七歩目

 香は山道を駆けていた。

 朝八時を過ぎ、燦々と照り付けてくる春の日差しは、走った事で火照る身体には少々優しくない。全身から汗が染み出し、服を濡らしていく。

 香が身に纏う着物のようなデザインの白装束は、激しい運動に向いていない作りをしている。全力疾走した事で着崩れ、あられもない格好となっていた。公務員として、そもそも大人としてあるまじき格好だが、されど香は気にも留めない。

 それよりも、一刻も早くあの場所へ――――修業で何度も寄った池へと行きたかった。


「(湯崎さんは、あそこで待ってるって、言ってた……! あそこに、湯崎さんが……!)」


 夢か現実かも分からぬものに、香は縋る。常人から見れば正気を失っているとしか思えない……事実普段と比べれば明らかに冷静ではない……今の香だが、されどそれも仕方ない。

 体験修行の施設内で湯崎の居場所について訊いて回った。信者達もそうだし、体験修行の参加者達にも尋ねた。正しく聞き込みをしている刑事のような姿を晒していたが、兎にも角にも湯崎の行方を知りたかったのである。勿論美絵にも尋ねた。幸司はこの日も体調が悪く、彼から話は聞けなかったが。

 そうして百人以上に尋ねたのに、湯崎の居場所を誰も知らない。

 何処に居るのか分からないのなら、それは行方不明だ。たった半日間の事であろうとも。あまつさえ信者に至っては「きっとディーダラヴォルに見初められた」と訳の分からない事を言う始末。お前達が行方不明者多発の犯人かと、問い詰めてやりたかったが……信者達の笑みが不気味で、何も言えなかった。

 人から得られた情報はなし。ならば自分が知っている唯一の情報を頼りにするしかない。九時になれば何時も通り修業が始まるが、そんな時間まで待てやしない。

 かくして香は教団側の許可も得ずに山を登り、ついに池まで辿り着いた。


「……ない」


 されど彼女の努力は報われない。

 池をぐるりと囲う大岩達。そこに、人が通れるような隙間など何処にもないのだから。


「なん、で……なんでないの!?」


 思わず叫ぶが、それで入口が現れはしない。そもそもこの池の岩場に人が通れるような穴がないのは、最初に訪れた時から分かっていた事だ。何もおかしな事、理不尽な事は起きていない。

 だが香にとっては不条理の極み。真夜中に自分が山に居たのは本当。なら湯崎と出会ったのも本当であり、湯崎が奥へと進んだ岩の隙間があるのも本当でなければならない。途中に嘘が入るのがまかり通るなら、意識の連続性すら疑わねばならず、最早何も信じられない。

 絶対に、何処かに入口がある。

 そう信じて香は池を渡り、岩場を調べ始めた。しかし調べれば調べるほど、目の前の光景は香を追い詰める。どれだけ力を込めても揺らがない岩の安定ぶり、大岩を覆い尽くす苔、岩に深々と食い込む木の根……全てがこの岩場が経験してきた年月の長さを証明していた。人間が小細工を施せるような隙はない。最近になってこじ開けたり、無理矢理閉じたような痕跡も見付けられなかった。


「嘘……なんで……どうして……」


 掴んだ岩を退かそうとしてもビクともせず、けれども此処にある筈の洞窟が諦めきれなくて。まるで縋るかのように、香は岩に向けて項垂れてしまう。


「どうされましたか?」


 その姿を目にした者が声を掛けてくるのは、ある意味自然な事。

 されど香はこの声に身を震わせる。

 根拠なんて何もない。だけどもしもこの状況に『犯人』がいるとしたら、奴しかいない。そんな一方的な決め付けを胸に抱き、敵意を露わにしながら香は振り返る。

 声の主である教祖・大宝寺明人は、香の鋭い眼差しを受けても、穏やかな表情を崩さなかった。


「大宝寺、さん……」


「すみません。あなたが山に入るところを偶然目にしたもので、つい、後を追ってしまいました。私達の教えに賛同し、何時もの修業の時間まで我慢出来なかった……という訳ではなさそうですね」


「……ええ、まぁ」


「私で良ければ、相談に乗ります。勿論無理にとは言いませんし、一人になりたいのであれば今すぐ此処から立ち去りましょう」


 明人はほんのちょっぴりの悪意すら感じさせない、優しい口調でそう話す。強張った人の心を解すそれは、疑いの眼差しを向ければ却って邪悪に聞こえてくる。

 反面、落ち着いた話し方のお陰で、香は自分の感情が少しずつ静まっていくのを覚えた。

 先程までのような興奮……いや、錯乱状態では、それこそ向こうの良いようにされるだろう。警戒心は弛めず、しかし心は静かに。香は深く息を吐き、身体に溜まっていた混乱という名の熱を外へと追い出す。

 冷静に考えれば、これはチャンスだ。教祖という最も怪しく、最も多くの情報を持っているであろう人物と二人きりになれたのだから。何処かに護衛が隠れているかもと周囲を探ってみたが、人の姿は見当たらなかった。どうやら本当に教祖一人で来たらしい。

 無防備なのか、余裕なのか。それも含めて確かめよう。


「……大宝寺さん。幾つか、あなたに質問したい事があります」


「おや、私にですか? ええ、勿論。私に答えられる事でしたらなんなりと」


「では、一つ目。湯崎さんの居場所はご存知ありませんか?」


 まずは軽い質問。信者達が奇妙な答えしか返さなかった問いをぶつけてみる。

 果たして教祖は何も知らないとうそぶくのか、はたまた他の信者と同じく適当な事を答えるのか。


「湯崎でしたら、ディーダラヴォルの御許に行くと、昨晩湯崎本人から聞きました」


 香のそんな予想は外れて、明人は具体的に『適当な事』を答えた。香は思わず、息が詰まる。

 ディーダラヴォル……つまり神の御許に行ったというのは、信者以外からすれば物騒極まりない想像を掻き立てる言葉。勘繰ってしまえば、殺人の告白とも受け取れる発言だ。

 そしてそれを湯崎から聞いたというのは……最後に湯崎と出会ったのが、自分だと白状しているようなもの。

 香の職業を知らないとしても、この発言は色々と立場を危うくしかねない。明人の真意が読めず、香はますます警戒心を強める。

 それに、使命感も。

 信者である湯崎にとっては望んでいる事かも知れないが――――彼女もまた、被害者となっている可能性があるのだ。


「……あまり、抽象的な表現は好みません。単刀直入に尋ねますが、それは彼女が死んだという事でしょうか?」


「いえいえ、まさか。むしろ真逆でしょう。ディーダラヴォルと一つになられたのです。実に喜ばしい話ですよ」


「そんなに喜ばしいのなら、まずあなたが真っ先に神の下へと行くべきではありませんか」


「叶うならばそうしたいものです。ただ、どうにも私はディーダラヴォルと合わないのか、中々見初めてもらえなくて。あともう少しだとは思うのですが」


 いけしゃあしゃあとはこの事か。香は表情を変えないよう意識はしたものの、どうしても歯を食い縛ってしまう。やはりこの教祖も、他の悪徳宗教の親玉となんら変わらない……

 そう敵愾心を募らせていたというのに。


「あなたは才能があるようだ。もうディーダラヴォルに見初められている……実に羨ましい」


 明人は、うっとりとした眼を向けてくる。

 途端、香は腰が抜けた。

 ばしゃりと、池の水が跳ねる。心臓がバクバクと音を立て、息が乱れた。瞬きすら出来ない。

 彼から感情を向けられただけで、香は平静を装う事すら出来なくなった。


「(こ、この人、本当に……私を……!?)」


 警察官として様々な捜査を行ってきた香は、犯人の取り調べに同席する事も多々あった。

 犯罪者と一言でいっても、事情も性格もバラバラだ。本当に追い詰められてやってしまった者、凶悪犯罪を悪びれない者、小さな罪でも認めたがらない者、しょうもない嘘を重ねる者……そうした者達との出会いにより、香は人の心をある程度は読めるようになっていた。勿論完璧に見抜くなんて真似は出来ないが、普通の人よりは嘘に敏感である。

 そんな自分ですら、嘘が全く感じられない言葉。何故死を臭わせる言葉にそこまで羨めるのか、羨めるならどうして自分がやらないのか。


「本当に、羨ましいです。私は才能がなくて、声を聞くのが精いっぱい。いえ、むしろだからこそメッセンジャーに選ばれたのかも知れません」


 明人は笑みを浮かべながら、池へと足を踏み入れる。服が濡れ、腰まで水に浸かるが、まるで気にしていない。

 どんどんどんどん歩いて、どんどんどんどん香に近付いてくる。


「あなたはディーダラヴォルに見初められた。私が一番欲していたのは、ディーダラヴォルに見てもらう事なのに」


「な、何を……」


「恐れる必要はありません。あの御方は慈悲深く、人類全てを愛してくれる。我々はただあの御方のご意志に身を委ねれば良いのです」


「こ、来ない、で……」


 先程までの威勢は何処かに消えてしまった。力の抜けてしまった身体は身動きが取れず、口はまるで小娘のように懇願するだけ。

 しかし明人は止まらない。池の最も深い場所を越えた彼は、そのまま香のすぐ傍までやってきた。しゃがみ込み、両手を香の顔へと伸ばす。

 手が上がらないから、払い除ける事が出来ない。迫り来る明人の両手を、唯一自由な潤んだ瞳で交互に見て、何も出来ないまま優しく香は頭を掴まれてしまう。

 明人は顔を近付ける。穏やかで、優しくて、心からこちらを祝福する笑みを浮かべながら。


「さぁ、耳を澄まして」


 恐怖に支配された心は、語られた教祖の言葉に従ってしまう。

 そして耳を澄ませば、



























 おいで

















「ひ、ひぃあぁああぁあああっ!?」


 香は悲鳴を上げた。

 反射的に伸びた腕が明人を突き飛ばす。彼は身体から力を抜いていたのか、驚くほど簡単に飛んでいった。池の深みにどぼんと落ち、激しく水飛沫を上げる。

 人は洗面器ほどの深さがあれば溺れられるというぐらいなのだから、一メートルの深さがあるこの池なら万が一もあり得る。警察官として、本来ならば明人を助けねばならないが……しかし香は一目散に逃げた。足がもつれて池に顔から突っ伏し、水を飲んでしまうも、息を整える間もなくまた走り出す。

 今の彼女は警察官ではない。ただただ得体の知れない恐怖に耐えかね、がむしゃらに逃げるだけのちっぽけな人間。何度も転びそうになりながら、ひたすら山を駆け下りる。


「恐れる事はありません! これは喜ばしい事なのです! そう、湯崎だけでなく私や彼も近々――――」


 無事起き上がったようである教祖が何かを叫んでいたが、香の耳には何も届かない。

 一秒でも早く、一メートルでも遠く、あの男から逃げる。

 今の香の頭を満たす衝動は、ただそれだけなのだから……

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