異世界出身の彼女の事情
兎丸エコウ
第1話入学おめでとう!
春。
入学式の季節。
四月に入学式をする他の学校の例に漏れず、俺が入学することになった高校も、今日入学式を迎えた。
高校生。
中学時代は遙か大人に感じていたそういうものに、自分がなるだなんて。何だか信じられない思いだ。
中学時代は永遠に続くと思っていた。どんなに平凡でありふれていても。それでも、終わるという現実について行けない俺を置いてけぼりにして、当たり前のように中学時代は終わった。そうして始まった高校の入学式。俺はまだ現実感の希薄な中にいた。
式の最中こっそりすうっと深呼吸しては、現実感を胸にため込んではき出すことを何度かした。そうしないと、妙に夢を見ているようで落ち着かなかったからだ。
式自体はつつがなく終了した。最後にぞろぞろとそれぞれの教室に入って、説明を受ける。俺のクラスはCになった。
説明が終わると、これで今日は終わりになる。多くの人が、すぐには帰らずにスマホのチェックに入る。式や説明の間中触れなかったので、その反動だろう。中にはすぐに教室から出て行く人もいる。そういう人を視界の端に入れながら、俺は鞄を机にのせた。
鞄に手を突っ込んで、俺もスマホをチェックする。すると一通メールが入っていた。
『入学おめでとう。
式が終わったら、約束の場所でね』
簡潔な内容。
でも俺にはそれだけでちゃんと通じた。この人とは前日までに色々とやりとりをしていたからだ。
メールをくれた相手はこの学校の先輩だ。
と言っても、俺にはまだ高校の知り合いはいない。今日入ったばかりだし、遠方の高校を選んだのだから、それは覆しようのない事実だ。それでも俺を呼び出したのはこの学校の先輩に他ならない。
どういうことなのかというと、こういうことだ。
この学校は高大一貫校で、それぞれの教室や施設も同じ建物内にある。
つまり、俺を呼び出したのは、その大学に通っている学生なのだ。
校舎は最近建てたばかりで、真新しい。高層のビルのような、十五階建ての建物だ。上の方が大学、真ん中の方が高校、下の方が共有施設だ。地下には体育館があり、今日の入学式もそこでやったし、高校生も大学生も授業で使う。
先輩は、校舎に入ってすぐの場所で俺を待っていると言っていた。校舎に入ってすぐの場所にあるのは、事務室とサロン的なロビーの二つのみ。その二つを壁とゲートがしきり、壁の向こう側に事務室がある。事務室がある側にエレベーターが三基あり、ロビーのある側に出入り口となる自動ドアがある。
ちなみにこの学校には昇降口はなく、上履きに履き替えるための下駄箱もない。この学校は高校も大学もずっと土足のままなのだ。
俺はまだ少し緊張しながらエレベーターを降りて、事務室の前を素通りしてゲートをくぐり、その向こうにあるロビーを目指した。
そこには既に目的の人がいた。
白い丸テーブルを囲んで、ソファのような赤い椅子が四脚ずつ、それが三セットある。しゃれた空間だ。この学校は基本的に壁はガラス張りなので日当たりもよく、このロビーもかなり明るい。先輩はテーブルセットの一つに腰を下ろして俺を待っていた。他に人はいなかった。
ゲートから出てきた俺にすぐ気付いて、先輩は手を振った。
俺も手を振り返す。
直接顔を見るのは、先輩が大学進学でこちらに出てきて以来かも知れない。でも、相変わらずハンサムだなと思った。女性的に柔らかで、優しげな顔つきも変わらないままだ。
先輩は大学二年生の十九歳。すらりと背が高く、髪を明るく染めている。実際に会うのは久しぶりだけれど、実は小さい頃からの知り合いだ。初めて知り合ったのは一体いつで、どういうきっかけだったのか、俺はもう覚えていない。それくらいに古い付き合いだ。
ちなみにこの先輩、外見は非常に申し分なく、性格もとてもいいのだが、一つだけ人を驚かせる特徴を持っている。
それは、
「久しぶりじゃないの。元気にしてた?」
「元気だったよ。佳那汰(かなた)さんは?」
「あたしは元気にしてたわよ」
そう言って、佳那汰さんはにっこりと笑った。
この人、久坂(くさか)佳那汰は、口調だけが女物なのだ。
その理由は、知らない。ある日突然女言葉を使い始めて、それ以来何年もそのままだ。俺はもう慣れてしまっているけれど、初見の人はびっくりするだろう。
でも佳那汰さんは言葉遣いが女物というだけで、変に声を高くしたり、妙なしなを作ったりということはしない。声はあくまで低いまま、仕草はあくまで男物のままだ。
「まあまあ、座んなさいよ」
佳那汰さんに勧められて、俺は佳那汰さんの隣に腰掛けた。
「学ラン、案外似合ってるじゃない」
「そうかな?」
「どうかしら、高校生になった感想は」
「まだそんなに実感ないよ」
「それもそうね」
そう言うと、佳那汰さんはクスクス笑った。
「高校生になったから、やっぱり呼び方変えた方がいいかしらね? 皆戸(みなと)くんと羊太郎(ようたろう)くん、どっちがいい?」
「今まで通り羊太郎でいいよ」
「そう?」
「くん付けされると、逆に変な感じだしさ」
「そ。じゃ、今まで通り呼ばせてもらうわ」
と言うと、佳那汰さんは何か思い出したように身を乗り出した。
「ところで羊太郎、引っ越しはいつしたの?」
「二週間前に」
「あら、それはお疲れさま。それにしてもよく親御さんが一人暮らしを許してくれたわね。まだ高校生よ? 高校生。普通大学生からでしょうに」
佳那汰さんは感心しているのか、驚いたような顔をしてそう言った。そう言う佳那汰さんも一人暮らしなのだけれど。
そう、俺は高校進学を機に一人暮らしをすることになったのだ。それは俺のたっての希望だった。俺は実家からは遠方の学校に進学することでその願望を叶えた。
部屋はワンルームで、バストイレ一緒のユニットバス。受信料まで世話できないと言われて、テレビはなし。そういう質素な家だったけれど、俺はそれでも満足だった。何しろ、一人なのだ。俺はずっと中学生の頃から、一人暮らしというものを狙っていた。だからその念願叶って、ここ暫くは少し浮かれていた。
一人暮らし。ああ、自由。何より一人暮らしというものの非日常感がたまらなかった。
「だって、ここ上野だからさ。新幹線通学と、家賃払うのとで考えたら、そんなに変わらないだろうってことで」
俺がそう言うと、佳那汰さんは不思議そうに手のひらを向けてきた。
「なんでわざわざ遠い学校を選んだのよ? あたしそれが分からないのよ」
「どうしてもここがよかったんだよ」
「そんなに魅力的な学校かしらね?」
その佳那汰さんの疑問に、俺は曖昧な笑顔で答えた。一人暮らしが目的だっただけで、学校そのものには興味がなかったからだ。それでもこの学校にしようと思ったのは、ひとえに顔見知りである佳那汰さんがいるからだった。それだけの理由だ。
俺は何も言わなかったが、佳那汰さんは俺の言葉を待つこともせず、ぱんと両手を合わせた。
「ま、いいわ。今日は入学おめでとう! 約束通り、好きなもの奢ってあげる」
「え! 本当に?」
「いいに決まってるじゃないの。お祝いよ、お祝い。親御さんは?」
「今日はホテルに泊まってくって言って、もう行っちゃったよ」
「そうなの。まあ、遠いんだからホテルで一泊して帰った方がいいかもしれないわね。じゃあ親御さんはホテルのご馳走を食べるのね」
「そうだと思うよ。随分楽しみにしてたみたいだし」
「じゃ、こっちも豪華にしましょうか! 何がいい?」
「何があるの?」
「ここは上野よ。何だってあるわよ」
「えー、じゃあ、佳那汰さんの家に行きたいんだけど」
「あたしの家?」
佳那汰さんは少し面食らったようだった。
「別にいいけど、外食するより質素になるわよ?」
「とろうよ何か。俺ピザがいい!」
「ピザ? ピザかー。うん、なかなかいいじゃない? 一人暮らしだと食べる機会なんてそうそうないし、今のうちに食べておくといいかもしれないわね」
佳那汰さんも俺の提案に魅力を感じたようだった。
「じゃ、行きましょ」
佳那汰さんは荷物を持って立ち上がった。俺も同じくらいのタイミングで立ち上がる。
俺はまだ佳那汰さんのマンションに行ったことはなかった。少しわくわくする。
佳那汰さんの家は学校から徒歩で五分だそうだ。閑静な住宅街の中にある。学生専用のマンションなので、普通の賃貸住宅と言うよりは寮に近い雰囲気だという。
佳那汰さんはカードキーでメインエントランスを開けると、俺を中に通した。ここの五階に佳那汰さんの家がある。
エレベーターで五階まで一気に上がると、一番端の角部屋に行く。505号室。角部屋なんてうらやましい。俺にはしっかり両隣にお隣さんがいる。
佳那汰さんの家もワンルームだった。ただし部屋の広さが十畳近い。俺の家は六畳なので、つい比較してしまって余計に広く感じる。しかもバストイレ別、テレビもある。
部屋の真ん中にあるテーブルの下にはラグが敷いてあった。佳那汰さんは俺にクッションを勧めてくれ、自分も適当なクッションに座った。
そしてスマホをいじりながら、言う。
「さ、ピザとってあげるわよー。どこがいい? ネットで注文するから何でも言ってちょうだい」
「俺いつもとってるピザ屋があるんだけど」
「いいわよそこで。何て言うの?」
俺は自分が普段好んで食べているピザ屋を言って、そのメニューを見せてもらった。それでM二枚にL一枚、サイドメニューに飲み物まで頼んだ。お金を払うのは佳那汰さんだけれど、こんなに頼んで大丈夫だろうか。
俺がお金の心配をすると、佳那汰さんは快活に笑った。
「奢られる方がそんな心配しないのよ」
だそうである。
三十分ほどして注文したものが届いた。俺たちはテレビを見ながら、男二人でわいわい食べた。
食べながら、佳那汰さんはなおも俺がこの学校を選んだことを不思議がっていた。
「本当、あの学校のどこが気に入ったのよ?」
「そう言う佳那汰さんだってどこが気に入ったんだよ?」
「あたしは師事したい先生がいたのよ。その先生の所で心理学を勉強したかったの。でも高校は大学と違って何の専門性もないわよね? ただの普通科高校でしょう。他の学校と何が違うっていうこともないわよ。だったら実家から通えた方がいいに決まってるじゃないの」
「そりゃあ、まあ」
「大学はそのままうちに進むつもりなの?」
「まだそこまで考えてないよ。今日入ったばっかりで」
「まあ、確かに早すぎたわね、この話題」
佳那汰さんはおかしそうにからから笑ってピザを頬張った。
勝手に話がそれて、俺があの学校を選んだ理由は、それ以上追求されなかった。
俺はそのまま、十時くらいまで佳那汰さんの部屋に居座った。
帰る頃にはすっかりテレビ番組も夜用のものに変わっていて、ドラマやバラエティが充実し始めていた。
あまり長居しても迷惑になるので、俺はそろそろお暇しようと腰を上げた。佳那汰さんと一緒に、適当に片付ける。余った分は明日の佳那汰さんの朝食になるそうだ。
俺が玄関まででいいと言ったので、佳那汰さんは框(かまち)に立って手を振った。
「じゃ、羊太郎。これから同じ学校だから、よろしくね」
「こっちこそ」
「今日は入学おめでと」
「ありがと」
そう言って二人でにっと笑うと、俺は佳那汰さんの部屋を後にした。
俺の住んでいるマンションは、学生専用ではなく、社会人なども住んでいる。四階建てで、俺の部屋はその内の三階にある。302号室だ。学校へは徒歩で十五分。最寄り駅までは学校よりも更に遠く、二十分以上はかかる。その代わり、近くにコンビニがある。
ディンプルキーで自分の家のドアを開けると、その向こうは真っ暗だった。
ぱちりと電気をつける。
玄関と廊下の間には段差はない。玄関には洗濯機。フラットな高さの廊下にはキッチンがあり、キッチンの向かいにユニットバスと収納スペース。廊下の向こうが実質の生活空間だ。
俺は廊下を突っ切ってその部屋に入った。
一番奥には掃き出し窓。ごくごく狭いながらベランダにも出られる。掛かっているカーテンの色はベージュ。部屋の隅にベッド、真ん中にテーブルがあるだけ。まだ全然家具をそろえてない。
部屋の中にはクローゼットもある。クローゼットとは言え、中身は上下で仕切られているので、機能としては押し入れのようなものだろう。本や服は全部そこにしまってある。
すっかり満腹になったので、俺はさっさと着替えるとひとまずベッドに身を投げ出した。
そうして暫く、一休み。
一休みして気が済むと、シャワーを浴びた。本当はバストイレ別がよかったんだけどなあ、と思いながら、シャワーカーテンにかかった泡を洗い流す。まあ、親に家賃を払ってもらっていて、文句は言えまい。
風呂上がり、俺はふと夜空が見たくなってベランダに出た。
建物に遮られて、夜空が狭い。それ以上に、夜空が明るい。星もほとんど見えない。
俺が元々住んでいたのは地方都市だったので、夜は星もそれなりに見えた。それが急に夜空の見えない世界になってしまったので、俺はその非日常感にどきどきした。
非日常感。
俺はそういうものが好きだった。
本当に小さな頃から。
むしろ、何も起こらない平凡というものに飽き飽きしてもいた。
永遠に続くと思っていた中学時代。これも永遠に続くと思っていた小学校時代。そのどちらも、全くこれっぽっちも何も起こらなかった。
一体どうして遠方の学校を選んだのか。
佳那汰さんには言わなかったけれど、理由は一つだ。
非日常を経験したかった。
遠くの学校に行って、一人暮らしを始めれば、何か起こるような気がしていた。
本当に何か起こるのかと言われれば、きっと、何も起こらないのだろう。何か起こりそうな気がしていて何も起こらなかった、小中学校時代のように。
でもそんなことは俺にとって希望のない話だった。だから、そんな希望のない話は考えないことにした。
そうしてぼんやり夜空を見上げていたら、狭い夜空にひゅんと流れ星が流れた。
「おっ」
流れ星なんて久しぶりに見た。
前にも見たことがあったけれど、流れ星なんて珍しい。俺はとっさに願い事をしてしまった。
――何か特別なことが起こりますように。
まあ、こんな所か。
高校は明日から早速通常運転だ。一人暮らし、自分で起きなければいけないのだから、早めに寝よう。そう思って、俺はベランダから引っ込んだ。
このときの願い事が原因だったんだろうか。
いや、多分それとこれとは関係がないだろう。
特別なこと。それは確かに起こってしまった。
けれどそれは、決して流れ星が運んできたのではない――と、思う。
高校が始まって約二週間。
別にこれと言って何も起こらなかった。
みんな事前にSNSかなんかで連絡を取り合っていたのか、高校生活が始まってすぐさまそれなりにグループ分けが出来ていた。俺は当然、その輪の中には入れないままだ。
何の変哲もない教室の中。俺はその中で一人ぼんやりしていることが多かった。
何も起こらない。
自分から何かしているわけではないから、何も起こらないのは当然と言えば当然か。
俺は非日常を望んでいる。でも、望んでいるというだけで、自分からそれを引き寄せようとアクションを起こしたりはしない。たいていの人がきっとそうだろう。
何か起こったらいいな、何も起こらないと思うけどね。そういうのが、大体の感覚のはずだった。
だから、結局の所、俺はごくごく平凡な、普通の人間なのだった。
ただ一つ変わったことがあるといえば、俺のクラス、つまりCに、一人目立つ生徒がいるということくらい。
どう目立つのか。
怪我だらけ、なのだ。
眼帯は当たり前、黒いセーラー服から包帯が覗いてるのもいつものこと。
彼女のことは瞬く間に噂になった。
いわく、家庭内暴力なのではないか、自傷癖があるのではないか、目立とうとしているのではないか、ファッションのつもりなのではないか、等々。
噂になるくらいだから、さすがに俺も気になる。席は自由席だけど、普段俺よりも前のほうの席に座っているのもあって、俺は授業中も彼女のことを見ていることがよくあった。
有名人なので、名前も分かっている。
箒木(ほうきぎ)来栖(くるす)。そういうらしい。
見た目は、別に悪くない。と言うより儚げな美人といったところだ。常に眠そうにまぶたが半分下りているところも、儚げな雰囲気を後押ししている。顔の輪郭を包み込む短い黒髪、同じく黒い瞳。まつげは長い。眼帯は左目にしていることが多く、右目には泣きぼくろがあった。セーラー服が黒だからだろうか、箒木だけ一昔前の女学生のような雰囲気だ。
しかもこの学校は今時女子の体操着がなぜかブルマなので、いっそう一昔感が半端ない。建物は新しいとは言え学校自体は歴史があるそうだから、ブルマなのはその影響かも知れないが。何にしても目に毒だ。それを箒木来栖が着ると、目に毒感に拍車がかかる。
真っ白な手足に包帯や湿布を巻いて、眼帯もしたまま、ブルマを身につけて運動している姿。はっきり言って色っぽい。高校生でそれはだめだろうというくらいには。
目立つ。とにかく、目立つ。
今のところ、高校での非日常と言ったら箒木来栖くらいのものなので、俺は自然と箒木を目で追うことが多かった。
箒木は基本的に、あまり人と関わり合わなかった。眼帯までして、全身包帯だらけなので、異様がってあまり話しかける人もいない。そういうことも原因としてあるだろう。
教室でも一人、三階の学食でも一人。放課後は十四階の図書室に行って、本を借りて帰って行く。空き時間にはその本を読んで、ひたすらにじっとしている。
眼帯に包帯だらけなのは、目立とうとしているからじゃないか、ファッションのつもりなんじゃないのか、そういう噂もあるにはある。でも箒木の物静かで孤独な生活ぶりを見ていると、俺にはとてもそうは思えない。
目立とうとしているなら怪我のことを誰かに話さないではいられないはずだし、ファッションにしても眼帯だの包帯だのといった目立ちすぎるアイテムを選ぶような性格にも見えない。いや、性格が分かるほど話したこともなければ、箒木が何か発言するところを見たこともないのだけれど。
とにかく、箒木は大人しかった。外見の目立ちすぎるところを除けば、ひっそりとしていた。
俺はある日、学食で佳那汰さんと一緒に昼食をとっていた。その時は偶然、俺たちの席から見える位置に、箒木が座っているのが見えていた。箒木は学食で出されている定食だの麺類だのではなく、購買で売っているおにぎりを食べていた。昼食はそれだけだ。その不健康そうなところが、余計に儚げな雰囲気に拍車をかけている。
少し離れたテーブルにお互いいるとは言え、ここからだと箒木のことが正面に見えた。まっすぐに見る箒木の顔。やっぱり顔はいいんだよなあ、と俺はそんなことを思った。
非日常に興味があるとはいえ、俺だって年頃だ。顔のいい女子がいれば、それなりに気になる。
俺の視線に気付いてか、向かいに座っている佳那汰さんが身を乗り出してきた。
「何見てるのよ?」
「え? ああ、いや……」
「あの子?」
「えっと、いや」
「何よ、気になるの?」
「そ、そんなんじゃないよ!」
俺が慌てると、佳那汰さんはふうんと言って、身を引くと生姜焼きを食べた。佳那汰さんが食べているのは生姜焼き定食、俺が食べているのはラーメンだ。
佳那汰さんはからかうような顔をした。
「綺麗な子じゃないの。話しかけないの?」
「いや、だからそういうつもりがあるわけじゃないんだよ」
「じゃあ何見てるのよ」
「いや、ただ、何となく……」
「何となくねえ」
何となくと言うわりには、あまりにもじっと見ていたぞ、と言いたげにしている。
俺はふんふんとごまかすように鼻を鳴らして、佳那汰さんから視線をそらした。
俺たちが自分を話題にしているなんて気付いてもいない様子で、箒木は食事を終えた。そして鞄からピルケースを出して、何かの薬を数錠、飲んだ。ピルケースも色気のないプラスチックのもので、それが何だか箒木らしい気がする。いや、らしさが分かるほど箒木とは口をきいたこともない訳なのだけれど。
一体何の薬なのだろう。箒木が飲んでいると、ただの風邪薬やビタミン剤には全く見えないところが不思議だ。
「ところであんた、友達出来た?」
「え?」
箒木を見ていたら、佳那汰さんが何か言ったのを聞き取れなかった。俺は少し驚いて佳那汰さんを見る。
「友達よ、友達。あんたこんな遠くの学校に来ちゃったのよ? 顔見知りなんて一人もいないでしょ?」
「そりゃあまあ」
「友達作った?」
「まだ様子見って感じだよ」
「様子見ね」
そう言って、佳那汰さんは付け合わせのキャベツをつつく。
「あたしとばっかりいるっていうんじゃ、だめじゃない。早くあたし以外の友達つくんなさいよ」
「そんなこと言われてもすぐには出来ないよ」
「こいついいなあとか思う相手はいないわけ? たとえばそこの彼女なんか、あんた気になるんでしょ?」
そこの彼女とは、もちろん箒木のことである。
「いやいやいや、だから箒木はそんなんじゃなくて」
「箒木っていうの? 下の名前は?」
「来栖らしいよ」
「フルネーム知ってるのね。何よ、やっぱり気になるんじゃない」
「だからあ」
俺は困ってしまって、ラーメンを食べる手が止まってしまった。
「目立つから。ついだよ、つい」
「目立つって?」
「……ほら、包帯だらけだし、いつも眼帯してるし」
「ああ、なんだ。あんたそんなことが気になるの」
「佳那汰さんは気にならないのかよ?」
「怪我の多い子なんでしょ。あんまりちらちら見るだけじゃなくて、何か声かけてあげてもいいんじゃないの。そこから始まる友情っていうのもあるかも知れないわよ」
「何て声かけていいか分かんないよ」
「普通でいいわよ、普通で」
「普通ってなんだよ、もう」
俺の手が止まっているうちに、佳那汰さんは食べ終えてしまった。食器をまとめて、トレイを持って立ち上がる。
「あんたのこと心配して言ってんのよ」
「って言われても」
「でも、ずっと一人のままって訳にいかないのも、確かでしょ」
「そりゃそうだけど……」
「頑張りなさい、友達作り。まずはそこからよ」
ウィンクをしてそう言って、佳那汰さんは食器を下げてしまう。そして戻ってくると、自分の荷物を持って肩にかけた。
「じゃ、あたし先に行くわ。図書室で本探さなきゃいけないのよね」
「ああ、うん」
「いい、友達つくんなさいよ? 思春期の孤独は心身に毒よ。友達友達」
佳那汰さんは楽しそうにそう言って、学食を出て行ってしまった。
そして学食を出たところで、佳那汰さんは自分の友達と会ったらしい。誰か大学生らしい人と笑いあいながら、エレベーターのある方へと消えていく。
俺はその後ろ姿を見送って、ラーメンをすすった。
佳那汰さんは友達が多い。それは昔からそうだった。女物の言葉遣いをしていても、顔はいいし性格もいいので、別に避けられるということもないようだ。と言うか、噂に聞くところによると、相当にもてるらしい。……うらやましい限りだ。
逆に俺は、箒木のように目立ったり、佳那汰さんのように何もしないでも人気があったり、そんなことは一切ない。全くもって目立たない、凡百の徒なのだ。だからこそ今まで誰も話しかけてこなかったし、積極的な性格でもないので友達も出来なかった、っていう訳なのだけれど。
友達ねえ……。俺はぼんやりとそう思いながら、ぼんやりと箒木を眺めた。
箒木は一人でいてもいっこうに不便ではないようだった。むしろ、他人を必要としていない雰囲気にすら見える。
箒木はピルケースをしまうと、代わりに本を取り出した。図書室で借りてきたものだろう。そのまま、昼休みいっぱいまで本を読んで過ごすつもりなんだろう。どこまでも孤独な雰囲気を崩さない。
それを見ていたら、俺も図書室に行こうかなあという気になったが、さっき佳那汰さんが図書室に行くと言ったのを聞いたばかりだ。俺まで図書室に行っては、まるで佳那汰さんを追いかけていったようではないか。
結局、俺は手持ちぶさたになってしまった。
ラーメンを食べ終え、食器を下げると、まっすぐに教室に戻る。一年生の教室は七階だ。見晴らしはまあまあ。この校舎は壁面が大体ガラス張りなので、日当たりのいいことこの上ない。
四月、うららかな季節。
そんな季節の中、俺はまだ友達らしい友達も作らず、非日常的な出来事も何も経験しないまま、一人でいた。
クラスのグループ分けはもうほぼ完璧だ。一人でいる人間は、俺と箒木くらいになっていた。
事件が起こったのは、その夜だった。
友達を作れという佳那汰さんの言葉がおかしな方向に効いたのか。
それともやっぱりあの流れ星のせいだったのか。
俺にはそんなことは分からないけれど、とにかく事件は起こってしまった。
それは平凡な、本当に分かりやすく平凡な俺の日常に、不意に訪れたのだった。
学校が終わり、俺は自分の家に一人でいた。
テレビもない、ラジオもない。ついでに言うとコンポもない。
ほぼ、無音。
ほぼ無音の世界だ。
そんなほぼ無音の世界の中、かすかに鳴っている音がある。
ゲーム機から出るBGMの音だ。
俺は一人でベッドに寝っ転がりながら、ゲームなんかやって時間を潰していた。
……時間を浪費している。
そんな感覚になる。
そんな感覚にはなっていたが、実家から持ってきた携帯ゲーム機の中では大変なことが起こっていた。今にも世界が滅びそうになっているのだ。
世界が滅びそうにはなっていたが、それとは関係のなさそうなお使いのイベントで、俺はダンジョンの中にいた。主人公を操りながら、モンスターを倒し、宝箱を開け、ちょっとした会話で仲間とも絆を深めていく。
小さい頃は、これが世界の全てだった。
むしろ、こちらの方が現実の世界だった。
自分もいつか、こうやって世界を救う旅に出るんだ。そんな夢みたいな考えを信じていた。だって信じるだろう。自分にもいつか、こんなどきどきするような冒険の機会が訪れるなんて、そんなことくらい。子ども時代には、何かを勘違いさせる魔法がかかっている。何か特別なことが起こると約束されているような気がしていたのだ。
そんな子どもの信頼に反して、世界は普通だった。あまりにも普通だった。何も起こらないのが普通。昨日と同じ今日が来て、明日も今日と同じなんだっていう予想が出来るくらい普通。その普通が変わりなく巡っている。
でも俺にとって、小さな頃の俺にとってはそんなことは普通ではなかった。それはいつか自分とは無縁のものになると信じていた。だって本当に信じていたのは、ゲームの中の世界であって、漫画の中の世界であって、アニメの中の世界だったのだから。空想の世界こそ、自分が住む世界だと思っていた。そういう世界に生きて、特別なことをして、自分はこんなに凄い、こんなに立派だ、と思いたかった。そう思うことで、平凡で特に能力のない自分を救いたかった。
それなのに、どうだろう。かなり本気で期待していた小学校時代、何か一つでも起こっただろうか。
起こらなかった。
起こるはずがないだろう。だってそれが現実なのだから。
俺は空想の世界の住人ではなかった。現実の世界の住人だったのだ。俺は早くそれに気付くべきだった。でも気付きたくなかった。
だから中学時代も期待していた。異世界にすっ飛ぶのでも、異世界の方からやってくるのでも、何でもいい。いきなり自分に訳の分からない能力が目覚めるのでもよかったし、いきなり霊感が身につくのでもよかった。
とにかく何でもよかった。何でもよかったのだ。自分が空想のものではなく、現実のものであると嫌でも説得してくる世界から逃れられるのであれば、お前は平凡でさしたる価値も光もないと言ってくる世界に一矢報いることができるのであれば、本当に何でもよかった。
ゲーム機をいじりながら、再びモンスターを倒していく。物語は大体中盤といったところか。主人公達はそれなりに頑張っているが、世界の崩壊は止まりそうもないようだ。
でも現実の世界の方はどうだろう。
崩壊しそうになったことなんて、一度だってあっただろうか。
俺の知る限り、ない。
そんなどきどきするようなことは一度だってない。
空想の世界の出来事と、同じトラブルがあったことなんて一度だって。
空想の世界なら、目の前にある。今まさに、こんなに近くに。でもどうしてその中に入っていけないのだろう。どうして俺は現実のものなのだろう。手の届く距離にあるのに、どうして絶対に触れられないのだろう。
ゲームをやりながらそんなことを考える。空想の世界が現実となって自分の身に降りかかってくるだろうという無垢の信頼と、そんな信頼なんて無関係な現実の世界。そのギャップをありありと思い出す。
そのギャップを意識してしまうと、俺はゲームに集中できなくなってしまう。突然にゲームの中の世界が色あせてしまうのだ。
そのせいで、俺はだんだん空しくなってきた。がっかりした気持ちが俺の指を重くする。のろのろとセーブポイントまで行ってセーブして、ゲーム機の電源を切る。
その途端に部屋の中に訪れた本当の静寂。
空想の世界の余韻はなかった。むなしさだけが空虚な空間を満たす。
要するに、俺はゲームに熱中できなかったのだ。電源を切っても、何の余韻も残らないくらいには。
いつからなんだろう。空想の世界にも熱中できなくなったのは。どこか醒めてしまって、ふとした瞬間に集中の糸が切れてしまうのは。
いつからだかははっきりしない。でもその理由ははっきりしている気がした。
空想の世界は、俺のために存在しているんじゃないって、気付いたからだ。
俺はどうあがいても自分のための空想の世界に行くことなんて出来ない。ゲームやアニメの主人公みたいに都合よく、異世界で活躍したり、非日常的な華やかな悩みに心を砕くこともできない。
俺は俺のための非日常がほしかった。
でもそんなものがあるはずもなかった。
だったらせめて、現実の世界の方はどうなのだろう。俺のための現実なのだろうか。
……そんなわけないだろう。
俺のために存在しているわけがないだろう。
現実だけはせめてと思うけど、そんなわけがないだろう。
じゃあ一体どうして現実というものは存在していて、俺は俺のために存在しているんじゃないそんな世界で生きているのだろう。
それを思うと虚無感がすさまじかった。
俺は枕に顔を埋めてため息をついた。虚無感なんて忘れたかった。一人暮らしを始めはしたが、これといってトラブルはなし。佳那汰さんと話す以外に孤独なのも相変わらず。お隣さんがどんな人なのかも分からないし、会ったこともない。このマンションに不穏な噂があるわけでもない。ゲームやアニメの世界では本当によくあることなのに、時空の歪みがあるわけでもない。
俺はまだ夢みたいなことを言っているが、俺みたいにあきらめがつかない人間はきっと他にもいるはずなのだ。
現実はこんなものじゃない。きっと非日常はどこかに隠れていて、自分はいまだにそれに選ばれていないだけなんだって。
……何だかだんだん、空しくなってきた。
俺はそのむなしさを吹き飛ばそうと、がばっとベッドから身を起こした。
何か飲みたくなったので、廊下に出て冷蔵庫を開けてみる。
……何もない。
牛乳すらない。
夜食に食べられそうなものすらもない。
俺は暫く考え込んで、部屋の壁掛け時計を見た。時刻は九時を少し回ったところ。外出するのにそんなに遅い時間でもないだろう。それに、コンビニはすぐそこだ。さっと行ってさっと帰ってくればいい。
そう判断すると、俺は財布とスマホだけ持って家を出た。一応鍵はかける。
このマンションにはエレベーターはない。四階建てなんだから必要がないと言えば必要がないからだろう。建物の真ん中辺りにある階段を下りて、マンションの敷地から出る。
コンビニまでは徒歩で三分ほど。
俺はコンビニに入ると、牛乳とジュースと、適当にパンやらお菓子やらを買って、さっさと出た。
外に出たら、思わず空を見上げた。
建物に遮られて、十字が連なっているような形に切り取られた空。狭い空だ。
俺は初めてこの上野という土地に足を踏み入れたとき、地元とのあまりの違いに圧倒された。
車の量、街の色、人の数。何を見ても地元と違う。地方と都心の違いをまざまざと見せつけられた。
だからここでなら、何か起こりそうな気がした。俺にとっては、上野という街自体が非日常の香りそのものだったからだ。
その感覚を思い出す。
そしてその感覚を振り払うように、歩き出す。
……でも今なら分かる。まだ住み始めたばかりだけれど、今なら分かる。落胆に敏感な若い感性が告げてくる。コンビニの店員を見てみろと。道ゆくサラリーマンを見てみろと。放課後のクラスメイトを見てみろと。
上野は確かに最初非日常の街だった。でもここに住んでいる人間にとっては、都会に慣れてしまっている人間にとっては、これが平凡な日常の風景なのだ、と。
つまるところ、地方都市にいようが、都心部に逃げてこようが、凡庸な日常からは逃れようがなかったのだ。
平凡はどこまでも追ってくる。
俺は頭を振った。ビニール袋ががさがさと音を立てる。これこそ、平凡な日常の音そのものだ。
俺は何だか落ち込んで、まっすぐに帰ろうという気分ではなくなってしまい、たらたらと少し遠回りすることにした。マンションの裏側を通る道を選んで、ちんたら歩く。
俺は非日常を求めていた。俺には非日常が必要だった。だって俺にとっては、そっちが現実になるはずだったからだ。小さい頃本気でそう信じていたからだ。
いまだに諦めきれずにいるのを笑う人もいるだろう。でもそういう人だって、心のどこかでは期待しているはずなんじゃないのか。自分をここではないどこかへ連れて行ってくれるその時を。そのトラブルを。その人物を。
たとえば、と俺は考えた。憂鬱を少しでも忘れたくて、考え事をした。
たとえば、あの箒木来栖。どうして怪我だらけなのか。
たとえば、こんなことは考えられないだろうか。
箒木は実は超能力者か何かで、超能力者で構成される組織の一員で、そういった組織がいくつもあって、その抗争に巻き込まれていて争いが絶えないので、怪我ばかりしている。
もしくは、こうだ。箒木は実は魔法使いか何かで、街のどこかに突然現れる変異か魔物の類いかと人知れず戦っているので、怪我ばかりしている。
そう考えると、俺の憂鬱は少しは晴れた。
だって、その方がおもしろみがあるに決まっている。
実は非日常はすぐそばにあって、俺はまだそれに巻き込まれていないだけなんだって、そう思えるから。
そして近いうち、箒木と俺は街中でばったりと会うのだ。非日常的なトラブルのど真ん中、俺が巻き込まれるその時に。
……なんて。
妄想だ。現実にあるわけない。箒木が過剰に怪我だらけだからといって、本当に俺の妄想通りであるわけがない。
わけがない。
……わけがないのに、まるで呪われているかのように期待してしまう。
俺はマンションの裏のひとけのない道で足を止めた。星の少ない夜空を見上げる。
思い出す、あの日の流れ星を。
あの時の願い事を、つい。
特別なことが起こりますように。
今ならこうとも言えるだろう。
俺を非日常に連れて行ってください。
このままだと退屈で平々凡々とした日々が続いていくだけだ。そんな恐怖心が不意にわき上がってきて、俺は身震いした。
そんなの認めたくない。そんなのが現実だと思いたくない。
誰か俺を、この平凡から救ってくれ。
わき上がってきた恐怖心に突き上げられて、俺はつい声に出して言っていた。
「……誰か、来てくれよ……」
いまだに友達もなくて孤独だったせいもあるだろう。平凡という現実から目をそらしたくて仕方なかったせいもあるだろう。俺はそんなことを言っていた。
誰か来てくれ。
俺を非日常に連れて行ってくれる誰か。
俺が非日常にすっ飛ぶのでもいい。
非日常が俺の方にすっ飛んでくるのでもいい。
どっちだっていい。どれだっていい。
どうだっていいんだ。平凡じゃなくなれば。
どうだっていいから、頼むよ。
俺はそのまま黙ってそこに突っ立っていた。
やがて風が通り抜けるだけなのに首を振った。
何か起こるわけがないだろう。
異世界にすっ飛ぶ? 異世界からすっ飛んでくる?
そんなわけないだろう。
俺は自分で自分をあざ笑うようににやりと笑った。そうして笑うことは苦しかった。
……いい加減に、帰るか。
そう思って、足を踏み出す。
三歩進んだ、その時だった。
やっぱりあの流れ星がいけなかったのだろうか。
そう、それは来てしまったのだ。
三歩進んで、俺は足を止めた。
数歩先に、何かある。
それはぼんやりとした光だった。
その光は玉の形をしていて、大きさは十五センチくらいで、ぼうっとそこに浮いている。
俺がそれに気付くのと、同時だった。
その光の玉から、ぶわっと文字があふれ出したのだ。新体操のリボンのように、俺には訳の分からない文字があふれ出す。その文字を目で追おうとしたが、どうも読めるものではない。日本語ではないのだ。それどころかどこの文字なのかすらも分からない。強いて言えばアラビア文字に近いくらいか。
その文字はあっという間に二メートルほどの光の渦になると、すぐに落ち着いて光の円環になった。
その文字の円環の中は淡く輝いている。
俺は突然のことにあっけにとられ、声を上げるのも忘れてそこに立ち尽くしていた。
文字の円環の中の光は、数秒かけて徐々に具体的な形にまとまり始めた。
よくよく見てみると、それは人の形だった。
小柄な体格の、女の子のような光のシルエット。
そのシルエットはすうっと息を吐くように光を失った。
文字の円環の中に、誰かいた。
文字の円環も、その人物がはっきりと現れると、ひゅううんと渦を巻いて地面に吸い込まれていった。と言うより、その人物の足下にまとまって、消えていった。
今の訳の分からない現象の後に残ったのは、女の子が一人、だった。
申し訳程度の街灯の下、俺と、その子は、目が合った。
その子は淡い麦色のボブカットをしていて、その瞳は琥珀色。抜けるように白い肌だ。目はきょろんとして大きいが、鼻と口は小さい。目が大きいせいで表情があるかのように見えるが、それは気のせいで、全くの無表情だった。
その大きなきょろんとした目で、俺を見てくる。
異様なのは、その子の服装だった。
どこの民族衣装なのかも分からない、妙な格好なのだ。
多少着物に似ていると言えなくもないが、くすんだような白い生地のそれは、とても日本の着物とは思えない。袖は長く、指先しか見えず、袂(たもと)もふっくら長い。スカートに見えるものはふんわりと広がっていて、そこから細くて白い足が伸びている。靴はブーツに似ているが、多分俺の知っているブーツではない。
その子は、細い首にネックレスをかけていた。そのトップは小さな小さな卵のような形をしていて、月色に淡く光っていた。俺は独りでに光る宝石の存在を知らない。あれは何の石なのだろうか、そもそも石なのだろうか。
俺がその子を観察したように、その子も俺を観察していたようだった。
そして、観察が終わったのだろう、俺が混乱から抜けきらないうちに、その子はこう言ったのだった。
「あなたは、この世界の人間ですか?」
……え?
と、俺が思ったことは多分誰も責められないと思う。
え? しか出てこなかった。
だから俺は答えられなかった。
俺が何も言わずにほうけているので、その子はもう一度口を開いた。
「あなたは、この世界の人間なのですか?」
改めて聞いてみると、はっきりした声だなと思った。無表情なのだから大人しい声を勝手に想像していたが、そうではない。辺りによく通る、すっきりとした声だ。
俺が再度答えないので、その子はじっと俺を見た。
何と訊かれた?
この世界の、人間か?
確かそうだったか?
その世界がどの世界のことを指しているのか知らないが、多分、俺が今現在立っているこの世界のことなのだろう、……か?
いや、多分、そうなの……だろう。
俺は、そうなのかな? と思いながら何とかうなずいた。
「……あ、ああ。そう……かな?」
はっきりしない返答になってしまったのは、これは致し方ないだろう。だって質問の内容が内容なのだし、まだ状況を飲み込めてもいなかったのだから。
でも目の前のこの子はそんなはっきりしない返答でもよかったらしかった。
「そうなのですか」
と、納得したような反応をした。
そしてその子はすいすいと俺の方に歩み寄ってくると、ぐいと顔を近づけてきた。
間近で見ると、同い年くらいに見える。そしてすごく、可愛かった。
でもものすごく無表情だった。人形みたいに。大きな瞳がガラス玉のようで、まるで感情が感じられない。目が大きい分だけ、こちらの魂を吸い取られそうだ。
「ここは安全ですか?」
「え?」
「ここは安全な場所ですか?」
「え? ああ、まあ……安全と言えば、安全……かな……?」
この子は一体何を言っているんだろう。
と言うか何が言いたいんだろう。
「では、もっと安全な場所に私を連れて行ってください。出来るだけ危険のない場所に」
「……え?」
「詳しい話は安全な場所に着いてから聞かせてください」
いや、色々とおかしい。
詳しい話を聞きたいのは俺の方だ。
「お願いします。私を安全な場所に連れて行ってください」
なんだこれ?
なんだこれ?
なんだこれ?
現実?
現実かな?
現実……かな?
光の玉があって。
文字があふれ出して。
この世のものとも思えない現象を伴って女の子が現れて。
俺はまだコンビニの袋をぶら下げたままで。
風がガサリとその袋を鳴らした。
目の前にはその女の子。
可愛い。恐ろしく無表情だけど。
淡い麦色のボブカットはほんのりと内巻きで、その子の柔らかい輪郭を包んでいる。
鼻も口も小さい。
その小さな口が言った。
――この世界の人間ですか?
その質問は何だ?
で、この状況は何だ?
この子はどうやって突然目の前に現れて、俺に一体何を要求している?
「突然のお願いで申し訳ありませんが、私を安全な場所に連れて行ってください」
あ、そうだ。それだ。
と言うかこれが現実かどうかという問題がまだ解決してない。
現実だったらいいのだ、それで。でもこれが俺の妄想なら、俺は相当にやばい。
「あの……その前に訊きたいんだけど」
「悠長に会話をしていられないんです。一刻も早くどこか安全な場所に行かないといけないんです」
「あ……、ああ、そう。じゃああの、俺の家なんか、どうかな?」
「あなたの家ですか?」
「そう」
「そこは安全なのですか?」
「ああ、まあ、安全……かな?」
「できたら絶対安全な場所がよいのですが」
「……絶対安全だと思うよ」
「それはどこですか?」
「……そこ」
俺は隣に建ってるマンションを指さした。
その子が俺の指の先を目で追う。
「この大きな建物があなたの家ですか?」
「この中の一室が、俺の部屋なの。これ、集合住宅だから」
「集合住宅とはなんですか?」
悠長に会話していられないんじゃなかったのか。
「ええと、小さな部屋がいくつも連なってる、その、アパートとか、マンションとか、そういうやつ」
「いくつも連なっている小さな部屋の、その内の一つがあなたの住まいなんですね」
「ああ……うん、そう」
通じたのかな?
どうやら意味は通じたらしいので、俺はほっとする。
何者なのかも分からないが、どうもこちらの常識が通じそうにも思えない。俺は何となくそんな印象を受けた。
「すみませんが、私をそこに連れて行ってください」
「ああ……えと、分かった……」
負けた。
現実か妄想か、それだけでも確かめたい。確かめたかったんだけど。
でも俺は、この子が現実のものかそれとも俺の妄想かという問題を棚上げにして、とりあえずその子を俺の家に連れて行くことにした。
と言うよりそれ以外に何も考えられなかった。
「こっち……」
「はい」
俺はぎくしゃくと歩き出した。その子はそんな俺の後ろを、すたすたとついてくる。
……なんだこれ?
……この子は誰だ?
マンションの表側に回り込み、階段を上っていく。
その子は大人しくついてくる。
この子は現実なのか?
俺の妄想ではないのか?
あまりにも非日常を求めすぎて、つい妙な妄想が見えているのではないか?
それにしては現実味がある。
驚愕が勝ってふわふわしているのは確かにある。でも逃れようもないほど現実感もある。
特にコンビニの袋を握っている感覚とか、階段を上っている感触とか、その後ろをついてくる足音とか。
三階につくと、俺は思わず後ろを振り向いた。
その子は突然立ち止まった俺を、きょろんとした目でじっと見つめ返してくる。
……妄想に見えない。
俺はさっと顔を背けると、まだぎこちない歩み方で、自分の部屋の前まで来た。
もう一度、その子を見る。
その子ももう一度、俺を見る。
……やっぱり妄想に見えない。
俺は無言で鍵を取り出すと、無言のまま鍵を開けた。
ノブを握ってドアを開け、その子に入るように勧める。
「……ここ、俺の家……」
言われると、その子は何か警戒するように家の中を覗き込んだ。
すぐ帰ってくるつもりだったので、家の電気はつけっぱなしだ。だから家の中はよく見えるはずだった。
「……入っていいよ」
再度促すと、その子は一瞬俺を見上げて、そろりそろりと玄関に足を踏み入れた。
その子が入ると、俺も中に入る。
そしてドアを閉めて、その時鍵を閉めるべきかどうか迷った。だって正体不明とは言え、女の子と二人きりなのだ。ここで鍵をかけたら怯えたりしないだろうか。と言うか常識的に大丈夫なのだろうか。と言うか防犯のために鍵をかけるという常識が通じるだろうか。
ぐるぐるぐるぐる混乱したあげく、俺は音を立てないようにこっそりと鍵を閉めた。どうしてそんな動きになったのかは分からない。
俺は靴を脱ぐと、その子を奥に招き入れようとした。その時だった。
その子は、土足のまま俺の家に上がろうとしたのだ。
「まっ待った!」
思わず声を上げてしまう。
その子は踏み出した足を、映像を巻き戻すように戻して、俺を見た。
「……靴、脱いで」
「靴を脱ぐんですか?」
「そう」
「それはこの世界の習慣ですか?」
「いや、この世界のじゃなくて、この国の……」
「分かりました」
その子はそう言うと、靴に手を当てて靴を脱いだ。
そしてようやく俺の立っている廊下に上がり込む。
こうして明るいところで見てみると、その子の服は随分と薄汚れていた。土埃、だろうか。靴も土や草がついている。今までそういうところを走っていましたとでも言っているようだ。
その子の下げているネックレスだけが、全く汚れを知らないかのように、淡く光っている。
俺はその子をテーブルまで案内した。
座るように言うと、正座ではなくぺったりとそこに座り込んだ。そして興味深そうに、俺の部屋をきょろきょろと見回す。別に散らかっているわけではないけど、そんなにじっくり見られるとかなり緊張する。
「……何か飲み物、持ってくるから」
そう言って俺は廊下に戻った。キッチンでジュースを注げそうなコップを探す。……まずい。一人暮らしだからコップも一人分しかない。
仕方なくその子の分をコップに注いで、自分の分は計量カップに注いだ。
それを持ってテーブルまで戻ると、その子はまだ、いた。
……やっぱり妄想じゃない。
妄想、
じゃない!
俺は今更衝撃を受けた。突き抜けた驚きが遅れてやってきた。
ちょっと待て、この子は、あり得ない現象で出現してきたんだぞ。普通に歩いてきたんでも、上から落ちてきたんでもない。突然虚空から光と共に出現したんだぞ。
これは、
これはこれは、
これは!
俺はむずむずした。
むずむずして、つい思わずにはいられなかった。
俺は心の中だけで思い切り叫んだ!
――これは俺が求めていた非日常そのものじゃないかああ!
ぎくしゃくとその子の方へ行き、ぎくしゃくとコップをその子の前に置き、ぎくしゃくと座る。
改めて、見る。
……やっぱり夢じゃない。妄想でもない。
それでも俺は、訊かずにはいられなかった。
「あ……あのさ」
「はい」
「その……君、現実……だよね?」
問われている意味が分からなかったようだった。その子は一瞬無反応だった。
何か考えるような時間があって、やがてその子はうなずいた。
「はい」
淡泊な答え。
「こちらも質問をしてもいいですか?」
「あ、えっと、いいよ」
「ここはどこですか?」
「……上野」
「上野という国なんですか?」
「あ、いや、日本っていう国の中にある、上野っていう街だよ」
「日本」
その子は何かかみしめるように繰り返してきた。
「ここは日本という国なのですね」
「そう」
「ここは安全ですか?」
それはさっきも訊かれたような気がする。
「安全だよ」
「確かに、静かで、争い事が起こっているようには感じられませんね」
「そりゃあ、まあ……」
「この国では内戦は起こっていますか?」
「ないせん?」
ないせんってなんだ?
一瞬分からなかった。
暫く考えて、ようやく気付く。内戦の有無を訊かれたのだ。
「いやいやいや、そんなばかな」
「どこかと戦争をしていますか?」
「してないよ。この国は平和なんだから」
「平和」
その子はまたかみしめるように繰り返した。
「なぜ平和なのですか?」
「なぜ? え?」
なぜ平和なのか?
「なぜって? え?」
「なぜ内戦もなく戦争もせず平和なのですか?」
「えっと、それは……」
考えたこともない。
「……そんな必要もないからじゃないかな……?」
風船の空気が抜けるような声で、ようやく答える。
「では、この国は安全なだけではなく、平和でもあるのですね」
「え」
そう改めて言われてしまうと、どうだったかなあという気になってしまう。
でも内戦もないわけだし、戦争をしているわけでもないし、犯罪率だって先進国の中ではトップクラスに低いわけだし、安全で平和ということには間違いはないんじゃないのか?
俺はそう思って、うなずいた。
「うん、まあ、そう」
「そうですか……」
その子はようやくどこかほっとしたようなため息をついた。その子の言動の中で、唯一感情のこもったものだった。
「……では私は、運がよかったのですね」
「あー……、あのさ」
「はい」
「……君、誰……?」
「私は普通の人間です」
どう考えても普通の人間ではない。
「いや、あのさ、えっと……とりあえず、名前を教えてくれないかな?」
俺は少し困りながら、足を崩した。
「俺は、皆戸羊太郎」
「皆戸羊太郎」
「羊太郎でいいよ」
「羊太郎」
「……それで、君は?」
「ササメ・サチ」
「……え?」
……日本人?
「……どっちが姓?」
「ササメが姓です」
……やっぱり日本人?
でもそれにしては、日本という名前を知らないようだったし、日本人ならば上野なんていうメジャーな地名を知らないはずがない。
どこの誰だか知らないけれど、やっぱり日本人ではないのか?
「……君、どこから来たの?」
「こことは違うところから来ました」
「違うって?」
「異世界です」
い、せ、か、い。
聞き間違いか?
それとも本当にそう言ったのか?
俺が固まったので、ササメはじっと俺を見つめ返した。
「何と翻訳されていますか?」
「……何が?」
「異世界。この言葉は、何と翻訳されていますか?」
「え? その……異世界って言っているように聞こえるけど」
「異世界」
ササメは一瞬黙った。
そして、うなずく。
「はい。そうです。異世界です。こことは違う世界から来ました」
「え?」
「私の言葉、所々分かりませんか?」
「え?」
「意思の疎通に支障があるほど、翻訳がうまくいっていないのでしょうか」
「え?」
「やっぱりそうなのですね」
「あ、いや、そんなことない、違うって」
俺は慌てて手と首を振る。
「なんか驚き過ぎちゃって、えっと、ササメさん」
「サチでいいです」
「じゃあ、サチ。これは大事なことだから、正直に答えてほしいんだけど。あのさ、君が言っていることって、本当?」
「本当です。魔法の力で異世界から転移してきました」
くらり。
めまいがした。
魔法?
異世界から転移?
本当に?
本当に、本当なら、
「この言葉も魔法の力を使って、あなたに通じるように翻訳しています」
……願いが叶った。
願いが叶った……!
非日常がやってきた。
異世界から女の子がやってきた。
しかも、何だって?
魔法?
そう言ったか?
そう言ったか?!
「ま……」
「ま?」
「……ま、ほう、って、言った?」
「はい。魔法と言いました」
「じゃあ、その、君、魔法が使える?」
「はい。私は魔法使いです」
言ってから、サチはまた一瞬黙り込んだ。
「魔法使いという言葉はどのように翻訳されていますか?」
「魔法使い」
「魔法使い……」
俺の返答を聞いて、うなずく。
「そうですね。はい。私は魔法使いです」
「ま! まほうつかい!」
俺は身を乗り出した。
そんなばかな!
魔法使い!
魔法使い!
こんなに都合よく、魔法使い! 魔法使いが目の前に!
「魔法使いがどうかしましたか?」
「魔法使いって、その、本当に、魔法使い?」
「はい。魔法使いです」
「ほ、本当に?」
「本当です」
「ほ、本当なら、その、証拠! 何か証拠が見たい!」
「証拠ですか? 魔法を見せればいいですか?」
「うん、見たい。魔法見たい」
声が震える。興奮を抑えられない!
確かに、さっきの出現の仕方だって、魔法だと言われれば確かにそうだと思える。と言うか魔法以外に何がある。
異世界から転移してきた?
魔法で?
だって魔法使いだから?
信じるよ!
信じるとも!
だってずっと待っていたんだ俺は、そういうことを!!
証拠が見たいんじゃない、本当は魔法が見たいだけなんだ!
サチは少しだけ考え込んでいた。
どうやって見せようか考えているのだろう。
そして思いついたのか、サチは右手を持ち上げて、人差し指をくるんと回した。
その指の周りに水が現れ、しゅるんと踊る。
「お、おおお……」
俺の口から、情けない震え声が漏れる。
サチはしゅるしゅると水を一通り踊らせると、しゅうとその水を手のひらに入れて消してしまった。
「簡単な水芸ですが、これでもいいですか」
そして、けろりとして言う。
本当に、
魔法なのか!
俺はぱくぱくと口を動かしただけで、何も言葉が出てこなかった。
感動に震えた。魔法使いが目の前にいるという幸運が信じられなかった。と言うよりそんな状況が現実だという幸運が信じられなかった。
「ほ、ほほ、本当に、魔法……?」
なおも、疑問系になってしまう。
「はい」
「本当に……?」
「はい」
「お、おお……」
意味のない声が漏れる。
「魔法が珍しいですか?」
「え?」
「魔法が珍しいのですか?」
「珍しい……」
珍しいも何も、見たことなんて!
「初めて見た……!」
「では、今までに魔法使いに会ったことはありますか?」
「ないよ!」
「ないのですか?」
俺の返事が何か引っかかったらしい。サチはふと黙り込んで、何か考えるようにあごに手を当てた。
それから、改めて俺を見る。
「もしかして、この世界には魔法使いはいないのですか?」
「い、いない。一人だっていない」
「魔法使いが一人もいない……」
やはりサチは俺の答えが引っかかったようだった。そのつぶやきにはどこか、驚愕のようなものが滲んでいた。
「本当に一人もいないのですか?」
「いない」
サチは俺の答えを聞くと、一瞬黙り込んだ。
「それは、おかしいです」
そしてそう言うのだった。
「おかしい?」
「魔法使いがいないということは、異世界から転移してきた人間も、いないということですか?」
「多分だけど……そうだと思う」
「それは本当ですか?」
「本当……だと思うけど」
「それはおかしいです」
その言葉はさっきも聞いた。一体何がおかしいというのか。
「なにがおかしいんだ?」
「この世界には、異世界転移してきた人間が必ずいるはずなんです。異世界から転移する先は、この世界しかありませんから」
……え?
「……え?」
俺は思わず、思ったことをそのまま口にしてしまっていた。サチの言っている意味がよく分からなかった。
「え? じゃあ、サチとしては、この世界は異世界からやってきた人間で溢れていないとおかしいっていう、そういうこと……?」
「私以外にいないということは、あり得ないと思います」
何、その断定。
もしもサチの言うとおりだったら、俺の生活はもっと平凡なものではなく、冒険に満ちあふれた楽しいものになっていたに違いない。でもそうなっていないということは、これはサチの勝手な主張に他ならないのではないか?
と、思ったが、サチの主張も気になる。
「なんでそう思うんだ?」
「事実そうだからです」
「……えっと、そもそも、どうしてサチは異世界からこの世界に来たの?」
「逃げるためです」
「逃げる?」
「はい」
「……何から?」
「闇からです」
闇。
何だかすごく、異世界っぽい!
「闇って、つまり、サチのいた世界が闇に飲まれようとしてて、それでそこから逃げようとしてここに来たって、そういうこと?」
「闇に飲まれようとしていたのは、私自身です。私のいた世界は、そうそう闇に飲まれたりはしません」
「じゃあ、サチだけが闇に狙われていた?」
「いいえ、狙われていたというのは正確ではありません。私の存在は、闇に飲まれるように定められていたのです」
……ますます意味が分からない。
意味が分からないけど、そういうところが、ますます異世界っぽい!
「じゃあ、大変な思いしてきたんだな」
興奮を隠して、俺はそう言った。
その時ほったらかしになってるコップが目に入った。中身はリンゴジュースだが、異世界から来たサチの口に合うだろうか。
あー、と声を漏らして、俺はすすっとサチにコップを勧めた。
「あ、あの、それ飲んで。異世界から来たサチの口に合うか分からないけどさ」
言われて、サチはコップの中を見た。
そして暫くそれをじっと見た後、コップを持ち上げてちびちびと飲んだ。表情をぴくりとも動かさないが、とりあえず口には合ったようだ。
「あ、あのさ」
「はい」
「腹、減ってないか?」
「え?」
サチは初めてきょとんとした。
「だって、大変な目に遭ってきたんだろ? だったらお腹すいてるんじゃないか?」
「食べ物をいただけるんですか?」
「いいよ、全然いい。なんか、たいしたものないけど……」
俺はいそいそと立って、キッチンに置きっ放しにしていたコンビニの袋から、パンやらお菓子やらを出してきた。
それを持って戻り、袋を開けてサチに勧めた。
「食っていいぞ、それ」
「ありがとうございます」
サチはそう言った後、少し警戒するようにつついていた。やがてそろそろと手にとって、もそもそと食べ始める。うん、異世界から来たサチにも食べられる味だったようだ。
「あのさ……サチ」
食べているサチの姿を見ながら、声をかける。
「はい」
「その……」
俺はもじもじとして、さんざんもじもじしてから、ようやく言った。
「……何かしてほしいことがあったら、何でも言えよ。遠慮しないで」
「はい」
サチは頭を下げる。
「ありがとうございます」
「とりあえず、寝るところ。寝るところどうにかしないとな。床に寝るわけにいかないし、な」
「いえ、私は床でも大丈夫です」
「いや、俺が気になるんだって」
「では、邪魔にならないところに案内してください」
残念ながら、案内できるほど広い家じゃない。
「えっと……」
「あれは?」
「あれって?」
「あれは寝台ですか?」
そう言ってサチが見ているのは、俺のベッドだった。
「寝台? あ、ああ、そう。ベッドね」
「あれに寝るのではいけないのですか?」
「あ、そっか。じゃあサチがベッドで寝てくれよ。俺が床に寝るからさ」
「いいえ、それでは羊太郎がいけません。並んで一緒に寝られませんか?」
「え?」
並んで?
一緒に?
え?
サチの提案を理解するのに要した時間、約十秒。
そしてサチが何を言ったのか理解した瞬間、俺は大声を上げた。
「えええええ!」
「どうかしましたか?」
「だって、だってさ、並んで寝るって、ベッドに、二人でって、」
「出来ませんか? 二人並べるくらいには、幅がありそうに見えますが」
「いや無理じゃないだろうけど、でもさ、おっ、女の子、と!」
「私は気にしません」
サチはけろりとして言った。
「羊太郎はとてもいい人です。信頼できます」
「え、えー……」
サチに信頼されても、俺が俺を信頼できそうにないのだけれど。
サチは本当に気にしていないようだった。むしろ、どうして俺が動揺しているのか、どうして動揺する必要があるのか、それが分からないような様子だ。
俺はサチを説得するのを試みた。あーだこーだと、男女が並んで寝ることの不都合を説こうとした。でもサチから返ってきたのはこの一言だった。
「ご迷惑ですか」
と、言われると。
俺も弱い。
迷惑をかけられているのではないのだ。むしろここでサチの提案を断るのは、迷惑をかけられていると言うようなものではないのか?
俺は悩んだ。悩んで悩んで、結局折れた。
「分かった。その……でも、あんまりくっつかないようにしような」
せめて、それだけを言う。
「はい」
サチはさすがにそれは了承してくれたようだった。
更に困ったのは風呂の説明だった。
疲れているだろうからとお風呂を勧めたのだが、サチにとっては見たこともない装置ばかりなのだ。ここをひねると水が出て、暫くするとお湯になって、この栓でお湯を溜めて、それからこれがシャンプーでコンディショナーで体を洗うのはこれで……という説明で十分はかかった。
風呂に入るにはこのシャワーカーテンを閉めること、というところまで説明し終わったら、俺は少しぐったりしてしまった。
「分かりました。親切に、ありがとうございます」
「あの、ところで、着替えは?」
「ありません」
即答だった。
じゃあ、どうすればいいんだ。
パジャマは俺のを貸してやってもいい。でも、その、下着……は?
「風呂入っててくれ!」
そう言うと、俺はダッシュでコンビニまで走った。
明るい店内に駆け込んで、下着を探す。下着……って、何でこんなデザインのしかないんだ! というものしかない。とにかく店員に顔を見られないようにそれを買って、ダッシュで帰った。
帰るとサチはまだ風呂に入っていた。とりあえず問題なく入浴は出来ているようだ。
俺はユニットバスの扉の前にパジャマと下着を用意しておいて、かちんこちんに緊張しながらサチが出てくるのを待った。まずい。ひじょうにまずい。どうして廊下と居間を遮るドアがないんだ。俺はユニットバスからサチが裸で出てくるところを危うく想像しかけて、慌ててそれを振り払った。
這うように、廊下が死角になる位置に行く。
やがてサチが出てきたのが音で分かった。下着を身につけ、パジャマを着る衣擦れの音。
暫くして、サチがきょろきょろしながら戻ってきた。俺のことを見つけて、ああ、という顔をする。一体どこへ行ったのかと思っていたようだ。
「そこで何をしているのですか?」
「あ、いや、その……」
気を遣ったことには気付いてくれないのか。
パジャマは俺のサイズに合わせたものなので、さすがに袖やら裾やらが余ってだぶだぶだ。やはり、小柄なサチには多少無理があったか。肩口も余っているのを見て、俺は目が泳いだ。
「じゃ、俺も風呂入ってくるから……」
慌てて着替えを全てユニットバスに持ち込んで、そこにこもる。湯気がいい匂いだ。さっきまでここに女の子が……と思うとどうにも落ち着かなかった。風呂に入るとは言ったがお湯を溜めるような精神的な余裕はなく、俺は結局シャワーで済ませた。
ユニットバスから出ると、サチはベッドに腰掛けていた。
やめてくれ。何だかその、やめてくれ。
「じゃ、その、……寝るか」
「はい」
俺は壁際に小さくなり、掛け布団はサチに譲った。電気を消し、二人で横になっていると、緊張で心臓がやばい。
異世界からやってきた女の子と、ベッドで二人……いや、考えまい、考えまい。
「あ……、あのさ」暗い中で、サチに話しかける。
「はい」
「俺、明日学校なんだけど……」
「学校? ここには学校があるのですか?」
「あるんだ。だから、サチ一人になっちゃうけど、その、好きに過ごしてていいから。何食べててもいいし」
「はい。……ありがとうございます」
サチは妙にしんみりと言った。
俺は結局、その夜はろくに眠れなかった。
翌朝。
サチは俺よりも早く目を覚ましていて、床にぺたんと座り込んでいた。
俺はスマホのアラームで目を覚まし、体を起こし、そこにサチがいるのを見ると、暫くぼんやりしてから、ばっと壁の方を向いた。
……いる!
まだ、いる!
夢じゃなかった、昨日の夜のことは、何一つ、夢じゃなかった!
心臓がばっくんばっくん鳴っている。
落ち着け、落ち着け、落ち着くんだ。
「あああああ、あの、あのさ」
「はい」
返事が返ってきた!
やっぱり夢じゃない!
「朝飯、食うか?」
「はい」
やっぱり返事がある!
俺はそろー……っとサチの方を向いた。
サチがいた。
やっぱり夢じゃなかった!
俺は顔を洗う前にサチに朝食を用意した。まあ、パンなんかの簡単なものしかなかったのだけれど。そしてサチが朝食を取っている間、俺は顔を洗って、洗面所で制服に着替えた。着替えるところをサチに見せるわけにはいかないだろう。
それから、俺もサチに出したのと同じ朝食を食べ、鞄を掴んだ。
「じゃあ、俺、そろそろ行くから」
「はい」
「本当に、自由にしてていいからな。あ、でも、あんまり出歩くなよ。迷子になってもお互い困るし」
「はい」
「じゃ、行くからな」
「はい」
「行ってくるからな」
「はい」
一体何回繰り返すんだ。
いい加減そんな気になったので、俺はサチを置いて家を出た。
通勤や通学の人たちと一緒になって歩く。中には自転車であったり、バイクや車で走ったりしている人もいた。
そうして街中を歩くこと十五分。
俺は校門に近付いて、そこをくぐって、何か気配を感じて、そっちの方を見て、ぎょっとした。
「サっ、サチ!」
サチがいた。
昨日のどこかの民族衣装を着ている。ほんのりと光るネックレスも首にかけたままだ。そんな格好では目立つことこの上ない。
俺は慌ててサチの袖を引っ張ると、人目につかない隅っこまで引っ込んだ。
「な、何をやってるんだよ!」
「羊太郎を追いかけてきました」
「なんで!」
「私も学校に行きたいからです」
「学校に行きたいからって、そんな、あのな、」
「この世界のルールを知る必要があります」
「はい?」
「私はこの世界に来たばかりです。ですから、この世界のルールを知る必要があります。そのためには羊太郎とずっと一緒にいることが必要だと考えました」
「いや、あのな、サチ、あの……」
俺は頭を抱えてため息をついた。
「……いや、言いたいことは分かった。確かにそうだ」
「ありがとうございます」
「でも、学校に入るって、どうやるんだよ。それにその格好、そのままじゃだめだろ。制服はどうするんだよ」
「制服?」
「そう。制服が必要なんだよ。分かるか? 制服」
言われると、サチはひょいと俺の背後をのぞき見た。そこには、登校してくる多数の生徒達。
「あの服を着ればいいのですね」
「そうだよ、女子はあの格好。でもどうするんだ? ないだろ、制服」
「大丈夫です」
「大丈夫って」
「失礼します」
そう言うと、サチは俺から二歩ほど離れた。
何をするのかと見ていたら、サチは自分の両肩に両手を当てた。すると、手を当てた場所から布が黒く変化していった。襟が出来、スカーフが結ばれ、スカートにプリーツが入り、白い靴下が足首に現れ、靴は黒い革靴に。要した時間はほんの五秒ほど。
あっという間に、サチの民族衣装はこの学校の制服に変化した。
変身? が終わると、サチはまっすぐ俺を見た。
「いかがですか?」
「え……えっと……」
完璧な制服姿だ。文句のつけようもない。しかも似合っている。これならこの学校の生徒と言っても疑われたりはすまい。相変わらずネックレスはしたままだけれど、別に目立たない。
「……似合ってる、けど……」
「けど、どうしましたか?」
「……鞄は?」
「鞄も必要なのですね。確かに、勉強道具は必須です」
サチは俺の鞄に手を伸ばした。
「見せていただいてもいいですか?」
「え? あ、ああ……」
俺は何の抵抗も出来ず、サチに自分の鞄を手渡した。
サチは俺の鞄を受け取ると、それを空中に固定した。どうやってやっているんだ? と思う間もなく、ひゅいんとつむじ風が起こって、サチの髪の毛を揺らした。
そして、じわじわと俺の鞄の隣に、同じものが現れ始めた。もう一度つむじ風が起こると、そこには同じ鞄が二つ。
俺はあっけにとられてぱくぱくと口を開けたり閉めたりした。便利だな魔法!
「ありがとうございます。複製に成功しました」
「あ、ああ、そう……」
そうとしか言いようがない。
サチが鞄を差し出してくるので、俺はどぎまぎとそれを受け取る。
サチも俺の鞄を複製した自分の鞄を手に持って、じっと俺を見つめた。
「これで問題ありませんか?」
「問題……」
制服も完璧。鞄もある。あとは……。
いや、あるだろ、問題。
「所属はどうするんだよ? 何て言うか、学籍? それ、どうするんだ?」
「学籍ですか? 大丈夫です」
「何が大丈夫?!」
「何とかなります」
「それは、魔法で?」
「はい」
便利だな魔法!
「では、羊太郎の教室まで連れて行ってくれますか?」
「それはいいけど、学校の仕組みって知ってるか?」
「はい。大まかには知っています」
「そ、そうか?」
サチがそう言うならそれを信じるしかない。
俺はサチを伴って、校舎まで歩いた。自動ドアをくぐり、エレベーターまで歩く。その間沢山の生徒と一緒になったけれど、誰もサチのことを怪しまない。サチも堂々としたものだ。……どきどきしているのは俺だけか。
七階につくと、俺は無言のまま教室に入った。サチももちろんついてくる。
教室の中には長机が並んでいる。席は長机一つにつき二人ずつ。基本的に自由席だ。だからこそグループが迅速に出来てしまい、俺や箒木来栖はそういったグループに入り損ねたわけだけど。
教室内には既にちらほらと生徒が集まってきていた。箒木ももちろんいた。相変わらず、眼帯に包帯だらけ。
俺は教室の一番後ろの席に腰掛けた。サチを隣に座らせると、ホームルームが始まるのを待つ。
さて、問題はここからだ。本来この学校に籍のないサチが、これからどういう感じになるのか。そもそも点呼の時に名前は呼ばれるのだろうか。
「羊太郎」
「なっ、なに?」
「この国には文字がありますね」
「ああ、あるけど」
「私の名前はどういう文字がいいですか?」
「名前の文字?」
問われて、俺は一応考え込んだ。
ササメだから、笹目? いや、他に何かいい字がないものか。
そう思って、スマホで探してみた。「笹目」と「篠目」の二つしかない。「笹目」よりは「篠目」がいいだろう。何だかおしゃれだし。サチは……サチのままでいいか? いやでも、それだとあまりに芸がないし……これはどうだ? いや、これは? 佐知、幸、沙智、早知、祥……ぴんとくるようないい字がない!
いや待てよ、名字が「篠目」でわりと重めだから、ここは素直に「サチ」でいいんじゃないか?
そう思って、俺は「篠目サチ」と画面に表示して、サチに見せた。
「こ、これでどうかな?」
「篠目サチ、ですか」
サチはかみしめるように言って、頷いた。
「分かりました。その字を使います」
「お、おお……。そうか」
「ありがとうございます」
そう言ったきり、サチは前を向いて黙り込んでしまった。
それ以降、サチも俺も何も言わない時間が続いた。それからも続々と教室内には生徒が増えていったが、誰もサチのことを不思議がらない。男子数人の中には、「お、可愛いな」という視線を投げかけていく者もいたものの、それだけだ。……誰か不思議がれよ。昨日までいなかった人間だぞ。
暫く待つと、担任が入ってきた。ホームルームの前に、点呼が始まる。サチは「ササメサチ」だから、サ行というわりと早い段階で名前を呼ばれる……はずだ。
ア行が終わり、カ行が終わり、ついにサ行だと思ったその時。
「篠目ー」
と、担任が呼んだ。
呼んだ?
よ、呼んだぞ、サチの名前を!
このクラスには他に「ササメ」という名字の人間はいなかったはずだ。つまり、これはサチのことに他ならない!
「はい」
今まで返事をしていた生徒の前例にならって、サチもけろりと返事をした。本当に、何食わぬ顔だ。担任も何も不思議がらず、返事があったことで出席簿にチェックを入れる。いつの間に出席簿に名前が……ていうか、いや、だから、不思議がってくれ! 魔法ってすごいな!
それからハ行になり、箒木の名前が呼ばれた。箒木は相変わらず一言も発さず、そっと片手をあげただけ。そしてマ行になって俺の名前も呼ばれた。
それで、つつがなく点呼は終了。普通にホームルームが始まった。今日になって突然出現した謎の生徒には誰も疑問を抱かないまま、一日が始まる。いや、だから、誰か不思議に思わないのか? 魔法ってすごいな!
とにかく、こうして、ササメ・サチ改め篠目サチは、この学校に入学を果たしたのだった。
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