第33話「庶民の味と訪問者」
疲れ果てたアドラーたちは何故かマダムユーお手製のシチューと、ピタと呼ばれる未発酵の薄い雑穀パンを振る舞われ、一通り木炭ブロックの報告や雑談を済ませてから事務所へと戻っていた。
「ユーさんにはお世話になってばかりです」
「マダムは寮母だからね。ララ含めて、僕らは若い頃から何度も世話になっている。彼女にとっては僕のようなおじさんも、未だに子供なのだろう」
「ピタという生地も、しっとりとしていて美味しかったですし」
「……まさかピタを食べた事がないとは。あれこそ庶民の味だよ貴族のお嬢さん」
「以前パイこそがパン代わりとおっしゃっていませんでしたか?」
フィオラがサディの淹れた紅茶の香りを楽しみながら、素朴な疑問くらいの気持ちで発した言葉にアドラーが固まっている。
流石に疲れたのか、今日はアドラーも来客用ソファに座っていて。銀縁眼鏡のずれをなおしながらフィオラへわざとらしく首を振っていた。
「都市部では確かに自由な食事が可能だが。多くは、週初めにパイとスープを。中頃にシチューとピタを食し、後半には肉にソースをかけてピタで頂く。精霊感謝の日には少しばかりの酒を。白パン、要するに主食はパイとピタだ」
「そういう決まりでもあるのでしょうか」
「ない。ない、が古い家事の都合がそのまま習慣となっていると女史から聞いた事はある。僕もそのあたりは門外漢だが、何だったか。保存のきく調理を一日かけてしては、空いた翌日に別の仕事をこなし。またなくなったあたりで別の保存食を、またもや多大な時間をかけて仕込む。そのサイクルだったかな」
「そんなに手間をかけるのですね」
フィオラが何か返す度に、アドラーは大きく大袈裟に首を振っている。そのまま眼鏡が外れるのではないだろうか。
こちらを馬鹿にするような仕草は相変わらず意地の悪い事だ。
「丹精込めるわけではなく、それが標準で。そこまでしなければ回らなかったのが昔の暮らしなのさ。毎日竃を見張る生活では他が回らないから保存に工夫と手間をかける。それが母の味となり、受け継いだ調理法は煮炊きが楽になった現代でも変わらない」
「
「まぁ、色々な事を知っておく事だね。そしてどうやらお客さんのようだ。サディ、準備を。やれやれ、ファイカの杖なんて物を持ち歩く人物じゃなくて何よりだ」
「そうですね。今度は奇妙な踊りを見られる事もないようで安心しました」
アドラーはフィオラのやり返しを無視し、着崩れていた身だしなみを整えてから窓際の机へと向かう。そしてステッキを取りだし、机に浅く腰掛けるようにして訪問者を待った。
やがて扉から顔を覗かせたのは一人の若い女性。訪問者は赤茶の長髪を揺らし、きょろきょろと室内を見渡してはいるが踏み込んでは来なかった。
サディが扉を開けて立っている横で、まるで扉を盾にしているかのように半身だけで中を窺っている。
「あの、こちらで相談や頼み事が出来ると聞いて来たのですが」
「どうぞお入りください。大丈夫ですよ。ああ、彼女の事は気にせず。ただの助手なのでね」
フィオラは何時もの事なのでそのまま座っていた。魔力を使い続けた事による疲労はあれど、筋力的な負担はなかったので座っている分には問題ない。
ぼんやりと集中を欠いていることと全身の気怠さだけは抜けていなかったが、頭を回すのはアドラーの仕事だ。
「失礼、します」
「さぁソファにどうぞ」
おっかなびっくりフィオラの対面に座った女性は、縮こまりながらサディの差し出すカップを受け取っている。一体どんな話を聞いてここに来たのだろうか。
「それで、何か頼み事かな?」
「はい。あの、こんなことを人に頼むなんてと思われてしまいそうなんですが」
「気にすることはありません。人は誰しも悩みを持つものです。その大きさなんて他人からすればわからないもの。それが如何に他から見て小さな事だろうと、本人にとって重要ならば、それは大きな事なのです」
アドラーの弁に押され気味の女性はカップを持ったままだ。これはアドラーに任せているだけでは駄目そうである。フィオラは優しく目の前の女性に語りかけた。
「まずは温かいお茶を飲んで一息つきましょうか。大丈夫です。サディの淹れた紅茶は美味しいですよ」
「あ、はい。頂きます」
訪問者がゆっくりと紅茶を飲んで、縮こまっていた姿勢が幾分柔らかくなってから。改めて彼女の話を聞く事となった。
「すみません名乗りもせず。クリスタ・アンディです」
「僕はジャン・アドラーという者だ」
「私はフィオラ・リスレットと申します」
「実は、素性調査というのをやって欲しいんです」
「ほう。それはもちろん構いませんが、一体どなたの?」
「ライアー・ディアンという男性です」
「どういった接点のお相手か、うかがっても?」
来た時よりはほぐれたものの、それでも不安そうにカップを握っていたクリスタは、視線を外して恥ずかしそうに続ける。
「お付き合い、している方なのです」
「ふむ。恋人同士でありながら素性調査をして欲しいとなると。何か不審な点や気がかりな事が?」
容赦のないアドラーの問いに、相談者の動きが止まってしまった。けれど付き合っているという事実を語るだけで赤くなっているというのに、素性調査を頼むとなれば何か理由があると勘ぐる流れはわかる。
「そ、そういうわけじゃ。ただ、その。そう、気になって」
「気になって。ふむ。例えば、他に浮気相手がいるかもしれないというのなら数日がかりで周辺調査をしなければならない。何か嘘をついているのなら、その具体的な面について調べなければならない。君が気になって、明らかにしたい不安要素について。もう少しはっきりと明かして貰わなければ、こちらとしても動きようがない」
「ご、ごめんなさいごめんなさい。か、彼が隠している仕事が気になります。あ、あとその。普段の素行何かも出来たらお願いします」
「仕事についてと普段の素行ですか。裏がありそうだと?」
クリスタは大きく首を振る。まるでさっきのアドラーのように大袈裟な動作だ。いや、さっきのものとは真意が違うのは間違いないが。
「そんな大げさな事じゃなくて。ただ、ちょっと話を振ると遠回しに話題を変えられちゃって。言いにくい仕事なんだと思って」
「なるほど。表だって言えないような仕事だった場合、最悪そもそも騙されているのではないか。もしかしたら自分に対しては演技をしているだけで、乱暴者という可能性もあると」
「そ、そこまでは言いませんが不安で」
「お話はわかりました。ではそのライアー・ディアンという男について教えて頂いても?」
「あ、それはですね!」
この後、急に声色が変わったクリスタによって延々と語られる惚気に。アドラーもフィオラも別の意味でぐったりとしてしまうのであった。
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