六歩目

 目覚めた時、香は山の中に立っていた。空には眩いほどの星空が広がり、まん丸な月に照らされ、獣の声すら聞こえてこない鬱蒼とした山奥……

 いや、やはり目覚めてなんていないのだろうか? 自分は頭から被った布団の中で眠っていた筈なのだから。きっとこれは風邪を引いた時に見る、奇妙で薄気味悪い夢の類だろう。

 そう思いたくなる香だったが、無意識に行った身動ぎで、足の裏に痛みが走った。見れば自分は裸足で、地面を埋めつくす落ち葉や枝が柔肌に刺さったのだと分かる。

 そして痛いという事は――――


「(夢、じゃない)」


 突き付けられた『現実』。心臓がバクバクと、痛いぐらい高鳴る。

 香は深呼吸をした。どんな時でも落ち着かねばならない。それは捜査の時の鉄則だ。夏場に数日間放置された結果どろどろに溶けた遺体を前にした時のように、心を無にして、事実だけを受け止める。そうしなければ真実は見えてこない。

 まず、此処は何処なのか。

 辺りは真っ暗で、至る所に木々が生えていた。木々の種類は統一感がなく、伸び方はぐねぐねと曲がりくねっている。それだけ見れば自分がこのところ通っている原生林……山水神会の修行場である山のようにも思えた。とはいえ地元民ならば兎も角、数日前に訪れたばかりの香に山の中の区別なんて付かない。全然違う場所の原生林という可能性も、まだ否定出来ないだろう。

 しかしもう一つの、自分が二本の足で立っている事を考慮すれば、やはり此処は山水神会の修行場だという推理に至る。

 仮に寝ている間に拉致され、遠い山に捨てられたとしよう。そうであれば例えば身体をぐるぐると簀巻きにされているとか、寝転がった状態でいる筈だ。だが、自分は立っていた。ならば記憶にない間も立っていただろうし、もしかしたら無意識に歩いていたかも知れない。

 自分は眠りながら歩き回り、施設の傍にある山へと入ってしまった……そう考えるのが、現状に対する一番合理的な説明に思えた。無論、新たな疑問も湧いてくるが。


「(このタイミングで夢遊病を患った、という可能性もなくはないけど……)」


 寝ている間に動き回るといえば、第一に思い付くのが夢遊病だ。しかし香は、これまで夢遊病を患った経験がない。精神病に対する知識があまりないため断言は出来ないが、今日突然発症したという可能性はかなり低そうに思えた。

 ならば、なんらかの方法で『誘発』されたのではないか。

 これまた知識がないので想像でしかないが、ある種の薬物で夢遊病を引き起こせるのかも知れない。或いは山水神会で行われた修行や食事、レクリエーション活動などが身心に影響を与え、夢遊病を誘発したのではないか。

 もしもこの仮定が正しければ、行方不明者多発の原因にもなるだろう。ふらふらと何処かに出歩き、山で遭難して帰れなくなった……そうなれば立派な行方不明者だ。

 これが真相なら、教団施設をあちこち引っ掻き回したのに証拠が出てこないのも頷ける。閉鎖的な環境が要因か、修行のルーティーンが精神を狂わせるのかは分からないが、偶然条件が揃ってしまった可能性が高いのだから。

 ……だとしても、山狩りをして死体の一つも見付からないのは、やはり奇妙だが。それに夢遊病を発症した人全員が山へと行く訳ではあるまい。町の方へと歩いてしまった人、施設内の変なところに入ってしまった人――――割合的にはそちらの方が多い筈だ。しかし関係者からの聴取で、そうした話は出ていない。信者だけでなく、脱会者や入会しなかった者も含めて、だ。


「(でも他に手掛かりもない。もし調べるなら参加者の血液検査と、あと食事、それと山の水もか……)」


 疑問は残るが、真相を知る手掛かりにはなるかも知れない。あくまでも可能性の一つに過ぎないと念頭に置きながら、今後の捜査方針を頭の中で組み立てる。

 勿論この間も情報収集は怠らない。というより自分自身も現状『行方不明』状態なのだから、生きて帰らねば警察の教団への疑惑が深まるだけだ。山水神会が潔白ならば、それは不幸の連鎖である。断ち切るためにも帰り道を探さねば――――

 そのために辺りを見回していた香は、唐突に、心臓がドキリと音を鳴らす。

 何故なら山の中に、見慣れた姿を見付けてしまったのだから。


「……湯崎さん?」


 木々の向こう側に見えた人影は、湯崎のように思えた。

 湯崎らしき人物は香に気付いていないのか、脇目も振らず、山を登っている。歩みは軽やかで、靴など履いていないのに足を庇う素振りすらない。服装も、普段着ている着物のような白装束ではなく、もっとラフな寝間着だった。

 そして月明かりに照らされた顔は、にやにやとした笑みを浮かべている。

 ぞわりと、悪寒が香の身体に走る。どうにも体調を崩してから妙だ。湯崎を見ていると不安に駆られてしまう。夜の森に一人でいたという状況すら左程混乱しなかった自分が、湯崎がただそこにいたというだけで心を乱された。

 どうして湯崎にそれほどの恐怖を感じるのだろうか。そもそも湯崎は何処に向かっているのか。

 恐ろしさは感じていたが、それ以上に警察官としての使命を燃やし、香は湯崎の後を追う。


「(……速い)」


 追い駆けてすぐに分かったが、湯崎の歩みはかなりのスピードだった。鍛えている香の身体でも、少なからず辛さを感じる。それに山道を力強く踏み締めるのは、裸足で行うのは中々の苦行だ。

 何やら急いでいるようだが、何故急ぐのか。彼女もまた夢遊病を患って遭難したのか? ならばどうして山奥であろう、斜面を登っていくのか。得体の知れない行動を目にして、香の足が鈍る。

 しかし警察官としての矜持が、彼女の身体を突き動かした。湯崎が進んだ道を同じ速さで辿り、進む事数分……

 香は見慣れた場所に辿り着いた。

 ぐるりと無数の大岩に囲われた池……修行として通わされた、湧き水で出来た池だ。岩の隙間からはちょろちょろと水が染み出し、今夜も変わらず川となって流れている。やはり此処は山水神会の修行場なのだという確信、そして此処からなら帰り道が分かるという安心感が香の胸を満たす。

 尤も、それも長くは続かない。

 湯崎が、池の中に居た。深さ一メートルはあるであろう池に迷わず浸かり、進んでいる。こんな夜遅くに水浴びなどしたら身体が冷えるだろうに、まるで構う様子がない。

 そして湯崎の進む先には、


「(……待って。おかしい)」


 ぞわぞわと、身体が震える。

 体験修行は既に三日目を過ぎた。初日は説明やら案内やらで終わったが、あとの二日は全て修業に参加している。だから香は、もうこの池に二度訪れた。

 断言出来る。此処にあんな洞窟は絶対になかった。

 あったら見逃す筈もないし、無視する訳がない。洞窟なんて、如何にも行方不明者の死体を捨てるのに打ってつけじゃないか。大体警察が絶対に調べている筈。けれども捜査記録に、洞窟内の探索なんて文字は一つもない。何度も何度も読み返した香はそれを知っている。

 一体この洞窟はなんなのか。未知への恐怖で血の気が引く。警察官としての責務が胸の奥で燃える。

 なのに、身体が動かない。

 逃げたいのに、進みたいのに、ぴくりとも動けない。おかしい。自分の身体なのに、自分のものではないかのような……

 身動きが取れないでいると、湯崎が突然くるりと振り返る。香は湯崎と目が合い、しかし身体はやはり動かない。それにどうして自分は、池のすぐ縁に立っているのか。こんなところにいたら、湯崎がちょっと振り返ればすぐに見付かってしまうと分かるのに。

 混乱の極みに達する香。対する湯崎は、にこりと笑う。まるでパニックに陥った幼子を愛でるような、何もかも知っている母のように穏やかな笑み。

 そして湯崎はゆっくりと口を開き


「待ってますよ、この奥で」


 そう、告げた。

























「っ! ぶはっ! はぁ、はぁ、はぁ……!」


 唐突に覚えた息苦しさと共に、香は

 真っ白な壁と天井、窓から差し込む朝日……自分が寝泊まりしている体験修行施設の一室だった。時計の針は六時台を指していて、早朝である事を物語る。

 三日続けて見た景色。だが、今の香には混乱しか招かない。


「(なん、で……今の……夢……!?)」


 あり得ない。地面を踏み締めた感触が確かにあったし、山道を登った時には疲労感だってあった。あれらは夢では決して味わえないもの。だから間違いなく自分は山に居た筈。

 なら、どうして自分はこんなところで寝ている?

 いいや、きっとこちらが夢なんだ――――反射的に考えた可能性は、却って香に不安をもたらす。あれが夢でこちらが夢じゃないと、どうして言える? 体験修行しているのが夢なら、じゃあこの二日間の記憶はどうなのか。

 どっちが本物? 今のわたしはどっち?


「……起き、よう。さっきのが、夢……わたしは、潜入捜査中の……警察官、だから……」


 本来なら言葉に出してはいけないものを、口にする。盗聴器が部屋にあったら聞かれるかも知れない? それがなんだというのか。こうでもしなければ、自分が保てそうにない。

 ふらふらしながらも立ち上がれば、足にちくりとした感触が走る。ほれ見た事か、自分は此処にちゃあんと立っているのだ。身体に覚えた痛みがこちらこそが現実で、あちらが夢であると教えてくれる

 が、すぐに顔が青くなった。

 反射的にしゃがみ込み、自分の足の裏を見れば、そこには小さな……無数の傷があった。血が出るような深いものはなく、精々擦り傷程度。けれどもまるでそれらを目にして、香はどんどん血の気が引いていく。気付けば身体から力が抜け、へたり込んでしまう。

 あれは夢じゃない。これも夢じゃない。どちらも現実? なら自分はどうして――――


「……湯崎さんに、聞こう」


 無意識に過ぎる考え。

 しかし苦し紛れの発想という訳でもない。山の中で香は、ハッキリ湯崎と出会ったのだ。話し掛けられもした。今でもちゃんと覚えている。

 湯崎がなんの話ですかと答えたなら、あれはきっと夢。湯崎が話を肯定したなら現実。なんとシンプルで分かりやすいのか。完璧な方針に、香は力強く歩んで部屋を出る。朝早い時間に出向くなど失礼ではという考えすら過ぎらず、衝動の赴くままに行動を起こした。

 そうして思惑通りに事が進めば、香は安心して今日という日を過ごせただろう。されどこの完璧な案には、一つ致命的な問題がある。

 湯崎と出会えなければ始まらないという事。

 そして施設をあちこち歩き回った香が知ったのは、湯崎が行方知れずになっているという事実だった。

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