第60話エピローグ「旅立ち」
ジャン・アドラーの事務所は街の北部、歓楽街を横切る交通水路から二ブロックほど入った大通りに存在していた。
事件の後、各地の修復で大工仕事は手一杯であり、未だに事務所は仮補修のみである。
これ以上崩れないようにという最低限のものでしかなく、当然事務所としても人が寛ぐにも問題ありで、現在事務所は無人となっていた。
そんな人のいない静かな入口を抜け、白い帽子を被った若い女性が一人、階段をあがる。
扉をあけた先、仮板の貼られた崩壊した床。手前にあって無事だったソファを見て、金髪の女性フィオラ・リスレットは僅かにほほ笑んだ。
短い期間だったはずなのに、何もかもが懐かしい。
主人の感情を読み取ってか、傍らに付き従っていた小型の竜。三つ頭に翼と尻尾を持つ変わった守護精霊が小首を傾げる。
「せめて、修復された事務所を見たかったのですけれど。まぁ、仕方ありませんね」
歩みを進めない主人を気にしながら、守護精霊は室内を興味深げ見まわしていた。まだまだ生まれたばかりで好奇心が旺盛なのだろう。
一通り眺め、満足したフィオラは守護精霊を呼ぶ。
「挨拶もなしに行く気かな?」
「アドラーさん」
振り返ると、階段をあがってきたジャン・アドラーが立っていた。いつものように、ステッキを片手に何でもない事のように。
不精髭や乱れた髪もいつぞやと一緒だ。きっと、事件の後片付けで昨晩も大変だったのだろう。
「またそんな恰好で。いつまでもサディに迷惑をかけてはいけませんよアドラーさん」
「何、サディに身嗜みを任せた事はないとも。君の方こそ、傷はもう良いのかな?」
西の王を自称する男によってつけられた傷は深く、手に少し痺れが残っていた。
それでも、領主が手配した医者は優秀でもう日常生活に問題がないレベルまで回復してきている。
「ええ。ですので、そろそろ出発です」
「なるほど、それは何よりだ。元より君は学園で魔術を学ぶのが目標だった。守護精霊の方も問題はないかな?」
「はい」
あのあと、霧散しかけていたヒュドラを前にフィオラは守護精霊の処遇を聞いた。
ヒュドラという生まれてしまった存在は消え、アウラという失ってしまった存在も戻らない。領民とフィオラは元の状態に戻り、改めて契約すれば何の問題もないと。
それを聞いたフィオラは、全てが戻ったあと自身の契約分だけで残ったヒュドラの残滓と契約した。
あの男の都合に振り回されて消えるのは忍びないと。結果として、3つの頭を持った小型の竜がフィオラ・リスレットの守護精霊となった。
「アドラーさんの方は?」
「……さて、ね。権利は戻っているのだろうね」
アドラーは権利が戻ったとしても、新たな契約を結ばなかった。それがどういう理由によるものか、フィオラには読み取れない。
「さて、そろそろ行きます」
「そうだね。高速水路は待ってくれない」
笑顔でアドラーの横を抜け、階段へと進むフィオラ。アドラーは振り返らず、ステッキを一度つきなおした。
「君は、優秀な生徒だった。良くない経験だったとしても実戦を経て、大きく成長し、それは君にとって大事な武器になるだろう。ああいう悪意に対し正面から立ち向かう。それが君だ」
フィオラが足を止め、再び振り返る。
その様子は感じながらも、アドラーは背を向けたまま続けた。
「だからこそ、僕のような絡め手や立場としての苦悩や板挟みとなる君の祖父のような判断は出来ないだろう。それは決して悪い事ではない。学園でよく学び、自身の美徳を忘れずに、それを貫き通して来たまへ。フィオラ、君はそれで良い。このルモニの賢者が保証しよう」
フィオラは唇を引き結び、少しだけ震える声で返す。
「こんな時に、はじめて名前を呼んでくれたのではないですか。アドラーさん、ずるい人ですね」
「どうだったかな。まぁ、ともかく。いってらっしゃい」
肩を竦めるアドラーはいつものようでいて、少し違って見えた。
「……はい。いってきます」
こうして、フィオラにとっても大きな事件であり、短くとも貴重な時間となった賢者の助手という立場は終わりを迎え――。
新たな旅路へと繋がっていくのだった。
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