乙女と悪魔

しおぽてと

乙女と悪魔

 顔を上げ、随分と高い天井をぼうっと眺める。此処へ入れられてもう何日経つのだろう、と少女は思った。薄暗い部屋には小さな鉄格子の窓があり、そこから微かに陽が入る。だがその陽は数時間もしないうちに窓から入らなくなってしまう。

 あと何度この陽を浴びることが出来るのだろうか。

 国のためにと剣を取り、旗を握り、戦い、勝利へ導いたが良いが、その国から今度は魔女として疑われ、扱われ、捕らえられ、辱められ、酷い仕打ちを受けていた。そして先程、見張りの兵達の話を耳に挟み、すべてに絶望した。

 明日の午後、処刑される――。

 国を愛した結果、国から裏切られるとはなんと残酷な仕打ちだろう。今まで成してきた意味は、意義は、志は、いくつもの屍をこえてきた理由は――……初めのうちは同じ考えをぐるぐると低回させていたが、次第に考えるのをやめた。ぼんやりと天井を眺めていたが、静かに瞼を閉じる。いっそう、このまま闇へ堕ちることが出来たならどんなに楽だろうか。


「――おや、このまま生を諦めるのですか?」


 聞きなれない声に、少女は瞼を開ける。目の前には、人ではない異形な姿をした、今までに見たことのない"闇"が居た。一瞬、目を見開いたがすぐに表情を戻す。


「諦めなければ、この現状を覆せるかしら?」

「光を捨て奈落の道を歩む決意が出来るのなら、すぐにでも」


 闇はまるで甘い毒のように微笑む。目の前に居るそれが信じた神でないとすぐに理解したが、どうして現れたのかわかっても居た。

 もし生を繋ぐことができるのなら、再び国の為に戦おうか。

 否、今度は何者にも縛られず自由に生きようか。

 嗚呼、それとも――……。


「ねえ。一つだけで良いから、わたしの願いを叶えていただける?」

「契約をすればなんなりと」

「契約をしたくはないの」


 そう言うと、闇は鋭い眼光で少女を見る。


「それは、違反というものです」

「ええ、知ってる」


 闇の中でぴしりと何かが音を立てる。悪態をつきたいのを堪え、再び優しく問いかけた。


「それは、私でなければ叶えられないものですか?」

「ええ、あなたでないと出来ないことなの」

「聞くだけ。ええ、ただ聞くだけです。お聞きしましょう」


 すると、ふっと少女は美しい笑みを見せた。


「わたしの魂を、食べて」


 さらりと、小さな窓に風が吹き込む。届くはずはないのだが、少女の柔らかな髪を撫でた気がした。


「それが、貴女の願い……と?」


 願いに驚いた様子を隠せないでいる闇に、少女は静かに肯定の意を示した。


「愛した国に殺されるくらいなら、わたしは……あなたと一つになりたい。自由になりたい」


 長い間、生きてきてこんな願いをされるのは闇にとっては初めてだった。ふっ、と闇は微笑むと、そっと少女の両目に禍々しい手のひらをあてる。少女は静かに瞼を閉じた。

 やっとこの苦しみと悲しみから開放される。

 そう思うと、不思議と気分は良かった。生の終わりとはこんなものなのかと思う。静寂で、そして随分とあっさりしたものだ。

 瞬間、きいっという音と同時に眩しい光。瞼を閉じていてもわかり、瞳を開けて光の方を見るも、眩しすぎて何度か瞬きを繰り返した。程なくして、しっかりと見ることができた。重たく閉ざされていた鉄格子の扉が開いていた。

 扉の前には闇――否、見たことのない男の姿。艶やかな黒髪。黒地に金色の装飾を施し、まるで貴族のような出で立ち。足元には、赤黒い液体が床一面に広がっている。靴音を高く響かせ、少女の前で片膝をついて恭しく頭を下げた。


「わたしを……助けたの?」


 少女の問いに、まさか、と男は答える。


「あなたのような人間に会ったのは初めてだ。だから、ほんの少し、暇つぶしをしようと思っただけです」

「ひま、つぶし?」

「ええ。見張りの者達はすべて消しました。これで貴女は自由です。この狭い鳥籠からどこへでも自由に羽ばたくことができる」


 その代わりに、と男は綺麗に微笑む。


「私を貴女の供としてお連れください」

「今ここで、わたしが逃げれば何かが変わるの……?」

「それは貴女次第です」


 少女は俯き少し考えた。突然、訪れた自由にまだ実感がわかない。ふと、男に尋ねた。


「契約も交わしていないのに、どうして……?」

「先程も申しましたように、暇つぶし、ですよ」


 暇つぶし、と少女は苦笑交じりに復唱する。おかしなことが起こったものだと、次第にくつくつと笑いがこみ上げてきた。久しぶりにひとしきり笑った後、ふらりと立ち上がる。体はよろめいたが、瞬時に男が支えた。しっかりと床に足をつけ体勢を整える。支えなしに立つと、少女はまっすぐに背を伸ばし、そしてさらりと髪を靡かせた。


「あなたの言う暇つぶしに付き合うわ。けど、もしそれに飽きたならすぐに言って。いつでもわたしの魂を食べさせてあげる」

「それはそれは……光栄です、


 そうだ、と少女は軽く手を打つ。


「あなたの名前は?」

「姫の好きなようにお呼びください」


 少女の手をとるなり甲に触れるだけの口付けを落とす。目を細めると、なら、と少女は思い浮かんだ言葉を男の名前として唇に載せた。


 

 かの国の少女――否、聖女と呼ばれた彼女があくまの声を聴き、自由を手に入れていたのなら……歴史は変わっていたかもしれない。

 これは随分昔の、遠い日の記憶。

 もしも……けれども、本当はあり得たかもしれない、お話――。

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