~消えた帳簿と失踪人~
第1話「アドラーの事務所における後悔」
私はそれを見てほっとしてしまっていたのです。ああ、良かったと。でもそれは間違いでした。
「追い詰められたあなたの行動はよく視える。だから、その考えは止めた方が良い」
アドラーさんがそう言った途端、事態は動きました。
~ルモニ領主フェイゼンの孫娘フィオラ・リスレット~
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【~消えた帳簿と失踪人~】聖王暦816年、第9周期。風の週、森の日。
ジャン・アドラーの事務所は街の北部、歓楽街を横切る交通水路から二ブロックほど入った大通りに存在していた。
水路を挟んだ東のように消え切らない酒の匂いがあるわけでも、北壁付近のように後ろ暗い雰囲気があるわけでもないこの辺りは、商売をするには悪くない立地である。
そんな好条件にも関わらず、そうした世俗とは無関係かのように全く賑わいを見せない静かな入口に、白い帽子を被った若い女性が入って行った。
「おはようございますフィオラお嬢様」
室内へと入った女性、フィオラに声をかけたのはメイドのサディである。真っ黒な短髪を切り揃え、真っ白なエプロンドレスを身につけた小柄な女性は、眉一つ動かさず笑顔もなしでフィオラを出迎えた。
「あらサディ、おはよう」
対するフィオラはそんなメイドの対応に慣れているのか。気にした様子もなく笑顔で答え、帽子を取って編み上げていた金髪を少し整えた。
サディは無言でフィオラから帽子を受け取り、玄関脇の帽子がけへと帽子をかける。
「アドラーさんは?」
「旦那様はまだお休みになられております」
「まぁ」
時刻は既に昼時となっており、これにはフィオラも目を丸くした。確かにアドラーはだらしないところが大いにあるが、それにしても昼まで寝ているというのはあんまりである。
「まったく、しょうがない人。サディ、ついてきて」
フィオラは長いスカートを掴み上げながら目の前の階段を上がり、慣れた手つきで左右のうち左の扉をノックもなしに開く。
その部屋、アドラーの事務室には来客用のソファとローテーブルがあって、奥には少し大きめの机と革ばりの椅子が置かれていた。
部屋の左壁には書類棚が並び、右にはもう一つ扉がある。一般的な事務所と応接室が混ざったような手狭な仕事場だった。
「アドラーさん、来ましたよ。起きてくださいアドラーさん」
フィオラが向かったのは奥ではなく手前、来客用と思わしきソファに被さっていた毛布である。膨れた毛布はそんな呼びかけに反応したのかくぐもった声をあげ、少しだけ動きがあった。
「今日は授業をしてくれる約束、しましたよね。お忘れですか?」
「んん……?」
「サディ、お願い」
毛布の下で呻くだけで何時までも出てこないアドラーに対し、フィオラはメイドを使っての強硬手段に出る。
淑女としてはいけないが、メイドが勝手にやるのなら仕方がない。サディは意図を察し、音もなく近付くと手早く毛布をはぎ取った。
「おはようございますアドラーさん」
「おはようございます旦那様」
毛布をはぎ取られ、着の身着のまま寝ていたアドラーはにこやかな宣言で叩き起こされた。起こされたアドラーは唖然としていたが、すぐに不機嫌そうな顔をわざとらしくつくり、半眼で二人を睨む。
「一体何の用だお嬢さん。年頃の娘が三十のおじさんの部屋に忍び込むだなんて。君のお爺さんが知ったらなんて言うかね」
「あら、ちゃんとメイドのサディも居ますわ。それに、お約束をして
その言葉に、不精髭と乱れた髪のままアドラーは身を起こした。中空を見つめたまま何事かを考え、長い溜息をついて動き出す。
「サディ、コーヒー」
「かしこまりました。フィオラお嬢様は如何いたしましょう」
「私もコーヒーを。ミルク多めで」
サディは一礼すると事務室を出て行く、あとには二人だけが残された。立ったまま笑顔のフィオラに対し、アドラーは再び長い溜息をついて向かいのソファへ座るよう促した。
アドラーは白髪交じりの茶髪をかきあげ、乱暴に撫でつけて寝ぐせを誤魔化すと、机の上に放り出されていた銀縁の眼鏡をかける。
「で、何だったか」
「はいアドラーさん。あなたは先日こうおっしゃりました。実戦的な魔術に興味があるのなら今度教えよう。だから今は下がって居なさいと。そして私が改めて伺った所、今日の日付を指定したのです」
アドラーはその話を聞いて、眼鏡の下から目頭を押さえて唸る。沈黙が保たれる事務室には心地よい日差しが入り、窓の外には青空が広がっていた。
「僕に頼らんでも、君の家はいくらでも教師を呼べるだろう?」
「お爺様は過保護ですから、こと戦闘に関する方面はまったく」
「その意向を、僕が無視するのは何ともまずい」
「どちらにせよもうすぐ誕生周期です。守護精霊を授かれば、私は王都の魔術学園に通うつもりです。遅いか早いか、たった数ヶ月の差でしかありません」
今年十六の誕生周期を迎えるフィオラは、かつて聖王が大精霊と交わした契約通りに神殿で守護精霊を授かることとなっている。
それがどんなタイプで、どういう術理に適した精霊だろうとも、フィオラの希望は決まっていた。八歳の時、ふらりと本家に顔を出したあの人のようになると。
「私はアトラ伯母様のようになりたいんです」
「英雄アトラ・リスレットか。僕だって子供の頃は憧れたさ。誰しもがそうだ。だが同じ学園に通った所で、あの人のようになれるわけじゃない」
「そんなことはわかっています。それで、アドラーさん。あなたもこの街で”解決できないものはないルモニの賢者”とまで言われた身ですが、まさかご自身でした約束を違えるなんてことは、ありませんよね?」
フィオラの笑顔を崩さぬ猛攻に、ルモニの賢者ジャン・アドラーが両手を上げて降参するのと、サディがコーヒーカップをお盆に乗せて戻って来るのは同時だった。
「では対価の話をしよう」
「はい?」
「僕が教えられるのは実戦的な魔術だが、君は何が出来る?」
話はまとまったと思いきや、急に銀縁眼鏡を光らせてアドラーは腕を左右に広げて挑発してみせる。急な変貌と話に、フィオラは目が点だ。
「謝礼でしたら我が家に」
「それではダメだね。君の我儘なんだ。君の能力で対価を示してみせなさい。掃除や家事全般はサディで間に合っているからダメだ。見てごらん、この埃ひとつない部屋を」
フィオラは言われて事務室を見回した。確かに、何度か訪れたここは何時だろうと綺麗に整えられている。埃もなく、磨かれた机の木目だけでなく床板さえ美しかった。
今座っているソファも革は艶やかで、クッション材の寄りも感じさせないし、枠や縁の装飾もくすみなく細かな彫刻が見て取れる。
「あの、そもそもアドラーさんが教えてくださると言い始めたのでは」
「おっと、それはそれ。これはこれだ。僕だって慈善活動をしているわけじゃないし、西の戦線を支えたアドラー家の魔術を教わろうというんだ。それ相応の……」
「わかりました。では、今後私はアドラーさんの助手という事でお手伝いさせて頂きますわ」
「助手?」
調子良くまくしたてていたアドラーの弁が止まる。
「はい。アドラーさんは大変忙しく、夜中まで活動なされて。そこまで多忙だからこそ、かのルモニの賢者も憐れお昼時まで気絶するように眠るはめになってしまったのでしょう?」
「待て待て。あれは昨夜の仕事がだね」
「でしたら、私がその負担を少しだけでも減らしてみせます」
「いやダメだ。むしろ負担が増えるだけだろう」
両手を前にフィオラの笑みを止めようと足掻くアドラーは必死であった。それがフィオラに届くかどうかは置いておいて。
「あら、聞き間違いかしら? このルモニを治めるフェイゼン・リスレットの孫娘、フィオラ・リスレットが。まさか足手まといと? 幼い頃からいくつもの教育を受けて来た私が、負担を増やすと? そうおっしゃられたのでしょうか」
齢三十にもなろうというアドラーは、未だ守護精霊すら授かっていないフィオラの笑顔に屈していた。
この時のコーヒーほど苦いものも、この世にはないだろうとアドラーはのちに語る。
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