いだ。
「えっと、確かに魔法使いはいなかったけどさ。人間の想像力ってやつで、架空の物語では、結構出てくるんだよ、魔法使いって。だから、俺も、そういうのになれたらなとか、そういうやつに会えたらなとか、そう思っててさ、だから……だからだよ」
だからか?
ちゃんと説明になってたか? 今。
「なるほど」
しかし、サチは納得したように頷いた。
俺はほっとした。何とか通じたようだ。
俺はぱんと両手を合わせた。
「とにかく、世界の歪みだよな。それを何とかしないといけないよな」
「はい」
サチは頷く。
「俺、何でもするよ。だから、サチも何でも言ってくれよな」
サチはじっと俺を見つめると、深く頭を下げた。
「……本当にありがとう。羊太郎」
「い、いや、そんな。ははは」
俺は照れくさくなって、頭をかきながら笑ってごまかした。
サチは頭を上げると、膝にそろえた自分の両手を見ながら、しみじみと言った。
「……本当に、私は運がよかったのですね」
そこまでしみじみと言わなくても。
「平和な国に来られて、羊太郎とも出会えました。私は本当に運がよかったのですね」
「お、俺?」
「はい。私にとっては、羊太郎と出会えたことは本当に大きなことでした」
「いや、俺、まだ別に何もしてないし……そんな言うほどのことないよ? 俺普通だし、そんな、そこまで、ははは」
サチがあまりに俺を持ち上げるので、俺は再度照れ隠しでごまかし笑いをすることになった。
「と、とにかくさ、風呂、入るか! で、さっさと寝て、体休めよう。な?」
「はい」
「サチも戦って疲れてるだろ。風呂入ろうぜ、風呂」
「一緒に入るのですか?」
「は、入らないよ!」
翌朝。
サチは俺よりも早く目覚めていて、既に制服姿だった。床にぺたんと座り込んでいるのも昨日と一緒だ。
俺はあくびをしながらベッドから下りた。
「おはよう、サチ」
「おはようございます」
「どうだ? 気分は」
「問題ありません」
「そっか、よかった」
俺は昨日のようにサチに朝食を用意すると、自分は洗顔と着替えをして、自分も朝食を取った。
そしてそろそろいい感じの時間になると、鞄を持って立ち上がる。
「じゃ、学校行くか」
「はい」
サチと二人で、家を出る。
……何だかもう、サチがいることに違和感を感じなくなっている。
通学路には、色々な人が歩いている。学校に近付くごとに、制服姿の人間も増えていった。校門をくぐり、校舎の自動ドアを通り、エレベーターまで行くのも昨日と一緒。
教室に入っても、やっぱり、誰もサチのことを怪しまなかった。昨日急に現れたのだということにも気付いていないようだ。サチに違和感を感じていないのは、俺だけじゃないらしい。魔法の力は強烈に効いているようだ。
……まさか、俺のこの馴染み方もサチの魔法でとかじゃないよな?
昨日と同じ席に着くと、俺はサチに小声で話しかけた。
「……なあ、サチ」
「はい」
「みんながサチに違和感を感じないのって、やっぱり魔法の力で?」
「はい」
「……その力、俺にも使ってる?」
「いいえ。羊太郎にはそういった魔法は使っていません。なぜですか?」
「いや、使ってないんならいいんだ」
「どうかしましたか?」
「どうもしないよ」
……うん、どうもしない。自分の適応能力に自分でびっくりしているだけ。
そんな話をしていたら、俺たちに近付いてくる人影があった。
箒木来栖だ。
箒木は俺たちの前の席に鞄を置くと、ほんのりと笑った。
「……おはよう」
相変わらず、鈴を鳴らしたような澄んだ声だ。
「あ、おはよう」
「おはようございます」
箒木は再度微笑むと、席に着いた。今日もやっぱり怪我だらけだ。本当に、一体どうして怪我だらけなんだろうか。
サチはそんな箒木の後ろ姿をじっと見ていた。そりゃあ、じっと見つめたくなるくらいに気になるだろうが。それにしても見つめすぎだろう。
サチはきょろんとした目で箒木を見つめたまま、その後ろ姿に声をかけた。
「来栖」
「……なあに?」
体を回して、箒木が振り返る。
「昨日から気になっていたのですが、一ついいですか」
「うん。……なあに?」
「来栖は、この世界の人間ですか?」
その質問にぎょっとしたのは俺の方だった。
な、何を訊いているんだ!
箒木は、ん? と言いたそうな雰囲気で、笑顔のまま首を傾げる。質問の意味が分からなかったのだろう、特に何も言わない。当然だ。
「来栖は、この世界の人間なのですか?」
「あーっ!」
俺はわざとらしく大声を上げた。
その勢いのまま、サチの袖を引っ張る。立ち上がりながら、箒木に言う。
「ごめん箒木、ちょっと、俺たち用事思い出した!」
「え? ホームルーム、もうすぐ始まっちゃうよ……?」
「すぐだから! な、サチ!」
サチは何も言わなかった。
俺はサチを引っ張って、教室から出た。廊下に立って、ひそひそと話をする。
「……おい、サチ」
「はい」
「何だ、さっきの」
「さっきのとは何ですか?」
「いや、だから、箒木に。この世界の人間かとか。何でそんなことを訊いたんだよ?」
「来栖から私と同じものを感じたからです」
「……は?」
はい?
同じもの?
「同じものって?」
「来栖は多分、私と同じ存在だと思います」
「え?」
同じ存在?
つまり、どういうことだ?
サチは異世界から来た魔法使いだ。
……魔法使い。
……じゃあ、
じゃあ、まさか、箒木も、
魔法使い?!
「箒木も魔法使いなのか?!」あくまでひそひそと、サチに問う。
「いいえ、魔法使いではないようです。魔力を感じませんから」
「でも、サチと同じ存在なんだろ?」
「はい」
「じゃあ……」
魔法使いではない。
でもサチと同じ存在。
つまりそれは、つまり、それは……!
「異世界から来たってこと?!」
「そうだと思います」
くらり。
めまいがした。
異世界から来た?
箒木が?
サチとは違って、いかにも日本人ぽい箒木が、異世界から?
俺がイメージする異世界とは、まさにゲームやアニメで出てくるような、ファンタジーの世界のことだ。魔法使いがいたり、勇者がいたり、モンスターがいたりする、つまりはそういう世界だ。そのファンタジーのイメージと、あの箒木来栖とは、あまりに相容れない。
じゃあ、俺がイメージできる異世界とは違う異世界が存在しているということなのか?
いや、それは充分にあり得る。俺は自分のこの世界のことしか知らないのだ。俺の知らない異世界が無数に存在していたって、おかしいことは何もないじゃないか。
「つ、つまり、サチが来たのとは違う異世界から来たってことか?」
「いいえ。私と同じ異世界から来たのだと思います。異世界はその一つしかありませんから」
ん?
……異世界は一つしかない?
なぜか分からないが、俺の予想とは色々と真逆の返答。
サチが言っていることは本当か?
サチと箒木は、同じ世界から来た?
「その……え? ちょ、ちょっと待ってくれ」
俺は悩みながら額に手を当てた。
「つまり、その……異世界は一つだけで、サチと箒木はその世界から来た?」
「はい」
「……でも、二人の雰囲気、あまりに違いすぎるんだけど」
「世界が違うのだと思います」
「世界?」
「はい」
意味が分からないのだが。
「ちょっと……意味が分からないんだけど」
「私と来栖とでは、世界の性質が違うのだと思います」
余計に分からないのだが。
「世界の性質って?」
「つまり世界の違いです」
おい。
「分かるように説明してくれないか?」
「分かるように説明しています」
「全っ然分からないぞ」
本当に分からない。
「本当に箒木は異世界から来たって言うのか?」
「おそらく間違いありません。この世界の人間という感じがしませんから」
確かに箒木は少し変わっているように思えるが、俺としてはそこまでではない。
いや、俺も思ったことはあった。箒木が超能力者だったらなとか、こっそり魔法使いだったらなとか。でも、それはない。俺はそう結論づけたのだ。箒木は俺と違うようにはどうしても思えない。ましてや異世界人だなんてとても思えないだろう。
「異世界人ぽいって、どこを見てそう判断してるんだ?」
「うまく説明できません。ただ、私と同じ異世界の空気を感じるとしか言えません」
それじゃあ俺が困る。全く何も分からないままじゃないか。
「あのさ、じゃあ、一つだけ訊いていいか?」
「はい」
「サチの言う異世界って、どんな世界なんだ?」
「私のいた異世界は、この世界の中にあります」
……何だかますます分からない答えが返ってきたぞ。
これで一体何を分かれと言うんだ。
ずっと思っていたことだけど、サチの説明は何だか断片的で、こちらが理解するのに情報が不十分な気がするんだよな……。しかも発言には魔法翻訳フィルターがかかっているのだ。言っていることさえ、どこまで正確だか分かったものではない。
でもせめて、じゃあこの世界の中のどの辺にあるんだよと訊こうとしたその時、ホームルーム開始のチャイムが鳴った。
待ってくれよ、まだ考えたいのに!
……とは思ったが、教室には戻らないといけない。俺はうんうん悩みながら、サチは何を考えているのか分からない無表情のまま、教室に戻った。
教室では箒木が待っていた。
「……あ、戻ってきた」
「お待たせしました」
サチは何食わぬ顔で応対する。
「……戻ってこなかったらどうしようかって、思っちゃった」
「なぜですか?」
「だって、先生が来るまでに戻ってこなかったら、遅刻になっちゃうよ? せっかく、来てるのに」
箒木はサチがぼけたことを言ったので、くすくす笑いながらそう言った。
二人とも、こうして見ているとのんきだ。実にのんきだ。悩んでいるのは俺くらいか。
やがて先生が来て、点呼が始まった。
先生はやっぱりサチの存在を疑問に思うこともなく、点呼を続けていく。
やがて箒木が呼ばれ、俺も呼ばれて、ホームルームは始まった。
その日の昼休み。
俺たち三人は、一緒になって学食にいた。
箒木は購買のおにぎり、サチはカレー。俺はハンバーグ定食を食べている。
俺の目の前には、異世界から来た……らしい、女子二人。
とは言え、俺にとっては、箒木が異世界人だというサチの話ははなはだ疑わしい。サチの説明だって中途半端だし、あれでどうやって納得したらいいのか、俺にはまったく分からない。
サチと箒木は女子同士、なにやら楽しそうに話している。サチは無表情だし、箒木も声が大人しいしで、あまり賑やかな感じはしないのだが、とりあえず仲は良さそうだ。
俺は二人の会話には口を挟まずに静かにしていた。
……箒木が異世界人ねえ……。
じっと見つめてみるが、見れば見るほど異世界人ぽくはない。サチは確かに異世界から来たような雰囲気があるものの、箒木からはそんな感じは全くしない。現代日本に生まれ育った、怪我だらけという特長を持った女の子。そうとしか見えない。
そうして無言でもそもそ食べていると、俺の背中を突然ぽんと叩く人がいた。
「羊太郎!」
「わああっ!」
突然のことに俺は絶叫した。
大げさに肩を揺らして、慌てて振り返る。
「……何よ、そんなに驚かなくてもいいじゃないの」
そこには、ものすごく呆れた顔をした佳那汰さんがいた。今日は一人だった。
「か、かか、佳那汰さん」
「何を驚いてんのよ? バカねえ」
バカって。
仕方がないじゃないか、俺は考え事をしていたんだから。それも真剣に。
俺はため息をついた。そしてふと視線を上げると、サチの顔が目に入った。
じっと、佳那汰さんを見ている。
何だ?
「……皆戸くんの知り合い?」
箒木が首を傾げながら訊ねてくる。
「ああ、うん。そう」
「こんにちは。あたし、久坂佳那汰」
「……こんにちは。箒木来栖です」
箒木は佳那汰さんの女言葉にも動じずに、穏やかに対応した。案外、ハートが強いのかも知れない。
「私服っていうことは、大学生さんですか……?」
「ええ、そうよ。二年生。心理学を勉強してるわ」
「心理学……。格好いいです」
「ふふ、そう? ありがと」
そうして二人が会話している間にも、サチは佳那汰さんから視線を外さない。
一体、どうしたんだ?
と思っていると、サチはくるんとこっちを向いた。
「羊太郎」
「え? な、なに?」
「ちょっと来てください」
「え? うん、いいけど……」
あまりに素早くサチがテーブルを離れるので、俺も慌てて後を追う。後ろでは箒木が、佳那汰さんに席を勧めていた。四人がけテーブルの空いた席に佳那汰さんが座り、二人で何か話し始める。
食堂の隅に行くと、サチは立ち止まってくるんと俺の方を向いた。俺はぶつかりそうになって、慌てて踏みとどまる。
「羊太郎」
「何だよ、どうした?」
「どうやらこういったことは直接訊いてはいけないようなので、羊太郎に訊くことにしました」
「うん? な、なにを?」
「佳那汰のことです」
「佳那汰さんがどうした?」
「佳那汰はこの世界の人間ですか?」
「は?」
「佳那汰はこの世界の人間なのですか?」
「……え?」
俺はつい間抜けな声を出して、一瞬ぽかんとした。
何なんだ、その質問。サチはやたらその質問をするのが好きなようだが。
「いや、そうに決まってるだろ」
「とてもそうは思えません」
「そうは思えないって言われても。俺は佳那汰さんのこと昔から知ってるし。サチの勘違いじゃないか?」
「そんなはずはありません」
何でそんなに自信満々なんだ。
「いや、佳那汰さんは間違いなくこの世界の人間だって」
「佳那汰はいつからこの世界にいるのですか?」
「……生まれたときからだろ……」
一体どうしたって言うんだ。
佳那汰さんまで異世界人とか、そんなことあるはずがないだろう。
だって本当に、俺は佳那汰さんを小さい頃から知っているのだ。一体いつ初めて会ったのか分からないくらい昔からの仲なのだ。サチの言うように、異世界から突然やってきた人間であるはずがない。
「佳那汰は異世界の人間だと思います」
サチはなおも主張してきた。
「そんなことないって……」
「いいえ。間違いありません」
サチがあまりに頑固なので、俺は思わずため息をついた。
ちらりと、箒木と佳那汰さんの方を見る。
二人は何事もないかのように、明るく談笑している。さすが佳那汰さんというか、年下の箒木ともすぐに打ち解けたようだ。
俺は改めてサチを見た。サチはきょろんとした目でじっと俺を見ている。
「……どの辺が異世界の人間っぽいんだよ」
「全てです」
即答か。しかも全てと来た。
「あんなにこの世界の人間ぽいのに?」
「いいえ、この世界の人間らしくはありません」
どこがだ。
と思ったが、それを訊くとまた「全てです」と返ってきそうだったので、訊くことは控えた。
……何だかこのまま話していても平行線だな。
俺はそう思ったので、この話は打ち切ることにした。サチが何と言おうとも、俺は佳那汰さんと付き合いが長いわけだし、異世界の人間ではないことははっきりしすぎるほどはっきりしている。
「……まあ、言いたいことは分かった。サチとしては、どうしても佳那汰さんは異世界の人間みたいに見えるわけだな」
「事実そうだと思います」
「……うん、分かった。それでもいいけど、でも一つ言っておくぞ、サチ」
俺はようく言い聞かせるようにサチに顔を近付けた。
「俺は、昔から佳那汰さんを知ってる。だから、佳那汰さんがこの世界の人間だってことは、間違いないんだからな」
「羊太郎」
「なに?」
「初めて会ったとき、羊太郎はこの世界には異世界から来た人間はいないと言いました」
「ああ、言ったな」
「ですが、やはりこの世界には異世界から来た人間が少なからずいるようです」
……俺の話も聞いてくれ。
俺は頭を抱えた。
「……サチ」
「はい」
「……じゃあ訊くけど、サチは俺のことどう思うわけ?」
「どうとは?」
「俺も異世界の人間に見えるのか?」
「いいえ」
……その即答に少しがっかりしたのは何でだろう。
いや、俺は正真正銘、この現実世界出身の人間に間違いないのだけれども。
「……うん、分かった。とにかく、戻ろうか」
俺は少しがっかりしたまま、サチと一緒に席に戻った。
戻ると、箒木がくすくすと笑った。
「……あ、戻ってきた。何の話をしてたの?」
「何でもないよ……」
結局、佳那汰さんが異世界の人間に見えるとかいう、訳の分からない話題だったし。
「……何だか朝から、変なんだもの。二人とも」
「変って? どう変なの?」
そう言って身を乗り出したのは佳那汰さんだ。
「……二人でひそひそ話をするの」
「あらそうなの?」
佳那汰さんはにやにや笑った。
「何よ、いきなり親密なのね」
「へ、変な話はしてないよ!」
いや、変な話をしていることは間違いないけれど、佳那汰さんが言っているような関係では、断じてない。
「冗談よ、冗談」
俺が大げさに反応したので、佳那汰さんは呆れたように苦笑いした。
そして、席を立つ。
「じゃ、あたし行くわ」
「え? どこに?」
「図書室よ」
「何だかよく図書室に行ってるね」
「仕方ないじゃないの。大学生はね、色々本が必要なのよ。じゃあね、仲良くすんのよ」
と言って、佳那汰さんは行ってしまった。
サチはその後ろ姿をじっと見送っている。どうやら、佳那汰さんが異世界出身だという自分の勘を捨てきれないようだ。……本当に、佳那汰さんは普通にこの世界の人間なんだけど。
どうしてサチは箒木にしろ佳那汰さんにしろ、異世界出身だということにしたいんだろうか。
自分が異世界から来たばかりだから、どこか心細くて、そう思いたいのかな。俺はそう思うことにして、自分の食事を再開した。
箒木は食事がおにぎりだけなので、誰よりも早く食事を終わらせた。そして、鞄の中からピルケースを取りだし、中から白い錠剤を出す。
学食の給湯器から注いできていたお茶でその錠剤を飲むと、箒木はふうと小さくため息をついた。
そして、何も言わずにピルケースをしまい直す。
一体、何を飲んでいるんだろう。
そうは思ったが、何となく訊くことがためらわれる。
が。
「来栖は一体何を飲んでいるのですか?」
おい!
俺がためらったことを、サチはさらりと訊いてのけた。
「ん? これ……?」
箒木は鞄から、少しだけピルケースを覗かせてみせる。
「……これはね、お薬」
「どこか悪いのですか?」
サチがそう言うと、箒木は少し寂しそうに笑った。
「……手放せないの」
サチへの回答にはなっていなかったが、そう言う箒木は少し寂しそうに見えた。
その顔は何か胸に迫るものがあり、俺も思わず箒木に訊いてしまった。
「……なあ、体、どこか悪いのか?」
「……ううん。大丈夫」
箒木はゆるゆると首を振った。
薬を飲んでいるのに、大丈夫なはずはないだろう。箒木の「大丈夫」という発言を、そのまま鵜呑みには出来なかった。
「……そっか? 本当に大丈夫なのか?」
「……うん。心配してくれて、ありがとう」
箒木は儚げに微笑んだ。
綺麗な顔。左目には眼帯、右目の下には泣きぼくろ。……本当に、綺麗な顔だった。そういうふうに作られたみたいな、作り物みたいな顔だ。
そんな顔が、今は少しさびしそうだった。
「何かあったら、言えよ?」
「……ありがとう」
俺に何か出来るなら本当に何かしてやりたかったが、箒木か抱えているものを俺にどうにか出来るというような気がしない。それでも、俺はそう言わずにはいられなかった。
異世界から来た、か。
やはり、とてもそうは思えない。
この世界に生まれて、どうしようもなく自分の抱えたものに苦しんでいる。俺にはそういうふうに見えた。
やっぱり、サチが言ったことはサチの勘違いだったんじゃないかな。
俺は改めてそう思った。
その日も無事に学校が終わった。
学校にいる最中にサチから歪みが発生することもなく、平和な一日だった。ただ、サチが箒木と佳那汰さんに関して、妙なこだわりを見せた日ではあったけど。
放課になって、箒木は昨日と同じように鞄を持って立ち上がった。
「……じゃあ、また明日ね」
「おう、また明日な」
俺は一応反応したものの、サチは何も言わずに箒木の後ろ姿を目で追っていた。そう言えば、昨日もそうやって箒木の後ろ姿を目で追っていたような。今朝も「昨日から気になっていたのですが」と言っていたし、やはり昨日の時点で自分と同じ異世界人ではないかと疑っていたようだ。
……いや、異世界人なわけがないだろう。
「……なあ、サチ」
俺は隣に座るサチに声をかけた。
「はい」
「まだ、箒木が異世界人だとか疑ってるのか?」
「疑ってはいません」
お?
「確信しています」
……おい。
「……俺にはそうは思えないけどなあ」
「羊太郎には何も感じられないのですか?」
「普通に見えるけど」
言いながら、俺も立ち上がる。
それを見て、サチも立ち上がった。
「それは、羊太郎がこの世界の人間だからでしょうか」
「さあなあ」
何とも言いようがない。
そもそも異世界人とこの世界の人間の見分け方が、俺には分からない。サチが言っていることを総合すると、相当に明らからしいのだが。
俺たちは帰る道すがら、ずっとそんな話をしていた。道ゆく人たちはそんな俺たちの会話を気にも留めない。当然だろう。だってこの世界には、異世界人なんていないということになっているのだから。俺たちの会話だって、万一耳に入っても、ゲームかアニメの話をしているという程度に受け止められているはずだ。
「サチみたいな異世界人と俺たちって、どう違うんだ?」
ふと気になって、俺は訊いた。
サチは考えるように少し黙り込んでから、俺を見た。
「あらゆることが違うと思います」
「たとえば?」
「生まれ方がまず違うのではないでしょうか」
「え? 普通に、その……母親から生まれるんじゃないのか?」
「そういうことになっている人もいると思います」
出た。サチ語だ。
俺はサチの訳の分からない発言を、「サチ語」と名付けることにした。だってサチ独特の表現は、俺にはよく理解できないのだし。まるで違う言語だ。いや、サチは自分の言語を魔法で俺に翻訳して話しているのだから、サチと俺が使っているのが違う言語であることに違いはないと思うのだけれど。そうではなく、サチ独特の言い回しというか、俺にとっては「???」な発言を、サチ語と呼ぶことにしたのだ。
「そういうことにって、何だよ? そうじゃない人もいるのか?」
「むしろそうじゃない人しかいません」
サチ語、絶好調だな。
「じゃあどうやって生まれるんだ?」
「羊太郎はどうやって生まれましたか?」
「え? そりゃあ、その……出産で」
「出産」という言葉が気恥ずかしいのは何でだ。
「私達はそういう生まれ方をしません。羊太郎は最初赤ん坊だったかも知れませんが、」
かも知れないじゃなくて、赤ん坊だったよ。
「私達はそうではありません。私達は生まれたときからこの姿です」
「生まれたときからこの姿? じゃあ……」
俺は思わずサチを足下から頭のてっぺんまで見た。
「……その、既にその年齢で?」
「そうです。ですがそれも人によると思います。私は生まれたときからこの姿でしたが、人によっては様々に姿を変えることもあります」
おお、何だかその辺は異世界っぽいな。
「へえ? じゃあ最初は人で、次に動物になってとか、そういう人もいるってことか?」
「はい」
「それは、やっぱりそういう魔法で?」
「魔法ではありません」
ううん、じゃあ一体どんなメカニズムなんだ? 異世界は本当に謎が多いな。いや、サチ語のせいで謎が深まっているという面も否定は出来ないけど。
「じゃあ、サチは生まれたときからずっとこの姿っていうわけだ」
「はい」
「どうやって生まれたんだ?」
「存在を望まれて生まれてきました」
どうやって生まれたかの説明なのか、それ。しかし、何だかそう断言できるのはうらやましい。
「つまり、サチの存在を望んだ人がいて、サチはその人によって、魔法か錬金術か分からないけど、不思議な力で生まれてきたわけだ」
「魔法でも錬金術でもありません。不思議な力であることは確かだと思いますが」
「じゃあ、サチって、人造人間?」
「人造人間?」
言葉の意味がよく分からなかったのか、サチは俺の言葉を繰り返すとじっと俺の顔を見た。
「人造人間……」
「あ、ごめん。俺の言っている言葉、分からなかったか?」
「いいえ」
サチはきっぱりと否定した。
「ただ、とてもいい表現だなと思ったので」
「いい表現?」
「確かに、私は人造人間です。そう言われると、そうとしか言いようがないなという気がします」
おお。
人造人間!
異世界出身で、人造人間で、魔法使い!
人造人間なんだったら、生まれたときからその姿、っていうのもかなり納得できる。
生まれたときから十五歳くらいです、だって人造人間ですから? ああ、そうだろうともそうだろうとも! 人造人間ならそうだろうとも!
俺はにわかに興奮した。
これがゲームかアニメだったら相当に美味しい設定だ。人造人間で魔法使い! なんて魅力的なんだ!
しかも素晴らしいことに、これは架空の話ではない。実際俺の目の前にいる人間がそうなのだ。
……いい!
すごく、いい!
人造人間だと言われると、サチの徹底した無表情も何だか納得できる気がする。よくよく考えてみれば人造人間であることと無表情であることは全く関連がないけれど、そんなことはいいんだ、うん。
「そうかあ、人造人間かあ」
俺は思わずにやにやしてしまう。
「でも、そうだな、ってことはつまりだ、サチを作った人がいるっていうことだよな」
「はい」
「で、サチに体を与えて、人格を与えて、魔法の力を授けたと」
「はい」
「それって誰? どんな人?」
「私には分かりません」
サチはふるふると首を振った。
「私には知りようもなかったのです。もちろん、知っている人もいると思いますが、私にはそれを知るすべはありませんでした」
「……そっか」
何だかサチのその姿が少し寂しそうに見えた。とたんに俺は、興奮したことが申し訳なくなる。
「……そっか。それは、何だかさびしいな」
「ですが、仕方がありません」
「知りたいとかって、思うか? 会ってみたい、とか」
サチを生み出したということは、いわば生みの親だろう。実の親みたいなものではないか。その顔も何もかも分からないというのは、あまりにもさびしい話だ。
サチは少し黙り込んだ後、小さく頷いた。
「そうですね。少し、そういう気持ちもあります」
「そうだよな……」
でも、サチはこちらの世界に来てしまった。サチを作った人間は、きっと異世界に残ったままだろう。
そんな話をしているうちに、俺が住んでいるマンションに着いた。並んで階段を上り、三階まで行く。
俺は自分の家である302号室のドアノブに手をかけたが、なぜかサチは左隣の303号室のドアノブに手をかけた。
俺はその行動を見て、思わず声を漏らした。
「ん?」
サチは一体、何をやっているんだ?
「おい、サチ。そっちは違うぞ。俺の家はこっち」
サチはドアノブから手を放して、きょろんとした目で俺を見る。
「はい」
「そっちは知らない人の家だぞ」
「いいえ」
「いいえって、そっちじゃないから」
「いいえ、ここでいいのです」
こんな所でサチ語か。
「よくないだろ。違う人の家開けたら大変だぞ」
「羊太郎の家はそこです」
「そうだよ、だから、」
「私は隣に住むことにしました」
「は」
か、勝手に!
サチがすごく勝手なことを言い出した!
「いや、何勝手なこと言ってるんだよ!」
「隣には誰も住んでいないようだったので、私が住むことにしました」
「隣に誰も住んでいなくても、勝手に住んじゃいけないんだよ!」
ていうか、俺は隣の303が無人であったことすら知らなかった。サチは一体いつの間に知ったんだ。
「大丈夫です」
「何が大丈夫?!」
「そのように魔法で操作しました」
「魔法で操作」
べ……、
便利だな魔法!!
俺はここに入居するために、わざわざ遠方から上野の不動産屋に行って、下見して、契約して水道電気ガスのこともやって色々大変だったのに……。サチはそれらを、たった一つ、魔法という手段で全てクリアしてしまったということなのか。
魔法便利だなと言うか、やりたい放題だな!
俺は半ば呆然とした。
呆然として暫く口がきけなかった。
「……えっと……」
「はい」
「……本当に、大丈夫なのか?」
「はい」
「はいって……」
サチはいたってけろりとしている。
じゃあ中を見せてみろと言いたかったが、女の子の部屋を無理矢理見ることには抵抗がある。いやでも、見ないことには俺も納得も安心も出来ないというか、いやでもやっぱり抵抗が……。
……とか考えているうちに、サチは再び自分の家ということにした扉の、ドアノブを握った。
「では、羊太郎。また明日会いましょう」
「え、あ、ああ……」
それ以外に言いようがない。
俺が言葉を見つけられないうちに、サチは隣室に入って行ってしまった。
俺は一人、外に取り残される。
隣の部屋を自分の家にした?
魔法で?
魔法で……。
そっか……。
――便利だな! 魔法!!
俺は心の中でそう叫ぶと、なぜかがっくりとうなだれたのだった。
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